スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

わんこがくれた考えるテーマ②「子の思春期を並走する」

わんこがやって来てはや1ヶ月。

保護犬としてかなり警戒心の強い彼は1ヶ月経った今も物音にビクッとし、家族に対しても警戒している状態。

でもすこーしずつ周りに興味を持ったり、名前を呼ぶと顔を上げたり、小さな変化に家族で大喜びする毎日を送っております。

 

さて、前回はわんこの講習を通して考えた「良き親であるということ」について書きました。

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今回は、わんことの暮らしを通して考えた、思春期の子どもたちとの暮らし方のこと。

 

「思春期の子がいるお家は、犬飼うといいらしね」

わんこを引き取って数日経ったくらいでしょうか。

お友達にそのことを話したらこんなことを言われました。

「思春期の子がいるお家は、犬を飼うといいらしいね」

 

そのときは何でか深くは話さないまま終わってしまったのですが、なんとなく印象に残っていました。

 

ブログを書くにあたってググって見たら「思春期は(中略)8歳頃から17、18歳頃までの時期に相当」と書かれていました。

なるほど、我が家のお子さんたち(9歳の三男から16歳の長男まで)は思春期真っ盛り。

 

なんとなく印象に残っていたわんこと思春期の関係、一緒に暮らす中でどういう意味なのかな〜と考える毎日が始まりました。

 

わんこと思春期の関係① お散歩

わんこがやって来てからの劇的な変化のひとつが、朝晩の散歩でした。

 

うちに来た柴犬、元々の性質もあるだろうし保護されるまでしつけもされていないようなのでトイレシートでのトイレができない状態です。

つまり、排泄は全て外。

 

本当なら老後のことを考えてトイレシートでするよう訓練した方が良いというのはわかっているのですが、まだ信頼関係もできていない状態だし、年齢(10歳いってるかも、と獣医さんに言われました)を考えても無理強いをするのは控えたい。

 

というわけでとりあえず当面は外でのトイレを前提に暮らそう、ということになりました。

 

柴犬の性格上、自分の住まいとみなしたところでは絶対に排泄をしません。

散歩で外に出るまで何時間でもじっとトイレを我慢しているので、朝晩の散歩は欠かせない日課となりました。

 

余談ですが、どんなお天気の時でも欠かせないので、先日の台風10号の時は暴風が少しおさまるタイミングを見計らって風雨に晒されながら散歩しました…

 

さて、そんな日課となったお散歩。

ちょうど夏休みの時期ということもあって、子どもたちもついて来たいと熱望し、ぞろぞろと家族総出のおでかけになることも多くありました。

 

前に飼っていた犬は体格が大きくてまだ小さかった下の子たちはリードを持ったこともなかったくらい。

今度のわんこは小型で力もそう強くないので、子どもたちも自分が自分がと交代でリードの取り合いです。

 

「散歩に行くよ〜」と私が声をかけたら、その時家にいて暇なのがぞろぞろついて来ます。

 

お兄たちはポケモンGOドラクエウォークのついででもあるみたい。

 

中高生になって一緒にお出かけ、というのもほとんどなくなっていたのに、わんこが来てくれたおかげでそれぞれの子達と私の二人きりで散歩、なんていう贅沢な時間を過ごせることも。

 

家ではなかなか二人で話す時間も取りづらくなっていく時期に、わんこを挟んで一緒に歩きながら学校のことや彼女のこと、将来のこと、ちょこちょこと会話したりして、なんか良い感じです。

 

わんこと思春期の関係② 一緒に面倒を見る仲間

わんこが来てからのもう一つの変化が、関係性の変化です。

これまでは親であるオットと私、そして子である子どもたち、という構成の我が家。

4人の子どもたちの間でそれぞれに、お兄ちゃんと弟とか、微妙な関係性はあったものの、子どもたちの中では自分たちは「お世話されるもの、育てられるもの、面倒を見られるもの」という感覚だったと思います。

 

それが、わんこが来てから「お世話するもの」の存在が登場した。

子どもたちにとっては大きな変化だったと思います。

 

これまで魚類や両生類爬虫類は飼って来たものの、お世話といってもそれほど丁寧にしているでもない子どもたちなのですが、相手が哺乳類となると「ほっといて死んじゃった」というわけにはいかない気持ちになるのかもしれません。

 

愛らしい外見と動きでお世話したい気持ちになる、というのもあるかも。

とにかく何かしてあげたい、自分に懐いてほしい、そんな気持ちになったらしい子どもたちは、それぞれのスタンスでわんこに接しようとします。

 

エサを用意して食べさせたり、散歩に行ったり、どんな風に接したら怖がらないか相談したり。

 

中高と進学してそれぞれ外で過ごす時間や自室にこもる時間が増えつつあった中で、わんこがやって来たことでわんこのいるダイニングに自然と集まる子どもたち。

 

これまでは面倒を見る親と見られる子ども、という関係性だった我が家。

それが、わんこを中心にして「お世話する仲間」になっているような気がしています。

 

予期せぬ副産物ですが、兄弟喧嘩も「わんこがびっくりするから」という理由でかなり減りました。

 

わんこのおかげで、なんとなくみんながちょっとずつ優しく、そしてちょっとずつ繋がりが深まった、そんな感じがしています。

 

おわりに

文頭の友人の言葉の本当の意味するところは結局よくはわからないけれど、我が家なりの結論として「思春期の子がいる我が家にわんこが来てくれてよかった」と思っています。

 

子どもたちにとって「お世話するもの」となってくれたわんこ。

でも私にとってはなんとなく「子の思春期を一緒に並走してくれる仲間」が増えたような気がしています。

 

我が家に来てくれたわんこと、これからまたどんな風に並走していけるのか、ワクワクするスズコ42歳の秋です。

わんこがくれた考えるテーマ①「良き飼い主である」ことと「良き親である」ということ

前回、我が家に待望のわんこがやってきたことを書きました。

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 今日は、保護犬を引き取るために受けた講習の中で印象的だったことを。

 

 

 

センターで受けた講習

私が譲渡会に参加したセンターでは、譲渡会に参加するために事前講習を受ける仕組みになっていました。

子どもたちと一緒に受講したのですが、1時間ほどの講習の中ではペットに関する法律や条例(その時のこともそういえばブログに書きましたね)や、ペットにまつわるお金の問題などについて詳しく説明を受けました。

 

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 その講習の中で「しつけ」についてもお話がありました。

 

「室内飼いの犬がゴミ箱をあさったとしたら、どうすればいいと思いますか?」

と問う講師。

「叱る?ちがいます。ゴミ箱を触られたくないなら、まずゴミ箱を触れる場所に置かないことです。」

 

この時点で私の中で

「構造化!構造化ですね…!」

とかなりの盛り上がりを見せました。

 

「構造化」というのは特別支援の必要な子供達に対する接し方のひとつ。

ざっくりですが、いちいち指示しなくても子どもが自分で動いたり取り組んだりしやすい環境を作ること。

 

子育ての場面でも危ないものを触らないようにいちいち声かけをするより、まずそれに触れない環境を作る方が対応がスムーズにいったりしますよね。

犬相手でも同じなんだなぁ、と思いながらお話を聞きました。

 

それでも叱らないといけないときに

構造化をしても叱らなくてはならない場面は当然出てきますよね。

犬に対しては「その場ですぐ叱る」が鉄則だというのはよく言われているのですが、講習の中ではさらに突っ込んだ指摘がありました。

 

叱る、と言うことは犬にとって不快な行為。

それを聞き入れるかどうか、というのは信頼関係にかかっています。

 

「この人の言うことを聞きたい、と犬が思うような飼い主になってください」

 

その犬からの信頼を勝ち取っていなければ、どんな指導も犬には入らない。

しつけをしよう、と思うならまずは、自分から。

犬が指示を聞きたい、この人に好かれたい、と思うような飼い主としての振る舞いを。

 

「この人の言うことを聞きたい」

お話を聞いて、あぁこれは子育てと同じだなぁと我が身を振り返っています。

 

「この飼い主の言うことなら聞いてもいい」と犬に思ってもらえる飼い主に。

これを親子の関係に当てはめるなら

「この親の話なら、言うことなら、耳を傾けてもいい」と子どもたちが思うような親に。

 

子供がいうことを聞かない、と憤る前に、話を聞いてもいいと思ってもらえているのかどうかを振り返る。あぁ耳が痛い。

 

でも確かにそうだなぁと思うのです。

思春期を迎えた子どもたち、家の中でいつも上機嫌なわけではありません。

それでも親として話さねばならないことがある、話を聞かせてもらわないといけないこともある。

 

自分が子どもだった頃、大人なら誰の話も聞いただろうか。

どんな大人も信頼してただろうか。

 

否、とんでもない。

 

こいつの言うことなんか聞くものか、と思っていた先生がいた。

どうせちゃんと話を聞いてくれない、と親に対して思っていた。

 

そんな大人から何を指導されても注意されても指示されても、気持ち良くなんて聞けなかった。

 

そしてごくごく一部の大人に対して

「この人の話なら聞いてもいい」

「この人になら話してもいい」

と思っていたような気がする。

残念ながら私にとってそれは親ではなかったのだけど。

 

親なんだから、と踏ん反り返っていたら子どもは話なんか聞いてくれない。

伝えたいことも耳に入れてくれない。

 

まず、話を聞いてもいいと思われるような親に。

この人の忠告なら耳を傾けてもいいと思われるような親に。

 

私は子どもたちにそう思われるような親であるんだろうか。

 

我が家にやってきたわんこ。

わんこがもたらしてくれた最初のテーマはこの親としての自分を振り返ることでした。

 

今度は、わんこがもたらしてくれた2つ目のテーマ、思春期男子との贅沢な時間について書いてみようと思います。

我が家にわんこがやってきました。

台風10号が近づいてきていて戦々恐々としておりますがみなさまいかがお過ごしでしょうか。

 

さてさて。

相変わらず久しぶりに書いてます。

 

Twitterでは書いていたんですが、先月我が家に新たしい家族を迎えました。

保健所から引き取った老犬柴わんこ(推定10歳くらい)です。

 

実家にいた頃から飼っていたわんこを看取ってから数年間犬不在だった我が家。

子どもたちはずっと子犬が欲しい欲しいと騒いでいたのですが私の容量不足でお断りしている状態でした。

学校に行かなくなった三男がおうちにこもりがちになっていることもあり、わんこをお迎えして外に出る機会を作るのもいいかなぁ…と家族会議を重ねて保護犬を引き取ることに。

 

参加した譲渡会では最初は子犬を希望していた子どもたちでしたが、人気が殺到して抽選になりやすい子犬を引き取るのはなかなか難易度が高い。

抽選に外れてがっかりした帰宅した三男、次の譲渡会で希望したのは子犬ではなくて部屋の片隅でじっとしている怯えた成犬わんこでした。

 

譲渡会のボランティアさんのお話では、人にあまり慣れていないけれど無駄吠えもなくとても大人しい、とのこと。

三男は物静かなそのワンコを連れて帰りたい、と熱望し、お世話の難易度は高そうだけれどみんなで頑張って面倒みようと引き取ることになりました。

 

連れて帰ってケージを用意したけれどなかなか自分からは入らない。

おやつでじわじわ誘導してやっとケージに入ったけれどご飯も食べない。

 

クルンと上に上がった尻尾が特徴の柴犬だけれど、尻尾はずっと警戒して下げたまま。

リードをつけて散歩に出るときだけは尻尾がクルリと上に上がります。

 

道端で保護されて保健所に入っていた子なのだけれど、それまでの10年近くどこで何をしていたのか全くわからないうちのわんこさん。

 

警戒をしてビクビクしているけれど、吠えたり噛んだりもしない。

虐待を受けていた風でもないし、人間に慣れている風でもないので飼われていて逃げ出したというわけでもないのかもしれないなぁとか、でも野良でずっと暮らしていたにしては怪我や大きな病気をした風でもない(歯茎はかなり傷んでる)。

 

どんな暮らしをしていたのかなぁと思いを馳せながら、残りあまり長くないかもしれない余生を我が家でのんびり過ごしてくれたらいいなぁと思いつつ様子を見ているところです。

 

ほぼひと月になりますが、まだ怯えていて家族の立てる音や出した手にもびっくりするわんこさん。

 

家族だと思って親しみを感じてくれる日がくるのかなぁ

家族の顔を見て尻尾を振ってくれる日がくるのかなぁ

 

とても長い時間がかかるだろうし、もしかしたら寿命がくるのが先かもしれない。

 

そんなわんこさんですが、たった1ヶ月の間だけでも我が家に大きな影響を与えてくれています。

ツイッターではちらほら書いてもいますが、犬を飼うというのは育児や教育にも通じるヒントがたくさん。

 

長くなってしまったので一旦ここで締めて、次回からしばらくうちのわんこさんがヒントをくれて考えた、家族のいろんなことを書いていこうと思います。

「それはこちらの課題じゃない(=知ったこっちゃない)」という視点

思考の整理をしにきました。

 

TLで流れてくる「緊急避妊薬市販化」「夫婦別姓」あたりについて悶々と考えている中での話です。

 

ツイッターでズイショさんという白い犬と仲良くさせていただいているんですが、先日こんなことをおっしゃっておりまして

 

 

自分の悶々と考えてたことをスパッと言葉にされたような気がしたんですよね。

 

ズイショさんの指摘するような「お前らの痛みなど知ったこっちゃない」って言い切るの、すごく冷たくて残酷なような気がするじゃないですか。

 

でもそうじゃないな、と思ったの。

「あなたの痛みなど知ったこっちゃない」

というとき、そこに痛みがあることは否定してないんだよね。

 

あなたにはあなたの痛みがあるんだね、そこは否定しないよ、あるんだね、っていう、そこに立ってるからこそ言えることなんだよなぁと思ったのね。

 

なんでこんなことをわざわざ書こうかと思ったのは、さっきこんなのが流れてきたから。

(ツイートをお借りします)

 

こういう、男女を入れ替えて女性の苦しさを理解してもらおう、的なやつはいろんなところで目にするんだけれど、いつももやっとした違和感があって。

 

それがなんか紐解けたような気がするのですね。

 

結論から言うと「無理じゃん」だと思うの。

どんなに立場を入れ替えても、想像してもらっても、現実に緊急避妊薬のお世話になったり、ピルを常用している女性の抱えているものって絶対にわかんないし、それわかってもらう必要あるのかな、って。

 

「私は苦しい」

「私は権利を侵害されている」

 

その当事者からのメッセージを、何かを入れ替えたり表現を変えたりしてこねくり回す必要はないんじゃないか、と思うの。

まっすぐそのままでいい。そこにあるんだもの。

 

そして、その自分たちの、また誰かの苦しみがそこにあることを誰も曲げずかえずそのまま受け取るということは、翻せば別の立場の人たちのそれもそのまま、ということだとも思うの。

 

緊急避妊薬の市販化に【私には理解できないけれど】否定的な人がいる。市販化されることに対する心理的な不安や懸念を持つ人がいる。

 

夫婦別姓が法的に認められることにより婚姻時に同姓か別姓かを選べるようになってしまったらそれにより苦しむ人が出る。それを避けたいと考えている人たちがいる。

 

こういう話に直面すると説得したくなるものなのかもしれない。

「いや、あなたたちのしんどさはこちらに比べれば大したことないんですよ、だからこちら側の主張を認めてもらえれば」と話したくなるのかもしれない。

 

それ、一見平和的な態度に見えるけど、ズイショさんが指摘してるように、自分が被害者サイドに立った状態でやんわり対応しようとしながらも相手のしんどさを完全否定してる、それってどうなの、って。

 

この手の漫画のような「わかってほしい」という話にいつも違和感があったのは、弱者の側に立って反対勢力を説得してあげるように見せていて、実質は相手のしんどさを低く見積もったりゼロカウントしたりしているズルさにモヤモヤしてたんだと思う。

 

これ、ハンディのある子の支援について話し合うときにもやりがちだなぁと思ったりするのです。

 

我が子のハンディについて学校や周囲と話し合っていく中で、自分の子供や自身のしんどさにクローズアップするあまり「みんなはしんどくないだろうけどうちの子しんどいんです、理解してください」っていう話に流れがちだなぁって。

 

でも実際には周りの子達や先生方もそれぞれにしんどさを抱えてる。

 

じゃあそれに忖度して主張を取り下げたりする?それも違う。

 

そっちにはそっちのしんどさはあるよね、でもそれはこちらの課題じゃない(=知ったこっちゃない)

こちらにはこちらのしんどさがあるので、あなたのそれもある前提で、じゃあどうしていこうか、っていう話をしよう。

 

学校との交渉はいつも割とこんなスタンスだったんだけど、ズイショさんのご意見を受けてスッキリ言語化できたような気がする。

 

勢いでダーっと書いてお昼になっちゃったからこれでおしまい。

読み返したりしてないから、あとで読み返してこそっと手直しするかも。

「法律がある」ということを知る、ということ。

やっと梅雨の終わりが見えそうな薄曇りの朝です。

今日はここ最近の身の回りのことからふわっと考えた「法律を知る」ということについて。

 

保護犬の講習に行ってきました

実家にいた頃から飼っていた子が亡くなって数年、子育てでそれどころではなかったのもあって新しい子を迎えることはなかった我が家ですが、ここ最近子どもたちから「ワンコ欲しい」の声が度々上がるようになっていました。

 

お金もかかるし手もかかるし…と躊躇する気持ちもありました。

何度か話し合いの場を持ち、10〜15年近く生きること、病気をしてお金がたくさんかかることもあること、その間に君たちの方が大人になっていくこと、君らが大人になっていく中でもし私や夫が育てるのが大変になったときに家を出たからしらないって言われたらとても困ってしまうかもしれない…いろんな可能性について話しながら、生涯家族みんなで世話をする、という合意のもとで新しい子を迎える準備をすることになりました。

 

せっかくだしと以前から興味のあった保護犬の受け入れを検討することに。

 

問い合わせたら愛護センターや保健所で講習を受けると譲渡会に参加できる仕組みになっているようなので早速講習の予約を入れ、先日子どもたちと参加してきました。

 

ワンコについての法律あれこれ

講習の中では育てるための心構えや各種助成制度、病気のことなど多岐にわたる内容の説明がありました。

育て方についてはお話を聴きながら「人間の子どもと同じじゃん…」と思う場面も多々ありで。(そのときのことは先日ツイートしてましたね。)

 

今回の本題はそっちじゃなくて、法律のこと。

 

なんとなくぼんやり罰則規定があることは知ってたものもあったけど、改めて聴かされるとへ〜〜ってものもいくつかありました。

 

例えば狂犬病予防法」

年1回の狂犬病予防注射を毎年受けさせねばならない、ということは知っていたけれど、

  • 注射済票をその犬に着けておかねばならない
  • 予防注射を受けさせず、または注射済票を着けなかった場合は20万円以下の罰金

 

隣に座っていた三男がその金額を見てえええええって顔をしていたのが印象的でした。

 

犬に関する法律には他にも「動物の愛護及び管理に関する法律」や自治体によって各種条例が定められていることも紹介されました。

 

大分県では「大分県動物の愛護および管理に関する条例」というものがあり、

  • 公共の場でふんを排泄した場合は、遅滞なく、当該ふんをその場から除去し、適正に処理すること(罰則は5万円以下の罰金または科料
  • 飼い犬が逸走し、または人の生命、身体もしくは財産を侵害しないよう、常に係留(網や鎖などでつなぐ、囲いに入れる、等)しなければならない(罰則は5万円以下の罰金または科料

 

など、罰金が科せられる条例がいくつかあるようでした。(私もダメなのは知ってたけど罰金やその金額については知りませんでした…)

 

同席していた子どもたちにとっても、ただルールがある、守らねばならない、というだけではなく、なぜ守る必要があるのかという理由についての説明や、罰則があるということ、またその内容について知ることができたのはとてもいい機会になったなと思いながら帰宅しました。(講習後に参加した譲渡会では残念ながら希望したわんこの抽選に外れてしまったのでさみしい帰路となりました…)

 

道路に関する法律の話から見えてきたもの

ワンコの法律のことをなるほどと勉強して帰って来た週明けの昨日、こんなツイートをしました。

 

先日ツイートしていましたが実は私、今回ゴールド免許になりましたの。

30分の講習を受けまして、その中でこの【横断歩行者等妨害等】が2点減点・普通車反則金9千円という結構重い罰則があることを聞いたばかりでしたん。

 

もちろん免許を取得するときにこの辺のことは一通り勉強してはいたけれど、長く乗っていると忘れていくことも多いし、法律は年々更新されていくので知らないことも出て来てる。

 

定期的に勉強するのは大事だなぁと今回改めて思ったりしました。

 

この横断歩道の一旦停止はやってない運転手さんほんと多いなぁと感じます。

今回のツイートにも、停まったら後ろからクラクションを鳴らされたとか、追突されそうになって危ないとかリプライがいくつか。

 

こうやって罰則規定も定められているほどの運転者の義務なんだけれど、優しい人がやってあげるマナーくらいの認識になっている雰囲気もあったりしますね。

 

でもそこが落とし穴だなぁと思ったりするのです。

 

ワンコの話を聞いていても感じたことなのだけれど、ちゃんと法律が制定されていて、こんな風に罰則も用意されているのに「やれたらやればいいこと」的なフワッとした受け取り方をされがちだったりするなぁ、と思ったりするのですね。

 

そして、そのフワッとした認識で犬を飼ったりドライバーとしてハンドルを握ったりしていると、突然罰則を提示されたときに「そんなつもりじゃなかった!」とパニクることになっちゃったりするのかなぁって。

 

ワンコの散歩をしながらふんを放置したところで即現行犯逮捕されることはそうそうないだろうとは思うのだけれど、それでもこうやって法律として明文化されていることなのだからいつ通報されて罰が科せられるかわからないし、科せられたところで逃れようはないわけですよね。

 

でも、日頃からその法を意識して生活していなかったら多分「なんで!」「みんなやってるじゃん!」ってなっちゃう。

 

ワンコの件についても子ども達と「誰がやってるとか誰はやってないとかじゃなくて、法律があることを理解して守ることが大事だよねえ」と改めて話すきっかけになったりしました。

 

学校・子どもに関する法律のこと

こんな風にいろんな法律のことを考えている中で、やっぱり私の思考がたどり着くのは我が子を取り巻くいろいろな法律。

 

ちょうど昨日、上記のワンコの飼い方についていただいたリプライに対してこんなことをツイートしていました。

私や子どもたちが犬を飼う上で知っておかねばならない法律について指導を受けたように、子どもを持つ前に子に関する法律についてもある程度知っておく必要はあるよなぁと。そして私も含めて、知っているようで厳密には把握しきれていない我が子に関する法がたくさんあるんだよなぁと痛感したりもするのです。

 

例えば「保護責任者遺棄等」という刑法第218条の中では高齢者や子ども、障がいのある人や病人などを世話する責任のある人(親子の場合は主に親)が見捨てたり生きるのに必要な世話をしなければ3ヶ月以上5年以下の懲役が科せられることになる。

 

なんとなくその法律の存在や「よくないこと」とはわかっていても、具体的に何年の懲役が科せられるような罪なのかまでは知らないことも多いなぁと思ったりするのです。

 

「子ども子育て関連3法」や「いじめ防止対策推進法」「障がい者差別解消法」など、子どもにまつわる法律はたくさんあって、私も知らないことがたくさんあります。

 

発達障害の子を持つ親としてはやはり障がい者差別解消法のことを知らぬわけにはいかぬと勉強を少しずつしているところではありますが、学校の先生方と話していてもこのことを把握されていない先生に出会うことも多々あるのが悲しい現実です。

 

先生との面談の中で、彼らの学習の権利を守るため合理的配慮をお願いしてもサラッと一蹴され、法律のことを持ち出して初めて目の色が変わる、あるいは残念ながら全く理解なくお話にならない、ということも何度もありました。

 

私たちが運転手としてハンドルを握る時に「横断歩行者等妨害等」という交通違反について知らないとは言えないように、犬を飼う時に「狂犬病予防法」について知らないとは言えないように、学校の先生方も教育にまつわる法律や「障害者差別解消法」について知らないとは言えない、保護者として生活する上で子にまつわる法律を知らないとは言えないんじゃないか、と思ったりするのです。

 

おわりに

「知らないとは言えないんじゃないか」と書いてはみたものの、たくさんある法律や条例のすべてを把握しきることは一般庶民である私たちには到底無理な話だろうと思います。

 

でも、生きている以上、何かの権利を有している以上、また何かに携わっている以上、【それにまつわる法がある】【それに関する罰則規定がある(こともある)】という事実については目をそらしてはいけないんだろうなぁと、ここ数日の身の回りで起こった法律の話から考えたりしています。

 

「法律を知る」の一歩前の「法律があるということを知る」という認識。

無知の知、みたいな、感じかなぁ。

「自分の把握しきれていない法律があるのだ」という認識をひとつ持っておくことで、何かに臨むときに勉強すべきことを洗い出しやすくなるのかもしれない。

 

現在施行されている法のすべてが問題ない間違いのないものだと言って良いのかわからない部分もあるのですが、それでも制定され施行されている以上、その法のもとに我々は暮らしてる。そこからは目をそらしてはいけないんだろうなぁと思ったりしています。

 

今更ながらやっと手に入れた『こども六法』を子どもたちの手の届く本棚におく前に一人チマチマ読んでおります。

こども六法

こども六法

 

 

残念ながら今回ワンコは連れて帰れなかったけれど、またご縁のある子に出会えるかもしれない。

その時が来たときに困らないように、犬の飼育に関する法律をもう少し勉強しておかねばなぁと思ったりしています。

 

長くなりましたが、今日はこのへんで。

これは親として必読書になるかもしれない。『発達障害の子どもたちから教わった35のチェンジスキル』が届きました。

発売を心待ちにしていた阿部利彦先生の著書

『大人が変われば、子どもが変わる 発達障害の子どもたちから教わった35のチェンジスキル』

が届きました。

 

 

手元に届いてからブログを書き始めるまで約10分、一気読み初動の感動を忘れないうちにみなさんにお伝えしたいことをしたためておこうと思います。

 

まずはじめに

冒頭の「はじめに」の中でこの本の対象として書かれているのは「園や小学校の比較的早い段階のお子さんをお持ちの保護者の方」です。

発達障害のある子を持つ保護者、とは書かれていないところが阿部先生の素敵なところだなぁと思うのですが、ここに書かれている接し方は基本的にどんな子に対しても共通しているのではないか、と私は思います。

これはこの本に限らずですが、発達障害のある子に対する声かけの例の多くは定型発達やそれに近いお子さんにも有効です。

定型発達の子達は曖昧な表現を特別好む訳ではないと思うんですね。

多くは違和感や不快感をそれなりに覚えながらも、理解できないわけではないからスルーしてくれているんじゃないか、と感じています。

 

この本で示されているような丁寧な関わり方は一見発達障害のある子のための特別なスキルのようにみられがちですが、実際にはどの子に対してもコミュニケーションのストレスを軽減し、信頼関係を築きやすいのではないかと思います。

 

 

1章「ほめるスキル」と2章「しかるスキル」

この2つの章がまずすばらしい。

 

よく「子どもをほめましょう」と言われるけれど具体的にどうしたらいいのかわからない、というのはTwitterなどでもよく目にすることです。

 

また「叱らない育児」なんて言われるけれど実際には苦言を呈する必要は日常の中でたくさん出てきます。

 

「ほめましょう」「怒らない・叱りすぎない」なんてサクッと言われてしまうけれどなかなか実践するのが難しいこれら行為について、それぞれ7つの具体的な注意点をNG例も添えながら詳しく説明されています。

 

添えられているNG例がまた…

「上手に書けてるけど書き順がめちゃくちゃだよ!」

「いいかげん宿題しなさい!何回言わせるの!」

「やる気がないんだったらやらなくていいのよ、好きにすれば、もう勝手にしなさい」

 

ね…耳が痛いでしょう……

 

これら耳の痛い声かけについて、そう言われたら子どもがどう受けとってしまうのかを詳しく説明した上で、こういう声かけにしてみよう、という提案が添えられています。

 

3章「伝えるスキル」

ここでは、不適切な行動を禁止するときや違う行動に変えて欲しいとき、こうしてほしいときにどんな声のかけかたをしたら伝わりやすいか、NGの方法も例示しながら紹介されています。

 

明日は用事があるから早く寝てほしい、

危ないことをやめてほしい、

公園から帰りたいから遊ぶのをやめてほしい…

 

日常の中にたくさん出てくる、ちょっと言うことをきいてほしいんだけど…というタイミングでどんな風に言葉を選んだらいいかがわかりやすく書かれているなぁと思います。

 

4章「励ますスキル」

親として一番難しいかもしれない、手や口を出しすぎずに本人を見守り励ます方法について書かれている章です。

 

いわゆる傾聴と呼ばれるような、耳を傾ける方法も簡単に説明されています。

(この部分をもっと掘り下げようと思ったらぜひこちらを)

 

傾聴の他に、プロセスを楽しませることの大切さや成功体験を意識しやすくなるちょっとしたコツ、レジリエンス(立ち直り力)を育てるための言葉のかけかたなども紹介されています。

 

5章 スキルを支えるスピリッツ

ここは、親として何度も読み返したい章だと感じています。

トピックだけ書き出して壁に貼っておきたいくらい。

 

頭ではわかっているようで、でも日常の喧騒の中でつい忘れがちな大切なこと。

子どもを観察することの大切さやその子なりのプライドがあるということ、親としての心の持ちかたや自分のケアを大切にするということ…

 

阿部先生のやわらかい言葉で、親である自分をまずケアすることの大切さを諭されているような、読んでいて肩の力が抜けていくような、そんな章でした。

 

おわりに

バーーーーッと読んで感動をざーーーっと書いているので、もっとこんなことも言いたかった!こんな素敵なところもあった!と後から出てくるような気がして仕方ありませんが、とりあえずこのくらいでおわりにしておきます。

 

本全体、挿し絵も多く、またその挿し絵もとてもわかりやすく描かれているなぁと思います。

視覚優位の親御さんだったらこのイラストだけコピーして壁に貼っておいても効果絶大なんじゃないかと思うほど。

 

文字はユニバーサルフォントが全体を通して使用されており、スッキリした文字の配置でとても読みやすい紙面になっているところもさすがだなぁと。印刷業の端くれにいる者としても参考になるようなデザインだなぁと感じています。

 

親の会でも是非紹介させていただきたいなぁと思っています。

この1冊は発達障害のお子さんをお持ちの親だけで読むのはもったいない、ぜひ、小さい子を持つ親御さんや子どもと接することのある方に手にとっていただきたい。

 

知識のがっつりある親御さんにはちょっと物足りなさはあるかもしれませんが、これに物足りなさを感じたら【子どもに対する接しかたマスター】を名乗ってもいいかもしれない。

それくらい、子どもに接するときに大人として気をつけるヒントがぎっしり詰まっている1冊だと思いますよ〜〜!

 

慌ただしく書きましたが、ここまで!

「居場所」は今いくつあるだろう、という確認

新学期を迎えた途端にコロナの関係で学校は大混乱、

三男の不登校や入学したての長男と娘の対応、

受験生になった次男がメンタルはだだ崩れ、

そこに来て予想外の大雨被害…(幸いうちの周辺は大丈夫でした)

 

イシゲ家、大波乱の4〜7月を過ごしているところです。

 

今日は娘との会話の中でふと考えた「居場所」のこと。

 

塾に行こっかな、な娘さん

中学生になって多くの子が部活に入る中、習い事を継続して部活には入らないことを選んだ娘。

 

最初の定期テストの結果が思ったよりよかったこともあり、もっと上を目指したい気持ちも出て来たようで。

そんな娘に塾に行ってもいいんじゃな〜いと勧めたりしていました。

 

塾を勧めたのは成績を上げるため、ではありません。

部活に入らなかった娘にとって、居場所がもうひとつ増えてほしいなぁと思ったから。

 

家と学校以外の「居場所」

自分の学生時代を思い返したとき、塾のあの家とも学校とも違う不思議な場所に随分助けられたように思うんですね。

 

進学と同時に塾をやめた途端、それまで自分のホームだった場所がひとつ無くなったような喪失感があったような覚えがあります。

例えば卒業した小学校の職員室が総入れ替えになって自分のいた頃とガラッと変わってしまったり、住んでいたアパートを引き払った後に再び訪れたときに違う人が住んでいるのを見たりしたときの、あのなんともいえないさみしい感じ。

 

自分の居場所がそこにあったんだな、と、失って改めて身に沁みるような、そんな感じ。

 

習い事をやっている娘にとってお教室やレッスン場はひとつの居場所ではあるけれど、自分のレッスンの時間にしか立ち寄らない場所なのでちょっと居場所としては心もとない。

 

塾という、行ける場所がもうひとつ増えるのは彼女にとってのホームをひとつ増やすことになるだろうな〜と思ったりしたのです。

 

私の「居場所」はいくつあるだろう

塾の提案をした数日後のお休みの昼下がり。

三男をサッカー教室に送った帰りに、お茶でもしよっか、と娘とふたり、馴染みのカフェに立ち寄りました。

コロナの影響で長くお休みをしていたから久しぶりに行ったのだけれど、顔を出したら狭い店内にお友達や顔見知りがずらりいて、マスターも一緒にあれこれおしゃべりをして。

 

煎れたてのコーヒーを楽しみながら娘に、居場所としての塾のお話を少し。

話しながら、あぁここも私の居場所のひとつだよなぁ、と思ったり。

 

学校や塾のなくなったいまの私にとっての居場所ってどこだろう、とぼんやり考える。

 

家と、職場と…あぁ、思えばそうたくさんはないかもしれない。

 

次男が通級指導教室に通っていた頃、週に1回入れるそこは私にとってゆっくり過ごして次男のことを思う存分話せる大事な居場所だった。あそこがなかったら今の私はないと思うほど。

 

それがなくなって今、家以外に落ち着ける場所、ほかにどこがあるだろう。

 

安心してそこにいられる場所、居場所。

それが少なくなればなるほど、息をするのが苦しくなる気がする。

たくさんキープしておくと、生きやすい気がする。

 

思い返してみたら今、あんまり居場所がないかもしれない。

自分のメンタルを維持するためにはもうちょっと頑張って居場所、増やしとくほうが良さそうだなぁ…

 

おまけ 三男の新しい「居場所」

学校との話し合いがうまくいかず、完全に不登校状態になってしまった三男さん。

紹介された適応指導教室に体験に行くことになりました。

 

見学に行ったときに先生が話してくれた中で印象に残ったのは

「この教室の一番の目的は『居場所作り』です」

という言葉。

 

あぁ、ここが彼のホームのひとつになるとしたら、それは彼にとっての大きな支えになるんだろうなぁとお話を伺いながら思いました。

 

 

居場所、意図してどんどん増やせるものでもないとは思うけれど、少なくなりすぎるのはやっぱりしんどい。

Twitterも自分にとっての大事な居場所だからつい覗いちゃうのかもしれないなぁ…

 

あぁそうか、今朝いくつかツイートしたオンラインサロン構想、サロンというのもバーチャル空間に自分の居場所を作ることになるのかもしれないね。

そういう居場所づくりのお手伝いができるかもしれないんだなぁ。

うん、ちょっと本腰入れて考えてみたくなったかもしれない。

 

今日はここまで〜。

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