スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

桃鉄雑感(主に子供関係)  2020.11.20

桃太郎電鉄 ~昭和 平成 令和も定番! ~

桃太郎電鉄 ~昭和 平成 令和も定番! ~

  • 発売日: 2020/11/19
  • メディア: Video Game
 

 *我が家はダウンロード版(パッケージ版は物が増えて管理できないから)です。

 

制作段階からこの日を心待ちにしていた私、早速手に入れまして。(今回はオットが買ってくれた。)

 

早速。

 

 

最大4人までプレイできる仕様になっているので、子供たち3人(高1〜小4・娘は推しの配信かなんかで忙しくてパス)と私で、おやつをかけて桃鉄大会を開催いたしました。

 

私自身も初見だったので(過去作はプレイしてますが)子供たちとやるのにどんな風か読めなかったのでまずは3年で。

 

結果、予想外の盛り上がりを見せ「もう1戦!」ということで3年を2回プレイ、トータル3時間くらいかかったかなぁ…という感じ。その内容からの感想をまとめておこうと思います。

 

 

 

1 社会の学習に活かせるか

おそらく、お子さんに桃鉄を、と考える私たち世代の大半、これを意識してますよね、という部分。

桃鉄で県名や名産を覚えた」という方も少なからずいる我々世代にとって、桃鉄が出ると聞いてまず思い浮かべたのはここだと思います。

 

結論から言うと、小学生向けには十分な仕上がり、だとは思います。

 

電車は東京からスタートし、ランダムに目的地が決まります。

目的地となる駅名は実際の地名と同じだと思われます。

駅名や線路の位置はJRなどの路線とイコールではなさそうですが、この辺は我が家に鉄成分のある子がいないので私には知識が足らないところではあります。

 

マップ上の線路の周りにはその土地の名産品と思われる野菜や果物、スカイツリーなど実際に存在するものと思われる建造物、うどんなどの名産品のアイコンが並んでいます。

(このアイコンはゲームには直接関係がないのですが、この辺ではこれが有名なのか、と言うのがわかる程度のふわっとした知識には繋がるかな、という感じです)

 

各駅で購入できる物件は実在の店舗や工場をモデルにしているもののようです。

この辺は学習にはあまり関係がないかなぁとは思いますが、あの企業だよね!とはっきりわかるような名前があって面白かったり、どこのことだろうと家族の中で話題になったり、という面白さはある感じです。

 

ゲーム内でランダムに出る三択クイズ(四択もあったかも)では「〜川は何県にある?」と問われて間違えると貧乏神にお金を持って行かれてしまったりすることもあるので、子供達かなり真剣に考えてました。

 

あと、3時間程度のプレイではあまり出てきませんでしたが、HPを見ていると各地の偉人やナマハゲなどの地域のお祭りも出てくるようなのでその辺りの知識を身につけるのにも役には立ちそうです。

 

 

一番大きいのは、地名と場所がリンクすることですね。

自分がいるところから、目的地が「宇都宮」と言われたときにどっちに進む?と考えたり、誰が一番近い?と話したり、頭の中に日本地図を描いて会話をしていくので都道府県の位置を叩き込むには良いツールになるかなという感じです。

 

もちろんマップは随時表示できるし、目的地への最短ルートは矢印で示される仕様になっているので、日本地図がわからなくてもプレイに影響はありません。

ゲームを楽しみながら無理せず頭に入れていきやすいかな〜という感じかな。

 

学習用に特化したものではないので、47都道府県の県名や県庁所在地、小学校向けの社会の内容に準拠しているかどうか、などの専門性を求めるのは無理があるという前提がある上で、それでも日本の地理が苦手な子には学習には十分活きるだろうな、と感じました。

 

2 癇癪を起こしやすい子にはどうか

家族でやろう、というときに私がひとつ懸念したのが、癇癪を起こしやすい次男と、勝ちにこだわりがちな三男がどう反応するかな、というところでした。

 

サイコロを振って出た目の数だけ進むスゴロク形式のゲームで、貧乏神が誰か1人に取り憑いたりするのもランダムなので運要素がかなり強くなっています。

そのため、誰か一人がものすごく儲かったり、逆に誰か一人がものすごく借金を積み上げてしまったりする場面も出ます。

どうかな〜持ち崩すかな〜と思いながらプレイしていましたが、予想を裏切る感じで我が家では次男がパニクることも三男が勝ちにこだわることもなく楽しくプレーして終わることができました。

 

要因のひとつは、大逆転や大どんでん返しの要素があること。

不運が続いて絶対に最下位だ…と落ち込むような状況にあっても、たまたま止まったマスで起きたイベントで借金を帳消しにしてくれたり、突然6億くらいもらえたり、逆に一人勝ちと思われていたプレーヤーが突然持っていた大金が一気にゼロになったり、たくさん持っていた物件がなくなってしまったりと、ここからでも巻き返せるかもしれない、という可能性が最後までついてくるのでモチベーションがだだ下がりになるのを防げたようです。

 

カードで起こすイベントで指定したプレーヤーからお金を巻き上げたり、持っている物件を取られたりすることもあるので、お子さんによってはそういう仕組みをあらかじめ話しておく方がやりやすいかもしれないなぁとは思いました。

 

カードのイベントでは個人を指定せず「おまかせ」で他のプレーヤーからランダムに選んでもらう方法もあるので、個人間でもめそうだと思ったらあらかじめ「おまかせだけ選ぶ」というマイナールールを作っておくのもありかもです。

 

3 鉄成分のあるお子さんにはどうか

特定のカードを使うとスゴロクの駒(SLっぽい形)が各種新幹線やリニアモーターカーに変化したりしておりました。

我が家には鉄成分のある子がいないのでサラーっと流されておりましたが…

 

他の部分に関しては、チラチラと鉄道雑学みたいなのが出る場面があるくらいなので鉄成分を大きく期待するとちょっとガッカリするかもです。

 

4 おわりに

昨日2戦した三男さん、今朝も早起きして1人でやってました。

またみんなでやりたいんだって。

この反応が得られただけでも買った価値はあったかな〜という感じではあります。

 

お勉強と意気込まずに日本地図を覚えられたらラッキー、くらいの感じです。

 

やってみた感じとしては、あつ森とかこないだから人気のサクナヒメとかみたいな、Twitterでバーって盛り上がってみんなそれぞれにやって、みたいな感じとはちょっと違う感じ。

 

人生ゲームを家に置いとくような、家族集まったり友達が来たりしたときに一緒にやろ〜って盛り上がってワーワー言いながらやる息長い付き合いのゲームになりそうな、そんな感じがしています。

 

 

www.konami.com

 

 

 

 

 

主張の裏にある見えない感情を取り扱うことと選択的夫婦別姓の話。

子供が何かを猛烈に欲しがって 「〜〜くんも持ってるもん!」「だって」「だって」 って必死にアピールすることがある。

 

ぽいっと買ってやれるような値段ではないものを欲しがったときにどうするかは家庭によって様々だろうとは思うのだけれど、原則として大きな贈り物は誕生日とクリスマスプレゼントのみと決めている我が家では、高額のものを欲しがられてもおいそれとは買ってあげるわけにはいかない。

 

(厳密には家庭内バイトでお小遣いを稼ぐとか、お年玉をもらったときに貯金に回す前に何か買ってもいいとか、こないだの臨時給付金など突発的な臨時収入が出たときにそれぞれに現金を支給したりという場面もあったりはするのですが、親が買ってあげる行為はその2回に限っている感じですね)

 

お小遣いで買えない額のものをなんでもない日には買わない約束だよ

クリスマスまで待てばいいでしょう

誰が持ってるからってあなたが持つ理由にはならないでしょう

(今持ってる)あれを使えばいいじゃない

 

等々、親が思いつくようなそれなりに理のある説得材料をいくら並べても本人が納得して諦めることにはそうそうならない。

 

なぜなら、彼らが並べ立てるいろんな「欲しい理由」は後付けでしかないから。

「とにかく欲しい」という感情がまずあるから。

 

理論じゃない。

ものすごく欲しいという感情に取り憑かれている状態だから理論など入らない

 

ここで「とにかく買えないものは買えません!」と親の権力をふるってねじ伏せてしまいたくなるところなのだけれど、親にそうされて悲しかった小さな私が顔を出す。

 

関係を壊さないように、

悲しい記憶にならないように、

でも「買ってあげる」で終わらないために…

 

たくさん出てくる言葉はその、言葉にならないできない感情を武装するための上塗りされた精一杯の言葉にしかすぎない。

彼らから出てくるその主張の一つずつは、言葉を使う技術でより長けている私なら簡単に論破できてしまうものばかりなのだけれど、そうやって撃ってくる弾を全部叩き潰してしまったとしても彼らの根っこにある「どうしても欲しい」という感情はなくならないし、なんならより強まっていたりもする。

 

そこにあるその感情をないものにしてしまったら対話は成立しなくなる。

もし誰かに私の中に確かにあるそれを「そんなもの」と軽んじられたり、無きものにされてしまったりされてしまったらそれ以上のやりとりはしたくなくなるだろう、少なくとも子供の頃の私はそうだったから、できれば子供にはしたくない。

 

となると、

「とにかく欲しくてたまらない」という感情そのものを否定しない

というところからスタートするしかない。

 

うん、欲しいんだね、それはわかった。

 

というステップを経ての、でもその感情のままに突っ走るわけにはいかないよね、どうする?どこに落としどころを見出す?という話をしていくことになる。

 

本当に今すぐでないといけないのか、待つとしたらどこまで待てるのか、金額を下げてお小遣いから買えるところで飲む方向はないか、等々、いろんな可能性を一緒に模索しながら妥当な線を探していく作業をして、感情を大事にしつつ感情に飲まれない自分なりの結論を導く訓練をする感じ。

 

前置きは長くなったけれど、なんでこんなことを考えたかというと、昨日の報道の後にTLにたくさん流れてくる「選択的夫婦別姓」の議論をいくつも眺めていたから。

 

私は選択的夫婦別姓には今のところ反対の意志はありません。

現状、同姓にせざるを得ないことでの不利益を私自身も感じていたし、もっと感じている人たちがいることも知ってる。子どもたちが成人する頃には選択が可能で不利益が生じにくくなっているといいなぁという希望がある。

 

ツイッターでも度々言葉にしているけれど、反対意見らしいものの多くは、賛成派からしたら簡単に理論でやっつけられるようなことばかり。

 

何を今更そんなことを、と呆れるようなものもたくさん。

議員や文化人など頭が悪いわけではないだろう人たちが、いろんな言葉を使ってなんとか反対を主張しようとしているさまに、いつまでこんなことを言っているんだろうって情けなくなるほどに。

 

そんな主張の数々を見ながら、あぁここにも「どうにも整理しきれない感情」があるんだろうなぁ、と我が子の駄々をこねる姿を思い浮かべたりしたのです。

 

「夫婦で苗字が違っていたら混乱する」

「夫婦家族の絆が保たれない」

「兄弟で違う姓を名乗っていたら学校でいじめにあう」

 

反対派の出してくる言葉の多くは、いやいやこうですよ、そんなことないですよ、って筋道立ててお話ができることばかり。

でもそれを重ねても重ねても、やっぱり同じ主張は続く。

それは、その塗り重ねられた言葉の奥に「どうにもこうにも嫌」という、言葉にして認識するのが難しい強い感情がそこにあるからだと思うのです。

 

感情的にものを言うことはあまり褒められないことは多いように思うし、ASDみのある私にとっては理論がしっかりしていない主張は受け入れがたいものも多い。

 

でも、体感として「世の中の大半は感情で回っているのだ」というのは育児の中でもママさんの輪の中でも、あちこちでこれまで何度も痛感してきているし、今回の選択的夫婦別姓の議論でも感じていること。

 

どんなにエビデンスがしっかりあっても、どんなに筋が通っている話であっても、感情の暴走を前にぶっちぎられて泣きを見ることもザラにある。

 

選択的夫婦別姓の議論をする中でも、感情をベースにしているであろう発信に対して理論で殴り返しても多分うまくはいかないだろう。

と思いつつ、それが分かった上で寄り添ってあげられるのは我が子に対する親の情ありきでもあるわけで、そんなことに付き合ってられないよね、というのも本音ではあるなぁと思ったり。

 

まぁそんなまとまりのない雑感いろいろでした。

発達支援教室「るりえふ」の代表郡司氏と床下じぃじ氏ほか支援職のやりとりの記録と私の見解についての記録

このブログエントリは、発達障害スペシャリストと称される、発達支援教室「るりえふ」の代表 郡司真子氏の発言とその後の経過について、私が見てきたことの記録と「女性保護者」として感じたことを現段階で取りまとめたツイートに加筆修正し、保存用としてここに残すものです。

 

問題の発端はこの記事からです。

gendai.ismedia.jp

この記事の5ページ目で筆者から「発達障害スペシャリスト」として紹介されているジャーナリストであり発達障害支援教室を主宰されている郡司氏の発言が記されています。

画像として引用します。

f:id:suminotiger:20201101102318p:plain

この部分に関し、支援職の立場にある床下じぃじ氏 @yosicco より境界知能の定義に誤りがあることなどについて指摘がありました。私も記事を拝見して「知的障害スペクトラム」という初めて見る単語と境界知能として記されているIQの数値におかしさを感じましたが、突っ込んだ言及は避けていたような記憶があります。

(何かしら呟いたかもしれませんが記憶があやふやです、すいません)

 

私はいち保護者であり、発達障害や医療の専門家ではありませんので厳密な定義などについては専門家の先生方にお任せすべきだろうと思ったことも突っ込んだ言及を避けた理由の一つではあります。

(そのほかの個人的な感情については今は触れずにおきます)

 

指摘を受けた郡司氏は記事中の発言についての訂正をするでなく、また自身の発言の論拠を示すでもない態度をとりました。


そしてその後ツイートを重ねる中で
「記事中で示したIQの値は東京都やその近郊で就学時の在籍級を決める際に行政が線引きとして利用している数値である」

と展開されました。

 

記事で書かれているのは郡司氏らが提唱している概念数値ではなく、実際に行政の側が子供達の就学の判断をする際に利用している数値である、というお話。

さらに別の方から医師などの専門職が講演の場で話しているのを聞いたことがあるというお話も出されました。

 

この件についてどの講演で誰が発言したことなのか、と言う質問については「答えない」というお返事で、詳細はわからないままです。

 

話を戻しますが、当初の発端になっており、床下じぃじ氏他数名の専門職のアカウントから記事内容の確認や訂正を求められている部分には、画像からわかるようにその後郡司氏が出された「東京都やその近郊で実際に起こっている問題」ということは触れられていません。

 

また、指摘を受けているのは「知的障害スペクトラム。いわゆる境界知能です。IQが85から100くらいまでの間」という部分であり、それ以外の部分についてや、またその後の郡司氏が問題視されている東京都や横浜市で起こっているという就学時の行政側の対応についての問題に指摘を受けたものではありませんでした。

 

その後郡司氏が提示した横浜市の就学時の問題の証拠であるというPDF資料についても、IQのことが記されているのは28Pの知的障害の線引きの部分のみで、郡司氏が提唱する「IQが85から100くらいまでの間」の知的障害に該当しない発達障害児が不当な選別を受けていることが示されているものではありませんでした。

 

郡司氏はその数値による線引きが行われているというのはご自身が実際に取材した中で得た情報だとされておられましたし、そのような事実が実際にあるのであればプロのジャーナリストとして問題をつまびらかにし、改善のためにご尽力していただきたい。

しかしその問題と、今回床下じぃじ氏を含む複数の専門職のアカウントから指摘されている「IQが85から100くらいまでの間」「知的障害スペクトラム」という当初の記事の中で触れられている部分やその後郡司氏が展開されている「横浜市で実際に起こっているIQによる選別」というお話に関して、このまま放置しておくことは多くの保護者や当事者の混乱を呼びかねない、と思うまでに至りました。

 

※ここまでの郡司氏や支援者の方たちのやりとりについてはツイートまとめなどで詳細にまとめることも可能かと思いましたが、私のキャパでは無理なのであくまでも私の言葉で書くに留めます。

 

私は郡司さんと同じ発達障害のある子を持つ母親として、通常級の教室の中で教員の不適切な指導で苦しむ子供達を何人も見てきているし、就学判定の時に希望とは違う道を示されているケースも知っているし、そこで様々な葛藤を抱えながら子供のより良い環境を得るために尽力するたくさんの親御さんを知っています。一緒に歩いています。


その方達や、これからそこに至るであろうたくさんの、発達障害のある子とその保護者にとって、エビデンスのない情報、丁寧に整理されていない中途半端な情報を出すことはただでさえ苦しむ当事者親子をさらなる混乱に巻き込むことにもなりかねません。

 

郡司さんの発言により、東京都や近郊都市の未就学のお子さんを持つ保護者のみなさんが、IQによる選別を受けるかもしれないと混乱し、その不確かな情報をもとに教委や学校と交渉することで関係性が悪化したり、受けたほうが良い発達検査を拒否したりすることが起こらないかと心配です。

 

発達検査は本来はその子の今を知るための大事な検査であり、まともな支援者はIQの数値だけを見ることなどしません。

私も我が子の関わる教員や支援者の皆さんに発達検査の結果を資料として提示することはありますが、各数値の差やそれぞれの数値について話題に出たことはありますが、IQの値で何かを決められたことはありません。

どの判断も発達検査の結果はあくまでも目安のひとつでしかなく、本人の現状の課題を元にして話し合ってきました。これは「東京都とその近郊」ではない小さな地方都市の、1ケースでしかありませんが。

 

私は、ペアレントメンターや親の会に関わったりする活動などの中で様々な保護者の方を見てきましたし、学校や教委と交渉する過程を見守ってきたこともあります。
その中で、うまくいくこともうまくいかないこともある。私自身も交渉がうまくいくこともうまくいかないこともあります。

 

交渉をうまくやり、またそれを継続して子供の心を折らないように育てていくためには、様々な情報をかき集め、整理して、対応していく必要があります。


郡司さんも母親としてそこに尽力されてきたであろうことは、お察しします。

 

ただ、同じ保護者としての立場にある私からは、いまのあなたがその保護者としての立ち位置と、ジャーナリストを名乗るプロとしての立ち位置とがうまく整理しきれていないように見えます。

 

あなたの発信する断片的な情報は、保護者としての我々を混乱させてしまうものです。そして、正確な知識を持ち合わせないまま子供達と接する教員をも混乱させ、結果的にその不利益を子供達に生じさせることになってしまいます。

 

我が子を守りたいように、たくさんの発達障害のある当事者児童生徒を守っていきたいお気持ちがあるなら、どうか発信される情報を丁寧に整理なさってください。

これからの親子に不利益が出ないような、プロとしてのお仕事をなさってください。

 

最後に。


これは「女性保護者」としての立場から書きます。

 

床下じぃじさんなど複数の専門職からの指摘は、あなたが女性だから、母親だから、寄せられているものではないように私には見えます。

明らかな事実誤認であり、そこを指摘されているに過ぎません。

 

また、それぞれの専門職の方が「男性だから」発しているものでもないように見えます。事実、あなたと同じ「女性保護者」である私にも、記事が出された当初から当該部分について彼らと同じ疑問を抱きました。

 

女性だから、母親だから、非難されている、という話に転じさせていくことは問題の主題から目をそらさせようとしていると受け取られても仕方のない行為です。

あなたにその意図がないなら、いますぐ取り下げられた方がいい。

 

ネット上で「都合が悪くなったら女性という立場を利用して逃げる」というレッテルを貼られかねず、そのことは私たち正々堂々と保護者として行政や教職員と対峙して我が子を守っていこうとする保護者全体にとっての不利益です。

「女性保護者だから」とまとめないでください。

 

私の言葉があなたに届くかどうかはわかりませんが、それはあなたの側の問題なので私にはどうしようもありません。ここに言葉をおいて、それで終わりにします。

長くなりましたが、これまで見てきたことの整理と私の見解は以上です。

 

ツイートではここで終わりましたが、もうひとつ最後に付け加えます。

もし郡司さんの一連のツイートやそれに付随する情報を見てお子さんの就学について不安を感じたり、どうしていいかわからなくなったりした保護者の方がいらっしゃったら、どうぞTwitterでいつでも声をかけてください。

私は地方在住なので東京都やその近郊のことを直接知る事はできませんが、Twitter上には当該地域の保護者やそこに関わる支援職の方はたくさんおられます。

一緒にお子さんの就学についてのベターを探るのを手伝ってくれる力になってくれる方は必ずいらっしゃると思うので、不安に駆られてしまったら、どうぞいつでもお声をかけてください。

それが、今回のことに関して「いち保護者」として私ができる唯一のことなのではないか、と今は考えています。

毎日続いた次男のお迎え要請の話。

相変わらず適当な更新頻度で書いています。ご無沙汰しております。

 

今日はきしもとたかひろさんのこのコラムを読んでの感想文です。

grapee.jp

全編を通して、読みながら我が子や学校の子どもたちや読み聞かせで出会う子達や、たくさんの子どもたちの顔が浮かんできて、そして読み終えたときはじわっとこぼれそうになる涙をこらえている自分がいました。

 

あいも変わらずやさしいきしもとさんの視点。

このコラムのイラストそのまんま、腰を下ろして子どもと同じ目線でいようとするからこそ見えているものなんだろうなぁと、書かれているものを読むたびに考えさせられる自分に出会います。

 

このコラムを読んでから、この夏の次男の送迎のことをつらつらと思い出したので久しぶりにブログに書いてみようかと思った次第です。

 

歩いて帰れない、次男さん

我が家の中学生は徒歩通学で、部活のない次男は基本的には下校時間とともに学校を出ることになっています。

 

コロナ休業が明けて登校が再開し、梅雨に入ろうかという頃から午後2時〜4時の間に私の携帯電話が鳴る日が続きました。

 

電話の主はきまって中3の次男の担任。内容もいつも同じ。

「次男くんがしんどいといって休んでいます。熱はありません。お迎えにきて欲しいといっていますので、来られますか」

 

私の返事もいつも同じ。

「はい、すぐ行きます」

 

保健室にいる日もあるし、私の車が入ったのを見て保健の先生や担任と一緒に出てくることもあるけれど、基本的には一人で歩けないほどフラフラしながら先生にカバンを持ってもらう次男。

 

車に乗せて連れ帰って、水分を取らせて少し休ませること30分ほどでいつもの元気を取り戻すのも毎日同じ。

 

コロナのこともあるんだろうな、担任の先生は毎日「その後どうですか?」と丁寧にお電話をくださる。

私の返事は毎日同じ、「はい、休んだら良くなりました。」

 

 

連日の、先の見えないお迎え要請

熱中症かなぁとも思いましたが、熱も出ないし休めばすぐ良くなる。

原因もよくわからないまま、電話は毎日続きます。

 

1週間を過ぎた頃から、一体これはいつまで続くんだろう、という気持ちが私の中に芽生えるようになってきました。

時間の自由がある程度きく仕事をしているとはいえ、毎日2時間くらいの時間を「どこで電話がかかるかわからず即時対応せねばならない」という案件のために備えねばならない。

打ち合わせもなるべくその時間にかからないように調整したり、という手間も出てきます。

 

歩いて帰れないとはいえ帰って休めばピンピンして「おやつない?」とか言ってくる次男にモヤモヤし、なんともいえない言葉にできないストレスがじわじわと積み重なって優しく対応できなくなり、またそんな自分に嫌気がさしてストレスの元になる。

 

よくないループに落ち始めているのを感じていました。

 

数日に1回くらい、電話のかからない日もありました。

なぜかはいまだによくわかりません。

そしてそこで期待して、また翌日電話がなってがっかりして迎えにいく。

 

たかだか迎えにいくだけのこの時間を負担に思う自分がダメなんじゃないかとか、いやこのくらいの距離を歩いて帰らないのは次男の甘えじゃないのかとか、悶々としつつも連絡があれば迎えにいく以外の選択肢がない日々が続きました。

 

「次男くん、座ってるだけでもものすごく頑張ってるからね」

お迎え要請が続くなか、かかりつけの児童精神科の診察日がやってきました。

いろんな相談をする中で、彼の毎日のお迎え要請のことも先生に伝えました。

 

フラフラする、頭痛がする、などの彼が訴える症状から熱中症とかなのかなぁと私が話すと、先生は「頑張りすぎじゃないかな」と。

 

他の子が当たり前にこなしているからあまり注視されにくいけれど、発達障害のある彼にとって「遅刻しないように学校に行って、1時間目から授業を聞き漏らさないようにじっと座って聴く」という行為はものすごく体に負担のかかる行為だと思う、と。

 

次男は授業をかなり集中して聴いているだろう、と学習支援の先生からも言われていました。宿題に割く時間が少なく自宅学習もほとんど出来ないのにある程度内容を理解できているらしく、授業で聞いたことをしっかり覚えられているからだろう、とのこと。

 

主治医にその話をすると、聴覚認知が弱く、外部からの刺激で気をそらしやすい彼にとって先生の話を聞き漏らさないようにすることには相当のエネルギーがいるんじゃないか、とのことでした。

 

「次男くん、そんな状況で休まず毎日通ってるのはすごいことよ」

「ものすごく体に負荷がかかっているということを意識して家では休ませてあげて」

 

と先生から指導を受け、連日の体調不良の訴えに何か別の病気があるのではと心配してくださっていた学校の先生方にもその旨をお伝えしました。

 

いつまで続くのかなぁと思っていたら

毎日毎日なっていた私の携帯電話。

夏休みの明けた頃からだんだんなる頻度は下がっていき、真夏の日差しが落ち着く頃にはなることはほとんどなくなりました。

 

いまだに、その原因はよくわかりません。

気温が下がってきたからなのか、コロナ明けでハイスピードの授業が落ち着きを見せてカリキュラムに余裕が出てきたからなのか、暑さが和らいで帰り道に彼がよく立ち話をする近所のじいさんばあさんがよく外に出るようになったからか…

 

いつの間にか次男は一人歩いて帰る日が増えていき、私も毎日の電話を待つ暮らしは気づけば終わっていました。

 

きしもとさんのコラムを読んで

連日のお迎え要請で私はすごく疲弊してしまったし、結局なんでお迎えが必要だったのかもよくわからないまま。

 

きしもとさんのコラムの中で

その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。

忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。

って書かれてるのを読んで、あぁ、本当にそうだなぁ、って車の中でシオシオになってた次男の姿を思い出す。

 

けして優しさ溢れるお母さんではない私は多分、仕事を中断したり暑い中車を出したりしてイラッとしてたと思う。

 

車の中から見上げた校舎の中には彼と同じ年の子どもたちがぎゅうぎゅうに詰まっていて、みんな彼よりもっともっと頑張っているように見えてしまう。

なんで君は我慢できないの?なんで君はもっと耐えられないの?と心の何処かで思っていたような気がするし、きっとそれは次男に見える形で私から漏れ出ていたと思う。

 

お医者さんからの言葉もズシンと自分に重く響いて、彼の抱えているものを見落としていた自分が情けなくもなった。

連日のお迎えの中で、だんだんと迎えに行くことが当たり前になっていった。

少し休めばケロッとするのもわかっているし、彼なりに頑張っていることも見えてくる。

 

今だけのことだし、別に中学を卒業するまで毎日迎えに行くことも大したことじゃないような気もしてきた。(幼稚園なんか毎日そうだったわけだし)

 

お迎えに来てといったら迎えに行く、それだけじゃないか、と思うようになって来た。

 

心のどこかで、毎日迎えに行くことが次男にとって当たり前になりやしないか、と怯えている自分がいたのも見えてきた。本当にそうなっちゃったらどうしようかねえ、って思っていたら、電話はだんだん鳴らなくなっていって、私のその不安は杞憂に終わってしまった。

 

お迎えに来てもらってもいいじゃないか

連日迎えに行く私に、甘やかしだという身内がいた。

そんなんじゃ大人になって…とくどくどという言葉をハイハイとあしらいながら、ぼんやりと考えた。

大人の私が、毎日どこかに通って頑張っていて、で、歩いて帰るのがしんどい時に「お願い迎えに来て」って誰かに言えるとしたら、それは甘えじゃなくて、幸せなことじゃないかなぁって。

 

そしてふと思い出す、くどくど言ってるその張本人はコンビニに行くのに車を出しているじゃない、飲んだら迎えに来てって家族に言ってるじゃない、ふふふ、自分だって甘えているじゃない。

 

なんで大人になったら甘えてもいいのに、子どもはダメな気持ちになるんだろう。

次男みたいに「お迎えに来て」って言えて、「来てくれてありがとう」って言って、本当にしんどいときだけ甘えられたら、それ「甘やかし」じゃないねえ。

 

子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。

けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。

苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。

けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。

 

連日のお迎え要請に私は辟易としてしまっていたけれど、あの時間は彼にとって「SOSを出せば大人が助けてくれる」を感じる機会になったのかもしれないなぁ、と思ったりもするのです。

 

おわりに

次男のお迎え要請はもうほとんどなくなったんだけど、仕事をしながらたまに4時くらいに「あ、今日も鳴らなかったね」って思うことがある。

 

今も2時を過ぎたけど鳴ってなくて、多分、今日も鳴らない。

 

でも、もし鳴ってもいいなぁって今は思う。

彼がSOSを出せるのはとても大事なことだし、それだけ頑張っているんだとわかっているし、帰り道に二人でちょっと話す時間も貴重なものだったりもする。

 

SOSを出すのが苦手だった次男と、SOSを受け取るのが苦手なお母さんだった私が、ちょっとだけ成長したような気がする、2020年の夏の思い出です。

【ご報告】コンビニ振込票未納事件がとりあえず解決したっぽいです

先日Twitterで「困ってます」とお話をして助言をいただいておりました「コンビニ振込票未納事件」(事件というほどではないですが)が先ほどのお電話でとりあえず解決したっぽいので、備忘録兼みんなも気をつけてね!的な意味を込めて記録をまとめておこうと思います。

 

一応予防線はっときますが、今回のやりとりに出てくるコンビニやカード会社の名称を今度も公表するつもりはありません。どこの店でもどこの会社でも起こりうることだと思うし、どこが悪いかという話がしたいわけじゃないし、攻撃をしたいわけでもして欲しいわけでもないからです。電話口でも謝罪していただいてますし、これ以上やりとりをしたいわけでもありません。

管理の甘い自分を戒めるため、そして「みんなも気をつけてね、レシートと控は捨てちゃダメだよ!」と言いたいだけのエントリと思っていただけたらと思います。

 

 

「料金が未納になっています」

発覚は9月10日、カード会社からの電話でした。

「先月分の利用料金が未納になっています。」というご連絡。

 

慌ててカバンの中に保管してたコンビニ振込の控えを引っ張り出しました。

 

先月末の引き落としの口座管理でミスっていて引き落としがうまくいっていなかったのでハガキタイプの振込票が届いたのが9月の1週目の週末くらいだったと記憶しています。

 

振込票を使ってコンビニで振込をしたのが8日の朝。

ここでなくし物大王の私が奇跡的に依頼人控えとレシートを保管しておいたのが今回の騒動を解決に持っていける大きな鍵となりました。

 

「振込票とレシートが手元にあります」

電話口のカード会社担当者に確かに入金した証拠が手元にあることを伝えると

「レジを通っているのなら数時間でこちらに通知が来るはずなのにそれがきていない」

「コンビニに確認してもらって」

と言われたので、指示通りコンビニの店舗に電話を入れました。

のちにTwitterでいただいたアドバイスに寄るとこの時点で「控えは手元にあるんだからあとはそちらでやりとりしてくれ」と投げても良かったのかもしれないなぁと思いますが、この段階ではそんなことわからずとにかく電話しないと!と思って連絡を入れました。

 

迷走するコンビニとのやりとり

コンビニに電話し、店員さんらしい方にことの詳細を伝えました。

店員さんから「確認して折り返します」とお返事をいただき、しばらくして着信。

 

「レジは確かに通ってますね」

とのこと。

 

 そこで電話を切られそうになったので

「カード会社から通知が何もきてない、と言われているのですが、レジを通ったとして、その先の先方に情報が行くまでの段階が滞りなく行われているかはそちらのコンビニさん側でしかわからないと思うのですが、それは確認していただいてますか?」

と尋ねると答えはNO。

 

「手元にあるレシートと依頼人控を持ってきてもらったらもっと調べられるけど」

と言われたので

「これは私が確かに支払ったという唯一の証拠なので、そちらにお渡ししたらそれを証明できなくなってしまいませんか?」

と答えると、うーんと困っている様子。

「店舗の控やレジの記録はそちらにあるんですよね?」

と尋ねたらそれはある、とのことでした。

 

とりあえず調べてまた連絡します、と言われたので少し待ってみたのですが、やりとりがイマイチ不安だったのでコンビニのホームページから本部のカスタマーセンターと思しき番号に連絡し、ことの経緯をお話しさせていただきました。

 

カスタマーセンターの方に店舗名なども伝え、確認して連絡します、とお返事がありました。

 

ここまでのやりとりが、10日午前中のことです。

 

悶々と連絡を待った、午後、そして

返事待ちの時間、仕事をしながらも悶々とした状態。

 

何か気をつけることがあれば…とTwitterでこんな相談を持ちかけたりしておりました。

このツイートへのリプライで

依頼人控とレシートをセットで保管しとくのがとにかく大事】

というのを痛感した感じです。

控だけならハンコを押したまま店員が着服、ということもあり得るようです。

レシートを取っておいたのが何より良い、というリプライもいただきました。

レシート=レジを確実に通した、という証明になるのだそうです。

 

皆さんとやりとりをしながら悶々と連絡を待った午後。

カスタマーセンターに連絡するなら5時がデッドかなぁ、と思いつつ、連絡がない…

 

 どうしようかと迷っていたら「とりあえず連絡してみなよ!」って友人も背中を押してくれたのでコンビニのカスタマーセンターに電話してみました。

 

カスタマーセンターの電話口で「連絡を待ってたんだけど…」と聞いてみると「調べます」と担当の方。

保留あけにちょっと驚いた感じの声で「担当者に連絡を入れるように、という指示が出ているのですが、まだご連絡がないということですよね?」と。

そうですね、とお返事すると慌てて「すぐ連絡をいれさせますので電話を切って少しお待ちください」とのことでした。

 

コンビニ店舗より着信と報告→カード会社へ報告

電話を切って数分後、着信がありました。

電話番号はコンビニ店舗のもの。

「8日に確かにお客様からの入金を確認しています」

「9日朝9時に本部からカード会社へデータが飛んでいるという記録が確認できました」

とのことでした。

 

担当者の方のお名前などを伺った上で、カード会社の方へ連絡。

店舗よりそのような説明があったことを伝え、とりあえず私の入金に関してはコンビニでも確認が取れたと言っているのであとはそちら(カード会社とコンビニ本部)で話してください、とお願いして電話を切りました。

 

ここまでが9月10日のお話です。

 

ぼんやり待った、1週間

私の支払いは確認されたので終わった!とその日は気持ち良くビールで乾杯をした9月10日。

(そうやって精算しないとずっと気になって色々回らなくなる不出来な脳みそを持っておりますもので)

 

丸々1週間、気にせず暮らしておりました。

が、そっちで話してと投げたとはいえ、まだ解決をしているわけじゃないわけで、どうなったかの連絡くらいくれるだろうと思ってはいました、頭のどっかしらで。

 

どこからもなんの連絡もなかった1週間を経て、ふとカード会社のネット上のマイページ的なところを開いてみました。

 

ページの内容を確認するに、どうもまだ「私が支払ってない」という状態で止まってます。

どうしようかな〜と思いつつ、悶々と長引くのも嫌なのでカード会社の方へ連絡を入れてみました。

9月16日のことです。

 

カード会社に問い合わせてみたら

カード会社に連絡して個人情報を調べてもらったら、担当の方から「コンビニの件ですか」とお返事。

そうです、10日に話して以来なにもやりとりがないままネット上ではまだ未納の状態になっているので、とお話をしました。

 

確認してもらったら、コンビニの方に打診をしているけれど返事がない状態のようで、また確認してご連絡します。とのことでした。

 

そして2日後の今日、お返事がありました。

 

内容は

「コンビニ店舗のシステムの不具合で速報データが送れていなかった」

とコンビニ側から返答があった、とのことでした。

 

カード会社の方によると、速報というのはレジをとして3時間くらいでカード会社に入金があったという情報が送られる仕組みのようです。

 

10日の段階で私はコンビニ店舗の方から「9日朝9時に本部からカード会社へデータが飛んでいる」と言われていけれどそれとは違う話なのか、と聞いてみましたが、コンビニからは店舗のシステム不具合というお返事だけがきている、とのことでした。

 

とりあえず店舗側からも私が入金をしたという事実が確認できたことを受けて、カード会社としても入金がされたということで処理し、カードは使える状態になっています、とのこと。

これ以上私にできることはないし不都合はなくなったので、とりあえず私のところでの決着は見た、という状態かな、という感じです。

 

おわりに

結局のところどこがどうとかは私にはよくわからないし、きっと明らかになることはないだろうなぁとは思うので、ここから先の真相についてはあまり気にしていません。

 

また、そもそも私が口座の管理をちゃんとしとけば防げたことではあるので今後気を付けないとなぁと曇り空を見上げながら反省している次第です。

 

今回のことで私がみなさんにお伝えできるのはこれだけだなぁと思うこと。

それはやっぱり

【コンビニ振込したら依頼人控とレシートはセットで保管して!】

ということかなぁと思います。

少なくとも先方が入金確認を取るまでは手元に絶対置いといたほうがいい!

 

ズボラでなくし物大王の私が今回奇跡的にとっておけたのは、カバンの中に百均で買った派手な色のクリアポーチを一つ入れていて、その中にレシートをバカバカ入れていたからです。

 

しばらく置いといて、暇なときに整理して処分したりしてました。

 

ポーチに入れていなければ私は絶対無くしていたし、無くしていたら支払った証明もできないので泣く泣く全額再入金するしかなかったと思います。

 

本当に、とっておいて良かった!!!

みんなも気をつけてね!

不登校と勉強のモチベーションのこと。

わんこの話題が続きましたが、今日は三男を通して考えた、不登校とお勉強の関係のこと。

 

 

「勉強が遅れる」という(親の)強い不安

現在小4の三男が完全不登校になって3ヶ月。

当初私が一番心配したのが「学習の遅れ」でした。

 

学校に通えるようになったときについていけなかったらどうしよう。

4年生の履修内容が理解できないことで将来的につまずいたらどうしよう。

 

もし三男が一人っ子や長子なら、もしくは親として初めての不登校経験なら。

私はお休みの間もなんとか三男に遅れを取らないよう学び続けさせねば、と躍起になっていたと思います。

 

それくらい、学習の遅れは不登校児を抱える親にとってもっとも大きな不安要素かもしれません。

 

私が今回そこまで強い不安にとらわれずに済んだのは初めての経験じゃなかったから。

同じく4年生で学校にいけない時期や教室に入れない時期があった長男が目の前で立派に志望の高校に楽しく通っているから。

 

今回も不安は波のように何度か襲ってきているけれど、その度に長男の時のことを思い出しながら「ここでぐっとこらえて支えたら絶対大丈夫」と呪文のように唱えてやり過ごしています。

 

大丈夫、とは言っても。

とは言っても、やはり他の子が1日6時間びっしり授業を受けているだろう時期に十分とは言えない学習量とゲームや動画やアニメ三昧の三男。

 

今、三男の学習は不定期に通っている適応指導教室での自習と、週1回の家庭教師(次男の学習支援の先生にお願いできました)のみです。

 

学校に行きたくなったときに何もわかんないと困るから最低これだけはしといたらどうかな、という打診のもと、それさえやるなら日中の過ごし方には口を出さない、という契約を締結して今に至っています。

 

家でゴロゴロしながら動画を見ている三男を眺める私の心中は、正直常に穏やかとは言えません。

「このままでいいんだろうか…」という不安に襲われることもしばしば。

 

不安と「絶対大丈夫」という呪文とを波のように繰り返す中で悶々と考えていたこと、それが「彼にとって学ぶモチベーション、なくない?」ということでした。

 

小学生にとっての学びのモチベーション

「なんで勉強しないといけないの」と子供に問われたら、みたいな話、よく出るじゃないですか。

(そう言えばそんなエントリを書いたこともあったなと思い出したら6年も前でした)

suminotiger.hatenadiary.jp

改めて読み返して、そうか、4年の頃の長男は夏休みの宿題の途中でこんなこと言ってたんだなぁと懐かしくなっております。

 

三男は「なんで勉強しなくちゃいけないの?」とはまだ言っていませんが、心の中で思ったことはあるんじゃないかな。

 

このエントリのブコメでもいろんな「勉強する理由」が論じられているけれど、じゃあ4年生の長男に、三男に、それを理解して邁進することができたかな、できるかな、っていうと、そんなの無理よなぁと思うんですよ。

 

例えば宿題に特化して考えると、小学校の、特に低学年〜中学年くらいの子たちにとってのモチベーションって

 

「終わらせたらアニメみれる(ゲームできる)」

「やらないとお母さん(お父さん)がうるさい」

「はなまるが5回続いたら1回おやすみ券がもらえる」

「きれいに書いて先生に褒められたらうれしい」

「宿題忘れ、のところに名前を貼られたくない」

「やり直しさせられるのがめんどくさい」

 

とか、そんなもんなんですよね。

 

「この宿題に取り組むことにより知識を得、自由を手にするために僕は学ぶ」なんていう崇高な考えを持ってやってる子もいるかもしれないけれど、多分とても少数だと思う。

 

とりあえずうちの子やうちの子の周りにいる多くの子たちが毎日宿題に取り組んでる理由ってこんなんだなぁと思うんですね。

 

大人しく座って授業を受けるのも多分似たようなもので

 

「先生の話が面白い」

「授業態度がいいとほめられたら嬉しい」

「授業態度よしのシールを貯めたい」

「うるさくして注意されるのがイヤ」

「あとで呼び出されるのがめんどくさい」

 

とかそんなもんだと思われ。

 

その程度の狭い視野と近い見通ししかない状態で学習してるような年齢の三男。

 

行きたくない学校とほめられたいと思ってない先生…

自宅ではやらないといけない仕組みの中にいない状態…

 

そりゃモチベーションも上がらんわなぁ、と。

 

家で私がモチベーションを保つためにどんどん働きかける、というのも手かもしれないけど、家庭はがっつり安全基地にしたい私にとってそれは避けたい選択肢。

 

というわけで家庭教師の先生とお勉強がんばったらアイス食べようとか、漢字覚えたらマック行こうとか、小さなご褒美でモチベーションをそれなりに保ちながら低空飛行を続けている感じです。

 

おわりに

今回改めて「勉強させないと」の不安を掘り下げながら、あぁこれは私の課題だなぁ、と痛感しています。

「三男のため」という皮を被った私の不安、私の問題。

 

思い出すのは長男の4年生の頃。

不登校の状態を受け入れきれず彼にはかなり辛い思いをさせてしまったなぁと思うのです。

 

長男と2人、わんこの散歩をしながらポツポツと三男のことを相談することがあります。

「自分の未熟さで君をかなり傷つけた」と謝る私に、フフンと鼻で笑う長男。

 

三男がいつか長男のように外に歩き出す、と私が信じていられるのは、並走してくれる家族がいるからかもしれないなぁと、ぼんやり考えたりしています。

わんこがくれた考えるテーマ②「子の思春期を並走する」

わんこがやって来てはや1ヶ月。

保護犬としてかなり警戒心の強い彼は1ヶ月経った今も物音にビクッとし、家族に対しても警戒している状態。

でもすこーしずつ周りに興味を持ったり、名前を呼ぶと顔を上げたり、小さな変化に家族で大喜びする毎日を送っております。

 

さて、前回はわんこの講習を通して考えた「良き親であるということ」について書きました。

suminotiger.hatenadiary.jp

 

今回は、わんことの暮らしを通して考えた、思春期の子どもたちとの暮らし方のこと。

 

「思春期の子がいるお家は、犬飼うといいらしね」

わんこを引き取って数日経ったくらいでしょうか。

お友達にそのことを話したらこんなことを言われました。

「思春期の子がいるお家は、犬を飼うといいらしいね」

 

そのときは何でか深くは話さないまま終わってしまったのですが、なんとなく印象に残っていました。

 

ブログを書くにあたってググって見たら「思春期は(中略)8歳頃から17、18歳頃までの時期に相当」と書かれていました。

なるほど、我が家のお子さんたち(9歳の三男から16歳の長男まで)は思春期真っ盛り。

 

なんとなく印象に残っていたわんこと思春期の関係、一緒に暮らす中でどういう意味なのかな〜と考える毎日が始まりました。

 

わんこと思春期の関係① お散歩

わんこがやって来てからの劇的な変化のひとつが、朝晩の散歩でした。

 

うちに来た柴犬、元々の性質もあるだろうし保護されるまでしつけもされていないようなのでトイレシートでのトイレができない状態です。

つまり、排泄は全て外。

 

本当なら老後のことを考えてトイレシートでするよう訓練した方が良いというのはわかっているのですが、まだ信頼関係もできていない状態だし、年齢(10歳いってるかも、と獣医さんに言われました)を考えても無理強いをするのは控えたい。

 

というわけでとりあえず当面は外でのトイレを前提に暮らそう、ということになりました。

 

柴犬の性格上、自分の住まいとみなしたところでは絶対に排泄をしません。

散歩で外に出るまで何時間でもじっとトイレを我慢しているので、朝晩の散歩は欠かせない日課となりました。

 

余談ですが、どんなお天気の時でも欠かせないので、先日の台風10号の時は暴風が少しおさまるタイミングを見計らって風雨に晒されながら散歩しました…

 

さて、そんな日課となったお散歩。

ちょうど夏休みの時期ということもあって、子どもたちもついて来たいと熱望し、ぞろぞろと家族総出のおでかけになることも多くありました。

 

前に飼っていた犬は体格が大きくてまだ小さかった下の子たちはリードを持ったこともなかったくらい。

今度のわんこは小型で力もそう強くないので、子どもたちも自分が自分がと交代でリードの取り合いです。

 

「散歩に行くよ〜」と私が声をかけたら、その時家にいて暇なのがぞろぞろついて来ます。

 

お兄たちはポケモンGOドラクエウォークのついででもあるみたい。

 

中高生になって一緒にお出かけ、というのもほとんどなくなっていたのに、わんこが来てくれたおかげでそれぞれの子達と私の二人きりで散歩、なんていう贅沢な時間を過ごせることも。

 

家ではなかなか二人で話す時間も取りづらくなっていく時期に、わんこを挟んで一緒に歩きながら学校のことや彼女のこと、将来のこと、ちょこちょこと会話したりして、なんか良い感じです。

 

わんこと思春期の関係② 一緒に面倒を見る仲間

わんこが来てからのもう一つの変化が、関係性の変化です。

これまでは親であるオットと私、そして子である子どもたち、という構成の我が家。

4人の子どもたちの間でそれぞれに、お兄ちゃんと弟とか、微妙な関係性はあったものの、子どもたちの中では自分たちは「お世話されるもの、育てられるもの、面倒を見られるもの」という感覚だったと思います。

 

それが、わんこが来てから「お世話するもの」の存在が登場した。

子どもたちにとっては大きな変化だったと思います。

 

これまで魚類や両生類爬虫類は飼って来たものの、お世話といってもそれほど丁寧にしているでもない子どもたちなのですが、相手が哺乳類となると「ほっといて死んじゃった」というわけにはいかない気持ちになるのかもしれません。

 

愛らしい外見と動きでお世話したい気持ちになる、というのもあるかも。

とにかく何かしてあげたい、自分に懐いてほしい、そんな気持ちになったらしい子どもたちは、それぞれのスタンスでわんこに接しようとします。

 

エサを用意して食べさせたり、散歩に行ったり、どんな風に接したら怖がらないか相談したり。

 

中高と進学してそれぞれ外で過ごす時間や自室にこもる時間が増えつつあった中で、わんこがやって来たことでわんこのいるダイニングに自然と集まる子どもたち。

 

これまでは面倒を見る親と見られる子ども、という関係性だった我が家。

それが、わんこを中心にして「お世話する仲間」になっているような気がしています。

 

予期せぬ副産物ですが、兄弟喧嘩も「わんこがびっくりするから」という理由でかなり減りました。

 

わんこのおかげで、なんとなくみんながちょっとずつ優しく、そしてちょっとずつ繋がりが深まった、そんな感じがしています。

 

おわりに

文頭の友人の言葉の本当の意味するところは結局よくはわからないけれど、我が家なりの結論として「思春期の子がいる我が家にわんこが来てくれてよかった」と思っています。

 

子どもたちにとって「お世話するもの」となってくれたわんこ。

でも私にとってはなんとなく「子の思春期を一緒に並走してくれる仲間」が増えたような気がしています。

 

我が家に来てくれたわんこと、これからまたどんな風に並走していけるのか、ワクワクするスズコ42歳の秋です。

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