スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

女性のひきこもりの話から考えた、キャパ超えのサインの話。

久しぶりに「書きたい期」がきているのかもしれません、珍しく今日もブログを書いています。

 

先日、実家の母から「ちょっと買い物に連れてって欲しい」と頼まれて一緒に出かけた車中での話です。

 

「女性のひきこもりが増えているらしいわね」

他愛ない雑談のなか、ふと助手席の母が言いました。

テレビで見たの、と。

あさイチで特集があっていたらしいことがTLに流れていたから、それのことかなぁと思いながら話を聞きました。

 

母はもう80がそこまで見えており、免許も返上。

引きこもることを防ぐためにも母にはなるべく外出をするよう促しています。

 

母自身も、自分の母親が老後文字通りひきこもりがちになり、認知症を発症してから最期を看取るまで経過をずっと見てきた人なので、私が促す気持ちもわかるのでしょう。

 

母には、常日頃から「外出のために手がいるときは遠慮せず声をかけてね」と話しています。

 

人と会う約束を作ること、その日その時間のために準備をしたり身なりを整えたりすること、人と会っておしゃべりをすること、ものの贈り合いをしたりすること。

 

祖母が全部手放してしまって部屋に閉じこもってしまったのを知る母にとっては、なるべく頑張って整えたいことのようですし、私もそれをできるだけ手伝うよ、と話しています。

 

女性の「ひきこもりやすさ」

母が

「女性は家のことをやっていればそれなりに日が経っていくから、なんとかなっているような気がしてしまうのよね」

と口にしました。

テレビの中で出てきたのでしょうか、彼女がそう考えたのでしょうか、それはわかりませんが、まさにそうだなぁと思いました。

 

私も、家事と育児(と仕事)に追われて毎日を過ごしていたらつい人と約束をしてまで出かけることは億劫になりがちです。

家には私がやるべきタスクがいくらでも存在する。

どんなに頑張ったと思っても、掃除したほうがいいところも、片付けたほうがいい場所も、取り替えたほうがいいものも、整理したほうがいいことも、まだまだ家の中には残ってる。

 

母が言うように、家の中にいてそれなりに色々と立ち回っていたら、自分が何者かであるような錯覚も得られるし、頑張って色々やっている感も出る。(もちろん、やっているから間違っているわけではないんだけど)

 

これは休養、ときちんと整理して休む時間を作ったり、また外に出たり、とコントロールできているのはきっと健全な証拠なんだろうな。

母がテレビで見たような、そして私が母がそうならないかと心配しているような「いざ出ようとしても出られなくなってしまう」ような状態になってしまうのはなるべく避けたいなぁと、そんな話をしたりしていました。

 

外出が億劫になる、と言うサイン

母と話していて、一つのサインに気づきました。

 

「人と約束をする」「外出の予定を入れる」というのが非常に億劫になる。

これは母にも若い頃からよくあったらしいし、私にも身に覚えがあります。

 

元々の性格に由来する部分もかなりあると思うのですが、私の場合はコンディションによってかなりその億劫さに差があるような気がします。

 

コンディションにより振れ幅がある。

昨日のブログで触れた、キャパオーバーとも関係のある話なのかもしれない、と思うのです。

 

キャパを超えて精神的に疲弊していたり、体調に不具合があったりと、自分の中での健全な状態ではないときに、この外に向ける行動に対する億劫さがグググっと上がっていきます。

 

母とも

「そういうものかもしれないから、あなたがもしこうやって買い物に出たり、人に会うのが面倒になってきたりしたら、精神的な負荷がかかっていたり、体調が悪くなっていたりするかもしれないからそういう時は早めに生活を見直したり、受診したりしようね」

と話をしたりしました。

 

おわりに

実家で母をおろして一人帰路につきながら、子どもたちが小さい頃に極端に人に会うのを避けていた自分がいたことを思い出しました。

 

あれは、私なりにキャパオーバーでしんどい自分を守っていたからかもしれないし、そのサインを見逃してしまっていた結果なのかもしれないなぁとも思います。

 

スマホをレンチンしてしまうほどのキャパ超えのタスクを抱え込んでしまったとしても、なかなかそれを自覚するのは難しかったりします。自覚できないから、大惨事をやらかすまで自分は大丈夫と過信してタスクを詰め込んでしまう(そしてやらかす)。

 

外出が億劫になる、というのも一つのサインかもしれないし、お風呂に入るのがめんどくさいとか、髪を洗うのが億劫だ、とか自分なりにいろんなサインがあるのかもしれません。

そうそう、私は自分だけのために食べ物を選ぼうとした時に何を食べていいかわからなくなってコンビニの店内を何周もぐるぐるしてしまうことがたまにあって、思えばあれもキャパ超えのサインのような気がします。

 

自分の「キャパ超えのサイン」みたいなの、探しておいたり、それを家族に伝えて気づいたら声をかけてもらったりするようなの、いいかもしれないなぁと思ったりした、そんなお話でした。

スマホをレンチンしました。

 

「なんでそんなことになるのか!」

とお思いの方も少なからずいらっしゃると思いますし、その後の経過も含めて、備忘録として記録を残しておこうと思います。

 

 

「ついうっかり」扉に置きました。

事件が起こったのは夕飯の調理中。

帰宅後に娘を塾に送るまでという短時間に「夕飯を作り娘に食べさせ、他の子の分も用意する」というミッションをこなすべくあたふたと作業をしているところでした。

 

コンロとその横に据えた電子レンジをフル稼働しながらの調理中、友人からLINEが入ったのでスマホを見て、開いていたレンジの扉(上から下に開くタイプです)にポン、とスマホを乗せたような気がします。

 

その後、バタバタと食事を出して、ワンコのカリカリをちんして柔らかくするという日常の動作をしようと扉を閉め、ONのボタンをピッと押したところで「スマホ!」と気づき、慌てて取り出しましたが時すでに遅し。

 

10秒足らずのことだったと思うのだけれど、スマホは起動しかけて途中で止まる、という動作を繰り返す状態になってしまいました。

 

PCから、保証の確認(とツイート)をしました。

娘を塾に送ってから、とりあえずPCを開き、保証内容や修理の手順などを確認。

 

私は某S社で契約をしているのでオンラインかショップでの修理依頼が選べました。

仕事上日中の連絡が取れないのは非常に困るので代替え機が最速で借りられるショップでの手続きをする必要があるなぁと思い、ネットから明日朝イチの来店予約を入れました。

余談ですが、オンラインだと修理でなく新品に定額で交換できるサポートもありまして、それを利用した方が多分代替えの手間なんかは要らないです。S社だと午後4時までなら最短翌日に届く地域もあるようです。今回はそれが即日届く地域ではなくスマホが手元にないロスを最小限にするために来店して代替え機を借りるほうを選びました。

 

ここでとりあえずできることは終了したので、まぁあとはツイートしますよね、ツイ廃らしく。

 

こんなバカバカしい失敗する人は世界中私くらいかもしれないと恥ずかしく思いながらも、まぁ呟かずにはおれませんよね、こんなこと。

 

優しいフォロワーのみなさんが慰めたり、爆発するようなひどい事態にならず誰も怪我をしなくてよかったとたくさんの言葉をくれました。

みんな本当にありがとう。あれがなかったら、もっと凹んで立ち直れなかったかもしれない。

 

ショップで修理に出してきました。

スマホのない夜を迎え(でもタブレットで動画見たりしました)、

スマホのない朝を経て(所在なくてワンコの抜け毛をむしって嫌な顔をされたりしました)、

開店時間を待ち構えてショップへ行きました。

 

来店予約の時点で修理依頼なのは伝えてあったので、店員さんが代替え機を用意してくれていて、お店にいたのは15分くらいかな。

SIMを入れ替えて、Googleと連携したら電話帳もスムーズに移行できたので、あとは書類にサインをしておしまい。

少なくとも1週間はかかるだろうとのこと。

安心サポートに加入しているので無料か、状況によってはサポートの上限までの負担金が発生するか、どちらかになるだろう、と説明を受け、チンされたスマホをお店に預けて帰ってきました。

 

代替え機の設定もスムーズにできました。

心配したアプリ等のデータですが、Google playから入れていたものはそのままダウンロードでき、データがクラウド上にあるものはそのまま復元できたものも多くあり安心しました。

 

一番心配だったのがLINEですが、電話番号と設定したパスワードで元どおり使えるようになりました。

ただ、メッセージの復元は以前機種交換をしたときに保存したところからしかできなかったので、直近のやりとりは復元できずじまいです。まぁあまり困りませんが。

LINEは機種交換の時以外にもメッセージデータのバックアップは取れるのかな、その辺はよくわからないのでもし詳しい方いたら教えてくださると助かります。

 

今回の復元のために利用したパスワード等は念のためメモに残しました。

修理してからっぽのスマホが帰ってきたら同じことをやらねばならないので…。

復元のためにはアプリごとのログインIDとパスワードが必要だったので、心配な方はスマホが元気なうちにそれらの確認やメモなどを保存しておくと安心だろうなぁと思いました。

 

追記:最初に書いたときは手動で復元をしていましたが、途中でGoogleさんから「復元してあげるよ?」って通知が来たのでお願いしたら自宅のWiFiのパスワードまでしっかり復元されていました、Googleすげえ…!

 

総括とキャパオーバーのこと。

なぜこんな事態が起こってしまったのか、という総括をしておこうと思います。

 

スマホをレンチンしてしまった!」とツイートした時にすぐに「キャパオーバーだね」と指摘してくれた友人がいました。

 

そうなんです。

未診断ですがADHDの自覚のある私にとって、いろんなやらかしが増えるのはキャパを超えている何よりの証拠。

 

指摘された通り、ここ数日家がちょっとバタバタとしていて私はキャパオーバーが続いている状態でした。

家族のことで尻拭いをしたり、考えても仕方ないけどきになる出来事が起こっていたり。

そんな状況の中で、自分により負荷のかかる「タイムリミットのある中で食事の用意をする」というタスクを課してしまった結果、スマホを1台亡き者にしてしまう大惨事を起こしてしまったわけです。(爆発してたらもっとひどいことになってましたね)

 

ADHDの人間にとって、日常生活の中で注意力を維持して暮らすのは決して楽なことではありません。

定型発達とされる方が息をするようにできる注意が、我々にとっては全速力ダッシュをしないと維持できないようなもの。それを、タスクを増やしすぎないように調整したり、お薬の力を借りたり、周りの人に助けてもらったりしながら維持し、なんとか暮らしています。

 

今回の私の失敗は、自分を過信して無理なタスクを課した結果、キャパオーバーを起こしてしまったことが原因です。

自分でも大丈夫だと思っていました。

家族や周りの人はもっとそう思っているでしょう。

 

でも、確実にここ数日、仕事でのミスも増え、家事でもお風呂のお湯を溢れさせてしまうようなやらかしがジワジワと出、出先でも駐車場の車の位置を間違えたり、買い物で買い忘れを頻発したりしていました。

 

キャパオーバーをすでに起こしていたのだろうと思います。

 

私に「キャパオーバーだね」と指摘をくれたのは、長く相互フォローの関係にある先輩母さんであるふみきち(@fumikichi2525)さんです。

ふみさんは本当にたくさんのことを私に教えてくれているのだけれど、その中でも一番大切にしているのが、この記事に書かれていることです。

fumikichi2525.hatenablog.com

個人的な意見ですが。 ADHDは キャパオーバーにしないこと ふてくされさせないこと これに気を付けていれば何とかなると思います #ADHD啓発

 

キャパを超えさえしなければ、私は「スマホをレンチンする」という失態を起こすようなことはしません。

水濡れしないように、落として壊さないように、気をつけて使うことができる。

でも、キャパオーバーを起こして注意力が維持できなくなってしまうと、予想のはるか上を超えるようなやらかしを起こしてしまうのです。

 

ADHDの診断のある次男も同じです。

いつも注意力が散漫なわけでも、やらかしを起こし放題なわけでは決してないのです。

 

キャパを超えないよう気をつけて、ふてくされないよう調整しさえしていれば、忘れ物をしないように自分で気をつけたり、スマホやメガネを壊したり無くしたりしないよう管理することもできています。

 

この、余裕のあるときはできるんだけど突然できなくなることがある(その変化は外からは見えない)というのが発達障害の、特にADHDの人の難しいところなんだろうなぁと思います。

 

改めて、ADHDにとってキャパを超えない程度の負荷に気をつけることの大切さを痛感しております。

 

おわりに

とりあえずスマホはなんとか修理に出せました。

今後どんな結果が返ってくるかわからないけれど、代替え機も借りられて使用に困ることはないと思われます。

今回の教訓として、とにかくキャパを超えないことの大切さをもっと意識して過ごさないといけないなぁと改めて感じています。

 

あと、余談ですがこれだけスムーズに修理に出せたの、ネットではあまり評判は良くないけど大手携帯会社の安心サポートに入ってたのは大きいかなぁとは思っています。

月の支払額は割高にはなるのであまり勧められていないけれど、お金の計算や各種細かな手続きが苦手なのとやらかしが発生しやすい私にとって、入って支払いさえしておけばいざという時の安心が手に入る、という意味では今回とてもありがたく感じているサービスではありました。

苦手なことにお金を払う、安心をお金で買う、という意味でも、やらかしが発生しやすい民にとっては各種のサポートや保険、リカバリーのための貯蓄などは日頃から検討しておくと良いのかもしれません。

 

 

 

 

 私のスマホをチンしてくれた機種とは違いますが…

こんな形の扉が上から下に開くタイプのもの、開いた扉についものを置く癖を改めねば、と思っております…

 

「夫は大人だから」と母を一蹴したはずなのにまだ呪いにかかっている私に気づいた恥ずかしい話。

今日はお休みなのですが、ブログを書こうと思ってPCを立ち上げております。

なぜそんなことをしているか、というとですね、昨日Twitter

「以前からブログを読んでいてなかなか更新されないなぁと心待ちにしていたのだけどTwitterをやっているのを知ってフォローしたらたくさんつぶやいていてうれしかった」

というリプライを頂いたのです。

 

私、なんでかわかんないけど自分のこのブログはTwitterありきという感覚がずっとあって。

確か元々はツイートを繋げる機能もなかったようないにしえに「脳内を垂れ流すようなことをいくつもツイートするくらいならまとめて書いた方が良かろう」と思って始めたんじゃなかったかと、まぁそんな発端だったからというのがあるからなんですが。

 

アフィリエイトを仕込んでいるといっても子供のお小遣いよりも少ないくらいの額だし、ツイッターで書いて済ませちゃってるなぁっていう感じもあって最近は本当に更新の頻度がガッタガタだったのですが、心待ちにしてくださっている方がいらっしゃるのだということを知って「スズコ、もうちょい頑張ります」な気持ちになっていたりする、そんな祝日の朝でございます。

 

さて、前置きはこのくらいにして。

 

今日は、昨日の夜私に起こったことを書いておこうかな〜と。

 

「夫くんのご飯はいいの?」

 

確か流れてきたツイートをRTしてのツイだったと思うのだけれど、RTが1000を超えていて、あぁみんな色々思うところあるツイートだよねえ、と思ったりしておりました。

 

私の母は70代で、保守的な父の家に嫁いできてすぐに父の祖母の介護をやらされたような人で、父は家事らしいことは何一つしない人です。

どっぷりその世界に浸っているので未だに父の食事から身の回りの世話は全部やっていますし、父もそれを当たり前と思っているような、そんな人たちです。

 

続くツイートでは父が自分でお弁当を買った話をしていて母の方がどっぷり浸かってる印象になってしまってますが、実際には父は台所に立つこともしませんし、その日はたまたま機嫌が良かっただけで、虫の居所が悪ければ母の用意した食事に手もつけずに帰るまで自室から出てこなかったりするような、そんな人ではあります。(だから母もやむを得ずそうしなければならなかった、という背景があったりもします)

 

そんな両親の元で育ったので私も結婚当初は夫の世話は私の仕事と思い込んでいた節があって、あの頃からちゃんと関係を整えとけば良かったな〜と後悔している部分もかなりあります。

夫、色々できるのに家事育児は私がやる前提になっちゃってる向きがかなりあるので。

 

それでも、やっぱり子供達を育てる中で私の負荷が増えすぎてキャパ超えてギャーーーってなるのを何度も何度も繰り返して、子の将来のためにもちゃんと意識改革をしていかねば、と数年かけて立て直しをしている、いまの我が家はそんな状況です。

 

「家でご飯食べるの?」というLINE

昨日、夫は午後から友人と遊ぶと言って出かけていました。

子供達も世話が必要な年頃ではないし別に彼が遊びに行くこと自体は何の問題もないのでどうぞどうぞ、ではあります。

困ったのは、夕方になっても帰ってもこないし音沙汰もなかったこと。

 

晩ごはんの準備をそろそろ始めようかと思っているのだけど、夫が食べるかどうかが気になります。

食べないなら夫の分を作らなくていいし、遅く帰って食べるつもりなら彼のぶんを残しておけるような献立にしておく方がいいし。

 

この時点で私、ちょっと怒ってました。

晩ごはんの用意のことを考えずに連絡もよこさない夫に。

 

イラっとしながら「家で晩ごはん食べる?」というLINEを一通、夫宛に送りましたがしばらく既読はつきません。

 

もう知らんわ、と思いながら、それでも「残しておけば帰ってから温め直して食べられるだろう」という献立を選んで、晩ごはんの用意をしました。

 

「連絡してくれないと困る!」…あれ?

ご飯を済ませ、残った分を保存容器に移して後片付けをしながら、私のイライラはさらに増していました。

「ご飯いるかいらんかわからんと困るって前から言ってるのに」

「帰ってきたら、ちゃんと連絡してってまた言わないと」

 

そう思いながら湯船につかったところで、フッと母のことを呟いたツイートのことが脳裏をよぎったんです。

 

あれ、それでいいのかな、って。

 

私はあのツイートの中で自分で、夫のことを

「成人なんだから自分でどうにかできる」

と評していたはずで。

 

だったら晩ごはん自分でどうにかしてもらったらよかったやん?

別に私がやってあげる前提で考えんでもよかったやん?

 

確かに連絡がつかずに食べるか食べないかわかんないのは困る。

でもいつまでも待たずに調理のタイムリミットがきたところで

「連絡つかないから食べない前提で用意するね」

と一言送って放棄してもいいやつだったんじゃないか、と思ったんですね。

 

掘り下げて考えてみえてきた、自分にかかっている呪い

高校生の息子が同じこと(連絡なしに晩ごはんの時間に帰ってこない)をやったらどうするかなぁ、って考えてみたんだけれど、やっぱり同じように「適当に食べてね」で終わるなぁ、と思ったりしました。

(そして多分彼は自分で適当に用意して食べるだろうし、過去にその経験もあるからかいるいらないはちゃんと連絡をくれる)

 

息子に対しては当たり前にそうするだろうことを、なぜ夫にはやろうとしてなかったんだろう。

 

母とのやりとりのツイートを思い出す。

これこそまさに、いまだに私にかかっている呪いみたいなもんなんじゃないか、と。

 

夫のご飯を私が用意する前提で考えてしまっていること、それを放棄してはいけないと思い込んでいること。

 

母と話しているときに「自分は脱した」という思い込みでつい話してしまうのだけれど、まだまだこうやって自分の中に根深く残っているものがあるんだなぁというのをまざまざと感じてしまい、ああああああと湯船に沈みたくなった、そんな夜でした。

 

おまけ

お風呂から上がって寝室に入る頃にふらっと帰ってきた夫。

「ご飯どうするかわかんなかったからLINE送ったよ」

と声をかけると「気づかなかった」とスマホを開いて慌てて確認してました。

 

ご飯あるの?と聞かれたから「残ったのは冷蔵庫にあるから食べたいならチンしなよ〜」と丸投げしてお布団にインしたのですが、どうやら自分で食べてたみたいです。

 

もし残ってなかったら「ないよ、適当に食べて」でいいんだろうし、それすらやりとりする必要もないのかもしれない。

 

自分でご飯を作ったり、あるものを温めて食べたり、カップ麺にお湯を入れたり、コンビニで買ってきたり、深夜営業のファミレスに行ったり。

 

その時点から夫に取れる選択肢はたくさんあって、どれも出来るし、どれを選んでも構わない。

 

いいオッサンになってる夫から、その選択肢を奪ってるのはむしろ私の方なのかもしれないんだよなぁ、と改めて考えたりした、そんなお話でした。

桃鉄雑感(主に子供関係)  2020.11.20

桃太郎電鉄 ~昭和 平成 令和も定番! ~

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  • 発売日: 2020/11/19
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 *我が家はダウンロード版(パッケージ版は物が増えて管理できないから)です。

 

制作段階からこの日を心待ちにしていた私、早速手に入れまして。(今回はオットが買ってくれた。)

 

早速。

 

 

最大4人までプレイできる仕様になっているので、子供たち3人(高1〜小4・娘は推しの配信かなんかで忙しくてパス)と私で、おやつをかけて桃鉄大会を開催いたしました。

 

私自身も初見だったので(過去作はプレイしてますが)子供たちとやるのにどんな風か読めなかったのでまずは3年で。

 

結果、予想外の盛り上がりを見せ「もう1戦!」ということで3年を2回プレイ、トータル3時間くらいかかったかなぁ…という感じ。その内容からの感想をまとめておこうと思います。

 

 

 

1 社会の学習に活かせるか

おそらく、お子さんに桃鉄を、と考える私たち世代の大半、これを意識してますよね、という部分。

桃鉄で県名や名産を覚えた」という方も少なからずいる我々世代にとって、桃鉄が出ると聞いてまず思い浮かべたのはここだと思います。

 

結論から言うと、小学生向けには十分な仕上がり、だとは思います。

 

電車は東京からスタートし、ランダムに目的地が決まります。

目的地となる駅名は実際の地名と同じだと思われます。

駅名や線路の位置はJRなどの路線とイコールではなさそうですが、この辺は我が家に鉄成分のある子がいないので私には知識が足らないところではあります。

 

マップ上の線路の周りにはその土地の名産品と思われる野菜や果物、スカイツリーなど実際に存在するものと思われる建造物、うどんなどの名産品のアイコンが並んでいます。

(このアイコンはゲームには直接関係がないのですが、この辺ではこれが有名なのか、と言うのがわかる程度のふわっとした知識には繋がるかな、という感じです)

 

各駅で購入できる物件は実在の店舗や工場をモデルにしているもののようです。

この辺は学習にはあまり関係がないかなぁとは思いますが、あの企業だよね!とはっきりわかるような名前があって面白かったり、どこのことだろうと家族の中で話題になったり、という面白さはある感じです。

 

ゲーム内でランダムに出る三択クイズ(四択もあったかも)では「〜川は何県にある?」と問われて間違えると貧乏神にお金を持って行かれてしまったりすることもあるので、子供達かなり真剣に考えてました。

 

あと、3時間程度のプレイではあまり出てきませんでしたが、HPを見ていると各地の偉人やナマハゲなどの地域のお祭りも出てくるようなのでその辺りの知識を身につけるのにも役には立ちそうです。

 

 

一番大きいのは、地名と場所がリンクすることですね。

自分がいるところから、目的地が「宇都宮」と言われたときにどっちに進む?と考えたり、誰が一番近い?と話したり、頭の中に日本地図を描いて会話をしていくので都道府県の位置を叩き込むには良いツールになるかなという感じです。

 

もちろんマップは随時表示できるし、目的地への最短ルートは矢印で示される仕様になっているので、日本地図がわからなくてもプレイに影響はありません。

ゲームを楽しみながら無理せず頭に入れていきやすいかな〜という感じかな。

 

学習用に特化したものではないので、47都道府県の県名や県庁所在地、小学校向けの社会の内容に準拠しているかどうか、などの専門性を求めるのは無理があるという前提がある上で、それでも日本の地理が苦手な子には学習には十分活きるだろうな、と感じました。

 

2 癇癪を起こしやすい子にはどうか

家族でやろう、というときに私がひとつ懸念したのが、癇癪を起こしやすい次男と、勝ちにこだわりがちな三男がどう反応するかな、というところでした。

 

サイコロを振って出た目の数だけ進むスゴロク形式のゲームで、貧乏神が誰か1人に取り憑いたりするのもランダムなので運要素がかなり強くなっています。

そのため、誰か一人がものすごく儲かったり、逆に誰か一人がものすごく借金を積み上げてしまったりする場面も出ます。

どうかな〜持ち崩すかな〜と思いながらプレイしていましたが、予想を裏切る感じで我が家では次男がパニクることも三男が勝ちにこだわることもなく楽しくプレーして終わることができました。

 

要因のひとつは、大逆転や大どんでん返しの要素があること。

不運が続いて絶対に最下位だ…と落ち込むような状況にあっても、たまたま止まったマスで起きたイベントで借金を帳消しにしてくれたり、突然6億くらいもらえたり、逆に一人勝ちと思われていたプレーヤーが突然持っていた大金が一気にゼロになったり、たくさん持っていた物件がなくなってしまったりと、ここからでも巻き返せるかもしれない、という可能性が最後までついてくるのでモチベーションがだだ下がりになるのを防げたようです。

 

カードで起こすイベントで指定したプレーヤーからお金を巻き上げたり、持っている物件を取られたりすることもあるので、お子さんによってはそういう仕組みをあらかじめ話しておく方がやりやすいかもしれないなぁとは思いました。

 

カードのイベントでは個人を指定せず「おまかせ」で他のプレーヤーからランダムに選んでもらう方法もあるので、個人間でもめそうだと思ったらあらかじめ「おまかせだけ選ぶ」というマイナールールを作っておくのもありかもです。

 

3 鉄成分のあるお子さんにはどうか

特定のカードを使うとスゴロクの駒(SLっぽい形)が各種新幹線やリニアモーターカーに変化したりしておりました。

我が家には鉄成分のある子がいないのでサラーっと流されておりましたが…

 

他の部分に関しては、チラチラと鉄道雑学みたいなのが出る場面があるくらいなので鉄成分を大きく期待するとちょっとガッカリするかもです。

 

4 おわりに

昨日2戦した三男さん、今朝も早起きして1人でやってました。

またみんなでやりたいんだって。

この反応が得られただけでも買った価値はあったかな〜という感じではあります。

 

お勉強と意気込まずに日本地図を覚えられたらラッキー、くらいの感じです。

 

やってみた感じとしては、あつ森とかこないだから人気のサクナヒメとかみたいな、Twitterでバーって盛り上がってみんなそれぞれにやって、みたいな感じとはちょっと違う感じ。

 

人生ゲームを家に置いとくような、家族集まったり友達が来たりしたときに一緒にやろ〜って盛り上がってワーワー言いながらやる息長い付き合いのゲームになりそうな、そんな感じがしています。

 

 

www.konami.com

 

 

 

 

 

主張の裏にある見えない感情を取り扱うことと選択的夫婦別姓の話。

子供が何かを猛烈に欲しがって 「〜〜くんも持ってるもん!」「だって」「だって」 って必死にアピールすることがある。

 

ぽいっと買ってやれるような値段ではないものを欲しがったときにどうするかは家庭によって様々だろうとは思うのだけれど、原則として大きな贈り物は誕生日とクリスマスプレゼントのみと決めている我が家では、高額のものを欲しがられてもおいそれとは買ってあげるわけにはいかない。

 

(厳密には家庭内バイトでお小遣いを稼ぐとか、お年玉をもらったときに貯金に回す前に何か買ってもいいとか、こないだの臨時給付金など突発的な臨時収入が出たときにそれぞれに現金を支給したりという場面もあったりはするのですが、親が買ってあげる行為はその2回に限っている感じですね)

 

お小遣いで買えない額のものをなんでもない日には買わない約束だよ

クリスマスまで待てばいいでしょう

誰が持ってるからってあなたが持つ理由にはならないでしょう

(今持ってる)あれを使えばいいじゃない

 

等々、親が思いつくようなそれなりに理のある説得材料をいくら並べても本人が納得して諦めることにはそうそうならない。

 

なぜなら、彼らが並べ立てるいろんな「欲しい理由」は後付けでしかないから。

「とにかく欲しい」という感情がまずあるから。

 

理論じゃない。

ものすごく欲しいという感情に取り憑かれている状態だから理論など入らない

 

ここで「とにかく買えないものは買えません!」と親の権力をふるってねじ伏せてしまいたくなるところなのだけれど、親にそうされて悲しかった小さな私が顔を出す。

 

関係を壊さないように、

悲しい記憶にならないように、

でも「買ってあげる」で終わらないために…

 

たくさん出てくる言葉はその、言葉にならないできない感情を武装するための上塗りされた精一杯の言葉にしかすぎない。

彼らから出てくるその主張の一つずつは、言葉を使う技術でより長けている私なら簡単に論破できてしまうものばかりなのだけれど、そうやって撃ってくる弾を全部叩き潰してしまったとしても彼らの根っこにある「どうしても欲しい」という感情はなくならないし、なんならより強まっていたりもする。

 

そこにあるその感情をないものにしてしまったら対話は成立しなくなる。

もし誰かに私の中に確かにあるそれを「そんなもの」と軽んじられたり、無きものにされてしまったりされてしまったらそれ以上のやりとりはしたくなくなるだろう、少なくとも子供の頃の私はそうだったから、できれば子供にはしたくない。

 

となると、

「とにかく欲しくてたまらない」という感情そのものを否定しない

というところからスタートするしかない。

 

うん、欲しいんだね、それはわかった。

 

というステップを経ての、でもその感情のままに突っ走るわけにはいかないよね、どうする?どこに落としどころを見出す?という話をしていくことになる。

 

本当に今すぐでないといけないのか、待つとしたらどこまで待てるのか、金額を下げてお小遣いから買えるところで飲む方向はないか、等々、いろんな可能性を一緒に模索しながら妥当な線を探していく作業をして、感情を大事にしつつ感情に飲まれない自分なりの結論を導く訓練をする感じ。

 

前置きは長くなったけれど、なんでこんなことを考えたかというと、昨日の報道の後にTLにたくさん流れてくる「選択的夫婦別姓」の議論をいくつも眺めていたから。

 

私は選択的夫婦別姓には今のところ反対の意志はありません。

現状、同姓にせざるを得ないことでの不利益を私自身も感じていたし、もっと感じている人たちがいることも知ってる。子どもたちが成人する頃には選択が可能で不利益が生じにくくなっているといいなぁという希望がある。

 

ツイッターでも度々言葉にしているけれど、反対意見らしいものの多くは、賛成派からしたら簡単に理論でやっつけられるようなことばかり。

 

何を今更そんなことを、と呆れるようなものもたくさん。

議員や文化人など頭が悪いわけではないだろう人たちが、いろんな言葉を使ってなんとか反対を主張しようとしているさまに、いつまでこんなことを言っているんだろうって情けなくなるほどに。

 

そんな主張の数々を見ながら、あぁここにも「どうにも整理しきれない感情」があるんだろうなぁ、と我が子の駄々をこねる姿を思い浮かべたりしたのです。

 

「夫婦で苗字が違っていたら混乱する」

「夫婦家族の絆が保たれない」

「兄弟で違う姓を名乗っていたら学校でいじめにあう」

 

反対派の出してくる言葉の多くは、いやいやこうですよ、そんなことないですよ、って筋道立ててお話ができることばかり。

でもそれを重ねても重ねても、やっぱり同じ主張は続く。

それは、その塗り重ねられた言葉の奥に「どうにもこうにも嫌」という、言葉にして認識するのが難しい強い感情がそこにあるからだと思うのです。

 

感情的にものを言うことはあまり褒められないことは多いように思うし、ASDみのある私にとっては理論がしっかりしていない主張は受け入れがたいものも多い。

 

でも、体感として「世の中の大半は感情で回っているのだ」というのは育児の中でもママさんの輪の中でも、あちこちでこれまで何度も痛感してきているし、今回の選択的夫婦別姓の議論でも感じていること。

 

どんなにエビデンスがしっかりあっても、どんなに筋が通っている話であっても、感情の暴走を前にぶっちぎられて泣きを見ることもザラにある。

 

選択的夫婦別姓の議論をする中でも、感情をベースにしているであろう発信に対して理論で殴り返しても多分うまくはいかないだろう。

と思いつつ、それが分かった上で寄り添ってあげられるのは我が子に対する親の情ありきでもあるわけで、そんなことに付き合ってられないよね、というのも本音ではあるなぁと思ったり。

 

まぁそんなまとまりのない雑感いろいろでした。

発達支援教室「るりえふ」の代表郡司氏と床下じぃじ氏ほか支援職のやりとりの記録と私の見解についての記録

このブログエントリは、発達障害スペシャリストと称される、発達支援教室「るりえふ」の代表 郡司真子氏の発言とその後の経過について、私が見てきたことの記録と「女性保護者」として感じたことを現段階で取りまとめたツイートに加筆修正し、保存用としてここに残すものです。

 

問題の発端はこの記事からです。

gendai.ismedia.jp

この記事の5ページ目で筆者から「発達障害スペシャリスト」として紹介されているジャーナリストであり発達障害支援教室を主宰されている郡司氏の発言が記されています。

画像として引用します。

f:id:suminotiger:20201101102318p:plain

この部分に関し、支援職の立場にある床下じぃじ氏 @yosicco より境界知能の定義に誤りがあることなどについて指摘がありました。私も記事を拝見して「知的障害スペクトラム」という初めて見る単語と境界知能として記されているIQの数値におかしさを感じましたが、突っ込んだ言及は避けていたような記憶があります。

(何かしら呟いたかもしれませんが記憶があやふやです、すいません)

 

私はいち保護者であり、発達障害や医療の専門家ではありませんので厳密な定義などについては専門家の先生方にお任せすべきだろうと思ったことも突っ込んだ言及を避けた理由の一つではあります。

(そのほかの個人的な感情については今は触れずにおきます)

 

指摘を受けた郡司氏は記事中の発言についての訂正をするでなく、また自身の発言の論拠を示すでもない態度をとりました。


そしてその後ツイートを重ねる中で
「記事中で示したIQの値は東京都やその近郊で就学時の在籍級を決める際に行政が線引きとして利用している数値である」

と展開されました。

 

記事で書かれているのは郡司氏らが提唱している概念数値ではなく、実際に行政の側が子供達の就学の判断をする際に利用している数値である、というお話。

さらに別の方から医師などの専門職が講演の場で話しているのを聞いたことがあるというお話も出されました。

 

この件についてどの講演で誰が発言したことなのか、と言う質問については「答えない」というお返事で、詳細はわからないままです。

 

話を戻しますが、当初の発端になっており、床下じぃじ氏他数名の専門職のアカウントから記事内容の確認や訂正を求められている部分には、画像からわかるようにその後郡司氏が出された「東京都やその近郊で実際に起こっている問題」ということは触れられていません。

 

また、指摘を受けているのは「知的障害スペクトラム。いわゆる境界知能です。IQが85から100くらいまでの間」という部分であり、それ以外の部分についてや、またその後の郡司氏が問題視されている東京都や横浜市で起こっているという就学時の行政側の対応についての問題に指摘を受けたものではありませんでした。

 

その後郡司氏が提示した横浜市の就学時の問題の証拠であるというPDF資料についても、IQのことが記されているのは28Pの知的障害の線引きの部分のみで、郡司氏が提唱する「IQが85から100くらいまでの間」の知的障害に該当しない発達障害児が不当な選別を受けていることが示されているものではありませんでした。

 

郡司氏はその数値による線引きが行われているというのはご自身が実際に取材した中で得た情報だとされておられましたし、そのような事実が実際にあるのであればプロのジャーナリストとして問題をつまびらかにし、改善のためにご尽力していただきたい。

しかしその問題と、今回床下じぃじ氏を含む複数の専門職のアカウントから指摘されている「IQが85から100くらいまでの間」「知的障害スペクトラム」という当初の記事の中で触れられている部分やその後郡司氏が展開されている「横浜市で実際に起こっているIQによる選別」というお話に関して、このまま放置しておくことは多くの保護者や当事者の混乱を呼びかねない、と思うまでに至りました。

 

※ここまでの郡司氏や支援者の方たちのやりとりについてはツイートまとめなどで詳細にまとめることも可能かと思いましたが、私のキャパでは無理なのであくまでも私の言葉で書くに留めます。

 

私は郡司さんと同じ発達障害のある子を持つ母親として、通常級の教室の中で教員の不適切な指導で苦しむ子供達を何人も見てきているし、就学判定の時に希望とは違う道を示されているケースも知っているし、そこで様々な葛藤を抱えながら子供のより良い環境を得るために尽力するたくさんの親御さんを知っています。一緒に歩いています。


その方達や、これからそこに至るであろうたくさんの、発達障害のある子とその保護者にとって、エビデンスのない情報、丁寧に整理されていない中途半端な情報を出すことはただでさえ苦しむ当事者親子をさらなる混乱に巻き込むことにもなりかねません。

 

郡司さんの発言により、東京都や近郊都市の未就学のお子さんを持つ保護者のみなさんが、IQによる選別を受けるかもしれないと混乱し、その不確かな情報をもとに教委や学校と交渉することで関係性が悪化したり、受けたほうが良い発達検査を拒否したりすることが起こらないかと心配です。

 

発達検査は本来はその子の今を知るための大事な検査であり、まともな支援者はIQの数値だけを見ることなどしません。

私も我が子の関わる教員や支援者の皆さんに発達検査の結果を資料として提示することはありますが、各数値の差やそれぞれの数値について話題に出たことはありますが、IQの値で何かを決められたことはありません。

どの判断も発達検査の結果はあくまでも目安のひとつでしかなく、本人の現状の課題を元にして話し合ってきました。これは「東京都とその近郊」ではない小さな地方都市の、1ケースでしかありませんが。

 

私は、ペアレントメンターや親の会に関わったりする活動などの中で様々な保護者の方を見てきましたし、学校や教委と交渉する過程を見守ってきたこともあります。
その中で、うまくいくこともうまくいかないこともある。私自身も交渉がうまくいくこともうまくいかないこともあります。

 

交渉をうまくやり、またそれを継続して子供の心を折らないように育てていくためには、様々な情報をかき集め、整理して、対応していく必要があります。


郡司さんも母親としてそこに尽力されてきたであろうことは、お察しします。

 

ただ、同じ保護者としての立場にある私からは、いまのあなたがその保護者としての立ち位置と、ジャーナリストを名乗るプロとしての立ち位置とがうまく整理しきれていないように見えます。

 

あなたの発信する断片的な情報は、保護者としての我々を混乱させてしまうものです。そして、正確な知識を持ち合わせないまま子供達と接する教員をも混乱させ、結果的にその不利益を子供達に生じさせることになってしまいます。

 

我が子を守りたいように、たくさんの発達障害のある当事者児童生徒を守っていきたいお気持ちがあるなら、どうか発信される情報を丁寧に整理なさってください。

これからの親子に不利益が出ないような、プロとしてのお仕事をなさってください。

 

最後に。


これは「女性保護者」としての立場から書きます。

 

床下じぃじさんなど複数の専門職からの指摘は、あなたが女性だから、母親だから、寄せられているものではないように私には見えます。

明らかな事実誤認であり、そこを指摘されているに過ぎません。

 

また、それぞれの専門職の方が「男性だから」発しているものでもないように見えます。事実、あなたと同じ「女性保護者」である私にも、記事が出された当初から当該部分について彼らと同じ疑問を抱きました。

 

女性だから、母親だから、非難されている、という話に転じさせていくことは問題の主題から目をそらさせようとしていると受け取られても仕方のない行為です。

あなたにその意図がないなら、いますぐ取り下げられた方がいい。

 

ネット上で「都合が悪くなったら女性という立場を利用して逃げる」というレッテルを貼られかねず、そのことは私たち正々堂々と保護者として行政や教職員と対峙して我が子を守っていこうとする保護者全体にとっての不利益です。

「女性保護者だから」とまとめないでください。

 

私の言葉があなたに届くかどうかはわかりませんが、それはあなたの側の問題なので私にはどうしようもありません。ここに言葉をおいて、それで終わりにします。

長くなりましたが、これまで見てきたことの整理と私の見解は以上です。

 

ツイートではここで終わりましたが、もうひとつ最後に付け加えます。

もし郡司さんの一連のツイートやそれに付随する情報を見てお子さんの就学について不安を感じたり、どうしていいかわからなくなったりした保護者の方がいらっしゃったら、どうぞTwitterでいつでも声をかけてください。

私は地方在住なので東京都やその近郊のことを直接知る事はできませんが、Twitter上には当該地域の保護者やそこに関わる支援職の方はたくさんおられます。

一緒にお子さんの就学についてのベターを探るのを手伝ってくれる力になってくれる方は必ずいらっしゃると思うので、不安に駆られてしまったら、どうぞいつでもお声をかけてください。

それが、今回のことに関して「いち保護者」として私ができる唯一のことなのではないか、と今は考えています。

毎日続いた次男のお迎え要請の話。

相変わらず適当な更新頻度で書いています。ご無沙汰しております。

 

今日はきしもとたかひろさんのこのコラムを読んでの感想文です。

grapee.jp

全編を通して、読みながら我が子や学校の子どもたちや読み聞かせで出会う子達や、たくさんの子どもたちの顔が浮かんできて、そして読み終えたときはじわっとこぼれそうになる涙をこらえている自分がいました。

 

あいも変わらずやさしいきしもとさんの視点。

このコラムのイラストそのまんま、腰を下ろして子どもと同じ目線でいようとするからこそ見えているものなんだろうなぁと、書かれているものを読むたびに考えさせられる自分に出会います。

 

このコラムを読んでから、この夏の次男の送迎のことをつらつらと思い出したので久しぶりにブログに書いてみようかと思った次第です。

 

歩いて帰れない、次男さん

我が家の中学生は徒歩通学で、部活のない次男は基本的には下校時間とともに学校を出ることになっています。

 

コロナ休業が明けて登校が再開し、梅雨に入ろうかという頃から午後2時〜4時の間に私の携帯電話が鳴る日が続きました。

 

電話の主はきまって中3の次男の担任。内容もいつも同じ。

「次男くんがしんどいといって休んでいます。熱はありません。お迎えにきて欲しいといっていますので、来られますか」

 

私の返事もいつも同じ。

「はい、すぐ行きます」

 

保健室にいる日もあるし、私の車が入ったのを見て保健の先生や担任と一緒に出てくることもあるけれど、基本的には一人で歩けないほどフラフラしながら先生にカバンを持ってもらう次男。

 

車に乗せて連れ帰って、水分を取らせて少し休ませること30分ほどでいつもの元気を取り戻すのも毎日同じ。

 

コロナのこともあるんだろうな、担任の先生は毎日「その後どうですか?」と丁寧にお電話をくださる。

私の返事は毎日同じ、「はい、休んだら良くなりました。」

 

 

連日の、先の見えないお迎え要請

熱中症かなぁとも思いましたが、熱も出ないし休めばすぐ良くなる。

原因もよくわからないまま、電話は毎日続きます。

 

1週間を過ぎた頃から、一体これはいつまで続くんだろう、という気持ちが私の中に芽生えるようになってきました。

時間の自由がある程度きく仕事をしているとはいえ、毎日2時間くらいの時間を「どこで電話がかかるかわからず即時対応せねばならない」という案件のために備えねばならない。

打ち合わせもなるべくその時間にかからないように調整したり、という手間も出てきます。

 

歩いて帰れないとはいえ帰って休めばピンピンして「おやつない?」とか言ってくる次男にモヤモヤし、なんともいえない言葉にできないストレスがじわじわと積み重なって優しく対応できなくなり、またそんな自分に嫌気がさしてストレスの元になる。

 

よくないループに落ち始めているのを感じていました。

 

数日に1回くらい、電話のかからない日もありました。

なぜかはいまだによくわかりません。

そしてそこで期待して、また翌日電話がなってがっかりして迎えにいく。

 

たかだか迎えにいくだけのこの時間を負担に思う自分がダメなんじゃないかとか、いやこのくらいの距離を歩いて帰らないのは次男の甘えじゃないのかとか、悶々としつつも連絡があれば迎えにいく以外の選択肢がない日々が続きました。

 

「次男くん、座ってるだけでもものすごく頑張ってるからね」

お迎え要請が続くなか、かかりつけの児童精神科の診察日がやってきました。

いろんな相談をする中で、彼の毎日のお迎え要請のことも先生に伝えました。

 

フラフラする、頭痛がする、などの彼が訴える症状から熱中症とかなのかなぁと私が話すと、先生は「頑張りすぎじゃないかな」と。

 

他の子が当たり前にこなしているからあまり注視されにくいけれど、発達障害のある彼にとって「遅刻しないように学校に行って、1時間目から授業を聞き漏らさないようにじっと座って聴く」という行為はものすごく体に負担のかかる行為だと思う、と。

 

次男は授業をかなり集中して聴いているだろう、と学習支援の先生からも言われていました。宿題に割く時間が少なく自宅学習もほとんど出来ないのにある程度内容を理解できているらしく、授業で聞いたことをしっかり覚えられているからだろう、とのこと。

 

主治医にその話をすると、聴覚認知が弱く、外部からの刺激で気をそらしやすい彼にとって先生の話を聞き漏らさないようにすることには相当のエネルギーがいるんじゃないか、とのことでした。

 

「次男くん、そんな状況で休まず毎日通ってるのはすごいことよ」

「ものすごく体に負荷がかかっているということを意識して家では休ませてあげて」

 

と先生から指導を受け、連日の体調不良の訴えに何か別の病気があるのではと心配してくださっていた学校の先生方にもその旨をお伝えしました。

 

いつまで続くのかなぁと思っていたら

毎日毎日なっていた私の携帯電話。

夏休みの明けた頃からだんだんなる頻度は下がっていき、真夏の日差しが落ち着く頃にはなることはほとんどなくなりました。

 

いまだに、その原因はよくわかりません。

気温が下がってきたからなのか、コロナ明けでハイスピードの授業が落ち着きを見せてカリキュラムに余裕が出てきたからなのか、暑さが和らいで帰り道に彼がよく立ち話をする近所のじいさんばあさんがよく外に出るようになったからか…

 

いつの間にか次男は一人歩いて帰る日が増えていき、私も毎日の電話を待つ暮らしは気づけば終わっていました。

 

きしもとさんのコラムを読んで

連日のお迎え要請で私はすごく疲弊してしまったし、結局なんでお迎えが必要だったのかもよくわからないまま。

 

きしもとさんのコラムの中で

その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。

忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。

って書かれてるのを読んで、あぁ、本当にそうだなぁ、って車の中でシオシオになってた次男の姿を思い出す。

 

けして優しさ溢れるお母さんではない私は多分、仕事を中断したり暑い中車を出したりしてイラッとしてたと思う。

 

車の中から見上げた校舎の中には彼と同じ年の子どもたちがぎゅうぎゅうに詰まっていて、みんな彼よりもっともっと頑張っているように見えてしまう。

なんで君は我慢できないの?なんで君はもっと耐えられないの?と心の何処かで思っていたような気がするし、きっとそれは次男に見える形で私から漏れ出ていたと思う。

 

お医者さんからの言葉もズシンと自分に重く響いて、彼の抱えているものを見落としていた自分が情けなくもなった。

連日のお迎えの中で、だんだんと迎えに行くことが当たり前になっていった。

少し休めばケロッとするのもわかっているし、彼なりに頑張っていることも見えてくる。

 

今だけのことだし、別に中学を卒業するまで毎日迎えに行くことも大したことじゃないような気もしてきた。(幼稚園なんか毎日そうだったわけだし)

 

お迎えに来てといったら迎えに行く、それだけじゃないか、と思うようになって来た。

 

心のどこかで、毎日迎えに行くことが次男にとって当たり前になりやしないか、と怯えている自分がいたのも見えてきた。本当にそうなっちゃったらどうしようかねえ、って思っていたら、電話はだんだん鳴らなくなっていって、私のその不安は杞憂に終わってしまった。

 

お迎えに来てもらってもいいじゃないか

連日迎えに行く私に、甘やかしだという身内がいた。

そんなんじゃ大人になって…とくどくどという言葉をハイハイとあしらいながら、ぼんやりと考えた。

大人の私が、毎日どこかに通って頑張っていて、で、歩いて帰るのがしんどい時に「お願い迎えに来て」って誰かに言えるとしたら、それは甘えじゃなくて、幸せなことじゃないかなぁって。

 

そしてふと思い出す、くどくど言ってるその張本人はコンビニに行くのに車を出しているじゃない、飲んだら迎えに来てって家族に言ってるじゃない、ふふふ、自分だって甘えているじゃない。

 

なんで大人になったら甘えてもいいのに、子どもはダメな気持ちになるんだろう。

次男みたいに「お迎えに来て」って言えて、「来てくれてありがとう」って言って、本当にしんどいときだけ甘えられたら、それ「甘やかし」じゃないねえ。

 

子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。

けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。

苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。

けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。

 

連日のお迎え要請に私は辟易としてしまっていたけれど、あの時間は彼にとって「SOSを出せば大人が助けてくれる」を感じる機会になったのかもしれないなぁ、と思ったりもするのです。

 

おわりに

次男のお迎え要請はもうほとんどなくなったんだけど、仕事をしながらたまに4時くらいに「あ、今日も鳴らなかったね」って思うことがある。

 

今も2時を過ぎたけど鳴ってなくて、多分、今日も鳴らない。

 

でも、もし鳴ってもいいなぁって今は思う。

彼がSOSを出せるのはとても大事なことだし、それだけ頑張っているんだとわかっているし、帰り道に二人でちょっと話す時間も貴重なものだったりもする。

 

SOSを出すのが苦手だった次男と、SOSを受け取るのが苦手なお母さんだった私が、ちょっとだけ成長したような気がする、2020年の夏の思い出です。

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