スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

産後「夫にこうしてほしい」と思うときそれが「私になって」ではないかはよく検討した方がいいという話

先日、ずっと気になっていた「大同電鍋」をついに購入いたしまして、さてその紹介記事でも書こうかしら、と思っていたところで何気無く呟いたツイートに「ブログに書いて」とリクエストをいただきましたので、今日はそのことについて書こうと思います。

 

「泣いたら抱っこする母親と諸々確認して放置の父親」の話とTwitterの反応

数日前にTwitterでバズってたツイートなんですけれども、私はこんな感想を書いてました。

 

このツイート主さんの過去のツイートが色々アレだったこともあるらしく、また内容に関しても賛否を読んでいろんな方が言及されてました。

 

「泣いたら抱っこ」というのを肯定する声もたくさんあり、その中でふと目に留まったのが、赤ん坊が泣いたら自分と同じように抱っこして欲しいんだ、という母親目線の主張でした。

 

気持ちはわかる、けれど思うこと

長男が生まれてすぐに泊りに行った夫の実家でのこと。

やっと寝た長男を夫に任せてお風呂に入っていたら聞こえてきた泣き声。

夫も義父母もいるから誰かが…と思っていたのにしばらく泣き止まず、我慢しきれず風呂から飛び出し、髪を拭く間も無く長男のいる客間にダッシュして抱っこ。こいつらに二度と任せるか!とムキーーーーー!っとなったあの日を思い出したりもしました。

 

そんな自分の経験があるからこそ、思うことがあるのです。

それが、今日の最初のツイートでした。

 

産後の「ガルガル期」に陥りがちな「私になって」という願望

自分で書いていてとても胃がキリキリするような話なのですが、産後のメンタルが不安定になりやすい時期、夫に対して「こうしてほしい!」と強く思うことが色々とあった記憶があります。

 

泣いている赤ん坊を抱っこせねばならない!という自分の中に湧いてくる感覚のように、母親(ここで母と限定していいのかどうかはわかりません)の「直感としてそうしたほうがいいと感じること」「本能的にそうしたくなること」という感覚に支配される感じがあったような気がするんですね。

 

これは産後だけでなく、妊娠中に突然人に触られるのが嫌になったり、身の回りの片付けをしたくなったり(妊娠中に読んだ本に「巣ごもり期」と書かれていた記憶があります)というような、エビデンスに基づいた知見ではなく、本能という言葉がふさわしい野生的な感覚が湧き出てくるような、そんな経験がありました。

 

その、湧いてきた本能的な欲求に突き動かされるような側面がありつつの産前産後の自分にとって、目の前の夫が同じ感覚で動いていないように見えることが時に大きなストレスになっていたような気がしています。(そういうエントリもかなり書いてきましたねえ)

 

当時を振り返って、あの頃の私が夫に求めていた、求めようとしていたことは「エビデンスに基づいた正しい育児をしてほしい」という冷静で論理的な要求というよりは、「私と同じやり方をして安心させてほしい」「私のやり方が良いのだからそれに従ってほしい」という、「私になって」だったような気がするのです。

 

そして、夫にそれを突きつけることで夫婦間のすれ違いが起こりやすかったことは、このブログでも何度も書いてきたことだと思います。

 

ガルガルな私と、一歩引いて冷静な夫

当時の私を夫は「育児ノイローゼってこんな感じなのかなと思ってた」と振り返ります。

私は私で精一杯頑張ってきたと思うけれど、ときに子供に寄り添いすぎたり心配しすぎて判断を誤りかけることも。

そんなときにガルガルした私を冷静な言葉で落ち着かせてくれて、本当に子供のためになるのはどんな判断かを一緒に考えてきてくれたのが父親である夫でした。

 

子供たちが全員思春期に入った我が家、私は産後のガルガル期をとっくに抜けているはずなのですが、それでもやっぱり子供のこととなると冷静ではいられなくなることもしばしば。

 

何かを判断したりするときには夫と情報を共有し、彼の視点からの意見を聞いていますし、いまだに「あぁ自分は不安に駆られて冷静でなかったな」と思わされることも。

 

客観的な情報をもとに行動を見直してみる

ここまで読んでみて非常に穏やかで平和な家庭のように思われるかもしれませんが、いやいや夫婦間で意見が合わないことも、その態度はひどい!と私が怒ることもしょっちゅうあります。

 

夫が表出した言葉や態度が自分のよしとするものと違ってくることは日常茶飯事。

 

その中でこれは放置しては子のためによくない、と思うときは指摘して話をする場を持つことが多いです。

思春期の子に対して夫が取る態度が子供を傷つけたり頑なにしたりする様子を察知して夫に指摘する、そんな場面が最近は多いかな。

 

私が夫の言動の是正を求めるとき、「私が正しく標準である」というスタンスを私がとってしまったら、話はうまくいきません。

 

専門家の知見や主治医の助言、書籍で得た知識や先輩の経験談、科学的なエビデンス、それらある種客観的な判断基準を頭に並べながら、夫(と自分)の言動について整理する。

こういう理由があるから改善した方がお互いのために良いと思う、ということだけ話をするようにしています。

 

もちろん夫から私のよくないところを指摘されることもあり、その時も同じようにどう改善した方が良いのかを上記のような客観的な情報をもとに考えようと心がけてはいます。

 

違う脳みそを持った違う人間だから

言葉にすると至極当たり前のことなのだけれど、夫婦として暮らしているとつい疎かにしてしまいがちだなぁと思うのです。「私とあなたは別の人間」ということを。

 

自分が何かに邁進しているときに同じ速さで並走してくれたら、同じ感覚でフォローしてくれたら。

その溶け合うような感覚はきっととても心地よくて、弱っているときは特にそれを求めてしまいたくなるものなのかもしれない。

 

でも、もともと他人で、たまたま縁あって一緒に暮らしているだけの、違う脳みそと違う体を持った全く別の人間なのだから、考え方も子に対するスタンスも、違っていて当然なんですよね。

 

よく「両親が同じスタンスでいないと子供は混乱する」と言うけれど、我が家の子供たちはかなり小さい頃から私と夫それぞれに対して「父ちゃんはこうだから」「母ちゃんはこうだから」とさっぱり割り切っているような気がします。

 

違う人間なのだから価値判断基準が同じなわけないんですよね。

それぞれに考えがある、というのも、それに基づいて行動しているというのも、どちらも至極当たり前のことなんだろうな、と思っています。

 

それは子供たちに対しても同じ。

私の子とはいえ、別の人格を持つ別の人間。

でも母親として彼らに接していたら我が子のこととなるととても冷静ではいられなくなることも当然ある。

そんなときに、自分とは違うスタンスで家庭にいる存在として夫に助けられたことは一度や二度ではありません。

 

最初に紹介したツイートの元のお話は賛否もあるけれど、あの「夫婦で話をしてお互いの違いを面白いと思って互いの行動を見直していく」という姿勢そのものはとても興味深いと私は思いました。

 

私が「私になって」を夫に求めないことが夫婦間の安定の大きな鍵でもありましたし、また夫が自分とは違うスタンスで子供と暮らしてくれているのもまた、私にとっての救いとなっているという、そんなお話でした。

 

おまけ

夫婦間のスタンスの違いについて書かれた本があり産後に読んだ記憶があります。

リンクを貼ろうと今見たら2014年発売になっているけど読んだのもっと前のような…記憶があやふやです。

おぼろげな記憶ですが、類人猿の研究をもとに「母子密着で育つ子供が親離れをしようとするときに子供から母親を引き剥がすのが父親の役目」という、そんな内容だったなぁと覚えています。(不正確で申し訳ない)

この論そのものや本全体に対して全面的に賛同するわけではないのですが、面白い視点だなと思ったのは覚えています。

 

本棚のどこかにはあると思うけれどさっと見つからず再読もできていないままのため、この程度の記述にとどめますが、まぁご参考までに。

 

 

 

 

 

 

 

「何度言ったら」に対しての「伝え方が悪い」はちょっと詰むかもよ、って話。

「今年はブログをこまめに」と言っておきながら全然書けてませんね、相変わらずですね。

 

さて今日はツイッターで流れてきたお話から。

 

元は夫婦関係についてのツイートで、久しぶりに料理する夫に向かって妻が「前にも言ったけど」という前置きで間違いを指摘し、その言い方は傷つくからやめてほしいと言われているような、そんなお話でした。

 

多分そこから起こってると思うんだけど、今朝はいろんな方が「前にも言ったけど」やそこから想起されたと思われる「何回も言ったのに」「何度いえばわかるの」という前置きが言われる側からはとてもしんどく、かつ効果のないものいいであることをツイートされていて、ウンウンそうだよねえ、と思いながら拝見しました。

 

ダイレクトに「その言い方は良くない」と書かれている方もいらっしゃった。

すごい気持ちわかります。我が家の、特別支援を必要とする発達ゆっくりさんがもし学校で先生からそう言われたら「先生その言い方じゃまずいです」と言うと思います。少なくとも支援する立場の人間が使ったらダメな言葉ですね。支援者が発したら「言い方を変えるべき」と強いメッセージを送りたいやつです。

 

ただ、難しいのはそれが、支援者と要支援者の間だけで交わされるやり取りではない時ですね。

 

親子間だと微妙ですね、夫婦間だとまず対等を考えねばなりません。

職場の同僚とのやりとりだったら…

 

関係性によっては「伝え方が悪い」だと関係そのものが破綻しかねないな、とは思うんですね。

 

というわけで、じゃあどうしたらいいのか、を考えてみようと思います。

 

「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」を狩ってみる。

ごくシンプルに「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」などの言われた側が傷つく可能性のある言葉を狩ってしまえば、という解決策がまず浮かぶかもしれません。

 

この解決策は「つい言ってしまうけど漠然とよくないと思っている」人に対しては一定の効果を持つでしょう。

ネット上でこれは良くないよと発信がたくさんあればそれを見て我が身を振り返り、使わないように気をつける方が出るかもしれませんし、それにより救われる方もいるかもしれません。

 

ただし、あくまでも前述のような自覚のある人に対する対策に過ぎません。

そうでないけど言ってしまう人にとっては、自分には何の非もないのに言葉狩りに巻き込まれたようにしか感じないでしょう。効果のある対策ではないし、むしろ悪化させる可能性を心配します。

 

言ってしまう人は何を抱えているのか

なぜ悪化させる可能性があるのでしょうか。

ここで、軽く言っている人から何度も何度も繰り返した結果我慢できない怒りを抱えている人までその程度は様々だ、ということをまず前提として共有せねばなりません。

 

一般化して語るのはちょっと難しいですが、怒りを覚えて何度もそう言う方のことを考えてみようと思います。

 

「何度も言ってるんだけど」と相手が怒っているように見えるとき、そこには「何度も言わされている自分」に対する報われなさがあるのではないか、と思うのですね。

ここで「言わされている」という言葉を使うと言われる側からは「言ってるの自分じゃん」となるんじゃないかな、と思います。ええ、私も面と向かってそう言われたらそう思うと思いますが、あえて相手の視点に立って考えていきます。

 

何度も同じことを伝えているのに相手が意志通りに動いてくれていない、と怒りを覚えるとき、残念ながらその本人には「伝え方がどうか」という視点はないと思います。

 

自分の発信する方法が相手に適していない、という視点はない。

状況が変わらないのは相手がその言葉に応じて行動を変化させないからだ、というものの見方です。

 

あまり耳障りの良くない言葉で表現すると

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスです。

 

「伝え方が悪い」という視点が抱えているもの

では、ここで立場を切り替えて言われる側について考えてみましょうか。

何度も同じことを言われて辛い、頑張ろうと思ってるけれどうまくできなくて辛いのに追い打ちをかけられて苦しい、という心理がありますよね。

私自身も何度も経験がありますし、うちの子たちも直面してるしんどいやつです。

 

そして何より私が我が子に対しての伝え方次第で言動が変わることに日々直面しています。

言い方を少し工夫すればすんなり受け入れられる、ということ、本当によくあるんですよね。学校の先生や支援の立場にいる方も日々経験されていることじゃないかなと思います。

 

ただ、正直なことをいうとその工夫は「簡単で誰にでもできるもの」ではないのも事実です。

発達障害のある子を育てる親として、本を読んだり先輩から教わったり、愚痴を聞いてもらって自分の気持ちを整理したり、いろんな努力を重ねながらやっと頑張ってやっていることでもあります。

そして、驕りに聞こえるかもしれませんが私自身の素養も少なからずその助けになっているとも思います。苦手な人は本当に苦手だろうなと思うんですね。

 

そんな、親でもちょっとめんどくさいハードルの高さがある伝え方の切り替えについて、言われる側から「伝え方が悪い」と言われたらどんな風に見えるだろう、とちょっと考えてみたいのです。

 

ちょっと前章の最後に戻って読み直してみてもらえたらな、と思います。

 

これ、頑なになったらあちら側と同じ

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスと同じに、なりかねない危うさがありませんか。

 

「何度言わせるの」にも「伝え方が悪い」にも秘められた、折り合えなさ

この件についてのツイッターでの発言の中で私はあえて

「伝え方が悪い」

ではなく

「伝え方が受け取り手に適していない」

という言葉を使いました。

 

根っこにあるのは誰が悪いか何が悪いか、ではなく「方法が適していない」というマッチングの問題です。

 

「前にも言ったけど」という表現そのものが悪なわけでは実はありません。

「あぁ前にも言われていたのか、じゃあより気をつけよう」と受け取る人もおそらくは存在するわけです。(それが多数か少数かは私にはわかりませんがいないとは言い切れないですね)

 

「前にも言ったけど」という表現が適さない人間も存在する、というのもまた、事実です。

 

そのマッチングの問題ありきなのに、双方相手の非を責める方向にシフトするとどこまで位っても平行線で、折り合うところは見つけられないだろうなと思います。

 

折り合えない相手もいる

もちろん、相手がモラハラっぽい人だったりすると折り合う以前の問題で「逃げて身を守れ」と解決法を取る必要があることもあるでしょう。

ここら辺はケースバイケースだと思います。

 

このブログでも何度も書いてきましたが、相手と折り合おうと思ったらまず自分が折り合う姿勢を見せなければ始まらない。

ファイティングポーズを取っていたら向こうも身を守るためにそうしますから。

 

自分がその姿勢を見せてもそれでも向こうがファイティングポーズを崩さないなら、折り合うのは無理。「逃げて身を守れ」という助言をするしかないだろうなと思います。

 

みんなそれぞれに苦手の多い人間ばかりかもしれない

発達障害のある次男と暮らしながら、自分も特性ありきで人に支えてもらっての生活。

ハンディのある人間としては「やってもらえたら助かること」はたくさんあります。

でも、息子に対しても自分への戒めとしても、支援者以外の人に対して「やってもらえて当たり前」と思ってしまうと相手から傲慢に見られてこじれてしまうことも出てきてしまうなぁと思っています。

 

そのさじ加減は本当に難しい。

 

やって欲しいことを、相手が察してやってくれたらとても楽。

でもそんなにうまくいく関係ばかりではないから、こちらの特性や性格やメンタルの都合から「こうしてもらえたら助かる」を伝えていくことも大切。

 

相手がプロの支援者相手じゃないなら(まぁプロの支援者も様々だけど)生身の人間として得手不得手があるのもまた、ある意味当たり前のことだったりするわけで。

 

苦手が多い人間としてつい相手に大きを求めたくなったりもするけれど、所詮自分と変わんない苦手の多い人間の一人かもしれないし、という視点は持ってて損はないかなぁと思ったりしています。

 

その上で「苦手がある人間同士、うまくいかないときもあるよね」って関係性の存続を諦めることもまた、一つの解決策かもしれないとも思ったりはしています。

大学入試共通テストの不正の報道を受けてのツイートまとめ【試験時の合理的配慮について】

大学入試共通テスト(センター試験とつい言ってしまいますね)が先週末行われておりまして、こんな報道が出ていました。

これを読んで、こんなツイートを発端として「試験時の合理的配慮」について色々と書きましたので、ブログにまとめておこうと思います。

 

 

「合理的配慮」とは何か

まず大前提として、ここを確認しておかねばなりません。

合理的配慮については以前書いたことがあったのでそちらも参考にしていただければと思います。

 

合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるよう、一人ひとりの特徴や場面に応じて発生する障害・困難さを取り除くための、個別の調整や変更のことです。

2016年4月1日に施行される「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(通称、「障害者差別解消法」)により、行政機関や事業者には、障害のある人に対する合理的配慮を可能な限り提供することが求められるようになりました。

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

 

ざっくりまとめると、合理的配慮とは障害ゆえに権利が侵害されている状況になってしまっているケースで、それぞれの特性や場面による困難によるハードルをなるべく下げたり取り払ったりすることで健常者と同等の権利を保護するための対応のこと。

 

公的な機関には可能な限りの提供義務が、民間機関には努力義務が課せられています。

(ここで詳細を書き記してしまうと恐ろしい長さになってしまうので、詳しくは以前の記事や説明しているサイトなどを参考にしてください)

 

共通テストでの2つの「不正」と障害由来の困難の可能性

今回は、合理的配慮の中でも試験の時の話に限定してまとめます。

前述の記事の中で「マスクから鼻をだしていた」「定規を使用していた」という2点の不正について気になってのツイートでした。

もちろん、これら2つの不正が発達障害と直接的に関係があったと断定することはできません。あくまでも、可能性のひとつとして思い当たったので書き記しておこう、という程度の話です。

 

発達障害ゆえの感覚の過敏で長時間のマスク使用が難しい」いうのは、以前からあったもののコロナ禍で大きな問題として取り上げられることも出てきたと思います。

特定の素材ならなんとかなるというケースもあろうかと思いますし、こだわりなどから鼻を出した状態なら維持できる、というケースがあってもおかしくなかろうとは思います。

 

また、定規の使用に関しても「定規を当てた方が文字が読みやすい」(程度によっては定規を当てないと文字が踊ってしまって読めない、というケースもあろうかと思います)というディスレクシア学習障害の一つで、読み書きの障害)の可能性も考えられます。

 

どちらもあくまでも想定に過ぎませんし、全く別の理由からの行動の可能性も十分にあるということは重ねて書いておきます。

 

とはいえ、どんな障害があろうとも事前に申請なく不正とされる行動をとれば注意されることも、状況によっては受験資格を失うことも仕方がないことです。

 

では、そのような困難を抱えているときにどうしたらいいのか、というお話をしたいと思います。

 

試験時の【合理的配慮】

共通テストを主催する大学入試センターのサイトにはこのようなページがあります。

受験上の配慮案内 | 大学入試センター

発達障害だけでなく様々な障害について、受験の上で必要とする配慮について詳細に記載し、診断書を添付して事前に提出することができます。

 

試験時間の延長や別室での受験、リスニング時の配慮など、様々な選択肢が記載されているほか、それぞれの特性に応じた配慮を詳細に記載して申し入れることができます。

 

私は具体的にこの申請作業をしたことがないので実際にどんな対応を受けるかはわかりませんし、センター試験の頃から実際の事例は公表されてはいないようなので現実にはどの程度の配慮が受けられるものなのかは定かではありません。

 

ただ、障害者差別解消法に則れば独立行政法人大学入試センターは合理的配慮の義務があるため、過剰な予算がかかるなどの理由がなければ拒否はできない立場にあり、また拒否するときは申請者が納得するまで理由を説明する義務を負っているはずではあります。

(とは言ってもそんな、というのは我々当事者親子の多くが現場で度々痛感しているところではありますが)

 

さて、大事なのはここからです。

たとえ入試時に配慮が受けられる仕組みが整っているからといって、誰でもどんな風にでも申請できるわけではない、というのが試験時の合理的配慮のとても難しいところだというお話をします。

 

「試験時の合理的配慮」を受けるために必要な準備段階

すでに2千字を越えていますがやっと本題です。

試験時に合理的配慮を受けようと思ったときに必要なもの、それは【配慮の実績】です。

 

この配慮実績は【対外的な証明】【本人にとっての効果】の2つの側面から必要不可欠になります。

 

合理的配慮の【対外的な証明】としての実績

前述した大学入試センターが発行する配慮の申請書類の中にも【高等学校等で受けている配慮】について記載する項目があります。

個人の思いつきで求めているわけではありませんよ、実際に過去にこのような配慮を受けてきているのですよ、という証明書のようなものです。

 

高校の先生方も必要とみなしている、というお墨付きの意味合いですね。

 

実際にその方法で特性による失点を防ぐ効果がある、と第三者が認めていること。

また、その方法は高等学校等で実施したことのある、いわゆる実行可能性が高い方法であるという証明にもなります。(「そんな予算もかからず簡単にやれるよ」という実例があるということですね)

 

さらに、やってもらえたら確実に本人が助かることがすでに証明されている、という結果の担保もついているということでもあります。

 

通常の試験の実施にさらにプラスアルファで作業や費用の負担を負わねばならないという義務ですから、できるだけ安心が担保されている方が確実に通しやすくなる可能性は高いです。

逆にいうと実績が乏しい案であれば、リスクをかけてまで導入するハードルはより高くなり、様々な理由から却下される可能性もより高くなってしまうかもしれません。

 

三者が認めた実績、というのは配慮を受けるための大きな力を持つ要素として、必要不可欠です。

 

合理的配慮の【効果】としての実績

特性のある子に対する配慮の難しさのひとつが【やってみるまでわからない】。

これは発達障害のある子を育てた経験、指導や支援の経験がある方にとっては痛いほどわかることではないでしょうか。

 

Aくんにうまくいった方法がBくんにそのままうまくいくか、というとそうはいかない。

同じ診断名、似たような特性があっても、実際その子にガチッと合うかどうかはやってみるまで誰にもわからない。トライアル&エラーの連続です。

 

我が家でも次男の様々な困難に対し、ひとつ試してはうまくいかず、また次を試して定着せず、様々な働きかけの末にピタッと合うものがごく稀に見つかる、という、ギャンブルか宝探しかというような毎日。

 

筆箱ひとつ、ノート一冊とっても、どれならうまく扱えるかわからずに3つも4つも買って使ってみて、やっとこれ、というひとつが見つかる、そんな状況です。

 

そんな特性の強い子たちにとって、試験時にどんな配慮が必要かどうかが短い時間でわかるわけがないのですね。

 

授業を受けてみて、テストを受けてみて、その結果をよく精査して。

特性と鑑みてどの部分が特性ゆえに失点しているのか、どんな影響受けてしまっているのか、本人ともよく話し合う必要があります。

 

特性ゆえに失点している部分があるのであればそれをどう補っていくか、と考えていかねばなりません。

保護者がグイグイと介入してどうにかできることではないのが難しいところです。

試験会場に同席するわけにはいきませんから。

 

学校の特別支援コーディネーターの先生など、校内の担当者や支援者とよく相談しながら様子を見て必要と想定される配慮の事例を検討し、小テストや定期考査などのタイミングを活用して実際に試す。

その配慮が結果に反映されているかを確認しながら情報を蓄積し、「どんな配慮が本人にとって必要か」を固めていかなくてはなりません。

 

学習支援の専門家など、当事者を見て配慮の提案が即時できるようなエキスパートも存在するかもしれません。

ですが、現状ではまず出会うのは難しいと考えた方が無難でしょう。

(出会えたら超ラッキーだと思います…!)

 

学校の先生方も特別支援の専門知識があるわけではないケースが多いですし、合理的配慮の事例に対する知識が乏しいケースも、下手したら試験時に合理的配慮が受けられるという事実そのものについても知らない可能性もあります。

 

現状では、保護者がある程度の知識を持って学校に協力を依頼し「入試までに本人にどんな配慮が活きるかを確認するための機会としてテストを利用」していく必要があります。

 

専門家ではない人間がチームとして取り組んでいかねばならないことなので、短い時間で結論を出すのは非常に難しい。

大学入試、高校入試という大目標を目指すためには少しずつでも早めに意識しておく方が効果は得やすいだろうなと思っています。(私がこういうことを言うのは多分すごく珍しいと思います)

 

合理的配慮の材料としての【診断】と【自己理解】

最後に、合理的配慮を当事者が受けるために必要な準備について触れておこうと思います。

 

確定診断の是非

発達障害の診断についてよく「メリットは投薬くらい」と言う話が出ます。

これは私も実際に痛感していることでもありますが、合理的配慮の話になってくるとちょっと様相が変わってきます。

合理的配慮は障害者差別解消法のもとで義務化されているものですから、対象は障害者として診断を受けている人になってきます。

大学入試センターに対する申請書にも医師の診断書を添付する必要がありますし、合理的配慮を受けることを考えるなら確定診断は必須事項になってくるかと思います。

 

知的障害のない発達障害のある子に対して確定診断が必要かどうかと悩むとき、将来的に診断書を伴うような合理的配慮を求める必要があるかどうか、については検討に含めていると良いかなぁと思います。

 

自己理解の必要性

知的障害のない発達障害で通常級に在籍するような子のケースだと、家庭の外で配慮を受ける必要がある中で、保護者ががっつり関わることができるのは小学校までが限界かな、というのが私の実感です。(個人差は大いにあります)

中学になると保護者の見えない部分がかなり増えていきますし、高校になると全く見えません。

 

必要な配慮は何かと考えたり実際に配慮を求めたりする主体は年齢が上がるにつれて保護者から本人へと移行していくことになります。

 

試験時の合理的配慮に関しても、テスト会場で実際に試験を受けるのは自分しかいませんから、当然自己理解をした上でこれは活きる、これは活きない、を自分で判断する必要が出てきます。

 

また、前述した私の過去記事でも触れていますが、合理的配慮は原則当事者からの発信と考えておいた方が良いと思います。向こうから与えられるものではなく、当事者が自分の障害特性を理解した上で必要な配慮を求めることが【合理的配慮の合意形成プロセス】の最初のステップになってきます。

 

本番に会場でどんな配慮を必要とするか(または必要としないか)を決める主体も保護者ではなく本人にあり、本人が必要を感じて求める行動を起こすことがスタートになります。

 

そのためには本人がある程度の段階で自分の障害を知り、特性について自分なりの理解をしておくのが大前提になってきます。

 

また、合理的配慮はある意味での「特別扱い」を求めることになるわけで、本来の意味を違えて理解してしまったら本人のためにも周りのためにもならない、残念な結果を生みかねません。

 

自分の特性を理解し、障害を受けとめ、障害者差別解消法や合理的配慮の合意形成プロセスなどについての正しい理解が伴っていることも、試験時の合理的配慮を受けるための大事な要素になってくるだろうと思います。

 

おわりに

こんなふうに試験のことをたくさん書いておりますが、実は我が家の次男は数日うちに初めての高校入試を控えています。

次男の試験時の合理的配慮について中学に最初に相談したのは入学直後だったと思います。

そこから担任の先生方と色々と相談したり、実際に試せそうなものを試してみたりしながら、結果的に本人の意思もあり次男は合理的配慮の申請なしでの受験に挑むことになりました。

まだあと数回の受験のチャンスがあるので、今回の様子を受けて本人と次の機会にどう挑むかを相談することになっています。(合理的配慮の申請や服薬の調整などいくつかのカードを持っている状態です)

 

最後になりましたが、ツイートでも触れていた合理的配慮の具体例を調べられるサイトをご紹介しておきます。

www8.cao.go.jp

また、この他にも「合理的配慮 事例」などで検索すると様々な学校で実際に取り組んだ事例などをまとめたものを見ることができます。

こんなことも頼めるのか!と驚くようなものもあるかもしれません。

 

余談の余談になりますが、我が子のためにと思って通した配慮が、こうやって記録に残り、誰かにとっての「前例」になることもあるのかもしれない、というのもまた、我々の血の滲むような育児のひとつの成果のかたちなのかもしれないなぁと思うと、過去の苦しみも涙も決して無駄ではなかったと思えたりするのかもしれないという感傷的なことを漏らして、六千字に迫る長いエントリを締めたいと思います。

それは本当に「問題行動」だったのか、という思い出の話

新年の抱負として「ブログをおろそかにしないで書く」というのを掲げた以上、コツコツ書いていきたい、と言いつつ3週目にしてやっと2本目のエントリを書いています。

 

今回は、昨日ふと思い出した、うちの子が1年生の頃のお話です。

 

 

「名前ペンでなんでも書いちゃうので預かってます」

入学式からどれくらい経っていた頃か記憶があやふやなのですが、何かの機会で担任と話をしたときに「そういえば」と見出しの報告を受けました。

 

詳しく話を伺うと、息子が筆箱の中の鉛筆を使わずにノートやプリントに油性ペンを使ってしまう、とのこと。

子どもたちの小学校では入学の時に筆箱の中の道具として鉛筆や消しゴムと共に「油性の名前書き用のペン」を常備しておくよう言われていました。

本来は学校でもらった道具や名前を書き損なっている自分の道具に名前を書き込むために用意しているそのペンを息子が鉛筆代わりにしている、ということのようでした。

 

当然ですが油性ペンでノートやプリントに記入したら下までうつってしまいますよね。

その行為に先生が困って「名前ペンは必要なときだけ使うよう先生が預かります」という対処をされていたようでした。

 

のちにわかった書字の困難

当時の私は、名前ペン使っちゃうのはまずいでしょ〜そりゃ取り上げられるわ〜と思っていたように思います。

息子にも、ちゃんと鉛筆使わないと、と話をしていたんじゃないかな。

 

気にはなっていたものの、そこから特にどうこうすることなく過ごしていたころ、2年生くらいで他の子に比べて連絡帳やノートの字がなかなかマスに入らないことに気づきました。

 

ちょうど、私が発達障害の関係で色々な本を読み漁っていたころ。

これは書字の困難!書きやすいツールを模索せねば!

ほいきたと意気込んで、いろんな鉛筆や太めのシャープペンシルや高温で消えるボールペンなどあれこれ買い集めて息子に試し、宿題で使用したり、学校で使えるか掛け合ったりもしました。

 

「ペンの方が書きやすいんだよね」

書字の困難はその後劇的な改善があるわけではありませんが、本人なりにボチボチサポートを受けながらそれなりに適応しようとしているような感じです。

 

そんな息子が以前、何かのやり取りの中でポツッとこんなことを言っていたんです。

 

「鉛筆よりペンの方が書きやすいんだよね」

 

正確なシチュエーションは覚えていませんが、鉛筆しか選択肢のなかった低学年の頃を思い出しての発言だったような気がします。

その場ではへーっていう程度に受け取っていたのですが、自分の中でゆっくり咀嚼していくうちに自分の中でパチパチパチッとパズルのピールが合っていったんですね。

 

名前ペンを使っていた本当の理由と、それに気づけなかった周りの大人

ここまで読んでいただければ、なぜ1年生の息子が何を書く時も名前ペンを使っていたのか、がお分かりだろうと思います。

そうです、彼にとって名前ペンを使っていたのは「その方が書きやすいから」。

 

逆に言うと「鉛筆で書くのがしんどいから」、だったんですね。

 

でも私も担任の先生も、周りの大人は誰もそれに気づいてやることができなかった。

 

彼はひとりで鉛筆が苦手だということに気づき、自分なりに問題解決のための手段として名前ペンを使っていただけだったんですね。

 

でも当時の担任の先生には鉛筆を使えと言っても名前ペンを使う息子の行動は制するべき問題行動でしかなかったし、それを聞いた私にとっても口頭で注意して済ませてしまうようなこととしての認識しかできてなかったんだな、と。

 

「それは本当に問題行動?」

学校の子供の問題行動について「困らせているのではなく困っている」と表現する言葉を聞いたことがあります。

今回のケースでそれを当てはめてもいいのですが、もう少し発展して考えてみたいな、と思いました。

 

果たして息子は「困っているから名前ペンを使った」のだろうか。

そう考えたとき、着目すべきは「困難」という部分よりも「自分なりの問題解決」のような気がするんですね。

 

もちろんその方法は、大人からしたら何にでもインクを裏移りさせてしまう大変困ったものでしたから、大人が手を入れる必要はあっただろうとは思います。

 

息子は自分なりに考えて、その場で使いやすい道具を選択していたはずだったのに、大人からは「制すべき問題行動」という捉え方をされてしまっていたし、叱られてしまった。

 

おわりに

何をきっかけに思い出したかも定かではない、何年も前の思い出なのだけれど、こうやって「あの時は」と悔やんだり情けなくなったりすることが本当にしばしば。

 

「名前ペンを使った」という時点で口頭の注意で行動を変えようとせず、見逃さず、「そこに何かあるのでは」と考えるきっかけにしてあげられたらよかったのに。

 

問題を起こそうとして取ったわけではない、自分なりのヘルプや問題解決のための自己流の方法だったりする行動が、大人の目から見たら問題行動になってしまう、というのは子どもたちの周りで本当によくあることで、見逃すまい見逃すまい、といつも思っているのだけれどこんな風に、砂が手からこぼれ落ちるみたいに気づかずに過ごしてしまっているんだなぁ、と反省すると同時に、ここから少しでもそれを減らしていかねばならぬなぁと、そんな自分への課題を改めて確認する、年の初めです。

 

 

 おまけのおすすめ

コクヨ 鉛筆シャープ 芯径1.3mm 黒 PS-P101D-1P
 

筆記用具を模索している中で見つけたこの鉛筆シャープシリーズは、書いた感じが鉛筆とそっくり。

まとめ買いして主に自宅学習用に使っています。

 

硬筆用に使っても遜色ないので、かきかたの作品を作るときにもおすすめ。

学校では鉛筆を使わないといけないけど宿題ではちょっと楽をしたい、というお子さんにも便利なんじゃないかな。

 

欲を言えば低学年からこういうのを学校に持ち込むことがもっとフランクになったらいいのになぁ、とは思ったりします。鉛筆の方が管理しやすいだろうことは間違い無いんですが。

『ADHDの人の「やる気」マネジメント』の紹介と、次男に勧めない理由

新年あけましておめでとうございます。

(と言える日までに最初のエントリが書けたので自分なりの及第点です)

 

さて、新年一発目に何を書こうかと考えていたんですが、いま手元にある本のことを書いてみようかと思います。

 

 

司馬理英子著『ADHDの人の「やる気」マネジメント』

 

この本、実は私の所有ではありません。

次男の学習面のサポートをお願いしている家庭教師の先生が「次男くんの対応の参考になれば」と暮れに貸してくださったものです。

 

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ADHDの自覚のある方ならこの目次を見ただけであああああってなるんじゃないかなぁと思います。

 

周囲から「やる気がない」と叱責されがちな当事者のしんどいところを非常に丁寧に捉えていらっしゃる、さすが司馬先生。

 

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こちらはamazonの書籍紹介でも公開されている一部なのですが、もうこの3名のケース、どれも目の当たりにしたら刺さりすぎて穴を掘って自ら埋まりたい気持ちになるような内容です。(次男もですが、私もがっつり該当します)

 

実態を丁寧に掘り下げたあとのページには目次でも触れられているように「やる気」を結果につなげていくためのプランが色々と示されています。

 

この本そのものは成人当事者を対象としたらしいものですが、ノウハウ自体は中高生にも十分やれることなので自身の困りに悩んでいる方にはオススメの一冊だなぁと思います。

 

この本から「考える」

さて、年頭のブログとしては「この本がすごい」という紹介だけで終わってしまうわけにはいきません。本題に入りましょう。

 

私のブログ読者さんやTwitterのフォロワーさんには「ADHDの当事者」ではなく「ADHDの子を持つ保護者」という立場の方も多かろうと思います。

そのお立場からこの本を知って「うちの子に良さそう!」「読ませたい!」と思われるケースもあろうかと。

 

ですが「次男の困りについて活かせそう」と先生からご紹介いただいた本を私が次男に「読め」ということはないだろう、と思います。

今回の本題はそれです。

 

なぜ『読ませない』のか

なぜ次男にこの本を今読ませないのか、という部分について掘り下げていきましょう。

彼が受験を控えているから?

ええそれは大切な事実ですが、そうではありません。

彼が受験生ではなかったとしても彼にこれを読ませようとすることはなかったでしょう。

 

それは、この本の特徴が

「特性を自覚しようとしている当事者が、自らの問題を改善しようとして読むためのもの」

だからです。

 

この本の大半を占めている「こうしてみよう」の実践例はどれも実行の難易度がそれほど高くないものも多く、また当事者の自覚のある私が本を読む前から実際に自ら工夫して実践しているものが多くあります。

特性の強い次男にとって「これをやれば色々うまくいく」と私がわかるハックがたくさん、見やすく読みやすく詰まっています。

 

でも、今の彼がこの本を手にしたとしても、おそらくはそのどれも本当の意味で身につけることはできないでしょう。

それが、彼にこの本を読めと言えない理由です。

 

私からみた「間違いのないもの」を次男が受け止めるべきか否かという課題

私は親として彼の困難を日々目にしています。

でもそれは、大人であり、また親であり、そして当事者の先輩としての目もあり、で見えているものでもあります。

 

その私の目から見える彼の困難や、こうすればいいのに、という私の見解は、事実の把握としてはそう間違っているものではないかもしれません。

でも「それを彼が受け止められるか」「それを彼が今受け止めるべきか」というのはまったく違う次元の問題なのだと思うのです。

 

どんなに彼の特性を正確に把握し、彼の改善点が見えていようと、それを今ここで彼に突きつけて改善方法を提示すれば彼が幸せになれるわけではなんですね。

これは、障害のある子、発達に課題のある子を持つ親が避けて通れない道なのかもしれない、と思うことがあります。

 

私とて、もう40を過ぎていてやっとできるようになってきたことがいくつもあります。

改善方法を知っていたのに取り組めなかったことも、未だ取り組めないこともある。

課題を知り、方法を知ったとしても「それに取り組めるか」はまた別問題なんですよね。

 

これはペアレントメンターとして保護者の方とお話をしていて感じることでもあります。

どんなに解決方法がこちらから見えていても、どんな状況でもそれが役に立つわけではないんですね。

本人が自分から「解決するための策が欲しい」と手を伸ばしたときにしか、助言は役には立たない。

むしろ、無理な助言を押し付けることで関係性が悪化したり、解決から遠ざかってしまうことすらあり得ます。これは親子間でも同じだと思っています。

 

「自分でなんとかしたい」と思ったときに巡り会えるように

少なくとも今の私から見たら、次男はまだこの本に書かれていることを読んで改善のために取り組んでいく段階にはないように思えるので、勧めません。

でも良い本であることは間違いないので、金平糖文庫か自分の本棚か、何かの形で手に入れていつでも手に取れる状態にしておこう、と思っています。

 

私の持つそれか、または図書館や本屋や電子書籍として、いつどんな形で次男が出会うかはわかりませんし、本ではない別の形でこのようなハックに出会えるかもしれません。

 

きっと彼自身が「自分でなんとかしたい」という気持ちを持ったときに出会えるはずです。

 

親として私ができるのは、この本を彼に勧めたり読ませようとしたりすることではないのだろうと思っています。

 

彼が本当に必要としたときにこの本が手に入ったり、検索したりすることができる素地作りの方を優先していけたらなぁという感じです。

 

おわりに

新年最初のエントリは発達障害のお話のような親子関係のお話のような、なんだか定まらないお話になりました。

受験を控えた次男は、この「やる気」の問題と脆いメンタルの狭間ですり減っているような開き直ってもいるような、そんなグラグラした日々を送っています。

お医者さんからは「とにかく心身共元気な状態で受験当日を迎えられるようにしとくのが一番大事だから」と念を押されているので学習の進行状況については出したい口をぐっとこらえて見守っているところです。

 

試練ですなぁ。

 

 

早朝の夫婦げんかから考えた、夫婦間のエンパワーメントという課題

ここ数回、連載のように自分のキャパオーバーがテーマのブログを書いているような気がします。

ツイッターでも漏らしているように、いま、私あまり余裕がありません。

年末で仕事が立て込んできていたり、また子どもたちの周囲で対応の必要なことがタケノコのように次々と出てきているのも要因のひとつだろうとは思います。

 

そんな中、夫と大ゲンカしました。

夫が怒って出かけた後の一人反省会でやはり自分のキャパオーバーが関係あるなぁと思い、また夫に対してもまた、考えを改めるべきことがあるなぁと思ったりしつつツイートをしたので、それをまとめておこうと思います。

 

今回のキーワードはキャパオーバーエンパワーメントです。

 

エンパワーメント、とは

今回の大ゲンカを掘り下げるに当たって、まず振り返っておくべき概念があるなぁと思いました。

エンパワーメントです。

 

様々な分野で使われている言葉でその分野ごとに定義は微妙に異なっていると思うのですが、私がこの言葉に出会ったのはペアレントメンターの講習でした。

 

お話の中で講師の方が「相手を弱い、出来ないものとみなして手を施すのではなく、相手は力がある、できるようになる、と信じて立ち上がるのを並走しながら見守る形の支援をする」と仰っていました。

「まだ全力を出せてない、頑張れ」とハッパをかけて引っ張るのではなく「相手には力があると信じ、いまも本人にとっては精一杯頑張っているのだ」と思って見守ることがエンパワーメントだ、という説明を受け、自分の中になかった概念に脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けたのを覚えています。

 

それまでの私はどこかで、支援する、というのは力が尽きた相手に力を与えたり、出来ない人に出来るような協力をするようなものだと思い込んでいたように思うのです。

それとは180度違う概念との出会いは、その後の保護者支援の活動や自分の育児にかなり影響を与えられたと思っています。

 

子育てとエンパワーメント

子どもを育てていく中で「頑張らせる」ことが主軸になるような場面はこれまで数え切れないほどありました。園でも学校でも基本的にはそういう指導がベースなので、それに同調してきたとも言えると思います。

 

とくに発達障害の次男には何度も、無理そうであっても頑張ることを求めて来たような気がします。

エンパワーメントの概念に出会ってすぐそこを改善できたわけではありません。

何度も何度も次男に頑張りを求め、失敗し、親子で打ちひしがれてボロボロになるのを繰り返してきました。

 

度重なる失敗を経て、年月を重ねて、最近やっと、自分の育児の中でも「怠けているように自分には見えてしまうけれど、でもいまこの子は精一杯頑張ってるところなんだ」という目で見られるようになってきたような気がしています。

 

ダラダラと寝転がりながらゲームする受験生に対してそう思おうとするのは修行のような日々ではありますが。

 

4人の我が子たちや、学校や外で会う子どもたちに対しても、場面場面で「いま精一杯の頑張りをしているところだ」という目線で見ることでお互いの関係がスムーズにいくことも多く出てきました。

 

いま学校に行けずにいる三男に対しても、彼なりに頑張っているところなんだと信じて対応することもできるようになっているし、そのことが彼の中でいい方向にいろんな変化を生んでいるようにも感じています。

 

私のキャパオーバーから起こった大ゲンカ

さて、前置きが長くなりましたが夫とのケンカの話に戻ります。

今朝のケンカの発端は私が「自分はこんなに頑張ってるのに夫は…!」と思ったことが透けて出た発言でした。

 

早朝早く出る夫に合わせてバタバタと家事をしてるのにゆっくりしているように見えた夫に私が苛立ってつい口を滑らせてしまったのです。

 

この時点で私がキャパを超えるタスクを背負おうとしていたのがわかります。

朝早い夫に合わせて起きるという、余裕をなくすタスクを入れてしまった自分の判断ミスです。起きるのが辛いなら夫に「自分で用意して出て」と言えばよかったんです。

もしくは昨夜、朝の過ごし方をどうするかもう少し丁寧に話を詰めておけばよかったんだろうと思います。

 

そしてつい発した私の愚痴に烈火のごとく怒った夫も、いつもよりかなり早い出勤というタスクでいっぱいいっぱいだったんだろうな、と振り返れば思うのです。

 

夫婦関係で考える、エンパワーメント

夫への日頃の愚痴が一気に出るなか、つい「私が大変じゃないと思ってる!」と口走りました。

 

この言葉に私のキャパ越えと、夫へのエンパワーメントの視点が欠けていることが現れていたな、と思うのです。

「私は大変だけど夫はもっとやれるはずなのにやってない」と頭のどこかで思ってしまっていたんだな、という。

他人や子どもたちには向けられるようになってきたエンパワーメントの視線が、一番大切なパートナーである夫に対して欠けてしまっていたのは私の自他の境界線の緩さも影響しているのかもしれません。

 

「もっと頑張れるだろう」と思ってはいけない、このつい湧いてしまう感情とずっと戦ってきたはずなのに、いまもまだ根強く持ってしまっていたんだなぁと。

 

夫の頑張りを考えるとき、私の目から見てタスクの量がどうか、とか、私の抱えているものと比べているかどうか、という目線で考えてはいけない、ということ。

 

私が数えて彼のタスクを決めたり、彼のキャパを判断しない。

それは彼の課題であって、私の介入できるものではない。

彼が現状やっていることが彼の手一杯で、彼の精一杯の頑張りで、これ以上のタスクを受けるかどうかを決めるのは彼で、そして現状十分に彼は頑張ってくれている。私がいっぱいいっぱい抱えて頑張っているのと同じように。

 

頭ではわかっていたけれど、今日初めて自分の中で腑に落ちたような気がするのです。

 

それぞれのキャパオーバーを防ぐために

夫に対して、信頼もあるのです。

やれる余力が彼にあるなら彼は手を出してくれるはず。

それをやるのを選んでいないなら、それは彼にいま余裕がないからだということ。

 

それを平常時はなんとなく意識しているはずなのに、自分がキャパを超えてしまうと見えなくなる。

自分のこの困難を目の前のあなたが分担してくれればいいのに!とつい思ってしまう。

 

ここで大事なのは、その負担を夫に着せることではないのだろうと思うのです。

夫も精一杯頑張っている(はず)で、私もそう。

 

だったら、私の抱えているこの重いタスクは夫ではないどこかに分担してもらうべきことなのかもしれない。

 

お金を使って外注するのもアリかもしれないし、身内や友人にヘルプを出す必要もあるかもしれない。

専門の相談につなぐことでめどが立つこともあるかもしれないし、何かを放棄するのもアリかもしれない。

 

おわりに

目の前のタスクを夫婦でどうにかしないといけない、と思い込んで私に抱えられないものは夫に、とつい考えてしまいがちだったなぁと思い返しています。

似たような話を何度も何度も整理してはブログに書いてきているのに、それでも実践はこんなに難しい。

 

子どもたちが生まれてまだ小さい頃に、こんな風に整理して夫のことやタスクの外部化を考えられたらきっともっと楽しく、ゆとりを持って子どもたちを育て、夫婦げんかももっと減らせていたんだろうなぁとも思いますが、それはもう後の祭り。

これからの我が家にとってどんな視点を意識する必要があるのか、改めて考えていかねばなりません。

 

私が思い込んでしまっていたように、社会的にも親にもっと頑張れという圧をかける傾向はまだまだ根強くあるような気がします。

障害のある子を育てていると余計にそれを感じます。

 

家庭の中でしんどくなったらどんどんタスクを外部に出していけるような、手放していけるような、そんな状況になっていくといいなぁ。

 

私が思い込んでいたような個人の意識を見直すことと、社会の風潮が変わっていくことと、どちらも両輪で進んでいくように、自分に何ができるかを改めて考えたいなぁと思ったりした、そんな夫婦ゲンカからの回想録でした。

女性のひきこもりの話から考えた、キャパ超えのサインの話。

久しぶりに「書きたい期」がきているのかもしれません、珍しく今日もブログを書いています。

 

先日、実家の母から「ちょっと買い物に連れてって欲しい」と頼まれて一緒に出かけた車中での話です。

 

「女性のひきこもりが増えているらしいわね」

他愛ない雑談のなか、ふと助手席の母が言いました。

テレビで見たの、と。

あさイチで特集があっていたらしいことがTLに流れていたから、それのことかなぁと思いながら話を聞きました。

 

母はもう80がそこまで見えており、免許も返上。

引きこもることを防ぐためにも母にはなるべく外出をするよう促しています。

 

母自身も、自分の母親が老後文字通りひきこもりがちになり、認知症を発症してから最期を看取るまで経過をずっと見てきた人なので、私が促す気持ちもわかるのでしょう。

 

母には、常日頃から「外出のために手がいるときは遠慮せず声をかけてね」と話しています。

 

人と会う約束を作ること、その日その時間のために準備をしたり身なりを整えたりすること、人と会っておしゃべりをすること、ものの贈り合いをしたりすること。

 

祖母が全部手放してしまって部屋に閉じこもってしまったのを知る母にとっては、なるべく頑張って整えたいことのようですし、私もそれをできるだけ手伝うよ、と話しています。

 

女性の「ひきこもりやすさ」

母が

「女性は家のことをやっていればそれなりに日が経っていくから、なんとかなっているような気がしてしまうのよね」

と口にしました。

テレビの中で出てきたのでしょうか、彼女がそう考えたのでしょうか、それはわかりませんが、まさにそうだなぁと思いました。

 

私も、家事と育児(と仕事)に追われて毎日を過ごしていたらつい人と約束をしてまで出かけることは億劫になりがちです。

家には私がやるべきタスクがいくらでも存在する。

どんなに頑張ったと思っても、掃除したほうがいいところも、片付けたほうがいい場所も、取り替えたほうがいいものも、整理したほうがいいことも、まだまだ家の中には残ってる。

 

母が言うように、家の中にいてそれなりに色々と立ち回っていたら、自分が何者かであるような錯覚も得られるし、頑張って色々やっている感も出る。(もちろん、やっているから間違っているわけではないんだけど)

 

これは休養、ときちんと整理して休む時間を作ったり、また外に出たり、とコントロールできているのはきっと健全な証拠なんだろうな。

母がテレビで見たような、そして私が母がそうならないかと心配しているような「いざ出ようとしても出られなくなってしまう」ような状態になってしまうのはなるべく避けたいなぁと、そんな話をしたりしていました。

 

外出が億劫になる、と言うサイン

母と話していて、一つのサインに気づきました。

 

「人と約束をする」「外出の予定を入れる」というのが非常に億劫になる。

これは母にも若い頃からよくあったらしいし、私にも身に覚えがあります。

 

元々の性格に由来する部分もかなりあると思うのですが、私の場合はコンディションによってかなりその億劫さに差があるような気がします。

 

コンディションにより振れ幅がある。

昨日のブログで触れた、キャパオーバーとも関係のある話なのかもしれない、と思うのです。

 

キャパを超えて精神的に疲弊していたり、体調に不具合があったりと、自分の中での健全な状態ではないときに、この外に向ける行動に対する億劫さがグググっと上がっていきます。

 

母とも

「そういうものかもしれないから、あなたがもしこうやって買い物に出たり、人に会うのが面倒になってきたりしたら、精神的な負荷がかかっていたり、体調が悪くなっていたりするかもしれないからそういう時は早めに生活を見直したり、受診したりしようね」

と話をしたりしました。

 

おわりに

実家で母をおろして一人帰路につきながら、子どもたちが小さい頃に極端に人に会うのを避けていた自分がいたことを思い出しました。

 

あれは、私なりにキャパオーバーでしんどい自分を守っていたからかもしれないし、そのサインを見逃してしまっていた結果なのかもしれないなぁとも思います。

 

スマホをレンチンしてしまうほどのキャパ超えのタスクを抱え込んでしまったとしても、なかなかそれを自覚するのは難しかったりします。自覚できないから、大惨事をやらかすまで自分は大丈夫と過信してタスクを詰め込んでしまう(そしてやらかす)。

 

外出が億劫になる、というのも一つのサインかもしれないし、お風呂に入るのがめんどくさいとか、髪を洗うのが億劫だ、とか自分なりにいろんなサインがあるのかもしれません。

そうそう、私は自分だけのために食べ物を選ぼうとした時に何を食べていいかわからなくなってコンビニの店内を何周もぐるぐるしてしまうことがたまにあって、思えばあれもキャパ超えのサインのような気がします。

 

自分の「キャパ超えのサイン」みたいなの、探しておいたり、それを家族に伝えて気づいたら声をかけてもらったりするようなの、いいかもしれないなぁと思ったりした、そんなお話でした。

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