スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

医療費の自己負担が始まる前に〜「自立支援医療」の手続き備忘録

次男の高校進学が決まり、わずかばかり同居してくれていた諭吉の群れがあれよあれよと手元を離れてしまっている我が家です。

 

先日のエントリでは高等学校に対する進学準備として合理的配慮の提供を受けるための手順について書きました。(まだ入り口ですが)

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 今回は医療面での準備のことを書いておこうと思います。

 

 

 

お住まいの地域の医療費助成は何歳まで?

お子さんが小さいうちは自治体により医療費の助成制度があるところがほとんどじゃないかな、と思います。

小学校入学まで、小学校在籍まで、中学まで…地域の財政状況によって差があると思いますが、私が住んでいる自治体では中学生までは助成の対象になっているため、15歳になる年の年度末(3月31日)までは医療費を自治体が負担してくれています。

本当にありがたい制度なのですが、残念ながら高校生になる春からは大人と同じ3割負担(これは個人差があると思いますが)に移行してしまいます。

 

この春で助成が切れてしまう前に歯科治療を済ませておいたりしたほうがいい、とママさんたちの間でも話題になっていたりしますね。

 

さて、助成が終わる年齢に達した次男は定期的に通院している精神科の診察やお薬の処方についても大人と同じ負担割合になることになります。

 

その負担を少しでも軽減してくれる国の制度が自立支援医療制度」です。

 

自立支援医療制度とは

自立支援医療制度は、心身の障害を除去・軽減するための医療について、医療費の自己負担額を軽減する公費負担医療制度です。

自立支援医療制度の概要 |厚生労働省

精神科への通院、肢体不自由や視覚障害の方の手術など一部のハンディのある方に対する医療費負担を軽減してくれる制度で、精神科への定期的な通院がある次男はこの対象になるだろうと病院からお話があり、中学卒業と同時に申請が必要だと考えていました。

 

公費負担の額は収入などにより変動があるようですが、精神科通院の場合は医療費の1割負担程度になるケースが多いように聞きました。

 

この制度では通院している精神科1ヶ所と薬局1ヶ所を登録、そこでの診察や処方に対して負担軽減措置が取られます。次男は利用していませんが、デイなどの福祉利用の登録もできるようです。

 

我が家の申請の流れ

右も左もわからなかったので、とりあえず役所の障害福祉に関する課に行ってみました。次男の卒業を控えた2月末だったと思います。

 

窓口の担当の方が申請の流れを教えてくださいました。

 

  1. 医療機関に診断書の作成を依頼する(県の様式あり)
  2. 診断書と印鑑、保険証、マイナンバーに関するものなど必要な物を揃えて再度窓口へ
  3. 窓口で申請書を記入して、診断書を添えて提出
  4. 自治体から県に送って審査
  5. 受給者証を送付

 

という流れになっているようです。

診断書の様式や必要なもの、申請書をどこでどう記入するかなどは自治体により違いがあるかもしれません。

 

申請にかかる時間に要注意…!

医療制度のサポートを受けることができるのは「申請の日から」となっています。

つまり、我が家のケースであれば4月以降の通院の前に申請ができていれば負担額が少なくなる、ということになります。

 

ただ、その通院日に受給者証が届いていない場合はひとまず通常通りの負担割合になる可能性があるようです。

私がネットで見た情報では申請したときに仮の書面が発行されてそれがあれば本式のものが届く前から1割負担になる、と書かれているものもありましたが、病院からは「届くまでは通常の負担割合で、審査に通ったら差額を遡って返金する」と説明を受けました。

役所の窓口で申請したときに仮の書面などは預かっていませんので、届くまではとりあえず3割負担でお支払いをすることになるようです。

(この辺りは地域差や病院による対応の違いがある可能性があるのでネットの情報を当てにせずに直接問い合わせをしたほうが良いと思います)

 

私が次男の申請書を提出したのが3月の初めです。

その前段階として病院に診断書を依頼し、2週間くらいの待ち時間がありました。

 

役所の窓口では「申請してから審査の結果が出て書面が届くまで2〜3ヶ月かかったりすることもある」と言われました。

 

つまり、4月の通院日に確実に間に合わせようと思ったら逆算して4ヶ月程度前の年末ごろから動いておく必要があった、ということだろうと思われます。(受験の方に頭がいっぱいでとてもそんなこと思いつきませんでした…)

 

また、次男は月1回の定期通院をしているので診断書のお願いが電話1本で済み、次回の予約日に間に合わせてもらっての受け取りになりましたが、もし通院期間に開きがあったりして診断書を出してもらうために改めて診察の予約を入れて…ということになると診断書作成までの期間をもっと長く見込む必要が出てくるかもしれません。

 

4月に間に合わせたい!ということであれば

診断書の作成期間+申請から結果が出るまでの期間

を見積もった上で4月から逆算して早めに申請しておくと安心かもしれないですね。


と書きましたが、地域によっては申請は何ヶ月前から、というしばりがあったりするというお話もいただきました。

また、診断書の有効期限がある可能性もあるので一概に早ければ早いほどよいと言えるわけではないかもしれません。


個別の状況の違いもあるかもなので、年末から年明けくらいに役所の窓口で相談しておくと概要がつかめるかもしれないですね。

 

また、まだ先の話ではありますが、この制度は毎年更新、2年に1回の診断書提出が必要になる結構手のかかる制度ではあります。


この申請、向こうから期限が来ますよーというお知らせはどうもなさそうな感じです。

更新時期を忘れないようにして期限前(こちらは3か月前から受付のようです)に更新手続きに来てくださいね、と役所の方からも言われました。


今回は本人が受験を控えていたこともあり私が主導で申請をしましたが、更新の時には次男も一緒に手続きをしに行こうと思っています。

 

おわりに

そういえば今回の申請にあたって次男に「こんな制度があるんだけど、君の名前で申請をしてもいいかな」と話したら「そんなのがあるんだねえ、ありがたいねえ」と安心した様子でした。

今はお薬代もさほど負担は大きくないけれど、今後自分で賄っていくことになったら少しでも負担が少ない方が親としても安心。継続的に医療とお付き合いをしながら自分のメンテをして社会とうまく付き合っていってくれたらなぁと思っています。

 

まだ申請をしたところまでの段階なので今後どんな風に制度を利用していくことになるか全く見当がつかない状態です。

また記録できそうなことがあったら続きを書きましょうね。

次男、高校で合理的配慮の提供を受けるまで① 〜入学前編〜

グーグルさんから「ブログの収益がかなり落ちてるよどうしたの!」ってメールが届いてブログを覗いたら1ヶ月以上更新してなかったことに気づいているスズコですこんにちは。

 

私の2月から3月上旬にかけては、不登校だった三男がじわじわと登校を始めたことの対応に追われながら、本丸は「次男くん初めての高校受験」に尽力する日々。

とてもブログなど書ける場合ではなかったんだなぁと振り返っております。

(ツイートはしてたけど)

 

さてさてそんな慌ただしく落ち着かない時期を経て、我が家の次男坊、無事第一志望の県立高校に合格いたしまして、春から高校生になれることが決まりました。

 

合格と同時に私には進学準備に加えてもうひとつの大仕事が。

受験の前からあちこちと少しずつ相談していた「高校での合理的配慮」について、いよいよ始動することになりました。

 

「合理的配慮とは何か」ということについては過去記事をご参照くださいませね。

suminotiger.hatenadiary.jp

 

個人情報の関係もあるし思春期の子供のことなので書けないことも出てくるかもしれませんが、後続の皆様にとって少しでも参考になればと思うので記憶が新しいうちに書けることを書き残していこうと思います。

 

今回は入学前編です。

 

高校での「合理的配慮」ってどんなもの?

まず大前提として高校における「合理的配慮」とはどういう話なのか、ということを確認しておきましょう。

高等学校における合理的配慮については、平成28年より施行されている障害者差別解消法 第七条「行政機関等における障害を理由とする差別の禁止」で定められています。

2 行政機関等は,その事務又は事業を行うに当たり,障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において,その実施に伴う負担が過重でないときは,障害者の権利利益を侵害することとならないよう,当該障害者の性別,年齢及び障害の状態に応じて,社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない。

次男の進路である県立高校は「行政機関等」に当たるため、合理的配慮の提供は「法的義務」があることになります。(私立高校は商業等その他の事業を行う者に当たるため「努力義務」となり、強制力がやや緩和されています)

 

具体的には、定期考査を別室で受けたり、板書の撮影許可など、それぞれの生徒が抱える困難に応じて必要と思われる配慮を提供する義務がある、ということになります。

 

高等学校の合理的配慮の申請手順(大分県の場合)

次男の受験に当たって、どんな手順になっているのかをネットで検索してみました。

大分県では県教育委員会のサイトに合理的配慮のことが記載されています。

www.pref.oita.jp

リンク先のリーフレットに詳しく記載されていますが、大分県では高等学校の合理的配慮の提供についてマニュアルが定められているようです。

生徒が意思表示をし、申し込み書類を提出、その後学校が教委や中学などと相談しながら提供項目を選定し、提供するかどうか決定するような流れになっています。

さらに提供後は定期的な面談などを通して実施内容の確認や見直しの検討などが行われる仕組みになっているようです。

 

ここまでを読んだ段階で「中学よりはるかに制度が整っている…」とまず感じました。

中学校では「合理的配慮」という言葉を知っている先生の方が少ないくらい。

平成28年からの施行なので次男の中学入学時にはすでに現場に周知が進んでいてもおかしくなかったはずなのですが、なかなか話を通すのが難しかった記憶があります。

 

ただ、このマニュアルだけの内容だと「本人が申請した内容について学校が判断して返答する」と読めるため、上記過去記事で記したような合意形成プロセスに基づいた双方のやりとりが保証されていないのではないか、とちょっと不安に思っていました。

 

入学説明会で尋ねてみました

先日、入学説明会に参加してきてきました。

 

説明会の始まる前に受付にいた職員の方に

「合理的配慮の提供をお願いしたいと考えているのでご相談をしたいのですが、どうしたらいいですか?」

と尋ねたら

「終了後に事務室でお話伺いますからそちらへどうぞ」

とサラッとお返事がいただけました。

 

教職員に対する周知がある程度整っているのだろうな、という印象です。(中学だとここでキョトンという顔をされるのが予想できる程度の周知なので…)

 

説明会会場の指定された席には入学に際して必要な情報がぎっしり詰まった冊子や書類がたくさん。

入学式に提出しなければならないらしいたくさんの書類の束の中に「合理的配慮の提供について」という文書が入っていました。

 

その書面には、合理的配慮の説明とが書かれており、提供の希望や提供に向けての相談を希望する方は下部を切り取って必要事項を記載して入学式の日に提出を、と書かれていました。

 

(入学式に提出して間に合うのか…)

とその時は正直言って思いました。

中学でも入学前に小学校との連携があっていたし、入学前に対応について学校に出向いてお話をさせていただいていたので、入学式の文書提出からで果たして彼の高校生活は大丈夫なのか…!と一気に不安になりました。

 

入学説明会の中では様々な説明の中で合理的配慮について説明する時間が取られ、必要な方は書類の提出を、また詳しく話したい方はこのあと事務室へ、というお知らせがありました。

 

いざ、事務室

説明会を終え解散、次男と2人、広い校舎の中をどこを歩いていいのかわからずフラフラし、大きな高校生が教室の中にひしめいている光景に恐れおののき小さくなりながらなんとか事務室までたどり着きました。

 

事務室を覗いて「入学予定者ですが合理的配慮についてのご相談に伺いました」と伝えると担当の先生が出てきてくださり、別室へ通されました。

 

対応してくださったのは生徒のメンタル面をサポートする大元の先生で、ほかにスクールカウンセラーや特別支援コーディネーターなど複数の担当者がいらっしゃるとのことでした。

 

ご挨拶をしてから尋ねられたことに次男と私がそれぞれ答えていきます。

まだ中学からなんの引き継ぎもない状態なので高校サイドの情報はゼロの様子。

次男の診断名や特性の様子、小中で受けて来た支援の内容などをお話ししました。

 

「担当する先生方と共有しなければいけませんから」とゆっくり丁寧にメモをとってくださる様子に、右も左も分からないような状態の先生に対して話をして来た小中の頃とは違う安心感がありました。

 

お話を伺った内容を簡単にまとめると…

  • 合理的配慮の申請があった生徒について、校内でチーム対応する
  • 次男は通級に通った経験があるので診断書の提出は不要だと思われる
  • 発達検査も校内で実施可能(支援学校から派遣がある)
  • 発達検査の結果や聞き取りなどから本人に必要な配慮について面談を重ねて検討する
  • 1学期の間に検査や面談、会議を重ね、配慮を試してみて、本人に必要な支援を固めていく
  • 定期的に支援が生きているかの検討を重ねる
  • 本人とはスクールカウンセラーと特別支援コーディネーターがこまめに相談の機会を持って学校生活をサポートする

という感じでした。

在校生ですでに合理的配慮を受けている生徒さんもおられるようで、手順もしっかりと整っている様子でした。

 

とりあえずは今日のお話を教職員で共有した上で、入学式に書類を提出していただいてから改めて対応をしてくださる、というお話をして、学校を後にしました。

 

おわりに

学校とゆっくりお話ができて、とりあえずいまの段階でできることは一旦終了かなぁという感じです。

あとはこれから、本来の入学準備に取り掛かることになります。

書類の山と格闘せねば…

 

入学式に書類を提出した後の流れについては、また追って記録していこうと思います。

大同電鍋がやってきたので書きたいことを書きたいだけ書くよ。

前回チラッと書いたんですが、悩みに悩んだ末に我が家に大道電鍋がやってきました。

 

リンクを貼れるのが6合のものしかなかったのですが、私が購入したのは10合のもの。

10合のものは売り切れているようです。人気だねえ。

 

どちらにしようか悩みましたが、家族も多いし大きい方にしましたが、結果的には正解だったと思います。

 

電鍋ってなに?

台湾からやってきた電鍋ですが、1950年代くらいから日本で作られていたものと同じ仕組みの家電です。

f:id:suminotiger:20210211100741j:plain


1955年

▽国産初自動式電気釜発売
従来のものは手動式電気釜であった。
炊飯が終了すると自動でスイッチが切れることから、
自動式電気釜と呼ばれた。
内釜の外にも水を入れるのが特長で
三重釜と呼ばれた。

炊飯器の歴史│炊飯器でおいしいごはん│家電製品・機器情報│家電機器│製品分野別情報│JEMA 一般社団法人日本電機工業会

私たちの親世代は見覚えのあるやつじゃないかなぁと思います。

台湾で今もスタンダードなのは上記と同じ保温ができないタイプですが、日本向けに売られているのは自動で保温に切り替える機能がついているものです。

 

水を入れた外釜を加熱することで内釜全体を鍋ごと蒸しあげて加熱する仕組みです。

外釜に入れが水がなくなったら自動的に加熱スイッチが切れます。

入れる水の量を調節することで加熱時間を調整することができる仕組みですが、気温や中に入れるものの量によってスイッチが切れるまでの時間はかなりマチマチです。

この曖昧さを許容できるかどうか、というのが電鍋に馴染むかどうかのカギになるかもしれません。

デジタル表示で残り時間がわかる、なんていう便利な仕組みではないので、スイッチがいつ切れるかは今のところやってみないとわかりません。

途中で鍋のふたを開けることはできるし、スイッチを自分できることはできるので、自分で微調整しながら使う家電、という感じです。

 

電鍋でできること

楽天市場の大同電鍋のサイトでは「炊く・煮る・蒸す・温める」ができると書かれています。

 

外釜に入れる容器としては付属のステンレス製内釜はもちろんですが、耐熱性のある容器が色々使えます。

f:id:suminotiger:20210211113032j:plain

この画像は下で煮物、上で茶碗蒸しを作ったときのものです。

下はニトリの取っ手が取れる鍋シリーズ「TORERU」の20cm鍋

着脱ハンドル鍋フライパン6点セット(TORERU)通販 | ニトリネット【公式】 家具・インテリア通販

上はHARIOの耐熱ガラス製保存容器の大

 をそれぞれ使用しています。

 

外釜の内径は27cm弱なので、蒸気が上がる隙間を見越したら付属内鍋と同じ24cm程度の容器まで使用可能だと思います(上に行くほど内径が広い作りにはなっています)

 

取っ手の取れる系のフライパンや鍋なら加熱にも耐えるし加工をしているので付属の内鍋より洗いやすい。ティファールパール金属を使っているフォロワーさんもいらっしゃるようですが、私は地元で手に入りやすく安価なニトリの商品を重宝してます。

ニトリで購入した耐熱ガラスの長方形保存容器も蒸し物に便利に使ってます)

 

画像の中で私がやっているようにお箸を渡して上に別容器を乗せたり、長方形の容器をずらして重ねたり、盆ザルなどを利用して重ねたり、セイロを使ったり、重ね方はアイデア次第でどんどん広がります。

 

そういう、創意工夫の可能性が無限大なのも電鍋の魅力のひとつかもしれないなぁと思います。次はどんな風にやってみようかな、って考えるだけでワクワクするんですよね。

 

f:id:suminotiger:20210211113805j:plain

この画像は私の思いつきでやった「パン・ド・ヴィアンド」に挑戦したときのもの。

正式なレシピはこちら

note.com

インスタでお友達が作っているのを見てレシピ検索したら「これは電鍋でもいけるのでは…!」と思いついて試してみました。

使っているフライパンは上記のTORERUの20cmのもの。

 

f:id:suminotiger:20210211114226j:plain

水分が抜けにくいのかな、ふわっとした仕上がりで子どもたちにも好評でした。

煮込みハンバーグと同じ味と食感のものが手軽に出来上がる感じかな。

 

私は素焼きのハンバーグのカリッとした焼き目が好きなので、タネを一部分けておいてオーブンで別に焼いて頂いたのだけれど、数ある調理手段の中で電鍋にできないのはこの「カリッと焼き目をつける」という部分くらいかもしれないなぁと思います。

 

目も手も離せる!

ちなみにこの日はパン・ド・ヴィアンドの下で別の煮物をセットして放置して、別の調理や他の家事をしている間に勝手に出来上がってくれていました。

 

直火ではないので加熱しすぎて焦がしてしまったりすることもなく、完全に目を離してしまえるのも電鍋の大きな魅力のひとつだと思います。

 

先日も2段調理をセットしてその間に犬の散歩へ。

 

この日の加熱中は鍋の蓋がカタカタなる音がかなりして、留守番をしていた子どもがちょっとびっくりしたようでした。

カップ半分くらいの時だと全くカタカタならないこともあるようで、水の量が多いとカタカタが大きかったり時間が長かったりする感じ?その辺の曖昧さも電鍋の可愛いところです。

 

外釜の水分がなくなったらスイッチが自動的に切れます。

スイッチを入れる時に保温のスイッチをオンにしておけばそのあと自動的に保温に切り替わり、オフにしておけばそのまま通電せずに放置する形になります。

 

お昼休みに自宅に戻って晩ご飯の煮物を保温なしでセットして、帰ったらまた外釜に水を足して温め直して食卓へ、なんてこともできてしまいます。

 

作る料理に合わせてどちらにするか選べるのも便利ですし、カレーのように焦げやすいものでも保温中に焦げ付くこともなく安心しておいておけるのも魅力ですね。

(説明書のは「保温は3時間程度まで」と書かれていますのでそこは要注意)

 

私はまだ挑戦してませんが、保温機能を使えばサラダチキンのような低温調理も多分できます!

 

お手入れも簡単なのです、うふふ

なんかもう大同電鍋のダイマみたいになってきてしまいましたが、最後に気になるでしょう、お手入れのこと。

 

説明書には外釜は電源部分に水がかからないようにすれば水洗いOKと書かれているのですが、私は怖くてまだそれはやったことがありません…。

 

台湾で売られているものは電源コードがマグネット式で外れるタイプのようなのですが、日本国内で流通しているのはコードが外れないタイプ。

コンセントから抜いてシンクに引っ張っていって…という手間を考えたらちょっとめんどくさいし、なんか怖いし、というわけで、お手入れは基本的に使用後の拭き上げのみです。

 

煮汁や蒸し汁が外釜に落ちない限りは水しか使っていないので汚れはあまりつきにくいのではないかと思います。

内鍋を出してまだ熱が残る外釜内をキッチンペーパーでくるーっと拭けばそれだけでキレイに。もう一手間かけたいときはアルコール入りのウェットティッシュで拭き上げています。(ブログに書いたことがあるか記憶があやふやですが我が家はノー布巾ノー雑巾生活なので基本的にキッチンペーパーとウェットティッシュですべてまかなっています)

 

一度だけ、おでんを長い時間煮込んだ時に外釜に汚れがついてしまったことがありました。

 

直後に拭き上げましたが汚れが取れなかったので、まだ熱のある外釜にカップ半分くらいの水とクエン酸を入れて蓋をしてしばらく放置。

冷めたころにキッチンペーパーで拭き上げたら元通りピカピカになりました!(画像撮っとけばよかった!)

焦げを作ったらクエン酸百均のお掃除用ので十分取れましたよ〜〜。

 

 

おわりに

いいところ便利なところを書き並べたら終わりが見えない電鍋ですが、そろそろ記事をおわりにしましょうか。

 

電鍋を注文してから手元に届くまでのやく2週間ほどの間、「あぁ今ここに電鍋があったら使えるのに!」と何度も思いました。

 

そして手元に届いてからの約1週間、欠かすことなく毎日何かしらの調理に電鍋を使っています。

 

電鍋の一番大きな特徴は「わざわざ使ってない」ことなんですよね。

調理家電を買ったら「それを使うためのメニューを考えて、結局飽きる」というのが私の過去に何度もあったんですよね。

 

肉まんを蒸してみるとか、ルーロー飯を作るとか、電鍋が来たらやろう!と思っていた調理はもちろんあるんですが、基本的にはそれまでと変わらず毎日調理していたものと変わらない料理ばかりを作っている感じです。

 

ぶっちゃけて言うと「電鍋でないとできないこと」って多分ないんですよね。

コンロと電子レンジとオーブンがあれば出来上がる料理と同じものを、電鍋を使ってやってる感じ。蒸し物も電鍋ならおいしくできるけど蒸し器使えば同じことできるし、同じくらい美味しくできる。

 

でも、そういう色々使いこなしてあたふたする時間を全部取っ払って「セットして放置」ができちゃうのが電鍋の何よりの魅力なんだろうな、と思うのです。

 

電鍋きてから本当にご飯作るの楽になったよ!

手抜きしてるはずなのに美味しいものがちゃんと出来上がるから家族にも好評。

これまで電子レンジで作ってた茶碗蒸しも「全然違う!すごく美味しい!」って子どもたちが大喜びしてくれて、母ちゃん感激です。

 

あれもこれもやってみたいな、と思わせてくれる電鍋。

今日は午後からお洗濯大会の予定なのだけど、その合間にジャガイモと卵を一緒に蒸して晩ごはんのポテトサラダ調理に挑戦してみようかな、と企んでいるところです。

またツイッターで報告するね、ではでは!

産後「夫にこうしてほしい」と思うときそれが「私になって」ではないかはよく検討した方がいいという話

先日、ずっと気になっていた「大同電鍋」をついに購入いたしまして、さてその紹介記事でも書こうかしら、と思っていたところで何気無く呟いたツイートに「ブログに書いて」とリクエストをいただきましたので、今日はそのことについて書こうと思います。

 

「泣いたら抱っこする母親と諸々確認して放置の父親」の話とTwitterの反応

数日前にTwitterでバズってたツイートなんですけれども、私はこんな感想を書いてました。

 

このツイート主さんの過去のツイートが色々アレだったこともあるらしく、また内容に関しても賛否を読んでいろんな方が言及されてました。

 

「泣いたら抱っこ」というのを肯定する声もたくさんあり、その中でふと目に留まったのが、赤ん坊が泣いたら自分と同じように抱っこして欲しいんだ、という母親目線の主張でした。

 

気持ちはわかる、けれど思うこと

長男が生まれてすぐに泊りに行った夫の実家でのこと。

やっと寝た長男を夫に任せてお風呂に入っていたら聞こえてきた泣き声。

夫も義父母もいるから誰かが…と思っていたのにしばらく泣き止まず、我慢しきれず風呂から飛び出し、髪を拭く間も無く長男のいる客間にダッシュして抱っこ。こいつらに二度と任せるか!とムキーーーーー!っとなったあの日を思い出したりもしました。

 

そんな自分の経験があるからこそ、思うことがあるのです。

それが、今日の最初のツイートでした。

 

産後の「ガルガル期」に陥りがちな「私になって」という願望

自分で書いていてとても胃がキリキリするような話なのですが、産後のメンタルが不安定になりやすい時期、夫に対して「こうしてほしい!」と強く思うことが色々とあった記憶があります。

 

泣いている赤ん坊を抱っこせねばならない!という自分の中に湧いてくる感覚のように、母親(ここで母と限定していいのかどうかはわかりません)の「直感としてそうしたほうがいいと感じること」「本能的にそうしたくなること」という感覚に支配される感じがあったような気がするんですね。

 

これは産後だけでなく、妊娠中に突然人に触られるのが嫌になったり、身の回りの片付けをしたくなったり(妊娠中に読んだ本に「巣ごもり期」と書かれていた記憶があります)というような、エビデンスに基づいた知見ではなく、本能という言葉がふさわしい野生的な感覚が湧き出てくるような、そんな経験がありました。

 

その、湧いてきた本能的な欲求に突き動かされるような側面がありつつの産前産後の自分にとって、目の前の夫が同じ感覚で動いていないように見えることが時に大きなストレスになっていたような気がしています。(そういうエントリもかなり書いてきましたねえ)

 

当時を振り返って、あの頃の私が夫に求めていた、求めようとしていたことは「エビデンスに基づいた正しい育児をしてほしい」という冷静で論理的な要求というよりは、「私と同じやり方をして安心させてほしい」「私のやり方が良いのだからそれに従ってほしい」という、「私になって」だったような気がするのです。

 

そして、夫にそれを突きつけることで夫婦間のすれ違いが起こりやすかったことは、このブログでも何度も書いてきたことだと思います。

 

ガルガルな私と、一歩引いて冷静な夫

当時の私を夫は「育児ノイローゼってこんな感じなのかなと思ってた」と振り返ります。

私は私で精一杯頑張ってきたと思うけれど、ときに子供に寄り添いすぎたり心配しすぎて判断を誤りかけることも。

そんなときにガルガルした私を冷静な言葉で落ち着かせてくれて、本当に子供のためになるのはどんな判断かを一緒に考えてきてくれたのが父親である夫でした。

 

子供たちが全員思春期に入った我が家、私は産後のガルガル期をとっくに抜けているはずなのですが、それでもやっぱり子供のこととなると冷静ではいられなくなることもしばしば。

 

何かを判断したりするときには夫と情報を共有し、彼の視点からの意見を聞いていますし、いまだに「あぁ自分は不安に駆られて冷静でなかったな」と思わされることも。

 

客観的な情報をもとに行動を見直してみる

ここまで読んでみて非常に穏やかで平和な家庭のように思われるかもしれませんが、いやいや夫婦間で意見が合わないことも、その態度はひどい!と私が怒ることもしょっちゅうあります。

 

夫が表出した言葉や態度が自分のよしとするものと違ってくることは日常茶飯事。

 

その中でこれは放置しては子のためによくない、と思うときは指摘して話をする場を持つことが多いです。

思春期の子に対して夫が取る態度が子供を傷つけたり頑なにしたりする様子を察知して夫に指摘する、そんな場面が最近は多いかな。

 

私が夫の言動の是正を求めるとき、「私が正しく標準である」というスタンスを私がとってしまったら、話はうまくいきません。

 

専門家の知見や主治医の助言、書籍で得た知識や先輩の経験談、科学的なエビデンス、それらある種客観的な判断基準を頭に並べながら、夫(と自分)の言動について整理する。

こういう理由があるから改善した方がお互いのために良いと思う、ということだけ話をするようにしています。

 

もちろん夫から私のよくないところを指摘されることもあり、その時も同じようにどう改善した方が良いのかを上記のような客観的な情報をもとに考えようと心がけてはいます。

 

違う脳みそを持った違う人間だから

言葉にすると至極当たり前のことなのだけれど、夫婦として暮らしているとつい疎かにしてしまいがちだなぁと思うのです。「私とあなたは別の人間」ということを。

 

自分が何かに邁進しているときに同じ速さで並走してくれたら、同じ感覚でフォローしてくれたら。

その溶け合うような感覚はきっととても心地よくて、弱っているときは特にそれを求めてしまいたくなるものなのかもしれない。

 

でも、もともと他人で、たまたま縁あって一緒に暮らしているだけの、違う脳みそと違う体を持った全く別の人間なのだから、考え方も子に対するスタンスも、違っていて当然なんですよね。

 

よく「両親が同じスタンスでいないと子供は混乱する」と言うけれど、我が家の子供たちはかなり小さい頃から私と夫それぞれに対して「父ちゃんはこうだから」「母ちゃんはこうだから」とさっぱり割り切っているような気がします。

 

違う人間なのだから価値判断基準が同じなわけないんですよね。

それぞれに考えがある、というのも、それに基づいて行動しているというのも、どちらも至極当たり前のことなんだろうな、と思っています。

 

それは子供たちに対しても同じ。

私の子とはいえ、別の人格を持つ別の人間。

でも母親として彼らに接していたら我が子のこととなるととても冷静ではいられなくなることも当然ある。

そんなときに、自分とは違うスタンスで家庭にいる存在として夫に助けられたことは一度や二度ではありません。

 

最初に紹介したツイートの元のお話は賛否もあるけれど、あの「夫婦で話をしてお互いの違いを面白いと思って互いの行動を見直していく」という姿勢そのものはとても興味深いと私は思いました。

 

私が「私になって」を夫に求めないことが夫婦間の安定の大きな鍵でもありましたし、また夫が自分とは違うスタンスで子供と暮らしてくれているのもまた、私にとっての救いとなっているという、そんなお話でした。

 

おまけ

夫婦間のスタンスの違いについて書かれた本があり産後に読んだ記憶があります。

リンクを貼ろうと今見たら2014年発売になっているけど読んだのもっと前のような…記憶があやふやです。

おぼろげな記憶ですが、類人猿の研究をもとに「母子密着で育つ子供が親離れをしようとするときに子供から母親を引き剥がすのが父親の役目」という、そんな内容だったなぁと覚えています。(不正確で申し訳ない)

この論そのものや本全体に対して全面的に賛同するわけではないのですが、面白い視点だなと思ったのは覚えています。

 

本棚のどこかにはあると思うけれどさっと見つからず再読もできていないままのため、この程度の記述にとどめますが、まぁご参考までに。

 

 

 

 

 

 

 

「何度言ったら」に対しての「伝え方が悪い」はちょっと詰むかもよ、って話。

「今年はブログをこまめに」と言っておきながら全然書けてませんね、相変わらずですね。

 

さて今日はツイッターで流れてきたお話から。

 

元は夫婦関係についてのツイートで、久しぶりに料理する夫に向かって妻が「前にも言ったけど」という前置きで間違いを指摘し、その言い方は傷つくからやめてほしいと言われているような、そんなお話でした。

 

多分そこから起こってると思うんだけど、今朝はいろんな方が「前にも言ったけど」やそこから想起されたと思われる「何回も言ったのに」「何度いえばわかるの」という前置きが言われる側からはとてもしんどく、かつ効果のないものいいであることをツイートされていて、ウンウンそうだよねえ、と思いながら拝見しました。

 

ダイレクトに「その言い方は良くない」と書かれている方もいらっしゃった。

すごい気持ちわかります。我が家の、特別支援を必要とする発達ゆっくりさんがもし学校で先生からそう言われたら「先生その言い方じゃまずいです」と言うと思います。少なくとも支援する立場の人間が使ったらダメな言葉ですね。支援者が発したら「言い方を変えるべき」と強いメッセージを送りたいやつです。

 

ただ、難しいのはそれが、支援者と要支援者の間だけで交わされるやり取りではない時ですね。

 

親子間だと微妙ですね、夫婦間だとまず対等を考えねばなりません。

職場の同僚とのやりとりだったら…

 

関係性によっては「伝え方が悪い」だと関係そのものが破綻しかねないな、とは思うんですね。

 

というわけで、じゃあどうしたらいいのか、を考えてみようと思います。

 

「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」を狩ってみる。

ごくシンプルに「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」などの言われた側が傷つく可能性のある言葉を狩ってしまえば、という解決策がまず浮かぶかもしれません。

 

この解決策は「つい言ってしまうけど漠然とよくないと思っている」人に対しては一定の効果を持つでしょう。

ネット上でこれは良くないよと発信がたくさんあればそれを見て我が身を振り返り、使わないように気をつける方が出るかもしれませんし、それにより救われる方もいるかもしれません。

 

ただし、あくまでも前述のような自覚のある人に対する対策に過ぎません。

そうでないけど言ってしまう人にとっては、自分には何の非もないのに言葉狩りに巻き込まれたようにしか感じないでしょう。効果のある対策ではないし、むしろ悪化させる可能性を心配します。

 

言ってしまう人は何を抱えているのか

なぜ悪化させる可能性があるのでしょうか。

ここで、軽く言っている人から何度も何度も繰り返した結果我慢できない怒りを抱えている人までその程度は様々だ、ということをまず前提として共有せねばなりません。

 

一般化して語るのはちょっと難しいですが、怒りを覚えて何度もそう言う方のことを考えてみようと思います。

 

「何度も言ってるんだけど」と相手が怒っているように見えるとき、そこには「何度も言わされている自分」に対する報われなさがあるのではないか、と思うのですね。

ここで「言わされている」という言葉を使うと言われる側からは「言ってるの自分じゃん」となるんじゃないかな、と思います。ええ、私も面と向かってそう言われたらそう思うと思いますが、あえて相手の視点に立って考えていきます。

 

何度も同じことを伝えているのに相手が意志通りに動いてくれていない、と怒りを覚えるとき、残念ながらその本人には「伝え方がどうか」という視点はないと思います。

 

自分の発信する方法が相手に適していない、という視点はない。

状況が変わらないのは相手がその言葉に応じて行動を変化させないからだ、というものの見方です。

 

あまり耳障りの良くない言葉で表現すると

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスです。

 

「伝え方が悪い」という視点が抱えているもの

では、ここで立場を切り替えて言われる側について考えてみましょうか。

何度も同じことを言われて辛い、頑張ろうと思ってるけれどうまくできなくて辛いのに追い打ちをかけられて苦しい、という心理がありますよね。

私自身も何度も経験がありますし、うちの子たちも直面してるしんどいやつです。

 

そして何より私が我が子に対しての伝え方次第で言動が変わることに日々直面しています。

言い方を少し工夫すればすんなり受け入れられる、ということ、本当によくあるんですよね。学校の先生や支援の立場にいる方も日々経験されていることじゃないかなと思います。

 

ただ、正直なことをいうとその工夫は「簡単で誰にでもできるもの」ではないのも事実です。

発達障害のある子を育てる親として、本を読んだり先輩から教わったり、愚痴を聞いてもらって自分の気持ちを整理したり、いろんな努力を重ねながらやっと頑張ってやっていることでもあります。

そして、驕りに聞こえるかもしれませんが私自身の素養も少なからずその助けになっているとも思います。苦手な人は本当に苦手だろうなと思うんですね。

 

そんな、親でもちょっとめんどくさいハードルの高さがある伝え方の切り替えについて、言われる側から「伝え方が悪い」と言われたらどんな風に見えるだろう、とちょっと考えてみたいのです。

 

ちょっと前章の最後に戻って読み直してみてもらえたらな、と思います。

 

これ、頑なになったらあちら側と同じ

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスと同じに、なりかねない危うさがありませんか。

 

「何度言わせるの」にも「伝え方が悪い」にも秘められた、折り合えなさ

この件についてのツイッターでの発言の中で私はあえて

「伝え方が悪い」

ではなく

「伝え方が受け取り手に適していない」

という言葉を使いました。

 

根っこにあるのは誰が悪いか何が悪いか、ではなく「方法が適していない」というマッチングの問題です。

 

「前にも言ったけど」という表現そのものが悪なわけでは実はありません。

「あぁ前にも言われていたのか、じゃあより気をつけよう」と受け取る人もおそらくは存在するわけです。(それが多数か少数かは私にはわかりませんがいないとは言い切れないですね)

 

「前にも言ったけど」という表現が適さない人間も存在する、というのもまた、事実です。

 

そのマッチングの問題ありきなのに、双方相手の非を責める方向にシフトするとどこまで位っても平行線で、折り合うところは見つけられないだろうなと思います。

 

折り合えない相手もいる

もちろん、相手がモラハラっぽい人だったりすると折り合う以前の問題で「逃げて身を守れ」と解決法を取る必要があることもあるでしょう。

ここら辺はケースバイケースだと思います。

 

このブログでも何度も書いてきましたが、相手と折り合おうと思ったらまず自分が折り合う姿勢を見せなければ始まらない。

ファイティングポーズを取っていたら向こうも身を守るためにそうしますから。

 

自分がその姿勢を見せてもそれでも向こうがファイティングポーズを崩さないなら、折り合うのは無理。「逃げて身を守れ」という助言をするしかないだろうなと思います。

 

みんなそれぞれに苦手の多い人間ばかりかもしれない

発達障害のある次男と暮らしながら、自分も特性ありきで人に支えてもらっての生活。

ハンディのある人間としては「やってもらえたら助かること」はたくさんあります。

でも、息子に対しても自分への戒めとしても、支援者以外の人に対して「やってもらえて当たり前」と思ってしまうと相手から傲慢に見られてこじれてしまうことも出てきてしまうなぁと思っています。

 

そのさじ加減は本当に難しい。

 

やって欲しいことを、相手が察してやってくれたらとても楽。

でもそんなにうまくいく関係ばかりではないから、こちらの特性や性格やメンタルの都合から「こうしてもらえたら助かる」を伝えていくことも大切。

 

相手がプロの支援者相手じゃないなら(まぁプロの支援者も様々だけど)生身の人間として得手不得手があるのもまた、ある意味当たり前のことだったりするわけで。

 

苦手が多い人間としてつい相手に大きを求めたくなったりもするけれど、所詮自分と変わんない苦手の多い人間の一人かもしれないし、という視点は持ってて損はないかなぁと思ったりしています。

 

その上で「苦手がある人間同士、うまくいかないときもあるよね」って関係性の存続を諦めることもまた、一つの解決策かもしれないとも思ったりはしています。

大学入試共通テストの不正の報道を受けてのツイートまとめ【試験時の合理的配慮について】

大学入試共通テスト(センター試験とつい言ってしまいますね)が先週末行われておりまして、こんな報道が出ていました。

これを読んで、こんなツイートを発端として「試験時の合理的配慮」について色々と書きましたので、ブログにまとめておこうと思います。

 

 

「合理的配慮」とは何か

まず大前提として、ここを確認しておかねばなりません。

合理的配慮については以前書いたことがあったのでそちらも参考にしていただければと思います。

 

合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるよう、一人ひとりの特徴や場面に応じて発生する障害・困難さを取り除くための、個別の調整や変更のことです。

2016年4月1日に施行される「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(通称、「障害者差別解消法」)により、行政機関や事業者には、障害のある人に対する合理的配慮を可能な限り提供することが求められるようになりました。

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

 

ざっくりまとめると、合理的配慮とは障害ゆえに権利が侵害されている状況になってしまっているケースで、それぞれの特性や場面による困難によるハードルをなるべく下げたり取り払ったりすることで健常者と同等の権利を保護するための対応のこと。

 

公的な機関には可能な限りの提供義務が、民間機関には努力義務が課せられています。

(ここで詳細を書き記してしまうと恐ろしい長さになってしまうので、詳しくは以前の記事や説明しているサイトなどを参考にしてください)

 

共通テストでの2つの「不正」と障害由来の困難の可能性

今回は、合理的配慮の中でも試験の時の話に限定してまとめます。

前述の記事の中で「マスクから鼻をだしていた」「定規を使用していた」という2点の不正について気になってのツイートでした。

もちろん、これら2つの不正が発達障害と直接的に関係があったと断定することはできません。あくまでも、可能性のひとつとして思い当たったので書き記しておこう、という程度の話です。

 

発達障害ゆえの感覚の過敏で長時間のマスク使用が難しい」いうのは、以前からあったもののコロナ禍で大きな問題として取り上げられることも出てきたと思います。

特定の素材ならなんとかなるというケースもあろうかと思いますし、こだわりなどから鼻を出した状態なら維持できる、というケースがあってもおかしくなかろうとは思います。

 

また、定規の使用に関しても「定規を当てた方が文字が読みやすい」(程度によっては定規を当てないと文字が踊ってしまって読めない、というケースもあろうかと思います)というディスレクシア学習障害の一つで、読み書きの障害)の可能性も考えられます。

 

どちらもあくまでも想定に過ぎませんし、全く別の理由からの行動の可能性も十分にあるということは重ねて書いておきます。

 

とはいえ、どんな障害があろうとも事前に申請なく不正とされる行動をとれば注意されることも、状況によっては受験資格を失うことも仕方がないことです。

 

では、そのような困難を抱えているときにどうしたらいいのか、というお話をしたいと思います。

 

試験時の【合理的配慮】

共通テストを主催する大学入試センターのサイトにはこのようなページがあります。

受験上の配慮案内 | 大学入試センター

発達障害だけでなく様々な障害について、受験の上で必要とする配慮について詳細に記載し、診断書を添付して事前に提出することができます。

 

試験時間の延長や別室での受験、リスニング時の配慮など、様々な選択肢が記載されているほか、それぞれの特性に応じた配慮を詳細に記載して申し入れることができます。

 

私は具体的にこの申請作業をしたことがないので実際にどんな対応を受けるかはわかりませんし、センター試験の頃から実際の事例は公表されてはいないようなので現実にはどの程度の配慮が受けられるものなのかは定かではありません。

 

ただ、障害者差別解消法に則れば独立行政法人大学入試センターは合理的配慮の義務があるため、過剰な予算がかかるなどの理由がなければ拒否はできない立場にあり、また拒否するときは申請者が納得するまで理由を説明する義務を負っているはずではあります。

(とは言ってもそんな、というのは我々当事者親子の多くが現場で度々痛感しているところではありますが)

 

さて、大事なのはここからです。

たとえ入試時に配慮が受けられる仕組みが整っているからといって、誰でもどんな風にでも申請できるわけではない、というのが試験時の合理的配慮のとても難しいところだというお話をします。

 

「試験時の合理的配慮」を受けるために必要な準備段階

すでに2千字を越えていますがやっと本題です。

試験時に合理的配慮を受けようと思ったときに必要なもの、それは【配慮の実績】です。

 

この配慮実績は【対外的な証明】【本人にとっての効果】の2つの側面から必要不可欠になります。

 

合理的配慮の【対外的な証明】としての実績

前述した大学入試センターが発行する配慮の申請書類の中にも【高等学校等で受けている配慮】について記載する項目があります。

個人の思いつきで求めているわけではありませんよ、実際に過去にこのような配慮を受けてきているのですよ、という証明書のようなものです。

 

高校の先生方も必要とみなしている、というお墨付きの意味合いですね。

 

実際にその方法で特性による失点を防ぐ効果がある、と第三者が認めていること。

また、その方法は高等学校等で実施したことのある、いわゆる実行可能性が高い方法であるという証明にもなります。(「そんな予算もかからず簡単にやれるよ」という実例があるということですね)

 

さらに、やってもらえたら確実に本人が助かることがすでに証明されている、という結果の担保もついているということでもあります。

 

通常の試験の実施にさらにプラスアルファで作業や費用の負担を負わねばならないという義務ですから、できるだけ安心が担保されている方が確実に通しやすくなる可能性は高いです。

逆にいうと実績が乏しい案であれば、リスクをかけてまで導入するハードルはより高くなり、様々な理由から却下される可能性もより高くなってしまうかもしれません。

 

三者が認めた実績、というのは配慮を受けるための大きな力を持つ要素として、必要不可欠です。

 

合理的配慮の【効果】としての実績

特性のある子に対する配慮の難しさのひとつが【やってみるまでわからない】。

これは発達障害のある子を育てた経験、指導や支援の経験がある方にとっては痛いほどわかることではないでしょうか。

 

Aくんにうまくいった方法がBくんにそのままうまくいくか、というとそうはいかない。

同じ診断名、似たような特性があっても、実際その子にガチッと合うかどうかはやってみるまで誰にもわからない。トライアル&エラーの連続です。

 

我が家でも次男の様々な困難に対し、ひとつ試してはうまくいかず、また次を試して定着せず、様々な働きかけの末にピタッと合うものがごく稀に見つかる、という、ギャンブルか宝探しかというような毎日。

 

筆箱ひとつ、ノート一冊とっても、どれならうまく扱えるかわからずに3つも4つも買って使ってみて、やっとこれ、というひとつが見つかる、そんな状況です。

 

そんな特性の強い子たちにとって、試験時にどんな配慮が必要かどうかが短い時間でわかるわけがないのですね。

 

授業を受けてみて、テストを受けてみて、その結果をよく精査して。

特性と鑑みてどの部分が特性ゆえに失点しているのか、どんな影響受けてしまっているのか、本人ともよく話し合う必要があります。

 

特性ゆえに失点している部分があるのであればそれをどう補っていくか、と考えていかねばなりません。

保護者がグイグイと介入してどうにかできることではないのが難しいところです。

試験会場に同席するわけにはいきませんから。

 

学校の特別支援コーディネーターの先生など、校内の担当者や支援者とよく相談しながら様子を見て必要と想定される配慮の事例を検討し、小テストや定期考査などのタイミングを活用して実際に試す。

その配慮が結果に反映されているかを確認しながら情報を蓄積し、「どんな配慮が本人にとって必要か」を固めていかなくてはなりません。

 

学習支援の専門家など、当事者を見て配慮の提案が即時できるようなエキスパートも存在するかもしれません。

ですが、現状ではまず出会うのは難しいと考えた方が無難でしょう。

(出会えたら超ラッキーだと思います…!)

 

学校の先生方も特別支援の専門知識があるわけではないケースが多いですし、合理的配慮の事例に対する知識が乏しいケースも、下手したら試験時に合理的配慮が受けられるという事実そのものについても知らない可能性もあります。

 

現状では、保護者がある程度の知識を持って学校に協力を依頼し「入試までに本人にどんな配慮が活きるかを確認するための機会としてテストを利用」していく必要があります。

 

専門家ではない人間がチームとして取り組んでいかねばならないことなので、短い時間で結論を出すのは非常に難しい。

大学入試、高校入試という大目標を目指すためには少しずつでも早めに意識しておく方が効果は得やすいだろうなと思っています。(私がこういうことを言うのは多分すごく珍しいと思います)

 

合理的配慮の材料としての【診断】と【自己理解】

最後に、合理的配慮を当事者が受けるために必要な準備について触れておこうと思います。

 

確定診断の是非

発達障害の診断についてよく「メリットは投薬くらい」と言う話が出ます。

これは私も実際に痛感していることでもありますが、合理的配慮の話になってくるとちょっと様相が変わってきます。

合理的配慮は障害者差別解消法のもとで義務化されているものですから、対象は障害者として診断を受けている人になってきます。

大学入試センターに対する申請書にも医師の診断書を添付する必要がありますし、合理的配慮を受けることを考えるなら確定診断は必須事項になってくるかと思います。

 

知的障害のない発達障害のある子に対して確定診断が必要かどうかと悩むとき、将来的に診断書を伴うような合理的配慮を求める必要があるかどうか、については検討に含めていると良いかなぁと思います。

 

自己理解の必要性

知的障害のない発達障害で通常級に在籍するような子のケースだと、家庭の外で配慮を受ける必要がある中で、保護者ががっつり関わることができるのは小学校までが限界かな、というのが私の実感です。(個人差は大いにあります)

中学になると保護者の見えない部分がかなり増えていきますし、高校になると全く見えません。

 

必要な配慮は何かと考えたり実際に配慮を求めたりする主体は年齢が上がるにつれて保護者から本人へと移行していくことになります。

 

試験時の合理的配慮に関しても、テスト会場で実際に試験を受けるのは自分しかいませんから、当然自己理解をした上でこれは活きる、これは活きない、を自分で判断する必要が出てきます。

 

また、前述した私の過去記事でも触れていますが、合理的配慮は原則当事者からの発信と考えておいた方が良いと思います。向こうから与えられるものではなく、当事者が自分の障害特性を理解した上で必要な配慮を求めることが【合理的配慮の合意形成プロセス】の最初のステップになってきます。

 

本番に会場でどんな配慮を必要とするか(または必要としないか)を決める主体も保護者ではなく本人にあり、本人が必要を感じて求める行動を起こすことがスタートになります。

 

そのためには本人がある程度の段階で自分の障害を知り、特性について自分なりの理解をしておくのが大前提になってきます。

 

また、合理的配慮はある意味での「特別扱い」を求めることになるわけで、本来の意味を違えて理解してしまったら本人のためにも周りのためにもならない、残念な結果を生みかねません。

 

自分の特性を理解し、障害を受けとめ、障害者差別解消法や合理的配慮の合意形成プロセスなどについての正しい理解が伴っていることも、試験時の合理的配慮を受けるための大事な要素になってくるだろうと思います。

 

おわりに

こんなふうに試験のことをたくさん書いておりますが、実は我が家の次男は数日うちに初めての高校入試を控えています。

次男の試験時の合理的配慮について中学に最初に相談したのは入学直後だったと思います。

そこから担任の先生方と色々と相談したり、実際に試せそうなものを試してみたりしながら、結果的に本人の意思もあり次男は合理的配慮の申請なしでの受験に挑むことになりました。

まだあと数回の受験のチャンスがあるので、今回の様子を受けて本人と次の機会にどう挑むかを相談することになっています。(合理的配慮の申請や服薬の調整などいくつかのカードを持っている状態です)

 

最後になりましたが、ツイートでも触れていた合理的配慮の具体例を調べられるサイトをご紹介しておきます。

www8.cao.go.jp

また、この他にも「合理的配慮 事例」などで検索すると様々な学校で実際に取り組んだ事例などをまとめたものを見ることができます。

こんなことも頼めるのか!と驚くようなものもあるかもしれません。

 

余談の余談になりますが、我が子のためにと思って通した配慮が、こうやって記録に残り、誰かにとっての「前例」になることもあるのかもしれない、というのもまた、我々の血の滲むような育児のひとつの成果のかたちなのかもしれないなぁと思うと、過去の苦しみも涙も決して無駄ではなかったと思えたりするのかもしれないという感傷的なことを漏らして、六千字に迫る長いエントリを締めたいと思います。

それは本当に「問題行動」だったのか、という思い出の話

新年の抱負として「ブログをおろそかにしないで書く」というのを掲げた以上、コツコツ書いていきたい、と言いつつ3週目にしてやっと2本目のエントリを書いています。

 

今回は、昨日ふと思い出した、うちの子が1年生の頃のお話です。

 

 

「名前ペンでなんでも書いちゃうので預かってます」

入学式からどれくらい経っていた頃か記憶があやふやなのですが、何かの機会で担任と話をしたときに「そういえば」と見出しの報告を受けました。

 

詳しく話を伺うと、息子が筆箱の中の鉛筆を使わずにノートやプリントに油性ペンを使ってしまう、とのこと。

子どもたちの小学校では入学の時に筆箱の中の道具として鉛筆や消しゴムと共に「油性の名前書き用のペン」を常備しておくよう言われていました。

本来は学校でもらった道具や名前を書き損なっている自分の道具に名前を書き込むために用意しているそのペンを息子が鉛筆代わりにしている、ということのようでした。

 

当然ですが油性ペンでノートやプリントに記入したら下までうつってしまいますよね。

その行為に先生が困って「名前ペンは必要なときだけ使うよう先生が預かります」という対処をされていたようでした。

 

のちにわかった書字の困難

当時の私は、名前ペン使っちゃうのはまずいでしょ〜そりゃ取り上げられるわ〜と思っていたように思います。

息子にも、ちゃんと鉛筆使わないと、と話をしていたんじゃないかな。

 

気にはなっていたものの、そこから特にどうこうすることなく過ごしていたころ、2年生くらいで他の子に比べて連絡帳やノートの字がなかなかマスに入らないことに気づきました。

 

ちょうど、私が発達障害の関係で色々な本を読み漁っていたころ。

これは書字の困難!書きやすいツールを模索せねば!

ほいきたと意気込んで、いろんな鉛筆や太めのシャープペンシルや高温で消えるボールペンなどあれこれ買い集めて息子に試し、宿題で使用したり、学校で使えるか掛け合ったりもしました。

 

「ペンの方が書きやすいんだよね」

書字の困難はその後劇的な改善があるわけではありませんが、本人なりにボチボチサポートを受けながらそれなりに適応しようとしているような感じです。

 

そんな息子が以前、何かのやり取りの中でポツッとこんなことを言っていたんです。

 

「鉛筆よりペンの方が書きやすいんだよね」

 

正確なシチュエーションは覚えていませんが、鉛筆しか選択肢のなかった低学年の頃を思い出しての発言だったような気がします。

その場ではへーっていう程度に受け取っていたのですが、自分の中でゆっくり咀嚼していくうちに自分の中でパチパチパチッとパズルのピールが合っていったんですね。

 

名前ペンを使っていた本当の理由と、それに気づけなかった周りの大人

ここまで読んでいただければ、なぜ1年生の息子が何を書く時も名前ペンを使っていたのか、がお分かりだろうと思います。

そうです、彼にとって名前ペンを使っていたのは「その方が書きやすいから」。

 

逆に言うと「鉛筆で書くのがしんどいから」、だったんですね。

 

でも私も担任の先生も、周りの大人は誰もそれに気づいてやることができなかった。

 

彼はひとりで鉛筆が苦手だということに気づき、自分なりに問題解決のための手段として名前ペンを使っていただけだったんですね。

 

でも当時の担任の先生には鉛筆を使えと言っても名前ペンを使う息子の行動は制するべき問題行動でしかなかったし、それを聞いた私にとっても口頭で注意して済ませてしまうようなこととしての認識しかできてなかったんだな、と。

 

「それは本当に問題行動?」

学校の子供の問題行動について「困らせているのではなく困っている」と表現する言葉を聞いたことがあります。

今回のケースでそれを当てはめてもいいのですが、もう少し発展して考えてみたいな、と思いました。

 

果たして息子は「困っているから名前ペンを使った」のだろうか。

そう考えたとき、着目すべきは「困難」という部分よりも「自分なりの問題解決」のような気がするんですね。

 

もちろんその方法は、大人からしたら何にでもインクを裏移りさせてしまう大変困ったものでしたから、大人が手を入れる必要はあっただろうとは思います。

 

息子は自分なりに考えて、その場で使いやすい道具を選択していたはずだったのに、大人からは「制すべき問題行動」という捉え方をされてしまっていたし、叱られてしまった。

 

おわりに

何をきっかけに思い出したかも定かではない、何年も前の思い出なのだけれど、こうやって「あの時は」と悔やんだり情けなくなったりすることが本当にしばしば。

 

「名前ペンを使った」という時点で口頭の注意で行動を変えようとせず、見逃さず、「そこに何かあるのでは」と考えるきっかけにしてあげられたらよかったのに。

 

問題を起こそうとして取ったわけではない、自分なりのヘルプや問題解決のための自己流の方法だったりする行動が、大人の目から見たら問題行動になってしまう、というのは子どもたちの周りで本当によくあることで、見逃すまい見逃すまい、といつも思っているのだけれどこんな風に、砂が手からこぼれ落ちるみたいに気づかずに過ごしてしまっているんだなぁ、と反省すると同時に、ここから少しでもそれを減らしていかねばならぬなぁと、そんな自分への課題を改めて確認する、年の初めです。

 

 

 おまけのおすすめ

コクヨ 鉛筆シャープ 芯径1.3mm 黒 PS-P101D-1P
 

筆記用具を模索している中で見つけたこの鉛筆シャープシリーズは、書いた感じが鉛筆とそっくり。

まとめ買いして主に自宅学習用に使っています。

 

硬筆用に使っても遜色ないので、かきかたの作品を作るときにもおすすめ。

学校では鉛筆を使わないといけないけど宿題ではちょっと楽をしたい、というお子さんにも便利なんじゃないかな。

 

欲を言えば低学年からこういうのを学校に持ち込むことがもっとフランクになったらいいのになぁ、とは思ったりします。鉛筆の方が管理しやすいだろうことは間違い無いんですが。

スポンサードリンク