スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

そこにある理由が見えるか、見えないか、という話

ごきげんよう皆様。

 

私のこれまでの育児の中でも最大級かつ迅速な対応が必要な事案に遭遇してしまって、詳細は書けないのだけど全力を傾けねばならない対応に奔走しているここ1〜2週間。

 

お話をいただいて本当に嬉しくて原稿を用意していた今週末の「なないろのハーフトーン」さんのオンライン座談会への登壇もこんな状況では、と辞退させていただいたのだけれど、こちらの身勝手な理由なのにとても心配してくれたあんずちゃんをはじめとしたなないろの運営の皆さんには本当に足を向けては寝られない気持ちです。

 

ヨレヨレになりながら対応を続ける日々の中で、私や子供のことを心配してくれるTwitterの盟友、「美味しいもの食べて元気出して!」と甘いものを届けてくれるリアルの友人、心配して家事を今まで以上に手伝ってくれるようになった夫や子供たち…

 

状況改善のために迅速に対応してくれた先生方、相談に乗ってくださっている病院の先生やスクールカウンセラーさんたち。

「助けて!」と声を上げた私たち親子のためにいろんな人たちが動いてくれていて、本当にありがたさを噛み締めているような、そんな毎日です。

 

ブログもしばらく書けないかなぁと思っていたのですが、今朝何気なく目にした作家岸田奈美さんのお母様のツイートから色々と考えたことを書いておきたくなったので筆を取りました。

 

左右に寄せてくれている車とその理由

 

目にしたのはこのツイートです。

添えられている画像には中央に岸田ひろ実さんの愛車が写っているので、この写真とツイートの内容から、岸田さんの車の運転席のドアを開けるために左右の車がそのスペースを取れるよう駐車しているのだな、ということがわかると思います。

 

些細な心遣いがとてもありがたいという岸田さんのツイートであったかい気持ちになって朝から少し気持ちが晴れたのですが、ふと思ったんですね。

「もし岸田さんの事情を知らなかったら、どう見えるだろう」

 

岸田さんが車椅子で運転席に乗り込む、という事情を知らないままこの画像を見たら

「駐車スペースの中央に車を停めてない、車庫入れが下手な方なのかな」

と見られるかもしれないよなぁ、と思ったりしたんですね。

そこにあるあったかい理由を知らなかったらただ運転に失敗したようにも見えたりするかもしれない。でも逆に、こんな停め方をしてるってことは何か理由があるのかもな、と思うことで見方が全然違うものになったりするかもしれない。

 

我が家のわんこ餌事案

似たようなことが我が家でもあったなぁ、と思い出しました。

 

我が家に昨年やってきた保護犬出身のわんこ、実はお皿からご飯を食べられないのです。

 

引き取りを決めてからの準備のなかで、一般的な犬用の水とカリカリが入れられる金属製の食器セットを買いました。

以前飼っていた同種のわんこも愛用していたものです。

 

ケージに入れて餌と水を入れておいてあげましたが、近づきません。

 

そこからはどうやったら食べてくれるか試行錯誤の連続です。

金属製の食器だと光の反射が怖いのかもしれないと思ってプラスチック製や陶器に変えてみたり、高さがよくないのだろうかと浅いものに変えてみたり、何度も何度も形状や大きさ、色や素材を変えてみましたが、やっぱりお皿からは食べません。

 

黒くて浅いお皿に乗せたら一度食べたのでやったー!と思っていたら次の食事ではやっぱり嫌がる。

 

スプーンですくって口元に運んであげたら怖々食べてくれていたので、毎食食べさせていた時期もありました。

 

水はプラスチック製の浅いお皿に入れたら飲んでくれるようになったのですが、同じお皿に餌を入れてもやはり嫌がります。

 

 

苦肉の策として紙を敷いた上に餌を乗せたらすんなり近づいてきたので「何だかわからないけどお皿がこわいのでは」という結論に至りました。

おやつや茹でたお肉などワンコが大好きで食いつきのいい食べ物でも何かに乗っていたら怖がって近づかないので、やはり何かしら嫌な理由が彼の中にあるんだろうなと思います。

 

結局ワンコが一番安心して食べてくれるのは床にカリカリを直起きしたときだとわかり、それからはご飯を床において食後に拭き掃除をする、というやり方に落ち着いています。

 

前置きが長くなりましたが、そんな我が家の愛犬の食事風景を見かけた実家の父が

「皿に入れてやるくらいすればいいのに、かわいそうに」

と言ったんですよね。

 

私たち家族にはここに至るまでの長い長い試行錯誤の日々があったので

「あんな大変だったのに、おじいちゃん何言ってんの!」

っていう気持ちでしたが、確かにその場面だけ見たらそう見えてもおかしくないよなぁ、と思ったりもしたのです。

父には事情を説明してなるほどと納得してもらいましたが、こうやって納得するまで説明しないと理解してもらえないこともあるんだよなぁ、と切なくなったりもしたものでした。

 

そこに理由があるかないか、見えるか見えないか

多分こういうこと、日常的にあちこちで起こってるよなぁ、と思ったりもするのです。

目で見えたものからだけつい判断してしまいがちで、そして相手に相手なりの事情があることに思いが至らないこと、あるよなぁって。

 

Twitterでは日々そんな話がグルグル展開されているし、私もつい「こうすればいいのに」って思ってしまう。

 

余裕がなくなると特に、違う見方をすることがなかなかできなくなる。

 

岸田さんの画像のような車の並びを見かけたときに

「駐車下手だなぁ」と思ってしまうか、

「なにか理由があるかもしれないし」と思えるか。

 

いや、本当にただ駐車が下手な人もいるかもしれないけど、本当に犬を可愛がってなくて床にペッって餌を置いてることもあるかもしれないけど(「SPY×FAMILY」のわんこがいた施設みたいに)でも、そう見えてしまうかもしれない場面にもその向こう側にはいろんなやむを得ない事情だったり、試行錯誤の末だったり、誰かの優しい心遣いだったり、切り取られた画像だけからはわからない物語があるのかもしれないし、それに思いを馳せられる自分でありたいなぁと思ったりしている、そんな朝です。

14歳の性交同意の話から考える、思春期の子供たちのこと。

ここ最近次男の高校合理的配慮奮闘記メインになりつつあるこのブログですが、今日はちょっと違うお話を。

 

昨日かな、14歳と成人の性交同意がどうの、というのがネット上にたくさん流れてきておりまして、Twitterも大変賑わっているのを眺めていました。

 

我が家にもまさに中2の娘がおりますので、全くもって他人事ではないこの話題について、今日はちょっと考えたことを綴ってみようかと思います。

 

 

思春期の「子供」と暮らすという、とても難しい日々

我が家の子供たちはいま、高校生(2人)と中学生、小学校高学年。

思春期(定義として8歳ごろから17、18歳ごろまでを指すとされる)どっぷりど真ん中な4人と暮らしている中で、夫や関わりのある実家の家族たち、学校の先生方と彼らへの対応について考えていく中で「思春期だから」という前提条件を共有しないと話がうまく進まない、という場面に日々直面しています。

それくらい「思春期」というのは対応がとても難しい年代だなぁ、と痛感する毎日なんですよね。

 

バランスの取りづらい心、体、頭

彼らと接していて一番難しさを感じるのは、彼らの「心と体と頭」が乳幼児期、また大人のそれほど、均衡が保たれていない前提で構えねばならない、ということではないか、と考えています。

 

幼少期までに「やってはいけないこと」「やらねばならないこと」という、最低限の知識や生活習慣はすでにほぼ身についている彼ら。

ただ、小さい頃のように「言われたら動く」という行動はもう取りません。

 

しつこく親に言われて苛立つ様子は思春期の風物詩のようなものではないかなと思うのですが、頭ではわかっていても、心が伴わなければ体が動かない。

でも体が動くという表出する行動が出てこなければ結果を出せないのでさらに大人から声がかかる、わかってるのに、やろうと思ってるのに、という苛立ち。

あぁ、当時の自分を思い出して恥ずかしくて穴を掘って埋まりたくなる気持ちになってきました。

 

大きくなっていく体と、ゆっくり育っていく脳みそ

思春期の体はどんどん大きくなります。

うちの兄ふたりももうとっくに私を超え、夫の身長も越えようとしています。

小さい小さいと思っていた娘や三男も、気づけばかなり大きくなってきています。

 

彼らを観察していると、体や自我が急速に育っていくスピードと、脳みそ(とあえて大きく括りますが)の育っていくスピードに差が出ていく時期があるような気がしています。

 

高校生にもなれば見た目はすっかり大人と同等に育ってきますね。

ニキビやまだ幼い顔立ち、肌艶など大人と違うところはままありますが、姿形はもう成人のそれと遜色はなくなる子が多いなぁと思います。

 

また、コミュニケーション能力も同じく育っていくので会話も大人と話しているのと変わらない感じになっていく印象があります。この辺りは個人差が大きく出て、個々の差が開いていく時期でもあるかもしれません。

 

見た目と中身のアンバランス

見た目もやり取りの能力も大人に近くなっていく彼らと接していると、大人と暮らすのと何も変わらないような気持ちになることもあります。

そして当の彼らそのものが「自分は大人に近しい存在だ」と思っているだろうなということも感じます。

 

ただ、じっくり会話をしていくとやはり、その見解には視野の狭さや見識の浅さが垣間見えてくるのも事実です。

先の見通しが甘いことも多くあります。

でもそれを直球で注意されたり指摘されたりするとすごく嫌がる。

 

 

大人に見られたい、でも大人と同等の結果が出せなくてもそれを指摘されたくない、そんなとてもアンバランスな状態で生きている彼らとの暮らしは、わざわざ「思春期だもんねえ」と声に出さないと流せないほど、こちらの接し方が難しいなぁと思うのです。

 

どこまで見えているか、どこまでわかっているか

彼らと接する中でまず一番難しいのは、言葉を交わせる関係を築けるか、というところです。

話を十分に聞かなかったり、大人の論を押し付けたりするとまず心は開いてもらえないので会話の対象には入れません。

 

そこをクリアして彼らと会話していく中で大人が意識しないといけないのは、彼らが「どこまで見通しを立てられた上で話しているのか」という部分です。

会話の能力が大人相応にある子と話していると、ついその判断能力や見通しを立てる能力も大人と同レベルであると誤認しやすくなります。

 

そこが、落とし穴です。

 

どんなに大人と同レベルの会話に長けた子でも、やはり中学生は中学生なりの、高校生は高校生なりの脳みそしか持ちません。

その年齢までの経験しかありませんし、見通しを立てる能力も大人に比べたら劣ります。

 

うまく計画を立てられたと思って話してくれている内容が、大人から見たら穴だらけ、ということはよくあります。

 

でも、前述したようにそこを直球で指摘してもいい顔はしません。

自分では「できる」と思っているので。

 

ここで並走する大人としてできるのは「成功するよう道を整備してそこに乗せること」ではなく「バレないように失敗も想定しつつ、表向きは静かに様子を見守る」スタンスなんだろうなぁ、と思っています。

 

思春期の彼らに対して大人がとるべきスタンス、できること

ここまで整理してきた彼らの状況から、性交同意年齢について振り返ってみたいなと思います。

 

例にあがっていた14歳は法的には未成年なので、大人の庇護下に置かれるべき、守られる存在です。

法的にはその方向で議論していただいて良いのだろうと思います。

 

ただ、現実の彼らと接するときはまたちょっと違う。

14歳でも見た目が大人と変わらないくらい成長している子もいるし、性体験のある子もいるでしょう。性交の快感を知っている子がいてもおかしくはないと思います。

「子供が大人を誘うわけがない」と断定するのは危険です。その行為そのものが彼ら彼女らから表出する可能性は十分あります。

彼ら彼女らの体とコミュニケーション能力はもうその年齢では十分に、大人からそう見える行動を取ることができる程度には育っていると考えてもおかしくはないのです。

 

ここで大人が試されることになるな、と思います。

 

表出する言動を、大人のそれと同等に真っ直ぐに受け止めていい年齢ではないからです。

思春期の子供たちの見せる言動は、その全てが「未完成な人間のそれ」だということ、それを、私たち大人は絶対に忘れてはいけないと思うのです。

 

ここで間違えてはいけないのは「だから大人と同等に扱わなくていい」という話ではありません。

 

まず大前提として法のもと彼らの人権は保障されるべきであり、不当に侵害されてはいけません。

また、発言や行動の責任は法で定められている範囲内で求められるべきことです。

「子供だから大人の言うことをきけ」ではいけないし「子供だから何をしてもいい」わけでもありません。

 

そして、未熟だから丁寧に対応せず適当にあしらっていいわけでもありません。

彼らの精神を守るために、対等な人間として尊厳を傷つけないように接する必要があります。

 

ただ、その前提を守った上で「それでも未熟な言動なのだから、真っ向から受け止めてはいけない」ということを大人が理解し、彼らに適した対応をしなければならないのだろうな、と思うのです。

 

性交同意年齢についても同じです。

たとえ、本当に大人に対して性的なことを誘ってきたり、また大人の同意にのるような素振りを見せる子がいたとしても、大人と同じ世界が見えた上での言動ではないわけです。

しっかりしたことを言っていそうに見えても、14歳は14歳なりの世界しか見えていません。その狭い世界しか見えていない子供がたとえ性的な誘いを見せたとしても、大人としてあるべき対応は「そこにはどんな背景があるのか」を慮り、また保護するために自分にできることを模索することではないかと思うのです。

 

性的な誘いを真っ向から受け入れても責任を問われないのは、大人から誘われた場合だけだと私は思います。

未成年の、それもまだ義務教育下にあるような年齢の子が見せた行動を「大人のそれ」と同等に受け取るのは愚かです。これは、性的な誘いに限らず、どんな問題のあるように見える行動にも言えることです。

 

ここは、大人が絶対に忘れてはいけないことなのではないかなと思うのです。

 

おわりに

思春期の子たちは、個人差はありますがかなり一人前に大人と同等の言動を取ることができます。

高校生にもなると、社会人として求められる行動のほとんどは能力的には実行可能なのではないかなと思います。

(まぁ中卒で働く子もいるので当たり前っちゃ当たり前ですね)

 

でも、前述した思春期の期間、8歳ごろから17,18歳ごろまでの子たち、個人差も大きくありますがどんなに大人に近しい言動を見せたとしても、やはりどこか未完成です。

 

彼らの人としての尊厳を大切に守りながら、でも成人と同じ判断能力を持つわけではないということは決して忘れてはいけない。

そう思いながら今日も彼らと暮らしています。

 

余談ですが、発達障害の特性のある子たちの思春期は、定型よりの子たちのそれよりも桁違いに難しいなぁという印象があります。

具体的にいうと、前述したような心と体と頭のアンバランスさの開きがより大きい感じでしょうか。

 

この辺のこともまた、言葉にしてかけたらなぁと思ったりしております。

今日はこの辺で。

次男、高校で合理的配慮の提供を受けるまで④ 〜まだまだ山あり谷あり1学期編〜

こんにちは、歯がしみるような痛みがあったので「今度こそ早めに!」と意気込んで歯医者を予約したら歯医者さんに「知覚過敏だね」と言われたお年頃のスズコです。

 

ここ最近は毎日のように夕方、三男担任、次男担任からの着信が相次ぎ、たまに娘の担任や長男の学校アプリや部活アプリからのメッセージが立て続けに入る感じの「お母さんとしてのリソースであっぷあっぷな毎日」を送っております。

 

さて、半ば連載のようになっている次男の高校の合理的配慮について、あまり間があくと忘れてしまうので経過を記録しておこうと思います。

 

 初回はこちら

2回目

 3回目

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 3回目を書いてから約半月の出来事をまとめていこうと思います。

 

 

SSWさんと面談してきました

前回の記事の中でも触れた次男の提出物の問題。

担任や特別支援コーディネーターの先生との面談を経て少しなんとかなるだろうか、と思いましたがやっぱりなかなかハードルは高い。

悩む担任と一緒に、何かのヒントが掴めたらと学校に派遣されているスクールソーシャルワーカー(SSW)さんに相談に行きました。

 

スクールソーシャルワーカーさんとは、生徒や児童の問題に対して保護者や教職員と連携して問題の改善や解決のための助力になってくれる専門家です。

スクールカウンセラーさんが本人(保護者、教員含む)とのやりとりがメインなのに対して、スクールソーシャルワーカーさんは周りとの連携に重きを置いた対応をしてくださっている印象があります。

 

私と担任、SSWさんの面談の中での細かなやりとりは個人的なことを含むのでここでは伏せますが、担任の先生はこちらの悩みや対策の提案に対して校内でどう取り組むかをその場で色々と考えてくださり、SSWさんの助言も受けながら忘れ物や宿題の把握の仕方についてたくさんの議論ができました。

 

また、その場で担任の先生が考えた対策を翌週から早速導入してくださり、支給されているタブレット端末を活用した上で彼以外の生徒さんのメリットにもなるような対策をとってくださっているようです。

 

タブレット端末の導入でうまくいきそうな予感と、まさかの落とし穴

筆記の困難もありでメモをうまく取れないこともあるのが露呈してきていた次男のために、担任が必要に応じて支給されているタブレット端末による撮影の許可を校内でとってくれていました。

 

細かな注意点などはある様子ですが、原則彼が必要を感じた場面で黒板や実験記録などを撮影することが認められているようです。

 

これで帰宅後に確認しやすくなる!と喜んで送り出したその日の夕方、担任からの電話で私、膝から崩れ落ちました。

 

「次男くん、タブレットの充電を忘れて登校してるんですよね…」

 

それを伺って、走馬灯のように思いだした事案がありました。

まだ次男が小中学生の頃、移動範囲が広く興味を持てばどこに行ってしまうかわからない次男に何度かキッズ携帯を持たせようかと思案したことがありました。

 

でもその頃に私が毎回出した結論は

「興味のないものを彼が持ち歩きこまめに充電するはずがない、絶対どこかに置いてくる」

 

ここを逆手に取ったのがスマホの導入でした。

ゲームや友人とのやりとりができる端末を手に入れた彼は注意欠損の特性が強くあるにもかかわらず、スマホ購入からまる3年ほど、1度も充電を忘れたことも落としたり無くしたりしたこともありません。

 

そしてここにきて導入された学校支給のタブレット端末。

学校の厳しい規定の中でゲームや動画視聴は厳禁と取り締まられているなんの面白みもないその分厚い板を、彼が大切に扱うはずはなかったんですね。

そこに気づかなかった自分が情けなくて、電話を受けた出先で文字通り膝から崩れ落ちそうになりました…

 

この件についてはその後自宅でタブレット充電用のスペースをきっちり確保し、学校から帰ったら荷物を出してここで充電して…とルーティンの刷り込み直し作業を行いました。(果たして毎日うまくいっているのかは霧の中ですが今のところ担任からその件で連絡来てません…)

 

この辺はすごくADHDらしい特性の現れ方だなぁと思ったりします。

本人にとって価値があるもの、興味関心があるものについては力を発揮するけれど、そうでないものに関してはその力を全くといっていいほど出せなくなってしまう。

 

彼にとってタブレットはうまく使えば困難を軽減するためになるツールなんだけど、興味関心がさほど持てないことで「それを使う」ところまでも行き着けないというのはすごく惜しい。

でも結局は本人にしかどうにもならないことなので、私たちには環境を整えるところまでしかできないんだなぁ、と痛感しています。

 

支援員がつくかもしれないらしい

先日、担任の先生から「学校管理職の会議の中で支援員さんの配置が決まりそうだ」と連絡がありました。

 

支援員の必要性については先生方で検討してほしいとお伝えをしていたのですが、授業中に板書が追いつかなかったり、実習のときに脳が明後日の方向に飛んでいってしまっている様子が見られるとのことで、声かけや荷物整理のサポートなど適宜対応していただけるようになるかもしれないと期待しております。

 

ビジネスバッグを買い足して荷物整理

前回言及した通り、荷物の整理がやっぱり難しく忘れ物が頻発してしまっていたので、本人と相談して教科ごとのケースを用意。

そのケースと毎日持ち帰るタブレットを入れるためにビジネス用のショルダーバッグを買い足しました。

PC用のスペースにタブレットがちょうど収まる感じです。

 

帰宅後に所定の位置(本人の机)で荷物を出す

タブレットを出して充電

→持ち帰ったプリント類の整理(捨てる・私に渡す・保留の3つに分ける)

→翌日の時間割を整理

→宿題をやる

 

ここまでを一連のルーティンにできるよう、取り組みやすい環境づくりをしているところです。

 

おわりに

ここまで書いてきて「こういうことを本来は小中学校までにやっておかないといけなかったんだろうなぁ」と何度も考えてしまう自分がいます。

きっと先生たちもそう思ってるんだろうなぁとも思いますし、これを読んでいる方もそう感じていてもおかしくないようなぁと思います。

 

よく、なるべく早く支援学校に行って自立のための取り組みに入っていた子のほうがその後の経過が良い、という話が親の会でも出ます。

次男に関してもどんな経路を通った方がよかったのか、という後悔のようなものがないわけではなく、困難に直面するたびにルートを間違えたんだろうか、とつい考える自分がいます。

 

でも、そう感じている時って大抵、自分の中に焦りがあったり余裕がなかったりする時なんですよね。

 

落ち着いてゆっくり思い返すと「あ、無理だったじゃん」って思うのです。

 

次男と私のこれまでは、その場その場でその時考え抜いた結果のベターを選んできたじゃないか、と思うのです。

そして同時に「あの頃の次男にこれをやらせようと思っても無理だったじゃん」とも思うのです。

 

「自立までの道のりの中でいつどのタイミングでできるようになるか取り組めるようになるか全く読めない」

 

というのは、発達障害の子を育てていくときに直面しやすい課題なのかもしれません。

 

課題が見えたときが取り組むチャンス

 

という、今突然思いついた名言っぽいものを書き残して、慌ただしかった半月間の記録とさせていただきたいと思います。ではまた次回。

 

おまけの余談。

Twitterでフォロワさんと会話している中で「どうも大分県は県教委がだいぶ頑張ってるっぽいぞ」というのが見えてきました。

タブレット端末の導入に関して今朝新聞記事になっていましたが、九州でも県立高校への100%配備が完了しているのは佐賀と大分だけでした。

次男の合理的配慮のやりとりに関しても、県立高校としてかなり手厚い印象を受けます。

私の比較対象はこれまでの小中学校の対応しかありませんから、手厚さに感動しきりなのですが、もしかしたら他の都道府県との温度差もかなりあるのかもしれません。

 

私のこの連載っぽくなっている次男との奮闘記も、あくまでも大分県のいち県立高校のお話です。

地域や学校が変われば対応も全く変わってきてしまう可能性もありますので、そこはご留意いただけると幸いです。

次男、高校で合理的配慮の提供を受けるまで③ 〜入学して1ヶ月経ちました〜

前回の記事を書いてから1ヶ月経ちました。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

この1ヶ月間、ツイートはダラダラとしていたもののブログの更新をしていなかったことに今気づきました。

次男の入学と三男の登校再開が重なり(プラス娘もなんだかんだ問題の起こりやすい中2を迎え)、夕方にはそれぞれの担任からの連絡が時間差でどんどん入る日もあるような、そんなてんやわんやな1ヶ月を過ごしておりました。

 

さて、そんな1ヶ月を振り返っておこうと思います。

 

次男の特性についての書類提出

入学式の日のお話の中で彼の特性についての書面を出してほしい、と言われていたので(前回参照)、早速診断までの経緯や小中でどんな困難があったか、どう対応していただいてきたか、などをA4で3ページにまとめて週あけに持たせました。

 

前回も書いたと思うのですが、小中学校でこのような書類をこちらから渡したり、渡そうとして断られたりしたことはあっても、先方から求められることはなかったので「読んでいただける!」と意気込みつつ、詰め込みすぎては逆効果かもしれない、とかなり端折る形で作成を進めました。

 

具体的には「聴覚の認知が弱い」「見通しを立てるのが難しい」「疲れやすい」など、彼の特徴的なトピックをあげ、それについての説明を2段落程度でまとめた文章を添えました。

 

また、最後に「発達障害の特性は環境により困難の現れ方が変動しやすいため、高校でどのような問題に直面するか、私たち保護者にも想像がつかない面も大きいです。一つずつ積み重ねていかねばならないかと存じますが、先生方のご協力をお願いします。」と、一番伝えたいお願いを書き添えさせていただきました。

 

連日のお電話と、対応の日々

最初の1週間ほどはオリエンテーションや上級生との交流など授業ではない時間が多かった様子で、本人もそれなりに楽しそうに通っていました。

ただその中でも、指示がうまく理解できずに周りとうまくいかなかったり、以前から揶揄われていた同じ中学の子との諍いなどはあったようで、2日に1回ほど担任の先生から着信がある日々でした。

 

担任の先生は支援の必要な子を担当するのがおそらくは初めての様子で、わからないことだらけだけれど彼のためにできることを、と熱心に様子を見てくださっているようでしたが、彼にかなり手を焼いているだろう様子はお声からひしひしと感じられ、拝むような気持ちで電話でお話をさせていただく感じです…

 

早速浮き上がってきた「提出物」の問題

そんなやりとりの中、私がかなり気になるトピックが上がってきました。

「期限までに提出物を出せていない」というのが複数重なっているらしいのです。

帰宅後にそれなりの確認はしていたものの、カバンを開けるわけにもいかずこちらもバタバタしていたのもあり、確認が不十分のまま1週間ほど過ぎてしまっていた頃、担任の先生からもその件についての心配するお電話をいただきました。

 

家庭で私と次男がサシでやりとりしても埒があかないだろうと思ったので、担任の先生にお願いして、放課後に私と次男、担任と特別支援コーディネーターの先生の4者で面談の時間をとっていただき、状況を全員で確認することにしました。

 

私の申し入れに先生方は即時対応してくださり、4者での面談がもたれました。

 

まず、何がどの程度停滞しているのかを担任の先生の声かけて次男が一つずつ確認。

書類がカバンに入っているかを確認して、紛失や破損がないことも確認できました。

 

次に特別支援コーディネーターの先生の声かけで、どこに彼の困難があるのかを探っていきます。

教室でプリントが配られるのはどんな状況下か、宿題の提示はどんな状況で行われるのか、それらを次男がどう裁いているのか、を一つ一つ丁寧に確認していきます。

 

また、担任の先生が「なぜこれらを提出しないといけないのか」や「これを提出しなかった時に誰がどんなふうに困ることになるのか」を細かくお話ししてくださり、本人も理解した様子でした。

 

ランドセルにプリントを詰め込んで蛇腹にしていた頃に比べたら、破損や紛失なく書類をカバンに入れておけた(自分のクリアファイルに挟んでいました)のは、かなりの成長を感じられる部分ではあるなぁと感心する側面もありつつ、やはりそこから先のステップがまだまだ難しいのだなぁと。

 

先生方との時間をかけたお話は、彼の課題を浮き彫りにする良い機会になったと思います。

 

余談ですが、高校の先生方は一つ一つの指導について、彼に丁寧に「なぜこれが必要なのか」を説明してくれている様子が伺えます。

これは、小中学校ではなかったサポートだなぁと感じています。

「卒業後の社会参加」が近い未来として明確だからかもしれません。

次男の高校では提出物の期限を守れないとき、忘れたことをただ叱るのではなく「職員室に出向き、謝罪の上でなぜ提出に至らなかったかを説明し、今後どう対応するかの申し開きをする」という指導が全体に対してなされているそうです。

「仕事を始めたときにこれができないと困るから」と仰っていました。なるほど納得です。

本人にとってはとても面倒なステップかもしれませんが、やる意義が見いだせないことに取り組みづらい特性を持つ次男にとっては、この丁寧な説明と実戦は社会参加のための重要な訓練だなぁと感じています。

 

1ヶ月かけて見えてきた、色々な課題

さてそんな素敵な話し合いを経てそこから次男くんの高校生活が順風満帆に進み始めたか、といえばそんなことはありません。

 

そこから1ヶ月、本当に何度も何度も先生方と電話でやりとりしたり、体調を崩したと言ってお迎え要請が来たり。

(迎えに行ってゆっくり話してみたらキャパオーバーでした)

 

彼がかなりキャパオーバーを起こしている様子は私にも見えていたし、担任の先生も感じていたようです。

このまま学校に来ることが辛くなってしまわないように、できることをやっていこう、と昨日もお電話で話しました。

 

現段階で見えてきている困難は

  • 板書ができていない部分がある
  • 教科書など学習に必要なものの忘れ物が多い
  • 授業中ぼんやりしていることがある
  • 課題の提出が滞りがち

などで、板書の困難は支給されているタブレットを活用することはできないか、と担任と話を進めています。

また、授業中ぼんやりしていることがあるのは教科書を忘れたりしているのも要因の一つのようなので、持ち物の整理を見直すような段取りを家庭で進めているところです。

具体的には、登校用のカバンを当初用意したものから別のものに変えようか、と検討しています。

 

課題の提出に関しては、教科担当の先生方が居残りで取り組むのを手伝ってくれているようなので、当面はそれを進めながら自宅で取り組むには、という方向を模索していくべく相談をしているところです。

 

おわりに

彼の1ヶ月を振り返りながら、入学式の後のお話で特別支援コーディネーターの先生から「1学期の間に、彼にどんな配慮が必要かを詰めていきましょう」と言われていたのを思い出しています。

 

そのときはそんなにかかっちゃうか〜と思っていたのですが、確かにスタートしてみないと見えてこないものが本当にたくさんありました。

 

これは発達障害特有のものなのかもしれないのですが、「この配慮が必要です」と言い切れない難しさがあるんですよね。

私が「彼はこうだからこうしてください」と言ったとして、現場で本当にそれが必要なのかも、それをやっていただいたら彼に目に見える効果があるかも、本当に未知数なのです。

 

踏み込んでみるまで、過ごしてみるまで、やってみるまでわからない。

 

彼と15年一緒に暮らしている私にも、1ヶ月漫然と様子を見ながら過ごしてみないと取り組めなかったことがたくさんあります。

露呈してしまえば「いやそんなの最初からわかってたじゃん」というようなこともたくさんあるのです。課題の提出の難しさや忘れ物のこととかね。

でも「新しい環境で本人がどの程度できるのか(またはできないのか)」というのも、走り出してみないとわからなかったのが本当のところなんだろうな、と思っています。

 

1ヶ月目で見えてきた課題にチームで取り組んでいく2ヶ月目が、始まろうとしています。

次男、高校で合理的配慮の提供を受けるまで② 〜入学式編〜

こちらの記事を書いてから約1ヶ月が経ちました。

今回はこの続き、入学式の時のやりとりについてまとめたいと思います。

 

 

ドッキドキの1年生

入学説明会のときのことは前回詳しく書いたのですが、その際に「記入して入学式に提出するもの」とされた書類がそれはそれはたくさんありました。

小中でも提出するような家庭環境の調査票や各種検診の予備調査、保険関係のものに加え、授業料の納付や就学援助金、各種奨学金に関する書類など高校特有のものもちらほら。

そしてその中の一つとして「合理的配慮の提供に関して」という書面があり、提供の希望や提供に関する面談の申し入れを希望する方は必要事項を記入して提出を、と書かれていました。

 

次男に負けず劣らずの注意欠損のある私ですが、さすがに当日忘れ物をするわけにはいきません。

入学式のご案内、というプリントに丁寧に書かれたチェックリストと書類の束を何度も何度も確認しながら迎えた当日。

チェックリストの中に入っていなかった「4月1日から当日までの体温チェックシート」という今年度の入学式ならではの書類を自宅冷蔵庫に貼ったまま出かけてしまい、大慌てで取りに帰る騒動があったのは内緒の話です。

 

入学式からのHR

体育館に入る入学生の姿を眺めながら、この中で合理的配慮の申し入れをするのは次男一人なんだろうか…とふとよぎりました。

体格のいい高校生たちはみんな次男の何倍もしっかりしているように見えてしまいます。あぁ私、不安なんだな…と感じながら始まった入学式。

 

余談ですが私はこの入学式でかなり恐れおののきました。

多いんです、教員の数がとにかく多いんです。

各クラス担任(若い)1名と副担任(ベテラン1名と中堅1名)の3人体制。

そのほかにも様々な担当が存在しています。

前回の入学説明会の時に覗いた事務室には10近い机が並んでいました。

在籍生徒数に対する教職員の数が小中学校に比べて桁外れに多い印象を受け、どうしてこんな手厚い耐性が小中学校ではとれないんだろう…と悶々としてしまいました。

 

さて、コロナ禍らしい簡素な入学式を終え、教室へ向かいます。

 

教室では壁沿いに置かれた書類ケースに保護者が列になって書類を入れるよう促されました。

ズラっと並んだケースの一番最後が「合理的配慮の提供について」の用紙で、そこに紙を置いてから保護者席に着席。

担任からのお話やPTA役員決めのやりとりなどが行われ、全体のお話が終わろうかという頃に、副担任の先生から小さな声で「解散のあと事務室へ」と声をかけられました。

本人は先に帰っても良いとのことだったので次男を帰し、私だけ事務室へ向かいました。

 

担当の先生方との面談

事務室に声をかけると別室に通されました。

先日の入学説明会の時にお話を聞いてくださった支援担当の先生の他に、特別支援コーディネーター、生徒指導担当の3名の先生が対応してくださることになりました。

 

まずそれぞれの先生のご担当を説明してくださった上で「現段階でどんな不安があるか、どんなことを希望しているか」と求められ、それに沿ってお話をさせていただきました。

 

先日私がお話ししたことを丁寧にメモを取ってくださっており、どこまで共有して良いか、と尋ねられたので「本人に関わりのあるすべての方に共有してもらっても構いません」とお答えしました。

 

また

「先日のものはあくまでもメモ程度なので、お母さんの方から本人がこれまでに受けてきた支援や生活の中で起こった困りごとなどについてまとめてもらえたらそれを教職員で共有できますが用意できますか?」

と尋ねられました。

 

小中学校ではこちらから先に用意してもうまく共有していただけていなかったサポートシートの類ですが、先方から求めてもらえるのか!とじわっと感動してしまいました…

 

ここからの流れ

コーディネーターの先生が書類の束を見せてくださり「これからの流れです」と説明を。

束の1枚目は私たち保護者が記入する「次男の合理的配慮の提供を求めます」という申請書の雛形です。

 

2枚目以降は

中学へ次男に対する合理的配慮の実績について問い合わせる書面と中学からの回答書

支援学校へ巡回や助言の依頼をする書面

次男に対する合理的配慮の提案書、こちらからのお返事…

と学校間のやりとりに関する文書が続き、最後の1枚は「合理的配慮の再検討」についての書類。

学校に対しての要望のうち設備投資や人員配置など予算面で学校内での対応だけでは難しい案件について、県まで上申してさらなる対応を求めるための書面でした。

 

1枚ずつ一緒に見ながら、今後の流れを説明していただきました。

 

支援学校の巡回では本人の学校での様子を見ていただくだけでなく、必要に応じて発達検査もお願いできるようです。(これは前回の面談の時にも聞いていました)

次男は前回の検査から3年以上あいているため、現状を把握するために検査した方が良いかもしれないから支援学校の先生とも相談しよう、という話になりました。

 

印鑑を持ち合わせていたこともあり、書類の束の1枚目のこちらからの書面をその場で記入し提出。

先生から「これが出たので、ここから次男くんの合理的配慮の提供について学校内で対応していくことになります」とお話がありました。

 

具体的には、まず本人との面談、私からのサポートシートを参考にして校内での彼への対応を検討、在籍していた中学とのやりとり、支援学校からの巡回やスクールカウンセラーとの面談などを重ねながら、1学期の間に校内で彼に対して提供できる合理的配慮についてのリストアップしていきましょう、という感じです。

 

次男が作っていく、実績

話し合いの中で何度も何度も頭を下げる私に対して、支援担当の先生が「いや、とんでもない、お母さんがここまでしてくださって本当にありがたいんですよ」と仰いました。

 

合理的配慮の提供義務が県立高校に課せられてから5年経ちますが、現場での浸透はまだまだ。発達障害の子たちに対して「やればできるだろう」「甘やかさない方がいい」と理解してくれない先生もまだまだたくさんいらっしゃるそうです。

 

法律ができた以上、義務であることを現場にもっと周知してもらわねばならないけれど、なかなかそれは進まない。

次男以外にも対象生徒はいるものの、学校としてもまだ合理的配慮の提供は始まったばかりで、手探りでもあり、また実績も乏しく理解のない先生方への説得力も薄い状態。

 

保護者がこうやって持ちかけてくれて、実際に現場で支援を入れてそれが生きる形で本人が前向きに教育を受けられる場面をひとつずつ作る。

それを「ほらこんなに生きるでしょう」って現場の先生方に見せていける。

 

その実績を作るためには、こんな風に配慮の提供を申し入れてくれることがまず必要なんです。

 

と熱心に話してくださいました。

実績を作っていくためにも、私たち親子の協力が本当に必要だと考えているし、もちろん次男くんにとって少しでも良い高校生活になるように支えていきたいんですよ、とお話をしてくださり、何度も目に涙が浮かぶ面談となりました。

 

 

爆弾としての次男と、礎としての次男

定型発達のお子さんとは違う次男について、「きっと教室の中で爆弾のような存在だろうな」とつい親として思ってしまいます。

彼の言動が教室の中を混乱させたり、彼がいなければ平穏に回るような場面もきっと多くあるでしょう。

 

親としてついそれを心配して、先回りして防ぎたくなってしまう。

予想通り、登校初日に「何か大きなことがあったわけではないんですよ」と前おきをしつつ連絡をくれた担任の先生の言葉からは、彼の扱いについて苦慮する様子が感じられました。

 

あぁやっぱり…と予想以上のダメージを受けながら友人にそのことをチラッと漏らした友人から予想外の言葉をもらいました。

 

「次男くんを担当した経験は、その若い担任の先生にとって一生ものの力になるから」

 

あぁ、確かにあの手厚い体制の高校でなら彼に対して四苦八苦することはきっと先生の今後にとって大きな経験の一つになるだろうなぁ、と思ったりしました。私がお会いした先生方を含め、頼れる知識経験のある先生方も複数いらっしゃるでしょうから。

 

もちろん、余計な手をかけさせてしまうことになるから傲慢になっていいわけではないけれど「こちらが与えてもらうばっかりではないんじゃないかな」という友人の言葉で気持ちが少し軽くなったような気がしました。

 

教室の中でどう扱って良いかわかりづらい爆弾のような次男だけれど、合理的配慮の実績として、また先生方の中での経験として、礎としての彼が3年間通う中で学校に何かを残していくことにもなるんだろうなぁ、とぼんやり考えたりしています。

 

また何か動きがあったらまとめますね。今回はこの辺で。

「ありがとう」から始まったツイートまとめ(障害者差別解消法と合理的配慮について)

次男の高校での合理的配慮のお話の続きを書きたいなぁと思っていますが、今日はその前に、ここ数日話題になっているテーマについてのツイートのまとめを。 ここから始まる一連のツイートへの反応をたくさんいただいています。長くて連ツイでは読みづらいというお声もあったのと、ツイートはどんどん流れていってしまったりもするなぁという思いもあるので、今回大まかな流れを保持した上で一部加筆修正したものをここに保存しておこうと思います。
長いツイートにさらに補足しているので、とても長いです。
 


「ごめんなさい」「ありがとう」「こまっているので助けて」という言葉

前に「ごめんなさい、ありがとう、こまっているので助けてください、が言えるようになるとそこから人生が変わるよ」とツイートしたことがあります。

 

私自身これらの言葉を言うのがとても苦手で、人を頼るのが難しく、なんでも抱え込んでしまっては爆発していた過去がありました。(今もたまにやらかしますが)

自分の失敗やいろんな人の声を聞きながら、これが言えるようになったら楽になる、と実感し、それを呟いたものだったような記憶があります。

 

ここ数日、伊是名さんのブログ記事を発端とした色々なご意見がTwitterを飛び交っています。
伊是名さんご自身に感謝の態度があったのか否か、足りないのではないか、という流れでのご意見も多く見られています。
そのようなお話を眺めながら、過去の自分のこのツイートを思い返した時、「この言葉が難なくスルスルと出てくる生活をしている、というのはとても恵まれている、安定している、ということなのではないか」と感じたのです。
もちろん、私もそうだったように、社会の中でなるべく適応して生きていくため、努力の末にそこにたどり着く方もおられることでしょう。
これらの言葉は「言えると楽に生きられる魔法の言葉」かもしれません。
でも「だから使うべき」という話にしてしまって本当に良いのだろうか、とも思ったりするのです。
 

障害のある子を育てる中での「ありがとう」

障害のある子を育てていく中で、配慮を得るために低姿勢に、穏便に、温和なそぶりで話を持ちかけてなるべくこちらの利を多くしようとするようなハックを我々は使うことがあります。

 

また、ときにそれを人に勧めることもあります。

目の前の我が子の利益のためにはそれが妥当な選択だということを肌感覚で知っているからです。

そしてそれはまさしく、今回吹き上がったような
「低姿勢で申し入れをしてありがとうを繰り返す障害者が受け入れられやすく、またその逆を張ると叩かれる」
という現実を如実に反映しているものでもあります。
 

諸刃の剣にもなり得てしまう、腰の低さ、穏便さ

しかし、現場でそのハックを駆使しながら、ときに「これは諸刃の剣だ」と感じることがあります。

こちらが低姿勢でいることで法律や仕組みの上で義務やすべきとなっているような内容も軽くあしらわれるような結果になってしまったり、あの保護者もこんな風にしてくれたらという教育者・支援者側の感情を左右する要因にもなってしまうからです。

実際に現場でそのような愚痴を聞いたこともあります。

(「あの方みたいに言ってくれたらこっちもねえ…でも…」みたいなね)

 

私も人の子ですから、尻尾を振る犬は可愛いし、上手に助けを求めてくれる人の方が助けたくなる気持ちはわかります。

 

生き抜くためのハックとして、感謝の意思表示を欠かさず、低姿勢で配慮を求めていくということは私自身が実行し、また息子に教えていることでもあります。

当事者の選択肢として実務上間違っていることではない、とは思います。

 

今回の伊是名さんのお話を発端に語られるツイートの中には、支援者や医療関係者などからも同じように「そうすべきなのに」という声がたくさんあったのも目にしました。

現場で交渉するときにはこの方がずっと通りやすいのを私たちは知っているし、実際にそうしている当事者は私も含めてたくさんいらっしゃることと思います。

 

「謙虚でない人間は支援しなくて良い」という価値観と「障害者差別解消法」

しかし、忘れてはならないことがあります。

このハックを声高に提唱することや現場で実行し続けることは、ともすると「そうしない人間は支援しなくても良い」という誤った価値観による線引きを生むことになり得てしまうのです。

 

今回の騒動で私が懸念していることのひとつが、それです。

そしてこれは「そんな価値観は良くない!」という道徳的なお話ではありません。

 

街ゆくみなさんが路上で困っている障害のある方がいて、それを助けるかどうかに関しては、どうぞ善意で判断していただいても構わない、とは私は思います。

避けたければ避ければいい、私人としてその自由は皆さん平等に有していると思います。(この辺り、厳密には法的にどうかが不勉強な部分なので突っ込まれる可能性があろうかとは思いますが)

 

ただ、今回の駅のケースのように、また私が日々直面している教育現場のケースのように「障害者差別解消法」合理的配慮の提供は「国や地方公共団体への義務」と「事業者への努力義務」という形で漏れなく課されています。

 

「謙虚だから助けたい」

人間性に問題があるから助けたくない」

というような、感情で左右されて良いような話を前提とはしていないのです。

 

Twitterの私のTLにも、同じように懸念して、どんな人間性の当事者であっても同じ支援を受ける権利があるのだ、と説いている支援者さん方もいらっしゃいます。私も、そうあるべき話だ、と思います。

 

教育者も、支援者も、駅員も、感情のある人間であることには間違いありません。

しかし、それと、管理者や事業者が業務上課せられている責任を組織として放棄して良い、義務を果たさなくても良い、という話は筋が全く違います。

 

「障害者差別解消法」は対人職に携わる人間全てに関わりのある法律です。

紹介のため過去記事を貼っておきます。

詳細はワード検索していただけたら内閣府の啓蒙リーフレットなど参照できるものがたくさん出てくると思います。

 

障害者差別解消法は、国連の「障害者の権利に関する条約」の締結に向けた国内法制度の整備の一環として、平成25年に公布され、平成28年に施行されました。

私が初めて知ったのは、施行直前の障害児の親の会で開催された勉強会の中でした。

 

長く特別支援教育に携わってこられた講師の先生は「待ちかねていた黒船だ」と表現されていました。

やっと、障害者・児のニーズが現場で通るようになる、個別のニーズに現場が応じてくれるようになる、話し合いのテーブルについてもらえるようになる、と先生はおっしゃり、勉強会の場で、参加した保護者みんなで喜びました。

 

余談ですが、障害者の雇用に関する法律もこの時同時に施行されています。

 

今回の伊是名さんのケースは、障害者差別解消法の合理的配慮の提供義務と、総務省が提唱する合意形成プロセスについての知識がないと理解は難しいと思います。

そのベースがない状態で、自分のそれまでの経験と知識だけで判断してしまっているように見えるご意見が本当にたくさんありました。

 

また、素人ならまだ仕方ないにせよ、教育関係者や支援者など、この法律を知らないわけにはいかないだろうというお立場の方からも同様の声が上がっていて、驚きを隠せません。

 

また後日ブログにまとめますが、次男の高校進学に関しての合理的配慮の話し合いの中でも、窓口となっている支援担当の先生方が「現場ではまだまだ周知が徹底されておらず、自らに義務が課せられていることへの認識が浅い先生方も多くいる」と現場に浸透させる大変さについてお話をされていました。

 

多忙な現場への周知徹底の難しさ

まだまだ周知徹底が足りていないこの法律に関し、私たちが我が子のために丁寧に、時に下手に出ながら申し入れをしていることが、結果的にその認識の浅さを助長させてしまうことになってしまうこともあるんだろうか、と考えることもあります。

 

正解は私にもわかりません。

その場その場でできることをやっていくしかないんだろうとも思います。


勉強会で「黒船だ」と喜んでおられた先生からその後

「保護者サイドからどんどんこの法律を現場に持ち込んでいかないと」

というようなことを言われた記憶があります。

 

当事者が活用しようと意識して動かなければ、現場にこういう法律があるって知ってるよ、って持ちかけていかないと、現場での周知徹底はなかなか自発的には進まないから、と。

 

昨日話題になっていた天声人語の中でも「この20年で現場から亡くなったのは座高測定と蟯虫検査だけ」と触れられていました。

学校現場では人員不足と煩雑な日常業務による多忙が当たり前になっています。

 

今回の件でJR職員の雇用環境について指摘するご意見もありました。

同じようにブラックな環境の事業所や公共団体は他にもたくさんあるでしょう。

 

その余裕のなさのなか、自ら新しい法律の施行について学び、内部を整えていくことが組織として難しいだろうことは私にもわからないわけではありません。

 

しかし、我々はその法に守られるべき当事者のそばで生きているからこそ、せっかく施行されたこの法律が意味をなさないものにならないように、現場で生きて使われるように、忙しさの中で忙殺されてしまわないように、できることをしていく人がいなければならないのかもしれない、とも思うのです。

 

現場の就業環境の改善と、当事者が声を上げるということ

現場の皆さんはただでさえお忙しい。

そこに向けた声を上げるとき、

「もっと忙しくなれ」

とは私は思っていません。

 

先生方の環境も支援者の状況も、駅員さんの負担も、現場で我々やその子たちに対応してくださる方がもっとゆとりのある恵まれた環境で働いていただきたい。

それはその方々のためでもあるし、サービスを受けるこちら側にとっても助かることです。

 

今回の件で「駅のバリアフリー化は進みつつあるのだから個別に言わなくても」というご意見も出ていましたが、筋が違います。


「合理的配慮」は個別のニーズに事業者が対応するものを指します。

「車椅子ならエレベーターがあればいいだろう」は合理的配慮ではありません。

 

合理的配慮は、当事者それぞれのニーズを現場に申し入れることができる、その権利を保障されているところから始まります。

行きたい駅まで電車に乗りたいというのも、この授業を受けたいというのも、保護されるべき当事者の大事な声です。

(ただしそれがその希望の通りに通るかはまた別の話です)

 

その個別のニーズを受けて事業者が実行可能かを十分に検討し、不可能な場合はその理由を丁寧に説明をするプロセスが提唱されています。

(詳しくは上記リンクの過去記事や総務省リーフレット、各自治体などから広報されている資料などをご参照ください)

 

この法律により、ただでさえ多忙な現場にもっと負担が生じてしまうことは否めません。

最大限の実行のための検討や折り合いをつけるための話し合い、実行できない場合の丁寧な理由説明などの義務(または努力義務)を課している法律ですから。

 

でも逆に言えばこれまでは、業務の中で「無理ですね、できません」の一言で断るという障害者差別が容認されてしまっていた、ということでもあります。

 

現場の負担増大の側面に関しては心から、現場環境の改善を求めます。

 

それでも黙っていることはできないから

こんなことをTwitterでつらつらと書いていると、そんな理想論が、とか机上の理論が、とか、現実を見ていない、とか、まぁそんな言葉が飛んできます。

 

ですが、考えてください。

 

その現実を見た上で「お忙しそうだから」と私たちが黙ったら、雇用環境が良くなりますか。

いつまで黙って待てば先生方や駅員さんたちの環境は今より良くなってお話を聞いていただけるようになりますか。

 

「改善されるまで黙っている」ことはできません。

その間にも障害のある子どもたちは成長し、学校に通い、また障害者は街の中で生きているのです。

 

黙って見守れば、その間に犠牲になる当事者が出てしまう。

改善の過程で黙殺されてしまうことも決して許されていいことではないのです。

 

おわりに

今回の伊是名さんのブログ記事を発端にした様々な論争では、色々な論点が複雑に絡み合ってゴチャゴチャになってる感は否めません。

私は彼女の主張ややり方の全てに同調しているわけではありませんし、おそらく私がその手法をとることはそうそうないでしょう。

(三男の不登校から登校再開に至る過程の中でそれに近い場面はあったので、絶対にないとは言い切れません)

 

今回の伊是名さんのブログ記事で書かれている件は障害者差別解消法の合理的配慮についての知識がなければ全体像の把握は難しいのではないか、と思います。

障害のある方は、その人間性や日頃の言動に関わることなくこの法の元に平等に、配慮を受けるための申し入れをする権利が保障されています。

そして、その権利が侵害されたと感じたら、声を上げていい。

その実行可能性を、私たちは潰してはならないと思うのです。

 

また、障害者差別解消法は障害者にのみ関わりのある法律ではありません。

対人職についている方はサービスを提供する側の事業所や団体の一員として提供義務(または努力義務)を負っています。

そして、今は健常者として生きていても将来的にどの段階で障害のある人間として生きていくことになるかは予測がつきません。

 

今、これを読んでいるほぼ全ての方が無関係ではないのです。

 

これをきっかけに一人でも多い方が障害者差別解消法と合理的配慮の提供義務、合理的配慮の提供のための合意形成プロセスについて知ってくださる方が増えることを願って、この長いツイートまとめを終わりたいと思います。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。障害のある家族のそばで生きる一人の人間として、心から感謝します。

ラジオから流れてきた介護のお話が育児とリンクしているなぁと感慨深かった話

今朝次男の軽いパニックに飲み込まれてひとしきり大騒ぎをしたあとのこと。

気を晴らそうと出勤前にワンコを連れてちょっと景色のいい散歩コースまでドライブしていたときにラジオから、ちょっと興味深い話が流れてきました。

 

介護についてのお話のようで「先週は『介護には余裕が必要』というお話を伺いました」とアナウンサーの誘導から。

 

うんうん、育児もそうだよねえ、と運転しながら耳を傾けました。

 

お話をされていたのは理学療法士の方。

認知症介護についてのお話のようでした。

 

介護者に余裕があるかどうかで「天使になるか悪魔になるか」変わってきますね、と話す理学療法士さん。

 

天使や悪魔になるのが介護者なのか介護される側なのかがちょっと聞き取れなかったのですが、育児においても自分の心の余裕があれば子が天使のように可愛いし、余裕がなくなれば悪魔になるよなぁ、そして自分もまた然り…と思ってしまいました。

 

どのように余裕を持つか、というお話が流れていきます。

 

介護をする中で、介護者が困る行動をとる認知症患者さんに直面したときに、医療面から「問題行動だから無くしてしまわなければ」と見られやすい。

 

けれど「異文化」という視点に切り替えて行動を観察したらどうだろう。

 

文化人類学に触れながら、認知症の方の見せる一見問題行動に感じられる行動について、異文化であるという目線で見つめ直してみるようなお話をされる理学療法士さん。

 

自分が当たり前だと思っていることが文化が違えば全く違う側面を持つこともある。その視点切り替えのために自分が進めているのが海外旅行だとお話をされていました。

 

新型コロナウイルスの関係で今は無理だけれど、介護現場の職員を連れてアジア、特にインドへの旅行をすることがあったというお話が続きます。

 

インドでは路上で犬と一緒に寝ている人がたくさんいる。

それを見た職員が「あぁ、廊下で寝ていても何もおかしいこと、ないですよね」と漏らす。

職務としてどうしても「ベッドで寝ましょうね」と促すし、それに応じないと「問題行動である」と捉えがち。

でも「床で寝ても別になんらおかしいことではないんだなぁ」と捉えることで介護者の側に少し心の余裕が生まれる。

 

次のエピソードは牛のおしっこ。

インドでは路上に野良の牛がたくさんいるのだけれど、牛がおしっこをしようとしたところに女性が突然駆け出し、両手でおしっこをすくう。

驚いて見ていたら、女性はそのおしっこを周囲の人にかけ、自分たちにもかけようとしたので慌てて避けた。

ガイドにあれは何かと尋ねたら「牛はヒンドゥー教では信仰の対象なので、そのおしっこをかけることは祝福になるのだ」と説明を受けた。

その文化を知らなければ「おしっこをかける」という問題行動にも見える。

 

このように、文化の違うところへ旅行に出かけると自分の常識が通用しない異文化を身をもって経験することができる。

 

自分たちの常識を疑うこと、一見わけがわからないように見える行動も違う文化があって行われているのだと考えて対応することで自分たちの余裕を持つことができる……

 

短い時間の中で文化相対論や文化人類学レヴィ=ストロースにも触れる、とても興味深いお話でした。

文化相対主義(cultural relativism)とは他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。

レヴィ=ストロースも著書『野生の思考』のなかで、自らを洗練されていると見なす西洋文化圏から「未開社会」と見られていた地域でも一定の秩序や構造が見いだせると主張しています。

 

一見問題行動に見えるものが、実は彼らなりの理由ある行動だった、ということは特性のある子たちとの生活の中でも本当によくあることです。

 私も実体験を書いたことがありました。

 

前述の文化相対主義で掲げられている「自己と異なる存在であると容認し、自分たちの価値のみで判断せずに理解と対話を目指す」という姿勢は、特性のある子たちとの暮らしの中でもとても大きな意義を持つものだなぁと思います。

 

ラジオの中では「心の余裕を持つために有効な手段」として触れられていた異文化という視点。

 

もちろん、床で寝られて困ることもあるだろうし、おしっこをかけられるのは困る。

行動を変容してもらわないと困ることが多いから「やっぱり問題行動じゃないか」と言われてしまうかもしれない。

 

でも、自分の価値観を基軸にして「それに反する問題ある行動だから是正すべき」と見るのか、他者にも自己と違う価値が存在しているのだ、というリスペクトを前提にして「しかしここは変容していただいた方がお互いに共存しやすくなるよね」というスタンスで接していくのか。

 

前者と後者で、自己の心の持ち方も、余裕も、相手の心持ちも、かなり大きく違ってくるなぁ、と思ったりするのです。

 

認知症のある方の介護においてどうかはわかりませんが、特性のある子とのやり取りでは…

 

例えば前記のブログ記事の例で言うと

 

「油性ペンでノートを取るのはいけません、やめなさい」

と問題行動と捉えて行動を変えようとするのと

 

「油性ペンの方が書きやすいんだね、でもそうすると机や下に敷いたものが汚れてしまうから良くないね、裏写りしない違うものに変えたらどうかな」

と話すのと。

 

圧倒的に後者の方が話が通りやすい、これは異論が出ることはないんじゃないかと思うくらい。

 

そして、話者の心持ちとしても

「油性ペンを使うなんて問題行動だ!(だからやめさせねば、いうことを聞かせねば)」と思って接するか「油性ペンを使うということは何か理由があるのかな、なんだろう」と思うかで、心の余裕は全く異なってきますね。

 

これ、別に特性のある子に対する話だけではないですねえ。

 

泥遊びなんか汚れるからダメ!と思うか、泥に入ると楽しいよねえ、でも汚れるからこうしようか、って思うか…みたいに、小さい子を育てていても応用できる。

 

価値観の違う配偶者、ママ友さんなど保護者関係、仕事でもそうかなぁ。

違和感を覚える言動、自分ならそうしないと思うような行動、なんでそんなことするんだろうと思えるようなことに出会ったときに自分の価値観だけを軸にして判断してしまいがちだけれど、同じ日本語を話す似たような顔の人類であってもそこに異文化があるのかもしれないなぁと考えることで少し余裕を持って対応することができるような気がします。

 

ラジオの中で理学療法士の方がお話ししていた中で特に興味深かったのは「共生」についてでした。

 

認知症のある方を管理していくのではなくて、共に生きていく、共生していくのが目標。

そのためには困ったときに「これは問題行動だ」とみなして矯正を考える視点ではなく、相手にも相応の文化があるのだと見て接していくことでお互いに良い距離を保ち一緒に生きていけるのではないか、というお話でした。

 

共に生きていくためのリスペクト。

特性のある子たちと暮らして日々の大変さに追われてしまうとつい私から抜け落ちてしまう視点だなぁと、朝から次男と一悶着やってしまった自分の頭をガツンと殴られたよう。

 

まだまだ修行が足りませんなぁ、と思いながら、散り始めた桜を眺めつつわんこと歩いた、そんな朝でした。

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