スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に勉強するための本」を読んでみました。

先日、TwitterのTLに流れてきて「これは次男に必要なエッセンスが詰まっているのでは…!」と光の速さでポチった本が手元に届いたので、早速読んでみました。

著者は、自身も発達障害当事者であり、ご自身の経験をもとに鬱や発達障害による離職からの復帰を支援する活動をされている安田祐輔氏。

 

低偏差値から国際基督教大学に合格した実績をお持ちだとのことで、勉強に臨むためのノウハウが詰まっている一冊になっているようです。

 

本書の対象となっているのは学生ではなく社会人のようです。

シリーズ(検索したら6冊同じようなタイトルと体裁の本がありました)全体が成人向けなのかは他を読んでいないためちょっと分からないのですが、社会人としてフルタイムで働きながら資格などのために勉強する人を想定している作りになっています。

 

ただ、勉強する時間の捻出の方法については中高生にも十分応用できるものだなぁと感じました。

スマホや百均の雑貨などのツールを活用した勉強法がたくさん詰まっているので本人のやる気さえあれば役立つハックがたくさん詰まっている感じですね。(それが一番ハードルが高いんですが…)

 

想定されている年齢が高く、学校も予備校や資格取得のためのビジネススクールなどを想定して書かれているため、講義に関してやツール活用については年齢が低い層だとすぐに役立つハックはあまり多くないかもしれません。

(もちろん参考にできるものもあるとは思いますが)

 

 

 

「そう、それ!」と思う章立ての妙

第1章はスケジュールと段取りの対策。

第2章は過集中と寝起きの対策。

第3章は理解力と集中力の対策として授業を受けやすくなるハックを。

第4章は継続力と環境づくり対策。

第5章は忘れ物とプレッシャー対策として試験本番に向けた不安解消のノウハウを。

 

網羅されているトピックはどれも当事者であれば「そうそう、それ!」と膝を打つようなものだなぁと思いました。

次男の学習に向けた困難もおおかた含まれているように思います。

 

見やすくまとめられた、見開き2ページごとのハック

それぞれの章の中にさらに3〜10くらいの小見出しがあります。

「スケジュールが立てられない」

「何から手をつけていいか分からない」

「講義を行きながらノートを取れない」

「勉強中ついスマホを見てしまう」

「大事な試験に忘れ物をしてしまう」

など「あぁそれそれ…」とため息をつきたくなるような具体的な困難が挙げられ、それぞれのトピックについて見開き2ページにイラストを添えてまとめられています。(内容量が多く、2ページ以上になっているところもあります)

 

1つの小見出しにつき事例・原因・解決法・工夫イラストがそれぞれ書かれており、ADHDASDそれぞれの特性がどう影響しているのかの解説や、それぞれの特性をカバーするための対策が紹介されています。

 

具体的に紹介されているツールやアプリ

スケジュール管理の対策のひとつとしてGoogleカレンダーが紹介されているのですが、設定の仕方が画像付きで丁寧に紹介されています。

やり方がわからなくなったからめんどくさくてやめちゃう、という経験のある当事者としては非常にありがたい図解だと思いました。

 

他にも学習時間のばらつきを可視化するためのツール「toggl(トグル)」iPhoneNight Shift(設定した時間に明るさを下げたり色調を変えたりする機能)も同様の図解が掲載されています。

 

Androidでのやり方も載せて欲しかったなぁと、そこはちょっと残念ポイントです。

 

他にもEvernoteの活用法や学習アプリなども紹介されています。

私も活用していて足を向けては寝られない「リマインくん(LINEを使ってアラートを鳴らしてくれるツール)」も丁寧な設定手順付きで紹介されていました。

 

また、デジタルツールだけでなく秒針の音が静かな掛け時計や速度を選んで再生できるICレコーダー、耳栓、お風呂で読める防水の参考書など、アナログツールも色々と紹介されていて、試してみる価値ありなグッズがたくさん掲載されていました。

 

いいなぁと思った、質問のやり取り事例

これいいなぁと思ったのが、講義の後に質問をしにいくためのやり取り事例です。

 

次男も苦手なことなのですが、気になったことを質問するハードルがすごく高くなってしまったりしますよね。

聞き方をミスって先生にうまく伝えられなかったり、聞きたいことをうまく話せなかったり。

 

具体的な原稿を自分で作ってパターンを想定しておくことで、その場で困らずやりとりをする準備ができていいなぁと思いました。

 

第3章の「講師に質問できない」のところに質問テンプレートの例が載っています。

 

おわりに

本書の裏表紙に書かれている「勉強に関する困った」がなくなる!というキャッチコピー、読み終えた感想として「そう言える程度の内容は詰まっているな」と感じました。

 

ただ、やっぱり保護者としての感想は「この本の内容を実践しよう!と思えるまでが難しいんだよ…」というところですね。

 

本人に学ぶ意欲があり、なんとかしたいと思っていて、方法を模索している当事者にとっては自分に合った学び方を知るための情報がぎゅうぎゅう詰まった一冊だなぁと思います。

 

思春期の息子にこの本をハイと渡したところで実践への道は遠そうだなぁ…とは思うので私の手元で温めておいて、必要なターンが来たところで役に立つといいなぁ…という感じでしょうか。(あとは自分が勉強したくなったときや仕事に集中したいときに活用できるかもしれない)

 

内容としては特にデジタル関連の話題に関してはどんどんアップデートされていくものなので多分1年も経てば内容が古くなってしまうんだろうなぁとは思います。

 

そういう意味で、購入を考えている方は早ければ早いほど役に立つ一冊かもしれませんね。

街ゆく「わたしの推し」たちの話。

はてなのお題として「わたしの推し」というテーマが上がっていた。

長男を産んで17年あまり、末子を産んで11年あまり、わたしの周りのママ友と呼ばれる人たちが推しを愛でている様を日々のTwitterで眺めている。

 

最近一番多いのは某韓国の男性アイドルグループのような気がする。

ジャニーズを長年愛している友もいる。

 

なぜ私たち世代の女性たちが推しに心を寄せたくなるのかを私は知っている。

子供たちが少しずつ成長していく中で「手を離さねばならない」現実に直面するからだ。

 

私たちが手を出さなくては死んでしまう小さな生き物だった彼らが、自分の足で歩き、自分の言葉で主張し、そして自分の道を歩き始めていく。

 

彼らよりも長く生きている上、彼らを色々なことから守りたい私たちはつい、彼らの人生に介入したくなる。

彼らの人生に転がっているたくさんの石を見つけ、取り除き、彼らを守りたくなる。

 

小さい頃に自宅のリビングでそうやって彼らを守ったように。

公園で道路で、そうやって彼らを大切に守ってきたように。

 

でも、どの時点からなんだろう。

私たちのその守りたい気持ちは、時に彼らにとっての石のひとつになり始める。

 

嫌がられると分かっていても心配でつい要らぬ口を出してしまう。

危ないと分かっていても見て見ぬ振りをるしかない時もある。

子によっては自分から無理に手を離さないと互いに依存しすぎてしまうと思ってこちらから意識して離れる必要があることもある。

 

そんな、彼らの自立を喜ぶべきだと分かっていてもどこか切なく寂しい気持ちを埋めてくれるもの、それが私たちにとっての「推し」の存在なのだろうなと思う。

 

さて、私もそんな「推し」を必要とする人生のターンに差し掛かっている。

 

友人たちのようにいわゆるアイドルや俳優に熱を上げることを考えてもみたのだけれど、どうもしっくりくる出会いがなくて今に至る。

「推し」の存在に救われてきている娘から「推しは作るものではなく、落ちるものだからね」という名言を吐かれたので無理に誰かを選ぶのはひとまずやめにした。

 

それでもなんとなく暮らしている日常の中で、なんとなく「推し」というのはできるものなのだな、と感じている。

私の「推し」たちは今、私が暮らす街の中にいる。

 

1人目は毎日犬の散歩で通る道すがら、旗当番に交代で立っているらしい他校の保護者の中の、あるお父さん。

私の友人の配偶者であり、また子ども同士も仲良しでもある。

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こーちゃんに「旗当番のお父さん描いてや」と頼んだイラストです
(あくまでもイメージです)

 

知らぬ仲ではないお父さんは、旗当番をしながらこちらに気づくといつも満面の笑みで手を振ってくれる。(ご本人はもっと堅気な感じのシュッとした優しい方です)

異性としての好意とは全く違うのだけれど、こちらに笑顔で手を振ってくれて、それだけでなんだか嬉しくなる。

何家庭で順番が回っているのか知らないので、いつそのお父さんに出会えるかの法則が全くわからない。

友人に聞けばいいのだけれど、あえてそれは聞きたくない。

その辺のガチャ要素もまた、会えた嬉しさを増す要素なのかもしれない。

 

2人目は高校生の息子の同級生のAくん。

暑い日も寒い日も自転車で通学をしている(うちの子もそうなんだけど)彼は、私を見かけるとニコッと笑って爽やかに頭を下げてくれる。

ただそれだけのことなのだけど、たまに出会うとやっぱり嬉しくて、今日も頑張ろう的な謎のモチベーションになっているのは事実である。

 

3人目は末っ子の小学校に通う低学年のBくん。

なぜかはわからないけれど彼が入学してきた頃から、その落ち着きのなさと屈託のない笑顔に私はノックアウトされ続けている。

先日は通学路の途中でなぜかランドセルを放置していたらしくお兄ちゃんに怒られながら歩いているところに私が通りかかると「(三男)君のお母さんやん!」とやはり満面の笑みで手を振ってくれた。

多分年末ジャンボ宝くじに当たってもこんなに嬉しくないかもしれないと思う。

たったその出来事だけでニヤニヤが止まらなくなるほど嬉しくて、何度あの笑顔を反芻してはニヤニヤしたかわからないくらい、本当に可愛い。

 

4人(?)目はいつも犬の散歩をする川原でたまに出会う猫の「うし」。

白と黒のマダラ模様だから、と「うし」と名付けたのは娘。

猫の名前としてはいささか不適切な気もするのだけど、見かけたときに呼ぶと甘えた声で鳴きながらすり寄ってくるので本人も満更ではないのかもしれない。

「うし」は鈴のついた赤い首輪をしているので野良ではないらしく、川原では滅多に見かけない。

川原には時々散歩をしにきているのかもしれない。

ごく稀にしか出会うことがない「うし」に川原で出会えるとなんだかすごくいいことが起こったような気がする。

私にとってはかなりの激レアな「推し」のひとり、それが猫の「うし」。

 

私には挙げた他にも何人かの推しが存在していて、車を走らせながら「推し」に出会うと歓喜の声をあげる私に助手席の娘がよく呆れている。

 

よその旦那さんや息子さんを勝手に推しとして愛でるのは倫理的によろしくないのだろうかと思ったりもしたのだけど、先日の朝、旗当番の推しお父さんの妻である友人からLINEが入ってその悩みは一蹴されることになる。

 

「さっき通勤途中に登校中の次男くんに会ったよ!私見て笑顔で会釈してくれてすごく嬉しかった!今日も頑張れる!」

 

私にとって手を焼いて仕方ない次男が彼女のモチベーションを支えるお役に立ったというのは親としてなんだかとても嬉しくて、その日の朝のコーヒーがいつもよりちょっと美味しくなった気がした。

 

うちの子たちもどこかで誰かの「推し」としてお役に立っているのかもしれない。

誰かのモチベーションを上げる一助となっているのかもしれない。

もしかしたらかつての細面美男子の面影を失い巨大化したうちの夫や、初老の私や、うちの保護犬出身のおじいちゃんワンコも、誰かにとっての「推し」として、知らぬ間にお役に立っているのかもしれない。

 

冬休みは登校途中の「推し」に会えないなぁとちょっと寂しく思いつつ、一番身近な「推し」である愛犬にせっせとおやつを与える、そんな年末年始の休みがいよいよ始まりました。

「感謝ポルノ」は余裕のない大人のコストカットの結果なのかもしれないなぁと思った話

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こーちゃんの描いてくれたお弁当

お友達が「俺の描いた絵をブログに載せやがれこのやろう」と愛を込めて言うてきたので今回からたまにエッセイっぽいブログを書くときにそれっぽく載せてみようと思う、そんな今日この頃です。

 

こないだちょっと呟いた「感謝ポルノ」のこと

少し前に末っ子が参加しているスポーツ少年団で「やたらめったら感謝の儀式を求める気持ち悪さ」のことについて呟いたんだけども、言葉足らずな面もありでまぁ色々と飛んできて早々に楽天ROOMのリンクを貼ってミュートしちゃう、というのがありました。

 

リプライの中に私が現場で感じた気持ち悪さを「感謝ポルノ」と表現してくださっている方がおられました。

一時期話題になった「感動ポルノ」をもじった表現だと思われます。

言い得て妙な感じに、あぁなるほど納得!と思ったりもしました。

 

ツイートもしましたが、私は学校やスポーツの活動の中で「やってもらったことに対する感謝をする」ということを教えられることについて否定するつもりはありません。

 

指導者や保護者、いろんな関係者の尽力によって学校生活や各種の活動を行うことができていることは事実だし、そこにどんな人が関わっているのか子供の目線では見通せないものを大人が教えることも、感謝の仕方を指導することもあって良いと思う。

 

ただ、長男が小学校に入学してから約10年、年を追うごとに「感謝をする儀式的なもの」がエスカレートしていっているように見えてとても気持ち悪さを感じるのも事実ではあります。

園児に儀礼的な親への感謝の言葉を暗唱させたり、スポーツ活動に関してもものすごく細かいところまで言及して関わりのある大人に細かな感謝の言葉を言って回るように強要するシーンが見られたりすることもあり、気持ちはわかるけどちょっと行き過ぎなのでは…と感じることがよくあります。

 

前述したように「感謝することを教えること」そのものを否定するつもりはありませんし、儀礼的な感謝の形を覚えておくことが将来身を助けることもあるかもしれないのでさじ加減の問題ではあるんだろうなぁとは思っています。

 

ただ、中身を丁寧に指導するのではなく「感謝の言葉を大袈裟に伝えるスタイルを強いる」というやり方についてモヤモヤとする違和感があるのもまた、事実ではあります。

 

次男くんのお弁当箱

前置きはこのくらいにして。

我が家のファンタジスタ次男くん、高校生になって毎日お弁当を持っていく生活が始まりました。

注意欠損の特性のある彼が毎日確実にお弁当を持っていき持って帰ることなどどだい無理だろうとと最初から覚悟はしていましたが、ほぼ毎日帰宅後に弁当箱を出し忘れ、週に2回は食卓の上に置き忘れたまま登校しています。予想通りです。

 

そんな彼の弁当箱。

先週末金曜日の夜、キッチンに出ていませんでした。カバンからの出し忘れです。

 

いつもならその日のうちに声をかけて自分で洗うよう促しているのですが、たまたま私が夜の用事が入っていて慌ただしくしていたため声かけを忘れ、土日も所用でバタバタしていたため確認を怠り、お弁当箱は月曜の朝まで次男くんの机の上で静かに時を過ごしていたようでした。

 

それに気づいた朝の5時。

サブのお弁当箱もあるし、緊急用の紙箱のストックもある。

どうしようかな〜と思いながらなんとなくその日は彼の自室からお弁当箱を引き取り、洗いながらぼんやりと脳裏に浮かんだことがありました。

 

「やってあげてるのに」という思いと見えない感謝の気持ち

その日の私は時間の余裕もあったので心にもゆとりがあったように思います。

弁当箱を洗いながら「これ、自分が余裕ない時だったら腹立っただろうな」とふと思ったのです。

 

毎日毎日弁当を作ってやってるのに、忘れていったり出し忘れたり、ありがたみをちゃんと感じてるんだろか、ってイラッときたかもしれないなぁって。

 

ADHDで、かつ思春期の次男です。

彼の人となりを知っているから、私がお弁当を作ることについてのそれなりの感謝の気持ちがあろうと推測はできます。また、本当にありがたみを感じていてもそれを表現することが特性的にも年齢的にもやりづらかろう、というのは想像に難くありません。

 

でも表出する行動が伴わない限り、私はその「感謝の気持ち」というものが実在することを確認することはできない、もどかしいなぁと思いながらお弁当箱を洗って、いつも通りにお弁当を作りました。

 

もどかしさとわかりやすい感謝の言葉と

お弁当を作りながら、前述した「感謝ポルノ」のことが頭に浮かびました。

 

このもどかしいお弁当作りの日々に、例えば次男くんが

「お母さんいつもお弁当を作ってくれてありがとう」

というLINEのメッセージをよこしてきたら、手紙を書いてよこしたら。

 

多分嫌な気はしないだろうなぁとは思う。

 

その手紙を彼が書くに至る背景について考えたとき、成長をゆっくり見守りながら年齢相応の教育を施し、自発的にその手紙が書けるまで見守るのはとても気が遠くなるような、コストも時間もかかることだなぁと思ったんですよね。

 

でも例えば学校で「みんなで書きましょう」っていう時間があったら書けちゃう。

 

自発的に感謝の言葉を表出できるようになるまで見守るのは大人の側の負担が大きいことだけれど「ありがとうを言いなさい」「みんなでやりましょう」なら同じ形を外に出せてしまう。

 

今朝の私に余裕がなかったら、私の育児に余裕が持てなかったら、私は「次男の成長をゆっくり見守る」ことより、「やってあげている自分を満足させるためにありがとうを言わせる」ことに主眼を置いてしまっていたかもしれない。

 

コストカットの結果の「感謝の儀式」

あぁ、学校で感謝の儀式がどんどんエスカレートしてるのは、こんなふうにコストをカットしていく過程の中でのことなのかもしれないなぁ、とふと思ったのですね。

 

子どもたちから自発的に感謝の言葉が出るように、年齢に応じて諭し促しながら見守って少しずつフォローしていくような関わり方は、時間も手もかかるし、何よりそれを見守る側の大人に余裕がないと難しい。

 

でも「はい、ありがとうとここで言って」と言えば大半の子どもたちはそれに従って感謝の言葉を述べることはできる。

内部の成長を見守ることなくして形だけの感謝を表出させることもできてしまう。

 

昔に比べてどんどん人手が足りなく、余裕の無くなっている学校ではもうずいぶん前から手軽に感謝の言葉を並べることができればそれでよし、というスタイルに落ち着いていっているのかもしれない。

 

子供たちが感謝の気持ちを持ってくれるような大人の接し方、自然と感謝の言葉や態度が表出できるような環境づくり、多様な子供たちを見守っていく余裕…

 

自分にそれがあるかを問う日々の中、子供に接するところにある方々にその余裕を持ってもらうために自分に何ができるのかを改めて考えたりする、そんな冬の朝のお話でした。

アンガーマネジメントにTwitterが最強なんじゃないか!と思った話。

ここ最近、東京都の特別支援教室に関する長い記事を立て続けに書いてたんだけど、今日は久しぶりにいつものブログっぽい、こんなことあったよ的な記事を書こうと思います。

 

 

こんなツイートをしてました。

ちょうど1週間くらい前、こんなツイートをしていました。

 

先日お会いした方と次男の今の課題について話をしている中で、感情のコントロールが難しいという話題の中で聞いた、なるほど納得なお話を今日は書いてみようと思います。

 

そのイライラ、どんな言葉?

高校の教室の中での感情のコントロールがなかなかうまくいかないのが次男くんの悩み。

その日は、これから繋がれそうな準備段階の支援センターの職員さんとの面談の中でそのお話を聞いてもらっていました。

 

「例えばどんな時にイライラするの?」と聞かれて実際にあったことを色々と話す次男くん。

それに対して職員さんからこんな質問がありました。

 

「そのイライラする気持ち、どんな言葉で表す?」

 

それに対して「ムカつく、とかクソが!とかそんな感じ?」と答える次男くん。

 

次に職員さんが

「じゃあ、その気持ちをだれかに、例えば僕に向けて話をすると思って。そしたらどんな表現になる?」

 

次男は少し考えて

「とても腹が立った、っていう感じかな」

と答えました。

 

言い換えの言葉を探す時間とそれでできる余裕

彼の答えに職員さんがすごく喜んだ顔で「そうだね、いいね!」と返し、こんなお話をしてくれました。

 

今、次男くんが自分のイライラやモヤモヤした負の感情を僕に伝える言葉にしようとした時、少し時間が経ったよね?

そのたった何秒かの間に、君のイライラは頂点から少し下がるんだよ、この感じがわかるかな。

人間の感情って湧いたその瞬間はすごく汚い言葉や言葉になりきれない感情でぐるぐる渦巻いているんだけど、それをその怒りの塊のままで溜め込んだり溜めたものをぶちまけたりしたら、周りとうまくやっていくのが難しくなるよね。

でも例えば今次男くんが言い換えをしたように、誰かに伝える言葉にしよう、と意識したらその言い換えのために脳が動く。怒りという感情で満たされていた脳が、言い換えることに気を取られている間に時間が経って、そのほんのわずかな時間で君の怒りは少し落ち着いて、余裕を持って次の対策を考えたりできるようになるよ。

 

それってTwitter

次男と職員さんのお話を横で聞きながら、母の脳裏に浮かんだこと。

 

「目の前のイライラを文章に書き換えて…それってTwitter!」

 

思えばTwitterを始めた当初から、そんな使い方をすること多かったなぁと思うんですよね。

 

目の前の悲しいことや苛立つこと、そのままの剥き出しの感情として自分の中にぐるぐる持っているのは結構しんどい。

でもツイートしたり、DMで仲良しに聞いてもらったりするために書き出したりする行為をする過程で言葉にならなかったいろんな渦巻いているものが整理整頓されていって、事態が好転したわけでもなんでもなくても自分の中に抱えているものがちょっと軽くなったような気持ちになったりする。

 

実際にツイートする前段階の、「これをツイートするならこんな文章…」って脳内で考えている段階で既にクールダウンの工程は始まっているような気がするんですよね。

 

Twitter以外でも…

ツイートだけじゃなくて、例えば友達に「ちょっと聞いてよ!」ってLINEするとか、ゲームしながら「今日こんなことあってさぁ」って話したり、学校から帰る道すがら「帰ったら誰かに聞いてもらおう」って自分の脳内で反芻する作業だったり、日常の何気ない行動の中でも職員さんに言われたようなクールダウンのステップ、結構やってるのかもしれないなぁと考えたりしました。

 

でも手軽さを考えたらTwitterに敵うものないような気がしたんですよね。

必ずしも聞いてくれる相手を必要としない独り言ツールだし「後でツイートしよっと」って頭の中で140字分の文章を考えるだけでちょっと効果がある。

 

次男みたいに教室の中で手元にスマホがなくても

「あーイライラする、これ後でTwitterで呟こっと」

って思って文章を組み立てるだけで怒りを少し落ち着かせることができる。

 

思えば私も旦那の言動にムカッと来たときや目の前の子どもたちに口を出したいけど堪えた方がいいモヤモヤしたことを抱えているときに、手元のスマホでツイートしたり「あとでこれ呟こう」って考えて頭の中でツイートの文字を並べてみたり。

 

「ただ我慢する」のは辛いから…

これまで学校で次男はよく「とにかく我慢を覚えないと」というお話をされることがよくありました。

私たちもトラブルのたびに「もうちょっと我慢できたら…」と思ったり、実際本人にそう求めてきたように思うんですね。

 

でも、ただただ我慢をして自分の中に溜め込んでいくのはやっぱりしんどい。

次男も我慢をするばかりで解消法をうまく身につけられないことで今も教室でしんどい思いをしてるんだろうなぁと思ったりしました。

 

気持ちの切り替え方、少しずつうまくなってくれたらいいなぁ。

その方法の一つとして、今回教わった「誰かに伝えるための言葉に言い直すことでのクールダウン」を身につけて楽になってくれたらいいなぁと思ったりしています。

 

余談ですがサムネイル画像を何か…と思ってAmazonの商品で「Twitter」を検索したらTwitter社そのものが出てきてちょっとびっくり。

 

東京都特別支援教室(通級)の課題から通級指導教室や支援のあり方を考える。

先月、こんなエントリを書きました。

suminotiger.hatenadiary.jp

1ヶ月が経ち、ここ数日また同じような「通級が2年で切られてしまう!」というツイートが散見されるようです。私のフォロワーさんやブログを読んでくださったかたが私のツイートやブログへのリンクを含めたリプライで注意喚起をしてくださっているようで、私のところにもいくつか通知が届いている状態です。

 

それらを受けて昨夜寝しなにここから始まる長い長い連続ツイートをしたところでした。

 

今日はこの連ツイを再編集しながら今回の騒動から見えてきた通級指導やその他の支援のあり方についてまとめようと思います。

 

まず、正しい解釈を

本題に先立って再度注意喚起をしておきますが、東京都の特別指導教室の再編案に関しては「2年で放り出される」という話では決してない、ということを重ねて申し上げます。

詳しくは上記の、前回ブログ記事に詳細に記録しているのでご確認いただければと思いますが、あくまでも「通常級での合理的配慮の提供」や「校内委員会を設置して必要な支援の検討やそれを施した際の効果の検証を重ねること」が前提と報告書には記載があります。

 

実際に通級指導教室を利用した経験のある保護者さんで、これらの項目が丁寧に行われた上での通級利用だと感じている方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。

おそらくとても少ないのではないかと思います。私も次男が小3から小学校卒業前まで4年近く通級を利用しましたが、それらしいサポートはほぼありませんでした。

 

現在の東京都の特別支援教室へのニーズの肥大化とそれに伴う教員不足の課題を引き起こしている大きな要素がここにあると思われます。

つまり、大前提となるはずの通常級での合理的配慮が十分に行われることなく「困難があるから通級へ」という流れが存在していること、また、通級に通いながら通常級担任と情報を共有して教室への合理的配慮に生かしたり、通級の成果を校内で検討する機関が十分に機能していないため、漠然と長期間利用するケースが多発してリソースを食っていることなどが問題視されているようです。

 

今回話題になっている指針ではこれまで学校内で軽視されてきたその一番大事な部分をちゃんとやりなさいよ、ということがきっちり書かれています。

 

年数の縛りに目が向いてしまうことでこの部分が見捨てられてしまうことはとても惜しいと思います。

 

実際に学校の先生から「2年しか使えないから」という説明を受けたという声も寄せられています。先生方の中でも十分な理解が進まないままで運用が始まるのは非常に危険です。

通常級での合理的配慮の提供や校内委員会の設置は学校の負担も大きく、管理職や現場の先生方としても進んで取り入れたいものではない可能性も高いです。

年数の縛りに保護者が囚われて本質を見失ってしまうことで、本来お墨付きをいただいて大手を振って求められるようになったはずの通常級での合理的配慮や校内委員会の設置というとてもありがたい支援が遠のく可能性があります。年数よりも、そのリスクの方が大きいと私は懸念しています。

 

先生方が無知のまま運用が始まるとしたら、保護者が適切な知識を身につけ、報告書の内容を根拠に支援を求めることが必要になってしまう。危惧していたことですがやはり現実はそういう方向に動き始めているようです。

 

「通級指導が終わる」という不安に襲われた私の話

さて、本題に入りましょう。

今回の騒動で「通級指導が切られてしまう」という動揺が保護者の間に大きく広がるのを見ながら思い出したことがあります。

次男が小4の時に、私はまさにその経験をしたからです。

 

小3で診断を受けた次男、通級指導教室の利用が始まったのはそのすぐ後のことでした。

在籍校には通級指導教室がなかったため、設置されている近隣の大規模校へ親子で週1回1時間、通っていました。(他校通級と呼ばれる方法です)

当時の私と次男にとって、通級指導教室の先生は初めて出会った本物の支援者だった、といま振り返って思います。

在籍校では特別支援コーディネーターという立場の先生はいたものの教室で十分な支援をいただける状況ではなく、合理的配慮という言葉すら誰も知りませんでした。

決まった曜日の午後、在籍校に次男を迎えに行って一緒に通級のある学校へ行き、次男はソーシャルスキルのトレーニングや書字の指導などその時々困っていることについて指導を受けます。訓練そのものというより、何をしても叱られずうまくできたら一つずつ見逃さずに褒められることの方が大きな目的となっていたような気がします。

 私はその間衝立の向こうでその様子を伺いながら待機し、終了後に先生とお話をさせていただいてから一緒に下校、という流れでした。

 

私にとっては次男の困難について初めてこちらを否定せずにゆっくり話を聞いてくれる人との出会いであり、次男にとってはこれまで適切な対応を受けてこなかったことでボロボロだった自己肯定感を取り戻す時間になっていたと思います。

 

次男が小4になって少し経った頃、担当の先生から「次男くんはもう大丈夫だから通常級だけで頑張ってみませんか。他にも希望者がたくさんいるので」というお話をいただきました。

数少ない通級指導の枠に希望者がどんどん殺到していることは私も知っていました。

次男の枠を空けてあげることで次のニーズが埋められる、と頭ではわかっていたのですが、当時の私にはその先生の提案に対し、首を縦に振ることはできませんでした。

衝動的に「無理!まだ無理!」という不安が襲ってきたのです。

 

当時の次男は、取り出しの通級指導教室ではとても穏やかに学ぶことができていました。先生が通級卒業の判断をするのもわかるほど、通級の教室では困難が薄れていたのは確かです。

でも、教室では日々トラブルが多発していました。

授業中の立ち歩きも無くなっていなかったし、お喋りが止まらなくなることも、ほかのお子さんとの喧嘩も、とてもゼロに近づいているとは言えない状況でした。

病院からも通級からも「在籍級の先生に環境調整をしてもらって」と何度も言われますが担任にそれを求めては渋い顔をされ、の繰り返し。

通級指導教室に繋がっていることが私にとっては唯一の支援、支えと言えるものでした。

 

次男よりも私の方が「今ここと切れたらやっていけない!」と強く思ったんじゃないかと思います。先生に頼み込んでなんとか延長してもらい、そのままズルズルと小学校卒業の少し前まで通級指導教室に通わせてもらっていました。

 

通級卒業の少し前から、通級に通うお母さんたちの座談会を始めました。

私が通級指導の後に先生と話す時間に救われてきた経験から「話すことが大事なんじゃないか」と思えてきたからです。先生に協力してもらって他の保護者さんにお声かけをして場を設け、通級の親の会のようなことを始めました。

 

今もその活動は細々と続けています。

 

必要なのは通級指導だったんだろうか、という疑問

当時の不安に囚われた自分を振り返ったとき、本当に必要なのは通級指導だったんだろうか、というのはやはり疑問が残るところではあるのです。

 

あの頃の私に必要だったのは次男を育てていく不安を分かち合ってくれる場や話を聞いてくれる方だったように思います。

あの頃の次男に必要だったのは通常級で合理的配慮を適切に施してくれる環境とそれへのサポートだったように思うのです。

 

私たちはそれを通級指導教室のみに求めていました。

しかし、それは「通常級のみで合理的配慮の提供を受けながら通学することを目指して必要なサポートをする」という通級指導教室の本来のあり方からははみ出してしまうものです。

 

私が「通級が終わってしまう」という不安に襲われた理由はそこにあったのではないか、と思います。

つまり、次男と私に関するサポートの大部分を通級に求めていたから無くなってしまっては困る!とパニクったんだろうと思うのです。

 

今になって思えば、私には親の会などのピアな仲間や保護者としての声を聞いてくれる支援者が、次男には通常級での合理的配慮を求めるために必要な校内チームやスクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、相談支援専門員など通常級で必要な支援について助言をくれる専門家などの支援者が、それぞれに必要でした。

 

しかしながら当時の私たちには知識もなく、学校にそれを求めることもできなかったし、対応してくれる支援者との繋がりは持てなかった。それが私たちが通ってきた現実でした。

 

足りない支援と通級だのみの現状

先月のエントリでは私は

東京都の通級指導に関しては年数の縛りに囚われて本質を見失わないよう、適切な知識を身につけて通常級で合理的配慮を受けるための交渉の材料に

と呼びかけました。

 

いち保護者として我が子を守るためにはそうせざるを得ない現状があると思います。

 

が、全体を俯瞰してこの問題を考えたとき、通級指導単体の課題ではないということもまた同時に見えてきます。

 

私の目につくところでも、通級がなくなってしまったら困る!と動揺している保護者の声がたくさん上がっていました。それだけ、通級指導がその方やお子さんにとって大きな支えになっているということがわかります。

 

しかし、それは「通級がとても有益なものだから」という理由だけではないような気がするのです。

私と同じように、通常級担任に安心して任せられない、通級以外のよすがを持たない、他に頼る先がない、という、通級そのものではない事情が潜んでいるケースも少なからずあるのではないでしょうか。

 

当時の私がたどり着けなかったように、通級以外の頼る先を持たずに、崖っぷちで通級という岩になんとかしがみついている状態の親子が、私たちの他にもいるのではないか、と「通級が続けられなくなる!」という悲痛な叫びを見ていて感じます。

 

もし、今回の件で「通級が続けられなくなったらどうしよう」と不安が募る親御さんがおられたら、一度考えてみて欲しいのです。

 

通級以外の頼る先はありますか?

通常級で安心して過ごすために支えてくれる人たちが通級担当の先生以外にいますか?

 

私が通級以外の支援先を勧める理由

なぜ私がこんなふうに「通級以外の頼る先」「通常級で過ごすための支援」を勧めるのか、についてお話しします。

 

それを紐解く鍵は、いま高校に通う次男にあります。

彼の通う高校には通級指導教室はありません(通級のある学校も稀ですがあります)し、支援級もないので、彼は現在通常級以外の居場所はない状態で学校生活を送っています。(中学にも通級はない地域だったので中学校からそうなのですが)

 

小学校や中学では広がりつつある通級指導ですが、中学でもまだ全国的ではなく、また高校ではない学校の方が多いのが現状です。

 

そして、その高校の向こう、大学や就業先では当たり前ですが、通級指導の先生はいません。

 

しかし、それらの場所で彼らは何の支援もなく頑張らねばならないわけではありません。障害者差別解消法の施行により「合理的配慮を受けながら」学業や仕事に邁進することができる仕組みがもう出来上がっています。

 

発達障害のある子(人)にとって、学校や職場に求める合理的配慮の内容を固めるのは簡単なことではありません。育てている親でも「この子はこれが必要ですからこうしてください」とサクッと言えない難しさがあります。

成長段階やその時の環境によっても変わってくるし、とにかく現場でやってみて合う合わないを試していくしかない。トライアル&エラーの連続です。

やってみたしっくりくるやり方を「自分のやり方」として身につけていったり、「こういう配慮をしてほしい」と公言できる材料にしていったり、とにかく場数を踏んで積み重ねていくしかない。

 

そんな子たちが通級指導のない中学、高校、また社会に出ていく過程の中で自分に必要な合理的配慮を見定めていく何よりの機会が「通常級での合理的配慮の提供」です。

取り出された特殊な環境下での通級指導教室では個別の訓練はできても、自分に必要な合理的配慮がどんなものかを試していく機会にはどうしても限界があります。

 

こんな支援があれば自分はイキイキと学べる・働ける、と進む先で主張するための材料として、通常級での合理的配慮の提供の経験は欠かすことができない大事な要素なのです。

 

そしてそのためには、通常級担任を含む在籍校の校内委員会やチーム会議の協力が不可欠になります。通級の担当教員がどれだけ尽力をしても現場で試してくれなければ実績は詰めないのです。

 

次男は、高校でやっとその協力体制に辿り着き、いま少しずつ教室での対応を進めているところです。対応する中で、もっと前から教室での合理的配慮が試していけていたら今こんなに苦労しなかったのに、という本音が出そうになります。それくらい、積み重ねた実績のない状態・小中の教室での不適切な対応で傷を負った状態での思春期からのスタートは大変なのが現状です。

 

おわりに

子どもたちの未来に、通級指導教室は並走してくれません。

通級指導はあくまでも期間限定の、集団の中での生活に適応するための一時的な訓練でしかありません。それ以上の力を持たない場にそれ以上のサポートを求めることで保護者も現場の先生方もアップアップになっているのが現状ではないでしょうか。

 

進んでいく未来には通級指導教室はありませんが、合理的配慮の提供実績は中学へ、高校へ、就業先へと引き継がれていきます。子どもたちを支える大事な材料になってくれるものです。

 

今、そこがなおざりになってしまっているのはとても残念です。

そして、東京都の今回の特別支援教室再編の内容は、そのなおざりになっている「通常級での合理的配慮提供の徹底」を現場に根付かせるための交渉を後押しする力を持っているものだと私は考えています。

また、東京都の事例があるというのを理由に、他の道府県でも学校への協力を強く求めるための材料にできるだろうとも思います。

 

予算がない、人が割けない、いろんな理由が目の前に立ちはだかるかもしれません。

しかし、私たちがニーズを言葉にしていかないと、求めていかないと、そのニーズがあることすら認識してもらえませんし、先輩たちがそうやって求めてきたからこそ今の支援があるのもまた、事実です。

 

通常級での合理的配慮の提供のためには、先生方のご尽力が欠かせませんし、相談支援事業やスクールカウンセラーなど複数の支援者の助けがあればもっとスムーズになると思います。

 

長くなりましたが、そろそろ終わりにしましょう。

 

今回の東京都の特別支援教室(通級指導)の問題を考えるとき、私が経験してきたようにな「通級指導の先生の他に頼る先が乏しい」という現実について併せて考える必要があろうかと思います。

 

現状、それらが簡単に手に入るような状況ではないから、かろうじて繋がることができる通級指導に頼るところが大きくなりすぎる側面があるのかもしれない。

 

しかし、記してきたような将来に向けてのリスクを考えるとやはり、通常級の合理的配慮の提供の重要性は現場の先生方にも、また保護者や当事者である児童生徒にも、大切に考えていただきたいことだと思います。

 

通級指導のあり方を考えるとき、この「支援先の乏しさ」と「通常級での合理的配慮実績の重要性」について併せて考えていくことが必要だと重ねて記し、長いエントリを終わりたいと思います。

都 特別支援教室の「原則1年最長2年」論を検証すべく報告書を読んだ経緯の記録

Twitterで数日前から話題になっている、東京都の「特別支援教室」について、情報が錯綜していてミスリードによる誤認が広がっている様子が散見されたので報告書をよんでツイートをしました。

長い連ツイですが、流れていってしまう前に備忘録としてまとめておこうと思います。

 

前置き

ことの発端がここか正確に遡れたわけではないのですが、9月22日に都議会議員のアオヤギ有希子さんによるツイートが確認できます。

(すいません、なんかツイートが貼り付けられないので文面だけコピーします)

アオヤギ有希子 都議会議員 八王子市@aoyagi_yukiko
 
特別支援教室に通うお子さん、指導をする教員にとって重大問題が、都から提起!
◆教員配置を10人対1→12人対1に。
◆これまでずっと在籍できたのが→原則一年、最長2年へ。
 
先生一人が担当する子どもが確実に増え、発達に課題を持つ子ども達に寄り添っていない大改悪です。来年度開始阻止しましょう
 
また、10月1日に研究者である野口晃菜さんによりこの件に関する情報を求めるツイートが行われており、そこでも「東京都の通級(特別支援教室)の利用が原則一年となる」「延長期間も最大一年、通級を最大2年しか使えなくなる方針とのこと。」「原則一年、延長一年、その後も利用の必要がある場合は就学支援委員会などで審議が必要。」などのツイートがあり、それらを受けて保護者と思われるアカウントの間で「2年で通級を打ち切られてしまう」「放り出されてしまう」と動揺が広がっている様子が見られました。
 

原典をあたる

動揺が広がっていますが本当に改悪と言えるのかについて疑問が生じたので、原典に当たることにしました。
 

かなり長いガイドラインが分割された状態でリンクが貼られていますが、私が読んだのは一番下の「特別支援教室の入退室等検討委員会報告書」の方です。読みながらの経過ツイートまとめ以下に、読みながらツイートした文章を手直しを入れながらまとめます。

 

読みながらの経過ツイートまとめ

以下に、報告書を読みながらツイートした文面を手直しをしてまとめます。

 

 

「特別支援教室の入退室等検討委員会報告書」令和2年12月に東京都の「特別支援教室の入退室等検討委員会」が作成した文書です。

 

ちなみに前提条件として、東京都は全国的にも異例な「サテライト方式」の通級指導を行っており「特別支援教室」という名称が使われています。

 

障害のある子が在籍する「特別支援学級」と名称は似ていますが、全くの別物です。

 

サテライト方式は平成28年度からスタートし、当時もかなり物議を醸した記憶があります。

この報告書の「はじめに」によると令和3年度に都内の全小中学校への導入が完了するようです。導入完了の令和3年度以降に備え、定着しつつある事業の現段階での課題を検討しさらなる充実を図るための検討委員会設置のように読めます。

 

「I 特別支援教室に関する課題」

入退室(つまり通級指導を利用し始めることと利用を終了すること)についての現状での課題がまとめられています。

前提として「特別支援教室は、学校での学習上又は生活上の困難さを改善・克服し、通常の学級のみで学校生活を送れるようにすること(退室すること)を目的としている」とあります。

 

つまり、東京都における「特別支援教室」はそもそもの位置づけとして「通常級のみで学校生活を送れるようにするためのもの」とされている、という前提条件がある、ということはまず共有しておかねばならない感じですね。 ちなみに、この学校での困難を克服するための自立活動の指導の場であるという意味では全国的な「通級指導教室」の目的も同じだと思われます。

 

今、並行して通級指導教室に関する県の文書を読んでいますが、終了についての項目では

通級による指導は、比較的障がいの軽度の児童生徒が障がいを改善・克服する場として 用意された制度です。また、特別支援学級とは違い、指導に必要な時間を利用する“特別 の場”です。したがって、年度の途中でも市町村教育委員会が決定すれば、対象者として 加わり、障がいが改善・克服すれば、指導が終了します。

大分県教委「特別支援学級及び通級指導教室経営の手引 (75p)

 

と書かれているため、明確な年数は指定されていませんが、東京都以外の通級指導教室でも通常級で授業を受けるのに支障となる困難が寛解したとみなされた段階で終了、ということになると思われます。

 

東京都の報告書に戻ります。

文書の中では、退室の目安を設定した上で「区市町村教育委員会や学校への聞き取りによると、退室を見据えた指導目標の立て方及び指導目標に対する評価の考え方が難しいことなどが課題となっている。」とあります。

目標を達成して退室した児童生徒の割合など、自治体間の格差がかなりあることが伺えます。

指導期間のばらつきについての言及があります。画像で引用します。

 

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小学校では3年以上指導を受けている児童が全体の5割を超えている、という指摘がなされています。

 

ここに続く「指導に関すること」という項目で、自立活動に相当する指導をする場であるが利用の必要な児童生徒の増加に伴い必要な教員数も増加し、経験の浅い教員が特別支援教室を担当する現状を指摘、指導の質の向上が課題となっているように書かれています。

 

ここまでの段階で、ニーズの増加に伴った拡充のための教員数が確保できない現状の中で、3年以上明確な結果を出せない状況を打破する目的がありそうな匂いがしてきましたね。

 

こちらは入室に関する項目の中のフローチャートの一部です。

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通級指導を始める前に、まず在籍学級での支援の必要のための校内委員会が設立され、在籍級での指導と支援、経過観察を必要に応じて繰り返す、というステップが書かれています。

 

その上で「在籍学級での困難さの改善が見られない場合」「特別支援教室の入室の検討に係る校内委員会」が開かれ、支援レベル3相当の要否が判断されて初めて児童生徒や保護者との合意形成→判定委員会での検討の上での入室決定、というフローがあるようです。

 

ここまでを聞いて都内在住の関係者から「そんな丁寧な経緯を辿っている学校がどこに!?」となりそうな話だなと思いながら読んでいます。ここがうまく推移していない学校が多くばらつきが出ているというのが問題視されているのではないかと推測されます。

 

文書内でも、支援レベル1・2に相当すると思われる児童生徒をレベル3とみなして入室させている事例が、などと触れられているので、通常級でやれることが検討されないまま入室を促されるケースがあるのでは、と思われます。

 

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16pに、期間設定をすべき根拠が書かれています。

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通常級の授業に概ね参加できる程度の児童生徒が、授業を抜けての指導を受けることになるため、負担が荷重にならないように(抜ける授業が増えすぎることがないように、という意味だろうか)入室が長期化しないような対応をすべき、という話のように読めますね。

 

続く部分でこう書かれています。

「原則の指導期間を1年間とする」

「1年間でどのように成長・変容しているのか(中略)年度末に向けて確実に検討」

 

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Twitter上で大きく取り上げられている「原則1年」「最長でも2年」の根拠はおそらくここです。

 

ただし、続けてこう書かれています。

 

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「指導期間を定めて指導を終了すること自体が目的とならないよう」 つまり、大人の都合で期間の定めありきのような運用をしてはいけない、という趣旨のことが明記されています。

 

この時点で「子供の状況を無視して通級を打ち切られる」ということはないということがわかります。

 

続いて、指導を延長する際の条件が書かれています。

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当初の目標設定ありきで、それが未達成であること、延長の根拠となる具体的な指導方針や計画があること、1年間で目標達成できる見込みがあること、とされています。
 
つまり「明確な目標設定ができた上であと1年通級指導を受けたら状況が改善する見込み」があれば延長は妨げない、とされています。
 
また、それについても校内委員会で十分な確認や検討をし、判定委員会で総合的に審議する必要があると記されています。
 
 
また、再設定する指導期間は最長1年とされていますが、それについては画像のように書かれています。
要約すると「2年通級指導をしたけど通常級で安定して過ごすに至れないケースならさらに適切な支援のあり方を検討しましょう」という話のようです。
 

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1年の通級指導の後に指導期間を延長した場合には、3ヶ月ごとに指導目標の達成状況評価を行い、教委に書面報告するよう求められています。
 
1年目の通級指導の際は年度末に向けて目標の達成を検討する、つまり「1年間でどのくらい通常級でうまくやっていけるようになっているかを検討する」ことになっており、延長の1年間ではさらに3ヶ月という短いスパンでの検討が入ることになっています。
 
これは、退室可能になった児童生徒を見逃さずに次のニーズへのリソースを空けるためという大人の都合が当然想定はされますが、自立支援の観点からも目標設定をして3ヶ月で成果が見えているかを検証することに意義はあると思われます。
 
 
退室(つまり通常級のみの指導に切り替える)に向けてのフローがあったので添付しておきます。
 
校内委員会の開催、児童生徒や保護者との合意形成、判定委員会の審査など複数のステップを必要に応じて踏みながら退室か継続の必要があるかについて検討される仕組みになっているのがわかります。
 

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35pには「特別支援教室での指導の充実に向けて」というタイトルで、ここまで流してきた内容を総まとめにする、詳細なフローチャートが示されています。
 
保護者としては「この通りにやってくれるならそりゃ心強い」という内容ではあります。
 

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とりあえずざっくりと全体を通して読んだので以下にまとめます。

懸念されている「東京都の通級指導が1年で切られるのでは」という点に関しては、そこを心配はしなくて良いのでは、と思われます。
 
この文書で指摘されていることの大半は期間の問題ではなく、現在の東京都の通級指導(特別支援教室)の入室に至る経緯のバラつきや通常級での教員の工夫、校内委員会の設置や丁寧な検討、入室後の目標設定やそれに関する児童の観察、検討など本来行われるべき部分がしっかりと行われていないケースがあることや、それによって検討なしに入室を勧められることによる入室者の増加、また、目標設定や検討が十分でないことで成果を確認することなく3年以上在籍してしまうことが多発することによるリソースの圧迫などの問題を解消する必要があると考えられます。
 
「学校の都合で最長2年しかいられないのでは」という指摘に関してですが、文書の中では「原則1年、必要に応じてさらに1年」と記されています。
つまり合計2年、と読むことはできます。
 
ただ、それに関しても「絶対2年」とは書かれていません。
2年が経過する前の段階から十分な検討を重ねた上で、期限を迎えた時に「さらに良い支援環境は」と検討するよう促されています。
つまり、その検討の結果、新しい課題を持って通級指導を受けるべき、という結論が出る可能性もあり得ます。
 
大切なのは「2年間野放しにしていてダメだったら退室」という話ではない、ということです。
1年目は年度末に向けて目標に向かって改善しているかの検討を、2年目はさらに綿密に3ヶ月ごとに検討を、と記されています。
 
そして大前提としてこの期間「通常級における担任を中心とした在籍校の教員による工夫や合理的配慮の提供」が求められているわけです。「通常級ではみんなと一緒に扱ってますが」という話ではないわけです。
レベル1・2に相当する児童生徒と同様に、レベル3の児童生徒は通級での指導を受けながら在籍する通常級で支援対象として扱われることが想定されています。
 
つまり、
 
インクルーシブ教育がまず通常級で行われる、というのが大前提ですよ。
通常級担任が何もせずに通級任せにしていいわけじゃないですよ、
 
というのが文書の中で明確に記されています。
 
 
以上、大変長くなりましたが、最終的にまとめると「東京都では最長2年しか通級にいられない」というのは間違いとは言い切れないけれど、改悪ではない可能性が高い、と思われます。
そこを糾弾しても我々保護者のメリットはないのではないかと思います。
 
通常級での観察の強化や校内委員会のあり方、丁寧な検討や話し合い、通常級での合理的配慮の提供の徹底など、この文書で学校に求められているような内容が適正に運用されることを求める方が子供たちにとってのメリットははるかに大きいのではないかと思います。
 
また、教員から「通級は1年しかいられないから」のような話があった場合は「それは原則ですよね」と返せますし、「その1年の間に通常級での合理的配慮の提供と特別支援教室での目標設定、検討を繰り返して通常級での状況改善に向けて動いていただく」ことを求める方が実質的なメリットは高そうな気がします。
 
実際、通常級在籍が可能な程度のお子さんであれば、1年間明確な目標設定をして合理的配慮を受けながらの通級指導を受けたらかなり改善する可能性は高いと思うので、それがうまくいってないならなんか別の課題がある、と考える方が自然かもしれません。
 
つまり、今回の提言はその「別の課題(障害の程度が想定より重いとか、学習障害など別の課題について検討が必要とか、教員の対応が不適切であるとかまぁ他にも色々あるかも)があるかもしれない」部分を見落とさないための改善案、とも言えるのではないかと思います。
 
文書の中でちゃんと「期限ありきでやるな」と書かれています。
児童生徒へのアセスメントや委員会での検討なく期限が来たから終わり、ということは提唱されていません。
 
年度途中でも目標がクリアできたとみなされれば退室について持ちかけられる可能性があるし、目標がクリアできてないけどあと1年やって見る価値はありそうとなったら延長も可能。
そしてそれぞれの場合にも必ず委員会での検討と保護者や児童生徒へ説明と合意形成がステップとして組み込まれているので、希望に沿わずに放り出す、という仕組みにはなっていません。
 
 

「戻るまで3ヶ月かかる」という話について

ここまでツイートしたあと「通級を終了した後戻りたい時は一旦3ヶ月待たないといけない」というような話が流れてきました。
 
これについてガイドラインなどを確認したところこのようなフローがありました。

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これらの図から「戻るのは3ヶ月後」という読み方をしてしまっているのかなと推測されます。

 

ただ、退室に至っているということは、これまでに読んできた中から紐解けば退室の前に当初の目的が達成されていることが確認された上で校内委員会での十分な検討が行われ、児童生徒やその保護者に対して合意形成が行われている、という前提があります。

(上に載せたフローを再掲します)

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このフローの中の右下では、退室以外の判断の中に「特別支援教室」つまり元通り通級指導を受けることも検討の例として挙げられています。
 
つまり、「一度退室してから戻る」というのは一旦退室が妥当であるという判断が出て、児童生徒や保護者との合意形成もなされた上での退室にもかかわらず再度入室を検討する必要があるケース、ということになります。
 

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退室後もそこで野放しというわけではなく、児童生徒が必要とする「特別な支援」が在籍学級等で継続されることも記載があります。
 
フローの中で「退室後3ヶ月以降」の再入室が検討されるケースについて書かれています。
おそらくこの記載が「一旦退室したら3ヶ月戻れない」という話の元になっているのではないか、と推測されます。
 
この「3ヶ月後」という記載について報告書では詳しい記述を見つけられなかったのですが、2年目の通級指導の際の経過観察のスパンを3ヶ月と設定していることから、当該児童生徒の経過観察のスパンを3ヶ月単位で行うというベースがあるのでは、と考えられます。
 
ここまでに書いてきているようにそもそも「退室」に至るまでには丁寧な検証と説明、合意形成がなされているという前提ですが、それでも退室後3ヶ月を待たずに問題が発生するケースもあるかもしれません。
ただ、その場合もその事案に関する校内委員会などにより入室の是非を検討していく段階が必要となるでしょうし、そういう意味では「タイムラグがある」という指摘はもっともかもしれません。
 
ただ、忘れてはならないのですが「この間も通常級での担任の工夫や合理的配慮の提供などの特別支援は継続」されている前提です。無策で放置、はそもそもあり得ないはずなんですね。つまり「通級に今すぐ行かないとどうにもならない」みたいな状況にはそもそもしない、という前提のガイドラインになっているということを我々は把握しておかねばならないと思います。
 
 

おわりに

大変長いブログ記事になってしまいましたが、いい加減締めましょう。
 
ここまで通して読んでいただいた方には「原則1年、最長2年で通級を追い出されてしまう」「一旦退室すると3ヶ月戻れない」という情報は誤りであることがお分かりいただけたかと思います。
 
学校から実際にそう言われた、という方も散見されます。
 
合理的配慮の提供を申し入れることに関してもそうですが、現場教職員が全てを把握していることはまずありません。学校の中でもごく一部の特別支援に携わり意識の高い先生が把握しているかも、という程度だなというのが私の体感です。
 
しかし、合理的配慮の提供は義務としてもう法律が施行されています。
学校がそれを正確に把握していなくても、我々保護者が正確な知識をつけて交渉をすることで切り開いていくことができます。
 
東京都のガイドラインも同じだと思います。
保護者が「最長2年」というキャッチーな言葉に不安を募らせてしまうのと同じように、教職員の先生方もその言葉に囚われて本来ご自身に課されているはずの義務について知識が及んでいない可能性も当然あります。
 
野口さんが言及されていましたが、在籍の通常級で適切な配慮が行われているかどうかをどう管轄するのか、またそこにどうやって予算を割くのか、という課題はあろうかと思います。
 
また、ガイドラインはあっても結局ちゃんと運用されないんじゃないの、それが不安なんだよ、という声もあろうかと思います。
 
残念ながら今の学校現場で、そこにツッコミを入れられるのは我々保護者以外にないのではないか、というのが現実です。
理解のある管理職があればそれぞれの子供たちのことを考え、対応してくれることもあります。
教育委員会が指導に入ることもないわけではありません。
合理的配慮に関しては相談窓口はありますが罰則規定もなく、強制力もどの程度か未知数です。
 
それらが現場の担任教員に対する強制力としてきっちり働くのを私はあまり見たことはありません。
 
体感として、現場に対して最も効果が高いのは、我々保護者が「知っている」ことを知らせることです。
そして、そのために必要なのは我々保護者が「正しい知識を身につけている」ことです。
 
 
東京都の件に関しても、キャッチーな部分だけに反応して年数に囚われそこに焦点を当てた活動を肥大化させてしまうことで、本質である「通常級での合理的配慮の徹底」や「校内委員会などによる丁寧な経過観察や検討」の部分を疎かにしてしまうことは子供たちの不利益につながります。
 
本当なら我々保護者がこんなふうに知識をつけなくても適正な運用がなされることが一番です。目指したいのはそういう未来だと思います。
 
ただ、現状はとてもそこには辿り着けていません。
保護者が正しい知識をもってそれを時に盾に、時に矛にして子のために学校と交渉していかねばなりません。
 
東京都が公開している報告書やガイドラインは、我々が長く求めている「通常級での合理的配慮の徹底」についての大きな力になり得るものです。
 
「ここに書いてある通りにやってくれ!」と突きつけられる力を持っている文書です。
 
そこにリソースが足りない、予算がない、という課題は当然ありましょうが、残念ながらそれは学校とそれらを管轄する組織の問題であり、我々保護者の課題ではありません。
 
我々保護者は子にとっての利益を最優先に考え、学校の先生方と対等に交渉を進める必要があります。
 
どうか、誤った情報に踊らされることなく、見誤ることなく、正しい知識をつけて学校との交渉に臨んでいただきたい、と思います。

次男と一緒に考えた、学校に無駄なことはひとつもないんじゃないかな、という話。

1つ書いたら続けていくつか書いちゃう、いつもの私のパターンですね、こんにちは。

 

今日は昨夜の次男とのお話を。

 

 

体育祭の準備が始まったようです

高校生になった次男。

体育会系の部活も盛んな学校なのでおそらく例年ならば体育祭は1年で一番盛り上がる行事なんじゃないかなぁと思います。

しかしこのコロナ禍、今年度は開催はするものの縮小傾向のようではあります。

 

縮小傾向とはいえ開催が決まった体育祭に向けて、団ごとに係を選出して準備が始まったようです。

次男の話を聞くに、何かしらに絵を描く係を引き受けたらしく、帰宅の遅い日が続くようになりました。

 

予想はしていた、キャパオーバー

ただでさえキャパの狭い次男さん。

そして小学校の運動会・中学の体育祭と周りの雰囲気にうまく適応できずにパニックを起こしがちだった鬼門の行事でもある体育祭。

担任や支援の先生とも事前に話した上でできる範囲でガード体制は引いていましたが、やっぱり負担は大きいようです。

 

週末に出ていた宿題を十分に終わらせることができないまま登校した昨日の月曜日、宿題や体育祭準備のタスクが溜まりに溜まってついに限界を超えたんでしょう。

夕方、係の仕事をぶっちぎって帰宅してきてしまいました。

 

「こんなことして何になるの…!」

パンクしていた次男の話を聞いていきます。

課題がいくつかごちゃごちゃになっているのでかなり整理する必要がありましたが、その中で彼から出た言葉の一つが

 

「体育祭の準備なんて無駄なことをやらされている!こんなことして何になるの!」

 

でした。

「君は無駄なことを無理やりやらされていると思ってるんだね?」

と問いかけるとうなづく次男。

 

どんなことをやるのかと尋ねたら、どうやら係は団の3年から1年が一緒に活動するものらしく、1年の自分は「奴隷のように(本人談)」言いつけられた雑用をやらされるだけで活動の意義を感じない、無意味だ、と主張していました。

 

なるほど、彼が状況を理解できないまま指示が飛んできているんだろうなぁという情景が浮かびます。

 

本当に無駄と言い切っていいんだろうか

「3年生がどんどん作業をやるんだよ、僕たちはいなくてもいい、無駄だよ」

と言う次男に

「その3年生は、何でどんどん作業できるんだろう、先生が来て教えてくれたの?」

と尋ねると首を振ります。

 

「先生は教えない、やったことのある2年や3年がこうしようって話して進めてる」

「じゃあ、君は来年「やったことのある2年」になれるってことだね」

 

と話すとキョトンとする次男。

雑用をやらされている、と君は言ったけれど、その間に先輩たちがどんな作業をやっているか見ているよね?その経験のある君は来年、「経験者」としてその場にいられるということじゃないのかな。

 

なるほど!というキラキラした目になる次男くん。

彼のこういう素直なところは本当に神様のギフトだなぁとよく思います。

 

「そうか、気がつかなかったけど先輩のやってるのを見てたら確かに来年は動けるよね」

 

本当は学ぶ機会を与えられていたんだけれど、先生じゃない先輩方は彼にそれを十分に伝えることは難しかっただろうし、次男もそれをするっと理解して学びに活かせるほどの余裕はなかった。

 

でも無駄じゃないよきっと、という話をして終わりました。

 

学校で無駄なことはひとつもないんじゃないかな

次男に「君が学校で経験すること、少なくとも今の高校では君の将来に向けて無駄なことなんかひとつもないんじゃないかなぁと思う」と話しました。

 

「嫌な思いをすることも?」と次男。

そうだね、確かに酷いいじめのような、忘れられなくて苦しむような経験はしてほしくない。もしそういう方向に行きそうなことがあったら早めに教えて欲しいし、そうやって逃げる経験もまた自分の糧にはなるとは思う。

 

「からかって笑われることは?」「笑われる前に君がとった行動は?」

揶揄されることや小馬鹿にされることは当然良い経験ではないし、できるなら無い方がいいと思う。揶揄う人のことを肯定はできない。

でも人間関係において学ぶべきことの多い次男は最近「〜君が変な顔をした、ということはこれは言わない方が良かったことだったんだと思う」と振り返ることが増えてきました。

彼にとって教室の同級生たちや先輩たちの反応は、自分では気づかないことを教えてもらうヒントにもなっているように感じることもある。

 

そういう意味では、そこから君が学べることはゼロではないんじゃないかなとは思う。もちろん辛い思いをしてまで通って欲しいとは思っていないけれど、と話をしました。

 

おわりに

「学校で無駄なことなんかないと思うよ」

とわざわざ言葉にすると誰かのトリガーになって「自分のあの辛く苦しい経験もか!」と憤らせてしまうかもしれません。

 

私自身も高校でひどいいじめにあった(と自分では記憶している)ことで屋上から飛び降りようかと思い詰めたこともある。あんな経験を我が子にして欲しいとは思わないし、あれを自分にとって必要な経験だったとも思いたくもない。

でも、育児の中であの時に感じたこと、あの経験を通して自分を振り返ったこと(あんなに空気読めない発言ぶん回してたらそりゃ浮くよなぁ、とか)とそこから掘り下げて考えを巡らせたことがその後の自分の糧になってないとは言い切れない、というか役立ってる面はかなりある。

 

時間が経ったから自分の中で昇華できた面も強いと思うし、もっと辛かったら立ち直れなかった可能性だってあるから、誰でも経験すればいいなんてとても言えないのだけれど。

 

そこまでいくような心の傷を残してしまうような経験は、親としてさせない。

絶対にそこに行き着く前に助け出して、守る。

 

そこを約束した上で「君たちの学校生活で無駄なことなんかないんだよ」って言える大人でありたいなぁと思うし、そういう環境を用意してあげたいなぁ、と考えたりしています。

 

おまけ

余談ですが、次男と話していて気づいたことがありました。

コロナ禍で学校行事や地域の行事はここ2年、中止や縮小が続いていますよね。

 

次男が経験しているような、マニュアルを文字として書き残すわけではない活動もその多くが例年通りには進められない状況になってしまっている。

 

PTAの保護者の間でも

「入学した時からずっとコロナ禍だから通常の行事がわからない」

「もし来年度、例年通りに戻すと言われてももうその原型がわからない」

という声はあちこちで耳にします。

 

次男の高校の体育祭も、それぞれの係の仕事はマニュアルが書き残されているわけではなく、経験のある上級生がリーダーシップをとって進める方針のようです。

つまり、コロナ禍以前の「例年通りの体育祭」を知っている3年生は来年度にはもういない。

次男たち残された在校生たちはもし来年「例年通りの体育祭」が開催できる状況になってももう以前のそれをその通りに再現することはできないでしょう。

 

6年間通う小学校と違って、3年で卒業する中高の方がより顕著に、アフターコロナからの復元が困難になるだろうなぁと思ったりしました。

 

もちろん今回の中止や縮小をいい方向へ、無駄な活動のカットや効率化、新たな見直しの機会とできるといいなぁとも思っています。

 

まる2年続いているコロナ禍で、今後、子供たちを取り巻く環境や地域の活動などいろんな「マニュアルを書き残さずに口頭で伝承してきた活動」が変容していくのだろうなぁと感じています。

 

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