スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「記事を求めている大衆」って誰だろう。


宇多田ヒカルさんの一連のツイートが、何度かTLに流れてきた。

出棺のときの助手席で感じたことを書かれた文章に胸が痛む。なんで、こんなひどいことが出来るんだろう、撮られる相手を思いやる感情はそこにはないのかな?って。

そう思った時にふと思い出したこと。
前に、銀行員の友達が話してくれれたのだけど、札束をお金だと思わないようにするんだって。あれが、自分が好きなもの買ったりおいしいもの食べたりすることに使える金銭だと思ったら気が狂う(大げさな表現かもだけど)から、どっかで「これは仕事で使う紙切れだ」って自分に言いきかせることがある、って。

べつの、看護師をしてる友達も似たようなことを言ってた。
患者さんの死を、真っ向から受け入れて悲しまないように自分を抑制することがある、と。そうしないと精神的に持たないからどこかで麻痺させると話してくれた。

麻痺。
人間として当たり前に湧いてくる感情を、働くために一時的に忘れる、無視する、麻痺させる。
それは、賃金労働をしてたら程度の大小はあれみんな通る道なのかもしれない。
そうじゃない方がいい、ってわかってても、上司の判断で黙って従うことを選ばざるを得ない場面は私も何度も経験したことがあるし。

宇多田さんにカメラを向けた人を含むマスコミ、マスゴミと揶揄されるその人達も、同じように業務のためにある種の感情を麻痺させているのかもしれない、とそんなことを考えたりした。

じゃあなんで、マスコミはそんなことをしてまで助手席に座る芸能人の顔を写さなくてはならなかったんだろう。
それは、そうするよう指示されたから、そうでないと数字が部数が伸びないから、なわけで。結局「大衆がそれを求めているから」ということになってるのかなと。

じゃあその大衆ってなんだろう、私は意識高くもちそこには入っていないのか?

否、私はたぶん、その中にいる。

テレビはほとんど見ないし、新聞も流して読む程度な私だけど、ニュースに触れるときにその映像や写真がどんな風に入手されたものなのかなんて考えながら見ていないから。

芸能人のプライバシーを無視したような映像にはさすがに不快感は持つかもしれないけど、それも誰かがつけたテレビで流れていたらなんとなくあぁそういうことがあったのかという程度で見てしまうだろうから。

先日の竜巻の被害写真についてマスコミがTwitterを使って写真を集めているのは回ってきて見たんだけど、これまではそういうやりとりが表に出ることはなかった気がする。
あのやりとりの中でも、マスコミの方の、被害者の感情を無視しているような言葉の使い方があとから批判の対象になってた。

宇多田さんのように撮られた方が素直な心境を語る場もそうなかったと思う。
安藤美姫さんも出産に関する報道についてFacebookでその心境を語っていたし、一般の人が情報提供を求めるマスコミの対応について即呟くこともふえていくのかもしれない。

ブログやSNSを通してのそういう、マスコミが情報を仕入れる経緯やそのときの状況が明るみに出るような傾向が今後も続き、かつ広がっていったら、報道される写真や映像を見る目が少しずつ変わっていくのかもしれないと思う。

内情が見えてそれが非難の対象となっていくことでマスコミが指し示すところの「センセーショナルな映像を求める一般大衆」の意識は少しずつ変わり、マスコミも変わらざるを得なくなるのかもしれないなぁと、そんなことを考える、まだ蒸し暑い夜更け。

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