スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「ひとり時間」が要らないとか言ったけど。


この春から、末息子が年少さんになりました。

それまでは同じ園のお預かりを利用していた状態で、春から正式な入園。

それに伴って送迎が必要だった末っ子はこども園からお迎えが来ての登園に変わりました。

上3人は小学校へ、末っ子はこども園の先生がお迎えに来て、それぞれが自宅から朝出かけていきます。

 

子どもたちを見送って、ひとり残って洗濯物を干し、ちょっと家を片付け、そして出勤。

どたばたしながらぐちゃぐちゃの家を後にしていたこの間までと違って、5分くらいコーヒーを飲む時間が出来たり、洗濯物をゆっくり干せたり。うまく時間を使えば朝ドラくらいは見られるようになりました。

うわー、家に一人きりゆっくりとか素敵だわ幸せだわ、と悦に入る私。

そんなときふと、前に書いたエントリを思い出しました。

育児中に「ひとり時間」は必要か。 - スズコ、考える。

 

私「ひとり時間なんか私要らないの、それよりも子どもたちと過ごしながら家事をしたりしたいの」なんて書いてるんですよ、うん、そのときはほんとにそう思ってたんだよねえ。

 

で。

いま、満喫しております、ひとりの時間。

朝のわずかなひとり家事の時間で味を占めた私、お昼休みにそれまで職場で過ごしていた時間を自宅に帰ってみたら何て幸せな時間。これは私が自宅から職場まで車で5分だから出来るんだけど、自宅に戻って朝ONしてた洗濯物を続きで干したり、子ども達がいたらやいやいうるさから食べられないカップラーメンだの甘いものだのを食べながらダラダラごろごろしてみたり、お天気のいい日は窓をがーーっと開けて掃除機をかけたり、なにこれ楽しい。

 

あぁ「ひとり時間」ってこういう風に楽しいんだ!って今更ながら気づいたんですね。

じゃあなんで、前のエントリを書いたときにはそれが必要ないと思ってたんだろう、というのを考えてみました。

 

子ども達の年齢や私の周りの環境や体調等々も違ってるのかなぁと思いつつ、たぶん一番の要因はこれだな、と思ったこと。

それは、子ども達がどこにいるか。

夫や実家等々「誰かにお願いして預ける」ことでひとりの時間が捻出されているとき、そこには「お願いしている」という若干の後ろめたさや、戻ってきたときに感謝しなきゃいけないというちょっとした鬱陶しさがそこにあったような気がします。

夫なんて父親なんだからそんなこと感じなくても良いのかもしれないけど、でも普段接する時間が短くて面倒見慣れてない人に長時間子ども達を任せたらそれなりに疲弊もするだろうし、私に対して「ひとりの時間を作ってあげた」という自負も多少はあるだろうしでそれを意識してのその後感謝や労いが必要。

※この感謝や労いの行為そのものを否定するつもりはないのです、それは必要なコミュニケーションだと思うし。あくまでも、このケースのときにちょっと引っかかるだけ。

預けている間のことも、任せきれば良かったんだろうけどなんだかんだと気になって口を出してしまったり、準備に時間がかかることを考えて諦めモードに入ってしまったりしてた気がします。

 

じゃあいまは。

子どもたちは幼稚園と小学校。規定どおりの時間にみんなと一緒に登園登校してる。

誰にも負い目を感じることなく子どもたちを送り出して、得たひとりの時間。

 

あぁ、私がひとりの時間を楽しめなかったのは、これなのかもなと。

もっと清清しく誰かを頼って預けていたら、気持ちよく「ありがとう!」って言うだけで罪悪感とか無駄に感じずに預かってもらえていたら、もっとひとりの時間を楽しむことを早くから出来ていたのかもしれないなぁと今になっては思うけど、当時の私にはなぜかとても心理的負担の大きいものでした。

 

子どもたちがもっと大きくなって、お休みの日もひとりで自由にお出かけしたり、家でゆっくり好きなことできるようになる日が来るのかな。それもまた面白そう。

 

前のエントリで「ひとり時間なんて要らない!」と断言しといてあっさり方向転換しちゃってごめんなさい…!

でもこれ、誰かに負い目を感じることなくひとりで過ごせる時間が楽しい、そこを理解してくれる人が預かってくれたら嬉しいし、そうじゃなく預けないといけないのなら無理にひとりの時間はやっぱり要らない。

 

単純にいるとかいらないの話じゃなかったんだなぁ、と気づいたよ、というお話でした。

 

最後におまけ。

前のエントリのあとに

ママさんたちに「ひとり時間」アンケートをやってみた。 - スズコ、考える。

というのも書いてたのでよければご一緒に♪

スポンサードリンク