中学2年のときだったと思う。
のエントリに書いたように平和教育の盛んだった地域で育ち、また同様に同和教育も受けてきた私にとって、道徳的なことや平和に関する授業を受け、それに対する感想を述べたり書いたりすることは年に数回ある日常的なことになっていました。
大人に対する反抗的な気分が盛り上がる時期でもあった14歳。
小さい頃から模範的な感想文を書いては評価を得てきた私にも多少の反発心があったのだろうと思います。道徳の時間に同和授業を受け、部落差別のことについて学んだ後に感想文を書くことを求められ、原稿用紙が前から配られたとき、それを前にボソッと私はこういいました。
「どうせ、きれいごとを書き並べれば良いんでしょ?
でもこんなこと、知らなくてもいいんじゃないの?
知らなかったらやらないよ。
わざわざ教えるからまた同じことやろうって人が出てくるんじゃないの?」
14歳の私は、平和授業も部落差別のことも聞き飽きていました。毎年同じようなことを繰り返され、「私たちは繰り返しません」という模範的な感想文を書いてきました。どういう言葉を選べば大人が喜ぶかも分かっていました。
そんな、大人をバカにして不貞腐れていた私に、当時まだ若かった担任の男性教諭は言いました。
「知らなかったら繰り返さなかったと思うのか?じゃあ、戦争を起こした人たち、差別をしていた人たちは過去に同じことを知っていたと?それは違う。知らなかったから、学んでこなかったから、過ちを起こし繰り返してしまっていたのではないのかな。今日本で平和に暮らせているのは、戦争を繰り返してはならないと伝え続ける人がいるから。人間は簡単に過ちを繰り返す。やり方を知っているから悪いことをするわけではなくて、知らなくても過ちは犯すんだよ。だから、学び続けなくてはいけない。」
大人なんて、な時期だった私には、その話をその場でまっすぐ受け止めることは出来なかった記憶があります。適当に返事をして、下手なことを言ってうるさいことを言われた、と少し腹を立てながら感想文を仕上げた記憶があります。
そのときの感想文が、何かのコンクールに学校代表として出展され何かの賞をもらったとき、やっぱりきれいごとを並べればいいんじゃん、とへそ曲がりな14歳の私は思いました。
それから20年以上が経って、私は子を持つ親となっていて、色々な観点から戦争や内紛や差別など過去も現在も誰かを苦しめ続けている様々な事象について学び、考え続けています。
あのとき先生から言われた言葉は、その場では受け止め切れなかったけど、でも、今の私を作ってきた礎の一つとして、深く心に刻まれていたことを思い知らされるのです。
前回のエントリ
「おーい、お茶」論争で見えてきたもの。 - スズコ、考える。
において、私は世代を隔てることで少しずつ女性差別の現状が改善してきているのではないかと楽観的なことを書きましたが、そこに頂いたブコメなどを拝見しているうちに気づいたことがあります。
知らないでは、やはり済まされないのだ、ということ。
私が実際に見てきた露骨な女性差別は、今も身は潜めつつ周りに残っています。
祖父が祖母を罵り殴るところも見たことがあります。女性に人権などなく、自由な時間も許されず、罵倒され、食べ物も満足に与えられずに働かされていた過去を私は少しですが垣間見た世代です。
そして母や祖母から、昔はもっと酷かったことも聞いています。
それを全く知らない人にとっては、あのエントリで触れたお茶の名前について男尊女卑ではないかという意見を述べることすら過大解釈の妄想に感じられたりもするのかということ。
それは、変わっていってるからいいじゃん、では済まされないことなのだと改めて思いました。
今なら犯罪として立件されてもおかしくないほどの差別が日常だったこと。
それは会社でのお茶くみとか就職差別とか家庭内の分業とか、いろいろなところに形を変え程度は軽くなりつつも根強く残っていること。
いいほうに変わってきているのは偶然でもなければ偉い人が突然決めたからでもない。
変えなければ、被害を伝え続けなければ、と思って学び続け伝え続けてきた人たちがいたから。
ヒロシマやナガサキの被害も、今も苦しみ続ける人がいる現状も、東京大空襲や国内のたくさんの空襲、沖縄戦、満州、シベリア抑留、特攻隊、南方戦、邦人収容所…第二次世界大戦だけでも残っている記録は多い。日本だけでなくその戦争で人間がどんなことをしてきたのか、知らずに突き進むと人間はどんなことを起こしてしまうのか。大戦だけでなく世界中でどんな紛争が起こりどんな悲惨な被害が起こっているのか。
差別も同じ。
世界中でこれまでどんな悲惨な人種差別が行われてきたのか。
性差別や身分による差別、人身売買等、色々な差別が繰り返されてきた記録を、繰り返さないために知らないといけないと思う。
今日の長崎の平和祈念式典の中で長崎市長が行った平和宣言。
その中で
今も世界には1万6千発以上の核弾頭が存在します。核兵器の恐ろしさを身をもって知る被爆者は、核兵器は二度と使われてはならない、と必死で警鐘を鳴らし続けてきました。広島、長崎の原爆以降、戦争で核兵器が使われなかったのは、被爆者の存在とその声があったからです。
と仰っておられました。
戦争も、差別も、そのリアルを知る人たちの声を風化させてしまうことは再発に繋がります。本当に起こっていたことが風化してしまうことで、反対の声を上げることが過剰な反応だと見られてしまうのはとても悲しい。
そして、その風化で悲しく苦しい過去の教訓が生かされること無くまた苦しむ人を増やすことになってしまったらと思うととても怖い。
午前11時2分、テレビの前で3歳の息子をひざに乗せ、上の子たちを側に座らせて黙祷の時間を過ごしました。
当時3歳だった父が「飛んでいくB29がキラキラ光るのを見たことを覚えている」と話してくれました。
平和宣言のあとに被爆経験を話してくれたお祖母さんが被爆したのは娘と同じ6歳の頃。娘の髪を撫でながら6歳の少女が被爆した話に聞き入りました。
長崎の平和公園の平和記念像を見ながら「再来年君はここに行くんだよ」と長男に話しました。原爆資料館では恐らく目を覆うような展示を見ることでしょう。子どもにそれを見せることの是非はあるかもしれませんが、私は自分が12歳の頃それを見て多くのことを考えたように、息子たちにも人間が起こす現実の恐ろしさを知って欲しいと思っています。
知らない、ではやはり済まされないのです。
過去に起こした多くの過ちを、知らないまま大人になるというのはやはり恐ろしいことだと思わずにはおれない。
ヒロシマ・ナガサキの原爆忌に対するたくさんの方の反応、お茶のネーミングに対する男尊女卑についての様々な声を拝見しながら、改めて知ることの大切さを考えています。