ポンコつっこちゃんのエントリ
子供の「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」という問いかけに大人はどう答えれば良いのだろうか - 心がよろけそうなときに読むポンコツ日記
を拝見して、ちょうどその日に小4長男とそのことを話していたのでこれはまとめておきたいな、と思っていたことを書きます。
夏休みの宿題をやれやりたくないのやりとりの途中で、彼からその発言が出ました。
「なんでこんなことやるんかなぁ、なんで勉強するん?」
育児する身としては「お母さんのおなかの中のこと」発言と同じくらい私にとっては「キタ!ついにキタこれ」な事案が発生し、うきうきしつつ、息子に聞きました。
「何でだろうねえ」
息子はう~んと唸りながら「ちゃんとした大人になるため」と搾り出すように答えました。
ちゃんとした大人とは何か、は多分彼にとっても漠然としたことで明確な目標があるわけではないのだろうと思います。今まで接してきた色んな大人達の言うことをまとめると、彼の中ではそういうことになったんだろうな、と思いました。
彼にとって勉強する、とは、学校で先生の授業を聞き、出された宿題を期日までに終わらせて提出し、時々あるテストを受けることです。
なぜ勉強すべきなのか、ということについて考えるとき、この勉強するという言葉が意味するところを考える必要がまずある、と私は思います。
私は大人です。
何かを勉強する、というときには自分が知りたいと思うことについて調べたり本を読んだり誰かに聞いたりすることや、自分が得たいと思った技術を習得するためにレッスンを受けたり暗記や上達をするために努力したりすることを想定します。
この段階で「なぜ勉強するのか」の答えは簡単です。
「私がそうしたいから」です。
将来の目標や進路が自分の中で定まっている高校生や大学生などが勉強するという言葉を使うときは、目標とする試験に受かるためやそのステップに必要な学校に通うため、単位を修得するため、などの具体的な行動を指すのではないかと思います。
この段階の答えも明確です。
「自分の将来の目標のために必要なステップだから」です。
では。
今小学生の息子たちが立ち向かっている「勉強」とは何か。
それは上記の、学校で先生の授業を聞き、出された宿題を期日までに終わらせて提出し、時々あるテストを受けることです。
子どもを学校に通わせ勉強させる理由、それは将来、社会の中で働きながら暮らしていくための基礎を作るためだと私は思います。
しかし彼らは、大人に時折問われることでなんとなく「将来の夢」というものを語ることはありつつ、大人になるとはどういうことなのか、働くというのはどういうことなのか、自分がそうなるのか、というリアルな想定はまだありません。
自分が成長しているということすら意識せず生きている彼らに、そんなこと肌で感じて理解できているわけないと、観察していて思います。
明日のご飯の心配をする必要も無く、今日を、今を生きているのが子どもです。
そんな彼らに、直球で「将来のため」と言ったとして、果たして理解できるだろうか。
いやそもそも、彼らが求めている答えはそれなのか。
「ねえおかあちゃん、なんで勉強なんかしなきゃいけないの」
と言葉にした子どもが求めているのは、現実的な具体的な答えじゃないと思うのです。
ねえおかあちゃん、
ぼくね、こんなドリルなんかやりたくないんだよ、
早くゲームがしたい(テレビが見たい・寝たい・遊びに行きたい)んだよ
というのが、この発言の真意なのだろうと思います。
その彼らにとって必要なのは、「それはね…」という解説では多分無くて、こんなめんどくさくて大変なわけのわかんないことを毎日ぼく頑張ってやってんだよ、ということを母ちゃんに知って欲しいだけだったりするのかな、と思ったりするのです。
だから、もし子どもたちが宿題や勉強を嫌がってそんなことを口にしたら、答えを与えてあげる必要は無いのだろうと思います。
うちの息子も「ちゃんとした大人になるため」と言った後、相槌を打っていたら自分の言いたいことや考えていることをポツポツ話し、しばらく聞いていたらすんなり宿題を夏休みの終りまでどう終わらせるかの計画を立て始めました。
※相槌を打って子どもの話を聴くことについては前に書いたエントリ
で詳しく触れたことがあります。
教育学者の尾木さんは「尾木ママ、どうして勉強しなきゃいけないの? 」という本の中で同じ子どもの疑問に関する答えとして、
勉強とは「僕にとってはどちらが必要な情報なのか」「大事なことなのか」を的確にいろいろな角度から見定めて決断するために必要なもの (参考:尾木ママ、どうして勉強しなきゃいけないの? )
と書かれています。
ネットも含めたくさんの情報があふれている中で生きていくためにはこれは本当に必要な技術だと思います。
が私はその前に書かれていたことがとても興味を惹かれました。
1年生の子が先生にそう聞いて、職員室で話題になったことがあったそうです。
自分なら「まだ1年生なのにそんなこと思いついたなんてすごいね~」と言っておしゃべりする、と。
1年生のその子は真理を求めてその問いをぶつけたのか。
多分そうではないんですね。
そんなことを思いついた僕を誉めて欲しかったのかもしれないし、そう言ってみての大人の反応を見たかっただけかもしれない。家でおにいちゃんが言っているのを聞いてかっこいいと思ったのかもしれない。
尾木さんは明文化はしていなかったけど経験からそれに気づいているんだろうな、と読んでいて思いました。
上にリンクを貼った話し方聴き方実践のエントリでも書いたのですが、私たちは大人だから、子どもよりたくさんのことを知っているから、子どもたちが口にした疑問につい答えたくなる。調べて教えたくなる。たくさん言葉にしたくなる。
でも子どもたちが求めているのはもっと簡単でシンプルな、ただの共感や励ましなのかもしれないなぁと思うのです。