アイス・バケツ・チャレンジ - Wikipediaのことがテレビでもネットでも流れています。
いろんな意見が散見されていますが、このALS(筋萎縮性側索硬化症 - Wikipedia)という病気そのものを知らなかった、という方にとって知るひとつのきっかけになると良いな、と思っています。
私がこの病気のことを初めて知ったのはまだ高校生の頃。
小さい頃から父親のように私を可愛がってくれていた親戚のおいちゃん(おじちゃん、のことですが方言なのかな)が病気になったという知らせを受けたときでした。
おいちゃんが床に臥す前に最後に外で偶然会ったその姿は、今でも覚えています。
道路わきに立っているところに偶然出くわして私の名前を呼んだおいちゃん。
「あ、おいちゃん!久しぶり!」と私は道路の反対側から大きな声で手を振って、おいちゃんがいつものように笑う顔を見て目的地へ走っていった、それが立っているおいちゃんを見た最後でした。
次に会ったおいちゃんは病院のベッドの上で、もう歩けなくなっていました。
「最初はね、スリッパが脱げるようになったんよ」
と聞いた記憶があります。
おいちゃん本人が言ったのか、おばちゃんから聞いたのかは記憶が曖昧なのですが。
最初の予兆は履いていたスリッパがなぜか脱げたこと。
足の先が麻痺することから始まったんだろうなと思います。
そこから身体の麻痺が広がっていった。
「きんいしゅくせいそくさくこうかしょう、っていう治らない病気なんだよ」と教えてもらいました。
インターネットも使えなかった当時。
私は何を読んだのか、その病気が発症から3年ほどで命を落としてしまう不治の難病だと知ったときは目の前が真っ白になりました。
おいちゃんが、死んじゃう。
小さい頃から、娘みたいに可愛がってくれたおいちゃん。
遊びに行くといつも同じ場所に座って笑ってたおいちゃん。
口数は少なかったけど優しく話を聞いてくれたおいちゃん。
おいちゃんが、いなくなっちゃう。
不治の病、10万人に1人の難病、そんな病気においちゃんが襲われた。
離れて住んでいたのでおいちゃんに会う機会は限られていました。
おばちゃんと娘さんたちと、時々私の母も手伝って、完全看護の病院だけどずっと誰かが付き添っていたのを覚えています。
ベッドから動くことは無いおいちゃんの手足は段々とやせ細っていきました。
今回のニュース関連でALS患者の方の画像を見たとき「おいちゃんと同じだ」とまず思いました。
動けないおいちゃん、床ずれを防ぐために身体を動かしたり足をマッサージしたりするのを手伝ったりしたことも。
病状が進行し、呼吸器の周囲にも麻痺が来て人工呼吸器が付けられ、会話が出来なくなりました。
50音の表が枕元に用意されていて、おいちゃんが何か言いたそうなときにそれを見せて、眼球が文字を追うのを一文字つずつ確認し、意思の疎通を図っていました。
まずあ行から、何行なのかを確認。
その次にうえから、「あ?い?う?」と一文字ずつ声に出しておいちゃんの目の動きで文字を判断します。というと簡単そうですが、おいちゃんの目の動きはいつも接しているおばちゃんくらいしかスムーズに読み取れない微妙なもので、一文字わかるまでにも相当時間を要するような、そんな途方にくれるような作業でした。
おいちゃんの苦悶する表情が多くなったのはその頃でした。
穏やかな気質だったおいちゃんが、癇癪を起こすように怒ることが増え、介護をするおばちゃんが大変そうだった記憶があります。
人工呼吸器を付けてから1日に何度か痰の吸引をしなくてはならず、それはかなりの苦痛だったようでおいちゃんはいつも嫌がってました。
看護師さんやおばちゃんがやってた記憶があるのですが、少しでも失敗すると酷く怒る様子を見せるおいちゃん。
50音表を使ったコミュニケーションで受け手がうまく理解できないときも同じように怒っていました。
「頭はしっかりしてるからね」
おいちゃんのいないところでおばちゃんが教えてくれました。
身体は全く自由にならないけど、脳は以前と変わっていないらしい、と。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害をうけ、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていきます。その一方で、体の感覚や知能、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通です。(参考:難病情報センター | 筋萎縮性側索硬化症(公費対象)
今のままの自分の脳みそで身体だけが動かなくなる、声も出せない、それはどんな状態なのか、私には想像も出来ず。
ただ、おばちゃんたちの対応が気に入らないときに小さい子のように苛立って見せるおいちゃんの様子は、かつての優しそうで穏やかなおいちゃんと全く違う、その違いがおいちゃんの苦しさを物語っているんだろうなと、そのくらいしか私にはわかりませんでした。
今はパソコンを使ったコミュニケーションの方法が取り入れられていると聞いて、おいちゃんのように自分の気持ちがうまく伝わらないまま病室で苛立ちを募らせなくてもよくなった患者さんも多いのかな、と医学やそれに伴う技術の進化に敬意を感じました。
同じALS患者の方でもそういう技術のおかげで活動に活かすことができている。
「ALSよ、くたばれ!」 30歳にして余命数年を宣告された広告プランナー・ヒロが抱いた"怒り"とは? | ログミー[o_O]
こういう活動で支援の輪が広がっていること、今回のアイス・バケツ・チャレンジも含めて、どんどんと認知が広がり、いつか治癒する病気になるといいなと、願わずにはおれません。
おいちゃんの状態はどんどん悪化して、肝臓や身体の色々なところも悪くなり、最期は自宅で、という家族の希望を受けてお医者さんの協力のもと自宅へ帰る事が出来ました。
自宅へ戻った数日後、おばちゃんから連絡があり、お別れに行きました。
おいちゃんの家までの道のりはずっと涙が止まらなくて、連れて行ってくれた家族に「血縁でもないのに泣きすぎだ」と呆れられたことは未だに忘れられない変な記憶の一つです。
おいちゃんちの広間の真ん中には介護用のベッドが置かれ、おいちゃんの家族とおいちゃんの友だち、たくさんのおいちゃんを愛した人たちが囲んでお別れの時間を迎えていました。
病気になってからどのくらいだったんだろう、正確なことはおばちゃんに聞かないとわからないんだけど、3年くらいだったんかな、そう長くなかったような気がします。介護をしていたおばちゃんにとってはまた全然違うんだろうけど、私にとってはあっという間においちゃんはどんどん弱って逝ってしまった、そんな感じでした。
おいちゃんが亡くなったのは台風が来る前で、遠方に戻るはずだった私が台風のおかげで足止めをくらい、おいちゃんの急変を聞いたのもあり滞在を伸ばしたときでした。
葬儀の席でおばちゃんが「あんたにおってほしかったからあの人が台風呼んだんよ」と小さく笑っていて、おいちゃんの病気の経過を見ることが出来たこと、最期に会えたことがどれほどありがたいことだったのかを思って私も泣きながら少し笑いました。
今でもお盆にはおいちゃんにお線香をあげに行きます。
高校生だった私はだんだん年をとり、結婚し、一人、二人と子どもたちを連れて行くようになりました。
外見も性格も私にそっくりな娘を連れて行った今年の夏、おいちゃんはどんな顔して娘を見てたのかな。
ALSという病気は、私にとってはおいちゃんを奪っていった、忌々しい、憎いものです。
そして、今でも日本に9000人の患者がいると言われており、未だに治療法が見つかっていない難病です。
今回のアイス・バケツ・チャレンジの流れを見ていて、この病気のことが周知されるきっかけになればいいと思う反面、病気そのものより著名な方のパフォーマンスのほうが注目されて病気への支援が置き去りになっていくような不安も感じてはいます。
是非、この機会に知ってください。
こんな病気があること。まだ若い人たちがこの病気で苦しんでなすすべもなく最期を迎えていること。
支援の輪が広がって、1人でも多くの患者さんの救いとなりますように。
おいちゃんの亡くなった、8月の夜に。