スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

親を辛辣に叩くことの無意味さと周りの大人に出来ること。


長崎佐世保の同級生殺害事件の容疑者の父親が自殺したというニュースが流れてきました。
そしてそれに追随するように、死んでも被害者やその家族は浮かばれないのに、償いを放棄して逃げた、等の、父親に対する批判がTLに連なっていて。


その一連の流れを見ながら、言葉を出せない自分がいました。


この事件では父親が危険性を察して行動を起こしてはいたけれど防ぐには至れなかったのだと報道から伺えます。が、それが尽くせる手を尽くしていたのか、努力が足りなかったのか、それは今の段階でわかることではないのかもしれないし、傍観者である私たちが知る必要も知る由もないことなのかもしれない。

 

その知る由もないこと、報道から得られる断片的な情報を元に犯罪加害者像、家族像、父親像を構築してジャッジして批判することに怖さを感じて、私はあまりツイートでもこの事件に触れる事が出来ずにいました。
この事件について詳しいことを調べる意義が有るとしたらそれは再発を防ぐ為の参考資料とする目的と、加害者の少女が罪を償った上で生きていくためのフォローとしてどういう手段が有効かということを導きだすという目的くらいしか浮かびません。


サイコパスの子の起こした犯罪、詳細を公表して一般市民の育児の役に立てるような内容ではないのではないかなと、専門家の持っておくべき知識の範疇ではないかと。

 


私には4人の子がいます。
子どもたちが犯罪者にならないように、真っ当な大人になれるように、なんとなくですがそう思いながら育てています。
でもそれが、そう簡単でないことも肌で感じてはいます。


子を犯罪者にしないために、真っ当な大人に育てる為に、何が必要なのか私には明確な答えが出せません。
健全な家庭で健康で愛し合う両親になに不自由無い暮らしと愛を与えられて育てば犯罪者にならないわけでも、心優しい子に育つ訳でもないということは分かります。

逆の環境でも犯罪者にならず心が豊かな人が育つことがあるのもまた事実です。

 

その答えは、多分誰にも分からない。

 

なるべくそうならないようにと思ってはいても、いつどこで転がっている石に躓いてしまうかは、誰にも予測出来ない事なのかもしれないのです。

自分も含め、周りの親をしている知人友人親戚等、想定外の現実を叩き付けられてそれでも子どもにとっての最善を模索して奮闘している方は本当にたくさんいます。現実を受け入れるまでに長く悩んだり苦しんだりしている方も少なからずいます。


それまで優等生だったのに大学の途中でひきこもりになった親戚の子、高校で辛辣ないじめにあって不登校になった子、中学の途中で不登校になりその流れで発達障害だと分かった近所の子、小学校の学級崩壊で精神的に落ち着かなくなり不登校になった子、幼稚園や保育園でのトラブル、生まれてからの病気や怪我による後遺症、出産時のトラブルによる障がい、先天性の疾患等、いろんな状況でいろんな要因で、子どもたちの問題と直面しフォローし続ける親たちが居ます。

 

その親たちと、そうでなく育児を終える日を迎えられる親と、その違いは何なのか。

 

「親が悪い」「育て方が悪い」と仰る方に少なからずお会いした事が有ります。がそういう方に「じゃあどうすれば良いのか、良かったのか」を問うて納得の行く答えが得られた事は有りません。そう仰る方の多くは、たまたまそういう問題が親である自分からは見えない程度だった、という幸運の結果でしかないのかもしれません。

 

たまたま健康に生まれ、たまたま健常に育ち、たまたま環境に恵まれていた。

それは、努力や辛抱だけでは補いきれない「運」の要素が強い。


たまたま、色々な事に恵まれていたに過ぎないし、たまたま水面下の子どものトラブルが目につかずに過ぎていただけなのかもしれないのです。

 


以前、うちの息子が同級生の子に怪我をさせてしまい、その子のおうちの方にお会いして謝罪をしたら辛辣に「躾が悪い」と言われた事が有りました。「怪我をさせないようよく言い聞かせてくれ」と言われ、再発を防ぐ為にどうしたら良いかを学校の先生にも相談しながら本人にとって良い解決策を模索していたところに、その怪我をさせてしまったお子さんがクラス内である事件を起こして問題になってしまったことがありました。不注意やちょっとしたいたずら心で、という訳ではない、悪意が潜んだ事件だっただけに親御さんの心中を思うといろいろと複雑な気持ちになりました。

 


その子がトラブルを起こしたのが、親御さんの躾だけが原因なのかは私には分かりません。
担任が変わってからクラス内全体がちょっと落ち着かない空気だったのは事実だし、ギャングエイジと呼ばれる年代だし、躾だけの原因というわけではないのだろうなと見ていて思いました。


躾が悪い親が悪いと言ったその言葉はブーメランのように自分に突き刺さる日が来るかもしれない、そう思うから、私は言えません。
それが的外れの可能性も秘めていることも、子を思う親にとってどれくらい重く苦しい言葉なのかということも知っているから。


そして、そうやって親を責めても何も解決しないことも知っているから。

 

 

子どもたちが何か目に見える問題を起こしたときに最も必要なのは「ここに何かあるよ」というサインを受け取ることです。
もちろん、被害が有れば加害側が謝ることも、弁償や保障をすることも、必要なことの一つではありますが、それはあくまでも周囲との人間関係を維持するために行うこと。

 

一番大事なのは、目に見える問題が起こったときには必ずそこにはそれが起こってしまう要素があるということ、それは「その子が悪い子だから」「躾が悪いから」とどこか1つに要因を擦り付けて「だから親がなんとかしてね」で終わっていいことではなくて、そのほころびから、じゃあその子は今どんな問題を抱えているのか、どんなことを辛いと感じているのか、今後どんなケアが必要なのか、保護者としてどう対応して行く必要が有るのか、どんな機関と繋がっておく必要があるのか、というその子その子に対する「どうしていくか」を親や学校や専門機関が連携して考えていく必要が有ります。

 

子どもが起こしてしまった問題は、過失としてマイナスのまま終わるのではなくそういう、今後につなげていくための情報源としての扱いをしていく必要があるのではないかと思うのです。

 

そうやって、起こった問題 を受け止めながら少しずつ成長して行く子どもたちを、問題から得られた情報をもとにフォローしていくことしか親には出来ないのかもしれません。
そしてそのためには、周りがそれを見守る姿勢も必要だと思うのです。

 

前述した「躾が悪い」と言った親御さんを逆に非難しても、何の解決にもなりません。
声高に叩いても誰も幸せにならない。

 

トラブルを起こしたのはその子が「悪い子」だったからではないと思うのです。
たまたまいろんな鬱積した物や問題が起こる要素が自分の中にあった、それがそのトラブルという形で表出したに過ぎない。

周囲に出来るのは、それを非難したり親の責任だとののしることではなく、その子が抱える問題を周りの大人が気づいてあげることや成長を見守ること、親が悩んでいたらそれを手助けすることしかないのではないかなと。


佐世保の事件では被害者の高校生には未来は無くなってしまいました。
再発は絶対に防がなくてはならない。でもそれは、専門家の仕事であって私たち一般市民がどうこうできることでは多分無いです。


殺人では被害者の未来は無くなってしまいますが、加害者は生きています。未来が有ります。死に至らない多くの事件では加害者にも被害者にも周囲の子たちにも未来が有ります。教室で起こる大小さまざまなトラブルにも、同じようにどの子にもそこからの未来が有ります。

 

その未来が、それぞれの子にとって少しでも生きやすいものになるように見守ること。
それが、周りの一般の大人として出来る最善のフォローなのではないかと思うのです。

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