「多数決」と「事前のルール確認」
読み聞かせのときに起こったことを書いた昨日の朝のつぶやきが、まとめられていました。
自分の要望をそれぞれ口にしていたこどもたち
ツイートに補足しておくと、教室に入ってまず1冊読んだあと、時間が余っていたので次の1冊を考えていたところで起こったことでした。
私が持って来てかばんから出した何冊かの本を見たこどもたちがどれを読んで欲しいとかそれはいやだとかを口ぐちに叫んだり呟いたりしている状況のなかで、昔話の怖い話をまとめた本を希望する声を上げる子がたくさんいるように感じたのでその本を手に取ったところで「それはいや!」という声がちらほら聴こえました。
数人の子と言葉を交わす中で私が「嫌な人は?」と挙手を促し、数人が手を挙げてくれました。
その少数派の子たちは「怖いのは嫌だから聴きたくない」と言い、多数派の子たちは「怖いのが良い!」と言う。
拮抗してしまった状況でどうしようかな〜と数秒考えているところに、ツイートしたような数人の子たちの「多数決だから」「少ない方はどうでもいい、無視だ」という反応が出て来たところからの「ほんとにどうでもいいの?」という話でした。
「少ないほうはどうでもいいの?」
「少ないほうはどうでもいい!」という子に対して「次に同じようなことが起こったとき、君が少ないほうになるかもしれないよ、君が少ないほうになったときに、おばちゃんはその意見を無視してもいい?」という問いにはっとして言葉に詰まった男の子がいました。
その子の周りで「そんなのどうでもいい!怖い話が良い!」と言い続けている子も、少数派が擁護されたように感じたのか嬉しそうな子、どうでもいいから早くしてくれと言う子、色んな子がいました。
昨日考えた、2つのこと
この状況に直面してから考えたことは大きく2つ、マジョリティが正当でありマイノリティについて「少ない方はどうでもいいから無視していい」という感覚が子どもたちの中に自然発生しているかもしれないということ。
そして、ツイートの中、主に後半で書いているように、「多数決」という決定方法を事前の確認なしに持ち込んで来たこと。
ざっくりですがこの2つの事柄が混ざってるなぁと感じました。
良くも悪くも、素直な子どもたち
叫んだ子どもたちが本当に心から「少ない意見など取るに足らないから排除してよし、無視してよし」と考えているのかといえば、恐らくは違うんじゃないかと思います。自分の欲求(今回は「怖い本を読んで欲しい」という要望を通すこと)のために素直にその気持ちを口に出して求めたに過ぎないんだろうなと、言葉の意味そのものは、深く考えて出てきたものでは多分無い。
でもその欲求を通すための声が、知らぬ間にマイノリティとなっている子たちを抑圧していることに気づかないままマジョリティで居続けるかもしれないと思うとそれはそれで危ういなと思いました。自分の意見が誰かを排除することに繋がるかもしれないことや、自分が少数派になる可能性に無自覚であることは注意が必要だなと感じました。
マジョリティに危うさを感じる自分の問題
でもそんな危うさを感じるのは、私自身の中にマイノリティ寄りの感情があるからかもしれません。(その辺のことはツイートまとめ後半のまるむしさんとの会話でちょっと出てきます。まとめには入っていませんが、その後そんな感じの会話がちょっと続きました。)
大きくわけて2つだったこの件の問題点ですが、自分の内省という違うポイントを引き出して来て自分の中でちょっと面白くなって来ています、がここに触れはじめると長くなりそうなのでこれはまた継続して考えていきながら後日まとめられたらと思います。
揉めないようにするための、スキル
良くも悪くも欲望に忠実な子どもたちの社会の中で、もめごとを最小限に抑えるためのスキル、手法、その一つが「事前のルール確認」です。このこと、ブログで書いたことがあったか記憶が定かではないのですが、ツイートは何度もしたことがあると思います。
息子が指導を受けているSST(ソーシャルスキルトレーニング)の中で出てくる、コミュニケーションスキルの1つです。
たとえばトランプの、スピードというゲームをやりましょうという場合。
子どもが「スピードやろう!」ってなったとき、とりあえず二つにわけてゲームを始めがちです。準備より何より早く始めたい気持ちが先に立つことが多い。
そして途中で「重ねはナシ!」とか「ジョーカーの使い方が違う!」とか、それぞれの認識が違っているポイントが出て来たらそれぞれがその時点で自分の有利になる方を主張したりしてしまって、それで揉めはじめる、もうやめた!というのは子どもたちの輪の中でよく見かける状況です。「もうやめた」に行き着かなくても、腹の中でモヤモヤをためて楽しくない時間になってしまったり、それがケンカに発展してしまったりすることも。
丁寧な事前確認に時間を割く
トランプをやろうという最初の段階で「重ねをどうするか」「ジョーカーを使うか、使う場合の用途は」と事前に食い違うかもしれないルールの確認を時間をかけて丁寧に行い、双方がそれを納得した上でゲームを始める、それが「事前のルール確認」です。
こうすれば途中で意見が食い違うことも、立場が強い方の子が自分に都合のいいルールを途中で持ち込むこともなくなる。最初の確認の時点で意見が合わない子とはそもそもゲームを一緒にやらないという選択もすることができるようになります。
苛立ちから加害に繋がり易かったり、暗黙のルールが理解しづらかったりする発達障害の子どもたち向けに勧められているスキルですが、定型の子たちにもこれを勧めるともめごとの数や子どもたちにかかるストレスはかなり減るように思います。先日訪れた学校の指導のなかでも行われていたので、教室で定型の子たちに対しても取り入れられているクラスもあるんだろうなと思います。
これ、大人の社会でも非常に有効なことなんじゃないかと思うし、子どもたちと接する上でも意識することで双方の不快やもめごとを減らすことが出来るように思います。
ゲームに限らず、家事の分担をどうしていくか、この対処についてどう対処するか、子供の病気のときや家族の問題が起こったとき、出かけるときなどに起こりうる事柄をどう対処するか事前に相談しておく、等々、夫婦間でも勘違いや定義の思い違いによるトラブル、察してくれてるはずという思い込みからくる食い違いを減らすことに繋がるのではないかと思います。
相談なしに持ち込むということ
今回の読み聞かせのケースに戻ります。
私は「多数決」という議決方法が良くない、とは思いません。何かを決めるときの有効な手段のひとつだと思います。ただ、今回のケースでは「多数決」という方法を事前のルール確認無く持ち込んでしまったことでマイノリティの排除が強化されたような気がします。「多数決」で決めていいのかどうか、を事前にクラスのなかで話し合っていたり、その場を取り仕切る役割であった私がそれを決めていたりしたらそれでよかったんだろうと思う。
今回は、その事前の相談なしに自分に都合のいい方法を突然持ち出したということ、それをその場を取り仕切る役割ではない子どもたちの数人が自分たちの意見を通すために持ち出したこと、が危うさを感じる点であったんだろうなと改めて考えて思います。
「多数決」の正当性
更にもう一つ突っ込んで考えると、「多数決」という決定方法こそが正当であるという認識もその確認無しに持ち込んできた背景にあるんじゃないか、とも思っています。国会でも、議員選挙でも、総会の決議でも、私たちの身の回りには「多数決」により物事を決めるシステムがたくさん転がっています。もちろんそれらは事前に構成員に多数決や過半数による決議とするなどの明文化された規約があるからこそ成り立っていることなのですが、多数決で決める、ということが自分にとっても子どもたちにとってもあまりにも当たり前の、何かを決めるときに当然選ばれるべき手段として考えられているようにも思え、それはそれでなんか変だぞと思ったりしています。
子どもたちも恐らくは、多数決が「当然選ばれるべき決定方法」だと当たり前に思っているからこそ自信満々に持ち出してきたんだろうなと思う。確かに簡単で、分かり易くて、そして多くの人を満足させる方法として有効な多数決なので選ばれる機会も多いから仕方が無いのかなぁ…と思わなくもない。
「聴きたくない」子を尊重すること
ただ今回のケースに限って言えば、多数派に従えば少数派の子たちは「聴きたくない怖い話を聴かされる」ことになってしまう。読み聞かせの時間に教室から出ることは出来ないし別のことをしていても耳には入ってしまうから、嫌なことを避けられない状況に追い込まれてしまう、少数派がそうなってしまうことを、多数決で決めてしまって良いのかな、と私は思いました。
なので今回は、嫌だと思う子がいるから読めないけどこの本は図書館のこの辺にあるから読みたい子は借りに行ってねという情報を提供して、別の本を読むことになったのでした。
じゃあこのときにどんな決定方法をとれば不満が出にくかったのか、多数決以外の決定方法は何があるのか、は今後の課題として考えていきたいと思っています。
おわりに
いくつもの次元の違うあれこれがごっちゃになっていたことだったので、ひも解きながら書いていたら長くなってしまいました。
たった15分間の読み聞かせの時間のなかの、本と本の合間の数分間の子どもたちとのやりとりだったので、もう少し考えてから受け答えが出来ていたらとあとになって思う部分もあったりと反省点も多い読み聞かせの日となりました。