昨日あたり?からTLに散見されていた、配偶者の不機嫌(に見える様子)に対する色んな方の反応。発端と思われるツイートがTogetterに一時まとめられていたのだけれど、たくさんのヘイトコメントがついていてまとめ主さんの意図とはズレてしまったのかな、先ほど削除されたようでした。
家族の不機嫌に見える様子とそれに対してどう感じるかということ、色々な方のツイートや反応を見ながら色々と考えたりしました。
Togetterにまとめられていた当該のツイートはご主人が帰宅後に不機嫌に見える様子を見てそれに対する不快感を奥さまが呟いているものでした。これについてツイート主さんは自分の問題なのかな、と書いていらっしゃったのだけど、確かに家族が不機嫌な様子だったら嫌だろうなぁ、と想像がつきます。でも嫌だなぁと思いつつまぁ何かの事情があるのかな、とそう受け取る方が多いのかもしれません。
そう思えずにそこに何かしらの軋轢やもめごとが起こってしまうのには、双方それぞれの問題点を切り離して考える必要があるのではないか、と考えるに至りました。
私の側の問題
でもそのちょっと嫌、とかではなく私は実はそんなときに落ち着かない気持ちになってしまった経験が何度もあります。原因がどこにあるのかはいまいちわからないのだけれど、配偶者や職場の同僚など身近な存在の人が明らかに不機嫌そう(に自分には見える)とき、私はなんとも落ち着かない気持ちになるのです。
そわそわして、この場をなんとかしなくては、機嫌を直さねば、と思ってしまう。そのために相手に「怒ってる?」と聴いてしまったこともあるし「どうしたら機嫌を直してくれるんだろう」とあれこれ考えたり、何か差し入れたり、必要以上に気を遣ってとりなそうとしてしまったり。理由について様々な憶測が頭の中を飛び交うのだけど、どうして良いかわからずただ機嫌を取りなそうとあれこれやってみる。
それでも相手が機嫌を直してくれない(ように見える)のに悲しくなったり、時に「機嫌を直して欲しい」と頼んだり、「あれこれやってみてるのに機嫌を直してくれない」と怒ってしまったりしたこともありました。
色々と考えていくうちに、この感覚はもしかしたら「不機嫌な人がその場に居る状況に耐えられない」というなにか特別な理由が「私の中に」あるんじゃないだろうか、と思うに至りました。
自分のせいと思ってしまう
思い返せば、過去に自分が空気を読まずにやってしまったことで人を不機嫌にしてしまって、後からそれに気づいたけどどうしていいかわからずあたふたした過去もありました。それも原因の一つかもしれません。自分のせいで相手が不機嫌になっているのかもしれない、その原因に自分が気づけていないのかもしれない、と思って落ち着かなくなっているのかなぁと。
過去のトラウマから察するためのセンサーを強めに作動させて生活しているがゆえにその「察するセンサー」を過剰に働かせてしまい、結果的に必要以上に察し過ぎて本人を突き抜けてしまっているのかもしれない。
母という反面教師
母は逆に、完全に自分に問題があることで周りが怒ったり苦情を言ったりしているときも「何か外で嫌なことでもあって私に当たり散らしているんだろう」と変換して自分を守る人でした。そんな母を見て育ってきたことが反面教師となってしまっているのかも、とも。
無用な介入
また、他のケースでも経験があることですが自分が解決できそうに感じられることについて相手がそれを必要としているかしていないかに関わらず介入しようとしてしまう、不機嫌ならそれをなんとかしたいとつい思ってしまう、その奢りみたいなものがあったのかもしれません。
過去のトラウマ
ここに書きながら気づきました。そして多分これが、最も大きな要素ではないかとも思います。
父は不機嫌で周りを振り回す人でした。それは年老いた今もあまり変わりません。母が上記のように自分を守る方向にシフトしてしまっていったのも、そんな不機嫌で人を動かそうとする父の影響は強いんだろうなと思います。
父が不機嫌になったら、それを取りなすのは小さい頃から末っ子である私の役目でした。父の機嫌の波を観察しながら声をかけたりすり寄ったりして父のご機嫌をとる、父の機嫌が直ったら母も機嫌よく私を可愛がってくれる、それが小さい頃に何度も何度も繰り返されて来たこと。記憶の蓋を開けることで今思い出しました。
こんなふうに自分の中に潜んでいるトリガーとなりそうなことを色々と分析していくうちに、あぁこれは自分の問題なんだなぁと思うことが少しずつですが出来るようになってきました。(最後の1つはさっき気づいたので、パンドラのはこを開けてしまった動揺がややある反面、さらに自分に対する理解が進んだような気もしています)
自己分析、もしくはひっかかりの意識
こんなふうに自分を分析していくことで相手の不機嫌(に見える)様子に直面したときに自分が穏やかでいられらないことの要因が全て相手にある訳ではないということを理解しておくだけで、相手に無用な要求をせずに済んで関係が良好に保てるかもしれないと思います。自分の過去を細かく言語化していくのは簡単ではないかもしれません。時に辛い過去であるなら専門家の手を必要とすることもあるのかもしれませんが「自分の中に何か問題があるのかもしれない」「ひっかかったのはなんかあったのかも」ということを意識するだけでも違うんじゃないかなと。
相手の側の問題として
不機嫌に見えてしまう、という状況に相手が陥っているとき、相手が「本当に不機嫌なのか」「それは何故か」は自分の問題があるなしにかかわらずある程度は気になるところだろうと思います。
気になったり、私のように不安のあまりおかしな行動に繋げたりしてしまう方にとっては切実な問題なので、そこは身近な人には理解をお願いしてもいいのかな、と思います。自分はこんなふうに不安になりやすいから、自分のことで何か気分を壊すことがあったら態度で示さずに具体的に指摘してほしい、とか、事前に申告してくれたら物理的に離れるようにするから教えて欲しいとか。
そこで相手の不機嫌に触れずに適当な距離を置いたり、具体的な言葉で安心を与えてくれたりすることで解決に至れるケースもあると思う。
でも本人に不機嫌の自覚が無いケースも希にあるのではないかな、と。それはASD(アスペルガー)など発達障害の特性のある方の一部に見られる、精神的肉体的疲労が限界値を超えると表情を作ることが難しくなる傾向。
見た目から受け取る印象が7〜8割という世界で暮らしている多くの人と違って言語によるコミュニケーションに多くを割いているASDの方にとっては、表情は意識して作るものでありその余力が足りなくなれば自動的にスイッチが切られ易い機能。そんな方がしんどくてスイッチが切れた状態で陥っている無表情の状態を「不機嫌」と受け取られやすいようです。
おわりに
配偶者や同僚など身近な人が不機嫌なように見えるとき、それは不安や不快を生むかもしれないのだけれど、改善が難しいケースもあるということ、そしてどうにも気になってしまって仕方が無いのは自分の中にも何かしらのひっかかる要素があるのかもしれないということ、それらを記憶のどこかにとどめておくだけでも、相手に求めすぎる適度な距離を保ちやすくなるのではないかな、と考えたりしています。
どんなに頑張っても人を変えることは出来ないから、変えられるのは自分の考え方や意識の持ち方や環境、相手へ求めること。関係性の中になにかしらのしんどさがあるなら、見直すべきはそこなんじゃないかなと自戒も込めて。