スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

子育てと、夫に感じるストレスと、ジェンダーと、フェミニズムと。〜育児に必要なことって結局これじゃないかと思ったこと〜


最近、朝の出勤前に自宅でひとりでぼーっと過ごせる時間が短時間ですが毎日一定に持てるような習慣が出来上がりつつあり、家事を片付けた後に読書や録画消化に時間を使えるようになってきました。ここ数日は録りためた番組を流し見ながら息子に頼まれたマフラーを編みつつ、色々と思考を巡らせる日々です。

 

うずらのタマゴをふ化させた少女の話

編み針を動かしながら、起きてから見たTwitterのTLに流れて来ていた、うずらのタマゴをふ化させた少女の話が頭に浮かびました。スーパーで売られているうずらのタマゴを照射などを管理しながら観察していた少女が居て、ある日そのタマゴのなかの1つがふ化した、今も別のタマゴを購入して観察を続けている、という話題がテレビで取り上げられていて、それについて男性アナウンサーが「いいお母さんになりそうですね」とコメントした、そこじゃないだろ!とツッコんだツイート。

 

うん、そこじゃないよなぁ…と読みながら思いました。

 

性的役割分担に価値観を引きずられ「少女」と「タマゴ」に勝手に母性を繋げてコメントしてしまっている、その浅はかさは責められてしかるべきよなぁ…とまず思った自分が居ました。

 

恐らくはこのツイート主さんも、RTしているたくさんの方も、私と同じように女性蔑視、母性信仰を感じさせるような男性アナの反応にがっかりしたりうんざりしたりしていたんだろうなと。

 

でも。

 

少し考えて思ったんです。

タマゴの状態を熱心に観察し、調べて情報を得、最適な環境を整えて子供の成長を促す事が出来る、その力は「いい親」の条件としてあながち間違ってないんじゃないか、と。「いいお母さんになりそうですね」という男性アナウンサーの発言はその視点から考えたらけっして間違いとは言えないのかもしれない。

 

いやもちろん、そんなことを考えての発言じゃないだろうよってのが透けて見えちゃってるからこそのツイートだったんだろうと思う。でも私のなかにどこか、ジェンダー的にあり得ない反応だよねって感じるものに対してサーチ機能が働いていたんじゃないか、それを通して見ようとするメガネをいつも無意識にかけてたんじゃないか、と思ってしまった。他の要素や他の視点を考える前に、まずそのジェンダー的にどうか、という視点で見てしまっていたんじゃないか、と。

 

無意識にかけていた「性的役割分担に抗う」メガネ

思えば小さい頃から、男性と同等になれるように、と口うるさく言う母に育てられて来たこともありどこかで将来は男性と対等に渡り合える女性になるのだと思いながら育って来たような気がしています。九州の片田舎で絵に描いたような男尊女卑の社会の中、虐げられて来たと言う母を含む周りの女性たちからは口々に、学歴を持ち資格を得て稼ぐ力を身につければ男性と対等に生きて行ける、自分たちのような思いはしなくていい、と言われて来ました。

 

学生の頃も社会人になってからも、女性というだけで課せられる役割に不満を抱いたり夫との関係性の中で性的役割分担を押し付けられるように感じられる状況に過度に反応を示したりして来たような気がします。

 

何よりも先ず「性的に差別を受けていないか」を考えていたような気がするのです、それが何年も何年も習慣となっていたような気がします。私は自分でも気づかないうちに「性的役割分担に抗うメガネ」をつけていたんだと。

 

メガネを通して見ていた育児・夫婦関係

結婚して子供を産んで、夫と育児の連携がなかなかうまくとれずに悩んだ時期も長くありました。そのときに私の中にいつも湧いていた感情は夫との不公平感、そして女性という性であるが故に自分がしんどいんだと思ってそれを理解してくれない夫への不満でした。

 

私ばっかり大変なのにそれが改善されないのは夫が旧来の性的役割分担に捕われているからでそれを変えねばならないとか、イクメンと言われるらしい男性の素行を見聞きしてはジェンダー規範に理解のあるのは羨ましいとか、そんな恐ろしいことを思っていた時期もあったなぁと。

 

私が無意識のうちにかけていた性的役割分担に抗おうとするメガネの効果が育児のしんどさが強化されたり歪んだりしていたんだなぁと今となっては思います。

 

行き過ぎたジェンダー感による歪み

ネット上でも育児のストレスを抱えた母親の声はあちこちに飛び交っていて共感を覚えていたり。

そんな中、「育児する生物」を取り上げて人類の夫はいかに情けないかと嘆く記事を読んでふと思ったんですね、いや別にこのサルが「妻への愛情故に、フェミニズムに神話的で」育児してるわけじゃないよな〜と。そこで取り上げられていたのは霊長類のヨザルだったんだけど、ペンギンでも他の生物でも同じなんだけど育児に参加するのは「その方が子供が生き残りやすいから」という生物的な本能故に過ぎなくて、地球上にはその原則に基づいて育児にまったく参加すらしない親すら無数に居る。

産卵したタマゴやふ化したり生まれたりした赤ちゃんを、誰がどうやって育てていくかは生物により環境により様々で、それぞれの生き物がもっとも生き残りやすい手法を結果的に選択して自分の遺伝子を残す、自分の種を絶やさないようにしてる。

それを人間が勝手に「育児する父親=イクメン」として取り上げてる、なんか変だなぁと違和感を覚えました。金銭が足りなければ生きていくことすら難しい現代のヒトの世界では自分の子供を生かすために生きているという意味では外で稼ぐことだって立派な育児なのになぁとも。

 

育児に必要なたった一つのこと

編み物をしながらそんな色々を思い返し、あぁ結局育児に必要なことってこれじゃないか、と思い至ったこと。それは「子供が真っ当に生き残れるようにすること」それに尽きるんじゃないかと、そこを見失ったらダメじゃないかと。

 

子供が「体も心も」真っ当な状態で生き残ること、大人になること、寿命を迎えるまで生きること、親が絶対に意識しないといけないのはそこだけじゃないのかなと思うのです。その他の事は全部、それが充たされて初めて意味を持つ。どんなに良質の教育を受けられても、どんなに優れた指導者に出会えても、どんなに美味しく栄養のある食事が与えられても、どんなに良い人間関係の中に置かれても、その子が元々持つ身体能力が十分に活かせていなかったら、その子の心が健やかでなかったら、何の意味もないよなぁと。

 

そんな大原則の前では、夫婦関係がジェンダー規範的にどうかとか、担っているものがイーブンかどうかとか、そんなものは実はどうでもいいのかもしれない。私は無意識にかけてしまっていたメガネに気づかず、その一番大事な根っこを長いこと見据えられずに来ていたんだなぁと思うのです。

 

おわりに

子育ての過程で夫に何か不満を持ったり関係がうまく行かなかったりしてきたのだけど、この「子供が真っ当に生き残れること」をもっと意識していればうまく立ち回れたんじゃないかなと思い返したりしています。

旧来からの女性が虐げられて来た性的役割分担の強制の歴史を考えたら、男女が平等な権利を持ち、虐げられることなく生活を送ることが出来るような未来を求めること、そのために意識したり活動したりすることは今後も必要だとは感じています。

でも一つの家庭の中を見たときに夫婦間で何をどう担っているかという点について必ずしもイーブンが正解だとは私は思いません。色々な状況や周囲との環境、本人の資質や体調などたくさんの条件をふまえた上で、その結果が子供の成長にとって最適であればそれで良いのではないかと思うのです。

そしてそういう意味では、うずらにとって最適な環境を考えてあげようとしていたという少女はいい親になれるかもしれないんだなぁ見習わないとなぁとか改めて考えたりしています。

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