昨日の記事のブックマークコメントでも言及をいただいたので、補足的な記事を書こうと思います。
昨日のエントリの中で
「子供のいない人にはわからない」という言葉について昨日のエントリの中では
公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。
でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。
こう触れていました。
双方それぞれに相手には見えないだろう事情や背景がある中で共存していくためには自分の都合で相手を判断せずに思いを馳せたり歩み寄ったりする姿勢が必要だというのが昨日のエントリの主な内容でした。
ツイートでの補足
昨日の公開後、この言葉を掲載したことについて思うところもあったので補足的なツイートをしていました。
ブログの補足になるのかもしれないけど「子供のいない人にはわからない」っていう言葉を私は子持ちがいうのはタブーだと思ってるのですね。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2017年1月12日
このツイートを起点とする連続ツイートをリライトしてまとめようと思います。
当たり前のことをわざわざ口に出すということ
子供のいない人、産んだことのない人に、それを経験した人の感じたことや苦労がわからないこと、それは当たり前なんです。
骨折をしたことのない人にはその痛みをリアルに感じたことがないのと同じように、やったこともないことをわかるわけはないの。
でもそれは「子供がいて初めてわかることもある」ことを否定するわけでもないんですね。そっちもそっちで、至極当たり前のことなんです。
どっちも当たり前すぎるほど当たり前のこと。
それを「あえて口に出す」「わざわざこの局面で言う」ことの意味とその効力について、子供を持っている私たちは無自覚ではいかんと思うのです。
「子供がいたら」わかるのか
もう一つ掘り下げます。
先ほどの例で骨折を挙げましたが、一口に骨折と言っても足の骨をボッキリ折った人と剥離骨折した人では症状の感じ方は違うでしょう。
利き手の指を折った人と利き手でない方だった人とは抱える困難も違う。
ひとえに「子供のいる人」と言っても1人と4人では経験する世界は全然違いますよね。もっと言うと人数が同じだからと言って同じ経験が共有できるわけでもない。
私がうちの4人の子供たちを産んで育てて感じた苦労やしんどさや、逆に楽しさや嬉しかったことは「私以外の誰にもわからない」が正解なんです。
わからないし、わかれない
自分が経験していることを自分以外の人が共有しているわけではないように、自分以外の人の経験していることも私にはわかり得ません。
私たちは結局、誰のことも「わかることはできない」んです。
その、わかることができない者同士が同じ社会の中で生きているんです。無人島にでもいかない限り、誰かと適度な距離を保ちながら共存していくしかないと思うのです。
共存していくために
昨日のエントリを例に挙げれば、その人の出す答えとしてどうしてもそこで授乳した方が良い状況になることはあり得ると思うんですね。
それは、その状況になった人にしかわからないことです。
代替案は色々と後出しはできるかもしれませんが、それはその場のその人ではないから言えることなのかもしれません。
そして同時に、目の前で授乳行為を行われることがどうしても不快に感じる人もまた存在するのも事実です。それだって、その感情が湧いたことのある人にしかわからないことです。
理由は様々だろうとは思いますが、その自然に湧いてしまう感情を誰かに否定されたり感じることに制限を受けたりするいわれはありません。
その一見相対する両者も、共存できると思っています。
自分にはわからないけど何かしらの事情があるのだろう、と思うこと、距離を置くことも一つの方法です。
辛いのだと言う人がいたら「その人にとってはそうなんだろう」と感情は否定せず受け入れる。
「子供のいない人にはわからない」をタブー視する理由
自分の経験だけを元に「そんなはずはない」「そう感じる方がおかしい」「そうする方がおかしい」と切り捨ててしまったり、経験をしていないからわからないんだと言い放ってしまうこと、そうやって相手を否定する姿勢を見せるのは威嚇と同じだと私は思っています。
不快や不安の感情を自分の範疇で留めずに「だからお前が変われ」と求めてしまったら、それは相手を一つの人格として尊重していないということの証明。
自分が微動だにせずに相手に動け変われと要求している状態、そのポーズを見せられたらその相手に歩み寄れるでしょうか。自分を尊重しないその人の背景に思いを馳せたいと思えるでしょうか。
それぞれが尊重しあってコミュニケーションがはかれない。
これが「子供のいない人にはわからない」と言う言葉を子持ちの方が発することを危険視する理由です。
この破滅の力を持つ言葉を、無自覚に発してしまうのは怖いと思うのです。
おわりに
昨日のエントリで紹介したような自らベビーカーを押して経験してみようとしてくれる方もいますし、子供がいない人でも私たちが日々子育てをしていく上でたくさんの支援をしてくれているはずです。
そして、社会の中には子連れの人の行動に不快感を抱きながらも適度に距離を保ってくれている人たちもたくさんいる。
これは子連れとか子持ちとかに関わらない、広く言えることなんですね。
社会の中にはたくさんの「自分では理解できない言動をする人」が存在します。その人たちともそれなりに距離を取り、時に協力したり思いやりあったり手を取り合ったりしながら生活していると思うんです。
子持ちの苦労を子供のいない人にわかってもらう必要はないんです。そんな無理なことを求めるより、わからなくても構わないから同じ社会の中で生きていくために、お互いが心地よい距離を保つためのコミュニケーションが必要だと思うのです。