スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「言っても出来ない子」が悪い?「言い方が悪い大人」が悪い?


さっき書いたエントリとも関わってくることなのかな、フォロワーの支援者さんが靴を揃えるためのフォローとして靴置き場にマーキングをしていたツイートについて、こんなことを書きました。

 

 

ツイートではぼやかして書きましたが、綺麗に並んでない子のうちの一人はうちの次男です。一時期はちゃんと置いてるな〜と思ってましたが先日見た時は盛大に下駄箱から彼のスニーカーが飛び出していました。ちょっとずれてるとかじゃなくて、彼の靴置き場にだけ時限爆弾的な何かが仕掛けられていてその爆風で飛び出してしまったんじゃないかと思うほどに、見事に下駄箱前の床に転がっていました。

 

多分休み時間ギリギリまで外で何かしら楽しいことをしていてチャイムが鳴ると同時にやばいと思ってダッシュで靴を脱いで下駄箱に投げ込んだけどうまいこと入らなかったんだな、と目に浮かぶようです。

 

そして同時に情けなくもなるんですね、恐らくは6年間、毎日のように先生や級友に言い続けられてもこれが彼の今なんだな、ということが。

 

特別支援に関わる書籍などでよく、靴を揃えるのが苦手な子のための支援として靴を置くスペースにマーキングをしたり、靴底の形のシールを貼って「ここに置く」ことを意識しやすくする、と言うハックが紹介されています。

 

次男が利用している通級指導教室の下駄箱はカラーボックスのような棚を利用しているのですが、1つの段にちょうど靴が置けるくらいの幅にテープが貼ってあります。

そして毎回次男はそこに綺麗に靴を揃えて置くことができます。

 

次男が学校の下駄箱に靴を揃えておけないのは

・視覚的にわかりづらいから

・余裕を持って靴を置く時間を取れていないから

・次の作業に気を取られやすいから

 

などが考えられます。

この条件が発動しないよう環境が整えられた通級指導教室の入り口では必ず揃えることができるのです。

 

さて、これについてあれこれ呟いていたら、フォロワーのはなびら葵さんからこんな引用RTをいただきました。

 

はなびらさんは医療現場のヒヤリハット事案について書かれているので学校の話とはすこしズレるとは思うんですが、これらツイートを読んで目から鱗が落ちたんですね。

先生たちにとって本当の目的はなんだろう、という。

 

一人一人の子供たちが自分の力で靴をきれいに揃えられるようになるのが到達点なのか

学校の靴がきれいに揃っている状態になっているのが到達点なのか

 

(ちょっと意地悪な言い方をすれば)

靴がきれいに揃っている指導の行き届いた学校、というアピールが外部に向けていつもできることが到達点なのか

 

など色々と考えてしまいますがたぶん答えはありません。

そこまで明確なゴール設定がなされているような案件ではないんだろうなと。

 

「くつをきれいにそろえましょう」

という標語が学校に貼られているのを見たことがあります。

 

「スリッパのみだれはこころのみだれ」

とトイレに書かれているのも見たことがあります。

 

でも、たぶん学校の多くの子供たちにこう聞いても明確な答えは返ってこないのです。

「なんで靴やスリッパをきれいにそろえないといけないの?」

 

たぶんだけれど先生に聞いてもスパッとは返ってこない、そこまで深く考えられていることではないんだろうと思うのです。

 

下駄箱の靴はきれいに揃っている方が良い、というある種当たり前・常識がベースにあって、それを子供たちにさせるために「下駄箱の靴はそろえて入れましょう」と「言う」と大半の子はそれでできる。

 

でも一部の子はできない(もしくはやらない)。

本当なら「言う」の段階で全児童の足並みが揃ってそこで指導が終わるはずだったのに。

 

これが、最初のツイートで娘が言っていたと言う「靴チェック係」の導入による監視体制やそれを受けての口頭の指導が続く、という現状につながっているんじゃないかなぁ、と思ったりしました。

 

残念ながらそれを6年間続けられても次男は「学校の下駄箱の靴を揃える」が定着していないことは先日わかりました。

 

先生方がそれをどう考えているのかわかりません。

全校児童に対してゴールがどこに設定されているのか、そのゴールのためにどんな取り組みがなされているのか、と言うことを掘り下げるべきなのか悩ましいのですが、忙しい先生方にとって下駄箱の靴くらい口頭で言うだけでなんとかしてほしい、と思うのもまた正直なところなんじゃないか、とか、次男も環境が整えばできるからあまり深く悩むことでもないんじゃないか、思ったりして様子を見ているところです。

 

下駄箱の靴は一つの例に過ぎませんが、学校で叱られやすい子供を持っていると(そして家でつい次男ばかり叱ってしまう自分の存在も含めて)叱られるような事例が発生した時に「誰が悪いのか」という話にお互いになりやすかったりします。

 

下駄箱にきれいに靴を揃えられない次男が悪いのか、次男に適切な指導ができない大人が悪いのか、と。

 

でも、誰も悪くないんですね、きっと。

次男の現状と指示の仕方がマッチングしてないだけ。

あぁこうやって考えると、インクルーシブ教育の定着のためには教員1人あたりの児童数を減らすのが先決、というのが本当によくわかります。30人以上相手にしていて個別にマッチングした指導なんて無理だもの。

 

教育現場の現状を嘆いてしまいたくなるけれど、私だって家で余裕がなくなったらこんな風に考えながら子どもに接することからつい手を抜いてしまう。

 

この事例から私がやっぱり大事だなと思ったのは

目指したいゴールはどこなのか

をまず明確にすること。

叱りたくなる事案が発生した時にそれをまず意識すること。

そして、それを共有してそのために双方にどんな工夫ができるのかを考え、子供たちそれぞれが取り組みやすい環境を整えること。

 

とりあえず、目の前のお家の中でできることから少しずつ。

 

 

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