相変わらずブログらしい更新ができずにいます。
師走です。お坊さんだか先生だかが走るほど忙しいらしい師走です。
例に漏れず私も仕事のことや引き受けている役員関係、子供の行事…なんやかんやタスクが積み上がっていって忙しくしています。
そんな中ですが、twitterのTLに流れてきたこんなニュースからちょっと色々考えたので、書いておこうと思います。
国の特別天然記念物に指定されているコウノトリですが、農薬の使用などで安全な住処が確保できなくなった国内では絶滅してしまっています。
記事の中では海外から譲り受けて種の保存に取り組む活動などが紹介されています。
コウノトリの「環境」
記事の中では、コウノトリの好む環境についてこう書かれています。
ドジョウやカエル、昆虫などを食べるため田んぼや湿地帯に降り立つ傾向があるといい、公園がある豊岡市は市を挙げて無農薬や減農薬の水田普及に取り組む。
「ドジョウやカエルや昆虫が生息する田んぼや湿地帯」があればコウノトリが来るのでは、という解釈ができます。
それを用意すればコウノトリの好む環境が保持できる、とも考えられます。
「じゃあ用意しよう」なのかどうか。
ここで、フォローさせていただいている魚の専門家さんが言及されていたことを取り上げます
コウノトリが飛来するたびに、餌として外来ドジョウが放流されてしまうのではないかと心配してしまう職業病。
— オイカワマル (@oikawamaru) 2018年12月11日
この、何かのために別の種を持ち込む、というのは長い歴史の中、世界中の至る所で行われてきたことだと思います。
そして、その結果国内の固有種が絶滅の危機に瀕するケースも多い。
持ち込まれた外来種の中には、食糧不足を補うためであったり、人間に害のある生き物の駆除のためであったり、理由は様々ではありますがその時ごとに(それなりの)有用性があって行われてきたことだろうと思います。
でもその結果、持ち込まれた種による被害と言える現象が起こってしまう。
なぜ?
それは「それなりの有用性」という、点だけを見て行われてきたからだろうと思います。
たくさんの先生たちとの出会いの中で見えてきた、環境の連鎖
子どもたちと一緒に博物館主催のいろいろなイベントに参加したりしている中で、これまで好きだった鳥だけでなく、魚や虫や葉っぱや苔など、いろんなものに詳しいそれぞれの先生たちに出会うことができました。
先生たちと一緒に山に入ると、面白い発見がたくさんあります。
鳥の先生が、声が聴こえる鳥の話をします。その鳥が好む木の実を挙げると、植物の先生がその実のなる木を探して、お話をしてくれる。
先生たちのお話を聞いていると、これまで知識として知っていただけの「食物連鎖」という概念が、今ここで成り立っているんだということに気づかされます。
食物連鎖というと食べるものだけの話のようですが、実際にはその食べ物が育まれる環境まで全てを含みます。
柿の実を好む鳥がいたとして、その鳥が生きるためにはただそこの柿の木が植わっていれば良いわけではないんですね。
柿の木が毎年人の力を借りずに実をつけるためには何が必要か、それぞれの要件を満たすためにはそれぞれどんな背景が必要になるか、という、維持するための環境の連鎖が必要になってきます。
コウノトリの話に戻ると、五島に毎年コウノトリがやって来る環境を保持する、というのがどういうことなのだろうか、ということです。
人間が餌となるドジョウを毎年放流するのが正解でしょうか。
おそらくはそれは、自然の中での正しいあり方ではないのだろうと思うのです。
餌となるドジョウがコウノトリの餌になりながらも数を保つことができるのはどんな環境か、その環境を保持するためにはその背景にどんな要因が…
という、何重にも重なった色々な条件が背景にあって、やっと「自然にコウノトリが居着く環境」が出来上がるのだろうと思います。
そしてそれら環境を守っていくためには、鳥の知識だけ、魚の知識だけ、葉っぱの知識だけ、という、特定のことだけを見ていてもダメなんだろうと思うのです。
色々な分野の有識者が連携を取り、様々なことを想定しながらベターを模索していく、その取り組みに尽力して初めて、人間という立場から自然にアクセスできるんじゃないか、と思いました。
直接どうにかするのではなくて、環境がそうなっていくような流れのために自分にできることを考える。
コウノトリの生存のためにやれることは「住み良い環境を人間が作る」のではなくて「住み良い環境が維持できるような連鎖が起こるよう人間が意識する」ということなのかなと。
ここまで考えたところで、はて、これは何か似ているぞ、と思いました。
子どもたちを取り巻く環境です。
子どもたちの周りの、環境の連鎖
家庭で学校で、子どもたちがいわゆる「問題行動」を起こしたり、何か困ったことが起こったりすることがあります。
その時に周囲の大人がつい「〜〜だから」と飛びつきやすい原因を掲げて、そこを潰そうとすることがあります。
よくあるのが「親の関わりが足りないから」「愛情不足だから」とか最近だと「発達障害だから」とか。
そうやって「原因」を潰せば解決するだろう、という対処をしようとする。
でもそうやって小手先で対処したのにうまくいかず、泥沼にはまっていくケースを何度も見てきました。
コウノトリの話を考えながら、この、子どもたちを取り巻く環境の話にも繋がるなぁと思ったのです。
何かの問題が起こっている、対処が必要な事態が起こっている。
その時に、特定の部分だけを眺めて「ここをこうすれば良いだろう」という解決策を立てていいんだろうかと思うのです。
コウノトリのために餌をまく、これが、大人がついやってしまう小手先の対処だと思うのです。
でもコウノトリに本当に必要なのは、餌となる生き物が自然に繁殖し数を保てる環境であり、その環境を保つための気候やその生き物の餌が数を保てる環境であり…と続いていく。
子どもたちにとってはどうだろう、と考えます。
彼らにとって本当に必要なのは「想定される原因を潰す」という小手先の対処ではなく、子どもたちが問題となる行動を取らずに済むような、もっと大きな視点の、もっと色々な専門的な知識を持った人たちの連携が必要な対処なのではないかなぁと思うのです。
おわりに
すごく漠然とした話なので、本当はもうちょっと具体的な事案について掘り下げて言語化したいところではあります。
がなにぶんお仕事多忙ゆえ、今回はこの辺までで。
また継続して何か書くことが、もしかしたらあるかも。
ツイキャスのネタにするかも。
まぁ、そんな感じで投げて、今日はおわりです。