スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

見通しが立たない辛さから見える、次男のこと。


珍しく2日続けてのエントリです。

今日は、お風呂のお湯をバケツでくんでいるときに気付いたことと、今読んでいる本のこと。

 

残り湯を洗濯に使うようになりまして。

少し前にTwitterで呟いたのですが、どんどん増えていく食費と学費の捻出のため、微々たる努力ではあるけれどやらぬよりましだと水道代を節約しようと思い立ち、お風呂の残り湯を洗濯に使い始めました。

その方がいいのはわかってたけどずっと余裕なくて先延ばしにしてたのを、えいっと思い切って始めたのですね。

 

最初に使ったのは家にあったバケツ。

数日後にダイソーで使いやすそうなバケツを見つけたことで作業負担は飛躍的に軽くなりました。

 

我が家の洗濯は今は、夜家族がみんなお風呂に入った後と、朝起きてからの2回です。

お風呂の隣の脱衣場に置いた洗濯機に、ザバーンザバーンと何度もバケツの水を入れる作業をしています。

 

水を汲みながらふと気づいたこと

その日も朝まだ眠さを引きずりながらお風呂に残った冷たい水を何度か汲んだときでした。

バケツが便利になったとはいえ、スイッチを押せば水道水がバーーっと蛇口から出てきてくれるのに節約のためにと朝から重労働。

眠さもあってめっちゃめんどくさいんですね。

ザバンザバンと何度も水を汲みながらふと「これいつ終わるんだろう」と思ったんですね。

 

今何杯目かも覚えてません、数えたことなかったんですね。

適当に水を汲んで、洗濯機の中がいっぱいになったらおわり。

そんな風にやってたから、今私が汲んだ水が何杯目で、いつ終わるのかなんてわからずやってた。

 

ヘレン・ケラーのWATER!ばりにそこで気づいたんですね。

 

「あ、これ、見通し立たないからしんどいんだ。」

 

というわけで、次にバケツで水を汲むとき、1杯、2杯…と数えてみました。

我が家の洗濯機に洗濯物を入れて上から水を入れたとき、満タンになるまで6杯でした。

 

今何杯目か、を意識する。

その次の回です。

汲み始めから「今1杯目」「今2杯目」と意識してみます。

するとどうでしょう、意識せずにダラダラ汲んでいたときよりはるかに気が楽です。

3杯目なら「あとこれを3杯」と思える。

5杯目なら「あと1杯で終わり」と思える。

 

めんどくささとしんどさが一気に軽くなりました。

と同時に、色んな過去の記憶が思い出されてきました。

 

思い出すあれこれ。

まず思い出したのは、嫌で嫌で仕方がなかったマラソンのこと。

小・中学生の頃、体育や学校行事でやらされるのが大嫌いだった私は、いつの頃からか「〜時には走り終えている」と考えることを始めていました。

 

1回走るのに何分かかるか大体わかったら、あとはスタートからゴールまで、歩きさえしなければその時間を過ぎれば終わる。

 

校舎の時計を見ながら「〜時〜分には終わる」と思いながら走ったのを覚えています。

 

逆に、部活で顧問から「いいと言うまで走れ」と言われた時のあの苦しさ。

いつ終わるかわからないことを強いられるのは本当に苦しかった。

 

それを思い出した時、あ、次男のしんどさはこれかもしれない、と思ったのですね。

 

見通しを立てるのが苦手な次男のしんどさ

発達障害のある次男は、見通しを立てるのが苦手だなぁと見ていて感じます。

今日は夕方5時から〜があるから何時に家を出ないといけない、だから…という計画を立てて行動するかとか、自分が発した言葉をそこにいる人がどう受け取ってそれがどんな風に巡って自分に返ってくるかを考えるとか、そういう、少し先を見通して自分の行動を考えたり決めたりすることが苦手で、それゆえのトラブルがしょっちゅう起こります。

 

そういう、トラブルとして表面化することについては「あぁ見通しを立てるのが苦手なんだなぁ」と思って対処していたのですが、今日書いてきたような見通しが立たないゆえのしんどさについて考えている中で、もしかしたら日常的な不機嫌やパニックもここに由来するものが多くあるんじゃないか、と思うに至ったのです。

 

例えば、宿題の取り掛かりを極端に嫌がってパニックを起こしてきたのですが、それも「いつどんな風に取り組んだら宿題が終わる」という目処が本人の中で立たないから起こっていたんだろうなと。

 

1日ここまでというスケジュールを立ててあげるとできるようになったものもありましたが、それも目処が立てば安心できるから取り組めていたのかもしれません。

 

体調がちょっと悪いときに「すごくしんどい!!」と大パニックを起こしていたから病院に連れて行ったら大したことないと言われて帰る、というのを何度も繰り返したことがあるのですが、それもこの見通しのことと関係があるのかもしれません。

 

違和感や不調を感じたとき、大抵の人は自分に起こった過去の痛みや不調を思い返したり、家族のそれを思い出したりして「この程度だからこうすればいつには回復の見込みあり」と判断し、その後の見通しを立てて冷静に病院に行ったり薬を飲んだり休んだりすることができるのでパニックには陥りづらい。

 

でも、次男のように見通しを立てるのが難しい子にとって自分の不調が「この先自分の体がどうなってしまうのかわからない」という不安に繋がってしまうのかもしれません。

 

実はこれと全く同じことが、今読んでいる本に書かれていました。

自閉症 もうひとつの見方 「自分自身」になるために

自閉症 もうひとつの見方 「自分自身」になるために

 

 

まだ途中までですが、自分がぼんやり考えていたことがきちんとした言葉になって組み上げられていっているような、そんな本です。

 

この本の中では、周囲が「問題行動」と見なして消去する方向へ促そうとしてしまいがちなものに対して「そこには必ずその人なりの行動原理がある」と見なし、観察を続けていく姿勢が見えます。

見通しを立てることが同年齢の他の子よりも苦手な次男は、きっと、彼なりのやり方で生きていて、そしてこれから先も彼なりの方法を駆使して生きていくことになるんだろうなと読み進めながら感じています。

 

見通しを立てることがそれなりにできる人にとっては、苦手な次男のような子を見ていて「こうすればいいのに」とつい思ってしまうのかもしれません。

私も次男に、つい言葉で伝えてできるようになるよう促してしまうことも多々あります。

 

おわりに

でも、私がバケツの回数を数えただけでその次が楽になったのはもともと見通しを立てられる力を持っていたから。

それが難しい次男にとっては、知ったからといって簡単にできるようになるものではないのかもしれません。

 

そして、私と同じやり方で見通しを立てられない彼にとっては、日常のいろんなことがバケツの水を汲み続ける私の辛さと、顧問に言われて走らされ続けていた時の私の苦しさと同じように、重く苦しくなってしまうのかもしれません。

 

彼のことを、もっと知りたい、そう思えるような経験と、本との出会いのお話でした。

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