今日は、今朝目に留まったこの記事のこと。
抽象理解力と語彙の解離がASDの子どもを苦しめる? - decinormal
学校がちょっとしんどい、三男
ツイッターでちょっとだけ呟いたけれど、我が家の小4三男が最近ちょっと学校がしんどい。
少し前から登校を渋ることがちらほらあったんだけど、コロナウイルスの関係で(彼にとってはちょうどよく)長い休校があったおかげでいい感じにインターバルが挟まって気持ちが落ち着いてきたかなぁ…という感じだったのもつかの間。
分散登校で少人数の登校が終わり、全体での登校が再開されたところで「やっぱ無理」の白旗が上がったので担任と相談の上、無理せず少しずつ、という感じに切り替えて対応しているところ。
目に留まった、宇樹さんの記事
宇樹義子さん@decinormal1 とはツイッターで長く相互の関係にあるライターさんで、彼女の書くものにはいつも法度させられたり、考えるきっかけをもらったり。
今回目に留めた記事は彼女が2015年に書いた、少し古いものだけれど、いまの三男のしんどさを紐解くヒントをもらったような気がしたのです。
白いパンツのエピソードの「子供だからってばかにしてる!」というあの憤慨。
別記事になるけれど「お友達」という気持ちの悪い表現への違和感。
クラスの男子にうまく説明し切れなかった悔しい気持ち。
羊たちを愛でた後に大人が出したジンギスカンが喉を通らなくなるあの感覚。
彼女が挙げていたエピソードはどれも私自身が幼少期〜学童期に感じていたものとあまりにもそっくりで、ベッドの中で寝ぼけながら「ここに私がいる」と背筋がぞくっとしたほど。
あの頃の私と、うちの子供たち
私も、宇樹さんと同じように「お友達お友達って、いや、友達じゃない人も混じってるやん」とか「なんでたまたま同じクラスになっただけの嫌なやつとも仲良くしろと言われるのか」なんて思っては悶々と考え、不機嫌を隠せない子だったなぁと。
大人が書いたものに「ここはおかしい」「こっちで言ってる通りにしたらこっちに書いてあることに矛盾する」と食ってかかっては怪訝な顔をされたことも何度もあった。
廊下を走ってはいけません、と言う先生が廊下を走っていたら見過ごせなかった、そんな子供だった。
私は今も、そんな大人として生きている。
うちの子供たちには「学校などで『お友達』というときは便宜的に言っているだけで必ずしも『お互いに好きあっている中の良い状態』を求められているのではない。周囲の大人が求めているのは表面上うまく付き合っていくことであって、真に仲良くするという意味では言っていない。」と説明をしている。
そして、そんな私が育てて、その説明を飲み込んでいる子供たちはやはり私や宇樹さんと同じように程度の差はあれASDらしさを抱えていると考えた方が自然だったのだなぁと今になって改めて思う。
うちの子たちは4人とも、小学校中学年くらいで学校がしんどくなった。
しんどさもその内容もそれぞれに違うし、教室の雰囲気も多分に影響していると考えた方が自然だから、一概にしんどさが特性とイコールだとは思わない方がいいと思う。
でも、今回の記事と私やうちの子たちの様子を照らしてみると、やはり何かしらの関連はあると考えた方が良さそうだ。
抽象理解力と語彙の乖離
記事の中で
中学3年ぐらいになって、徐々に国語で評論文を読むようになった。そこで評論的な表現や学術用語をいろいろ知るようになって、上記のようなことが突然全部言語化できるようになった。目の前にかかっていた靄がパーッと晴れわたって、振り返ると自分の歩いてきた道を初めてはっきりと見ることができた感じだった。
その後、自分が発達障害だと自覚するまでに10年以上かかったが、そうして自覚したあとになって、「ああ、あれが、自分の抽象理解力と語彙が釣り合った瞬間だったのだ」と思い当たった。
と宇樹さんは書かれている。
この、自分の中のモヤモヤとしたものが一気に言語化される経験を私も中学時代にしている。
私の場合は父が当時買ってくれたワープロによって手で書くより早く文字として言語化できるようになったことがその要因だと思い込んでいたけれど、もしかしたら彼女が書いているように、私の中でもこの、抽象理解力と語彙がガチッと釣り合う瞬間がそこだったのかもしれない。
思えば同じ時期に学校がしんどかった上の子たちも、中学に入るのを境にしたように学校生活がかなりスムーズになり、交友関係のトラブルもぐっと減ってきたように思う。
やはり、何かしらのターニングポイントが彼らの中にもあったのかもしれない。
まだまだしんどい三男と、一緒に歩く
三男が、ポツリポツリと学校であったことを話してくれることがある。
「(担任の)先生が悪い言葉を使った子に『先生は人権の先生だから、そんな言葉は許しません』って言ってたんだ」
注:うちの地域では各校に1人〜数人程度人権教育担当の教員がいて、全校の指導をしているようです
「でも、それだったら(隣のクラスの)●●先生の前なら言っていいことにならない?でも使ったら悪い言葉だよね?それはおかしいと思ってすごく気になったの」
こんな風に、先生の注意する言葉やクラスメイトの発する言葉の中の些細とも思えることに彼はたくさん反応し、心の中にモヤモヤとしたものを溜めている毎日だったんだなぁと胸がぎゅうっとなるのです。
三男に
「先生は、自分だからよくて他の先生はいい、って意味じゃなくて『自分は人権の先生だから、自分のクラスの生徒には特に気をつけてほしい』って思ってそう言ってるんだと思うよ」
と伝えると、
「そう言ってくれたらわかるんだけどなぁ」
と困った顔をしながら笑う三男にも、いつか私たちに訪れた日が来ると信じて、ぼちぼち一緒に歩いていこうと思う、そんなよく晴れた初夏の午後。