子供が何かを猛烈に欲しがって 「〜〜くんも持ってるもん!」「だって」「だって」 って必死にアピールすることがある。
ぽいっと買ってやれるような値段ではないものを欲しがったときにどうするかは家庭によって様々だろうとは思うのだけれど、原則として大きな贈り物は誕生日とクリスマスプレゼントのみと決めている我が家では、高額のものを欲しがられてもおいそれとは買ってあげるわけにはいかない。
(厳密には家庭内バイトでお小遣いを稼ぐとか、お年玉をもらったときに貯金に回す前に何か買ってもいいとか、こないだの臨時給付金など突発的な臨時収入が出たときにそれぞれに現金を支給したりという場面もあったりはするのですが、親が買ってあげる行為はその2回に限っている感じですね)
お小遣いで買えない額のものをなんでもない日には買わない約束だよ
クリスマスまで待てばいいでしょう
誰が持ってるからってあなたが持つ理由にはならないでしょう
(今持ってる)あれを使えばいいじゃない
等々、親が思いつくようなそれなりに理のある説得材料をいくら並べても本人が納得して諦めることにはそうそうならない。
なぜなら、彼らが並べ立てるいろんな「欲しい理由」は後付けでしかないから。
「とにかく欲しい」という感情がまずあるから。
理論じゃない。
ものすごく欲しいという感情に取り憑かれている状態だから理論など入らない。
ここで「とにかく買えないものは買えません!」と親の権力をふるってねじ伏せてしまいたくなるところなのだけれど、親にそうされて悲しかった小さな私が顔を出す。
関係を壊さないように、
悲しい記憶にならないように、
でも「買ってあげる」で終わらないために…
たくさん出てくる言葉はその、言葉にならないできない感情を武装するための上塗りされた精一杯の言葉にしかすぎない。
彼らから出てくるその主張の一つずつは、言葉を使う技術でより長けている私なら簡単に論破できてしまうものばかりなのだけれど、そうやって撃ってくる弾を全部叩き潰してしまったとしても彼らの根っこにある「どうしても欲しい」という感情はなくならないし、なんならより強まっていたりもする。
そこにあるその感情をないものにしてしまったら対話は成立しなくなる。
もし誰かに私の中に確かにあるそれを「そんなもの」と軽んじられたり、無きものにされてしまったりされてしまったらそれ以上のやりとりはしたくなくなるだろう、少なくとも子供の頃の私はそうだったから、できれば子供にはしたくない。
となると、
「とにかく欲しくてたまらない」という感情そのものを否定しない
というところからスタートするしかない。
うん、欲しいんだね、それはわかった。
というステップを経ての、でもその感情のままに突っ走るわけにはいかないよね、どうする?どこに落としどころを見出す?という話をしていくことになる。
本当に今すぐでないといけないのか、待つとしたらどこまで待てるのか、金額を下げてお小遣いから買えるところで飲む方向はないか、等々、いろんな可能性を一緒に模索しながら妥当な線を探していく作業をして、感情を大事にしつつ感情に飲まれない自分なりの結論を導く訓練をする感じ。
前置きは長くなったけれど、なんでこんなことを考えたかというと、昨日の報道の後にTLにたくさん流れてくる「選択的夫婦別姓」の議論をいくつも眺めていたから。
私は選択的夫婦別姓には今のところ反対の意志はありません。
現状、同姓にせざるを得ないことでの不利益を私自身も感じていたし、もっと感じている人たちがいることも知ってる。子どもたちが成人する頃には選択が可能で不利益が生じにくくなっているといいなぁという希望がある。
ツイッターでも度々言葉にしているけれど、反対意見らしいものの多くは、賛成派からしたら簡単に理論でやっつけられるようなことばかり。
何を今更そんなことを、と呆れるようなものもたくさん。
議員や文化人など頭が悪いわけではないだろう人たちが、いろんな言葉を使ってなんとか反対を主張しようとしているさまに、いつまでこんなことを言っているんだろうって情けなくなるほどに。
そんな主張の数々を見ながら、あぁここにも「どうにも整理しきれない感情」があるんだろうなぁ、と我が子の駄々をこねる姿を思い浮かべたりしたのです。
「夫婦で苗字が違っていたら混乱する」
「夫婦家族の絆が保たれない」
「兄弟で違う姓を名乗っていたら学校でいじめにあう」
反対派の出してくる言葉の多くは、いやいやこうですよ、そんなことないですよ、って筋道立ててお話ができることばかり。
でもそれを重ねても重ねても、やっぱり同じ主張は続く。
それは、その塗り重ねられた言葉の奥に「どうにもこうにも嫌」という、言葉にして認識するのが難しい強い感情がそこにあるからだと思うのです。
感情的にものを言うことはあまり褒められないことは多いように思うし、ASDみのある私にとっては理論がしっかりしていない主張は受け入れがたいものも多い。
でも、体感として「世の中の大半は感情で回っているのだ」というのは育児の中でもママさんの輪の中でも、あちこちでこれまで何度も痛感してきているし、今回の選択的夫婦別姓の議論でも感じていること。
どんなにエビデンスがしっかりあっても、どんなに筋が通っている話であっても、感情の暴走を前にぶっちぎられて泣きを見ることもザラにある。
選択的夫婦別姓の議論をする中でも、感情をベースにしているであろう発信に対して理論で殴り返しても多分うまくはいかないだろう。
と思いつつ、それが分かった上で寄り添ってあげられるのは我が子に対する親の情ありきでもあるわけで、そんなことに付き合ってられないよね、というのも本音ではあるなぁと思ったり。
まぁそんなまとまりのない雑感いろいろでした。