ここ数回、連載のように自分のキャパオーバーがテーマのブログを書いているような気がします。
ツイッターでも漏らしているように、いま、私あまり余裕がありません。
年末で仕事が立て込んできていたり、また子どもたちの周囲で対応の必要なことがタケノコのように次々と出てきているのも要因のひとつだろうとは思います。
そんな中、夫と大ゲンカしました。
夫が怒って出かけた後の一人反省会でやはり自分のキャパオーバーが関係あるなぁと思い、また夫に対してもまた、考えを改めるべきことがあるなぁと思ったりしつつツイートをしたので、それをまとめておこうと思います。
今回のキーワードはキャパオーバーとエンパワーメントです。
エンパワーメント、とは
今回の大ゲンカを掘り下げるに当たって、まず振り返っておくべき概念があるなぁと思いました。
エンパワーメントです。
様々な分野で使われている言葉でその分野ごとに定義は微妙に異なっていると思うのですが、私がこの言葉に出会ったのはペアレントメンターの講習でした。
お話の中で講師の方が「相手を弱い、出来ないものとみなして手を施すのではなく、相手は力がある、できるようになる、と信じて立ち上がるのを並走しながら見守る形の支援をする」と仰っていました。
「まだ全力を出せてない、頑張れ」とハッパをかけて引っ張るのではなく「相手には力があると信じ、いまも本人にとっては精一杯頑張っているのだ」と思って見守ることがエンパワーメントだ、という説明を受け、自分の中になかった概念に脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けたのを覚えています。
それまでの私はどこかで、支援する、というのは力が尽きた相手に力を与えたり、出来ない人に出来るような協力をするようなものだと思い込んでいたように思うのです。
それとは180度違う概念との出会いは、その後の保護者支援の活動や自分の育児にかなり影響を与えられたと思っています。
子育てとエンパワーメント
子どもを育てていく中で「頑張らせる」ことが主軸になるような場面はこれまで数え切れないほどありました。園でも学校でも基本的にはそういう指導がベースなので、それに同調してきたとも言えると思います。
とくに発達障害の次男には何度も、無理そうであっても頑張ることを求めて来たような気がします。
エンパワーメントの概念に出会ってすぐそこを改善できたわけではありません。
何度も何度も次男に頑張りを求め、失敗し、親子で打ちひしがれてボロボロになるのを繰り返してきました。
度重なる失敗を経て、年月を重ねて、最近やっと、自分の育児の中でも「怠けているように自分には見えてしまうけれど、でもいまこの子は精一杯頑張ってるところなんだ」という目で見られるようになってきたような気がしています。
ダラダラと寝転がりながらゲームする受験生に対してそう思おうとするのは修行のような日々ではありますが。
4人の我が子たちや、学校や外で会う子どもたちに対しても、場面場面で「いま精一杯の頑張りをしているところだ」という目線で見ることでお互いの関係がスムーズにいくことも多く出てきました。
いま学校に行けずにいる三男に対しても、彼なりに頑張っているところなんだと信じて対応することもできるようになっているし、そのことが彼の中でいい方向にいろんな変化を生んでいるようにも感じています。
私のキャパオーバーから起こった大ゲンカ
さて、前置きが長くなりましたが夫とのケンカの話に戻ります。
今朝のケンカの発端は私が「自分はこんなに頑張ってるのに夫は…!」と思ったことが透けて出た発言でした。
早朝早く出る夫に合わせてバタバタと家事をしてるのにゆっくりしているように見えた夫に私が苛立ってつい口を滑らせてしまったのです。
この時点で私がキャパを超えるタスクを背負おうとしていたのがわかります。
朝早い夫に合わせて起きるという、余裕をなくすタスクを入れてしまった自分の判断ミスです。起きるのが辛いなら夫に「自分で用意して出て」と言えばよかったんです。
もしくは昨夜、朝の過ごし方をどうするかもう少し丁寧に話を詰めておけばよかったんだろうと思います。
そしてつい発した私の愚痴に烈火のごとく怒った夫も、いつもよりかなり早い出勤というタスクでいっぱいいっぱいだったんだろうな、と振り返れば思うのです。
夫婦関係で考える、エンパワーメント
夫への日頃の愚痴が一気に出るなか、つい「私が大変じゃないと思ってる!」と口走りました。
この言葉に私のキャパ越えと、夫へのエンパワーメントの視点が欠けていることが現れていたな、と思うのです。
「私は大変だけど夫はもっとやれるはずなのにやってない」と頭のどこかで思ってしまっていたんだな、という。
他人や子どもたちには向けられるようになってきたエンパワーメントの視線が、一番大切なパートナーである夫に対して欠けてしまっていたのは私の自他の境界線の緩さも影響しているのかもしれません。
「もっと頑張れるだろう」と思ってはいけない、このつい湧いてしまう感情とずっと戦ってきたはずなのに、いまもまだ根強く持ってしまっていたんだなぁと。
夫の頑張りを考えるとき、私の目から見てタスクの量がどうか、とか、私の抱えているものと比べているかどうか、という目線で考えてはいけない、ということ。
私が数えて彼のタスクを決めたり、彼のキャパを判断しない。
それは彼の課題であって、私の介入できるものではない。
彼が現状やっていることが彼の手一杯で、彼の精一杯の頑張りで、これ以上のタスクを受けるかどうかを決めるのは彼で、そして現状十分に彼は頑張ってくれている。私がいっぱいいっぱい抱えて頑張っているのと同じように。
頭ではわかっていたけれど、今日初めて自分の中で腑に落ちたような気がするのです。
それぞれのキャパオーバーを防ぐために
夫に対して、信頼もあるのです。
やれる余力が彼にあるなら彼は手を出してくれるはず。
それをやるのを選んでいないなら、それは彼にいま余裕がないからだということ。
それを平常時はなんとなく意識しているはずなのに、自分がキャパを超えてしまうと見えなくなる。
自分のこの困難を目の前のあなたが分担してくれればいいのに!とつい思ってしまう。
ここで大事なのは、その負担を夫に着せることではないのだろうと思うのです。
夫も精一杯頑張っている(はず)で、私もそう。
だったら、私の抱えているこの重いタスクは夫ではないどこかに分担してもらうべきことなのかもしれない。
お金を使って外注するのもアリかもしれないし、身内や友人にヘルプを出す必要もあるかもしれない。
専門の相談につなぐことでめどが立つこともあるかもしれないし、何かを放棄するのもアリかもしれない。
おわりに
目の前のタスクを夫婦でどうにかしないといけない、と思い込んで私に抱えられないものは夫に、とつい考えてしまいがちだったなぁと思い返しています。
似たような話を何度も何度も整理してはブログに書いてきているのに、それでも実践はこんなに難しい。
子どもたちが生まれてまだ小さい頃に、こんな風に整理して夫のことやタスクの外部化を考えられたらきっともっと楽しく、ゆとりを持って子どもたちを育て、夫婦げんかももっと減らせていたんだろうなぁとも思いますが、それはもう後の祭り。
これからの我が家にとってどんな視点を意識する必要があるのか、改めて考えていかねばなりません。
私が思い込んでしまっていたように、社会的にも親にもっと頑張れという圧をかける傾向はまだまだ根強くあるような気がします。
障害のある子を育てていると余計にそれを感じます。
家庭の中でしんどくなったらどんどんタスクを外部に出していけるような、手放していけるような、そんな状況になっていくといいなぁ。
私が思い込んでいたような個人の意識を見直すことと、社会の風潮が変わっていくことと、どちらも両輪で進んでいくように、自分に何ができるかを改めて考えたいなぁと思ったりした、そんな夫婦ゲンカからの回想録でした。