スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「何度言ったら」に対しての「伝え方が悪い」はちょっと詰むかもよ、って話。


「今年はブログをこまめに」と言っておきながら全然書けてませんね、相変わらずですね。

 

さて今日はツイッターで流れてきたお話から。

 

元は夫婦関係についてのツイートで、久しぶりに料理する夫に向かって妻が「前にも言ったけど」という前置きで間違いを指摘し、その言い方は傷つくからやめてほしいと言われているような、そんなお話でした。

 

多分そこから起こってると思うんだけど、今朝はいろんな方が「前にも言ったけど」やそこから想起されたと思われる「何回も言ったのに」「何度いえばわかるの」という前置きが言われる側からはとてもしんどく、かつ効果のないものいいであることをツイートされていて、ウンウンそうだよねえ、と思いながら拝見しました。

 

ダイレクトに「その言い方は良くない」と書かれている方もいらっしゃった。

すごい気持ちわかります。我が家の、特別支援を必要とする発達ゆっくりさんがもし学校で先生からそう言われたら「先生その言い方じゃまずいです」と言うと思います。少なくとも支援する立場の人間が使ったらダメな言葉ですね。支援者が発したら「言い方を変えるべき」と強いメッセージを送りたいやつです。

 

ただ、難しいのはそれが、支援者と要支援者の間だけで交わされるやり取りではない時ですね。

 

親子間だと微妙ですね、夫婦間だとまず対等を考えねばなりません。

職場の同僚とのやりとりだったら…

 

関係性によっては「伝え方が悪い」だと関係そのものが破綻しかねないな、とは思うんですね。

 

というわけで、じゃあどうしたらいいのか、を考えてみようと思います。

 

「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」を狩ってみる。

ごくシンプルに「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」などの言われた側が傷つく可能性のある言葉を狩ってしまえば、という解決策がまず浮かぶかもしれません。

 

この解決策は「つい言ってしまうけど漠然とよくないと思っている」人に対しては一定の効果を持つでしょう。

ネット上でこれは良くないよと発信がたくさんあればそれを見て我が身を振り返り、使わないように気をつける方が出るかもしれませんし、それにより救われる方もいるかもしれません。

 

ただし、あくまでも前述のような自覚のある人に対する対策に過ぎません。

そうでないけど言ってしまう人にとっては、自分には何の非もないのに言葉狩りに巻き込まれたようにしか感じないでしょう。効果のある対策ではないし、むしろ悪化させる可能性を心配します。

 

言ってしまう人は何を抱えているのか

なぜ悪化させる可能性があるのでしょうか。

ここで、軽く言っている人から何度も何度も繰り返した結果我慢できない怒りを抱えている人までその程度は様々だ、ということをまず前提として共有せねばなりません。

 

一般化して語るのはちょっと難しいですが、怒りを覚えて何度もそう言う方のことを考えてみようと思います。

 

「何度も言ってるんだけど」と相手が怒っているように見えるとき、そこには「何度も言わされている自分」に対する報われなさがあるのではないか、と思うのですね。

ここで「言わされている」という言葉を使うと言われる側からは「言ってるの自分じゃん」となるんじゃないかな、と思います。ええ、私も面と向かってそう言われたらそう思うと思いますが、あえて相手の視点に立って考えていきます。

 

何度も同じことを伝えているのに相手が意志通りに動いてくれていない、と怒りを覚えるとき、残念ながらその本人には「伝え方がどうか」という視点はないと思います。

 

自分の発信する方法が相手に適していない、という視点はない。

状況が変わらないのは相手がその言葉に応じて行動を変化させないからだ、というものの見方です。

 

あまり耳障りの良くない言葉で表現すると

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスです。

 

「伝え方が悪い」という視点が抱えているもの

では、ここで立場を切り替えて言われる側について考えてみましょうか。

何度も同じことを言われて辛い、頑張ろうと思ってるけれどうまくできなくて辛いのに追い打ちをかけられて苦しい、という心理がありますよね。

私自身も何度も経験がありますし、うちの子たちも直面してるしんどいやつです。

 

そして何より私が我が子に対しての伝え方次第で言動が変わることに日々直面しています。

言い方を少し工夫すればすんなり受け入れられる、ということ、本当によくあるんですよね。学校の先生や支援の立場にいる方も日々経験されていることじゃないかなと思います。

 

ただ、正直なことをいうとその工夫は「簡単で誰にでもできるもの」ではないのも事実です。

発達障害のある子を育てる親として、本を読んだり先輩から教わったり、愚痴を聞いてもらって自分の気持ちを整理したり、いろんな努力を重ねながらやっと頑張ってやっていることでもあります。

そして、驕りに聞こえるかもしれませんが私自身の素養も少なからずその助けになっているとも思います。苦手な人は本当に苦手だろうなと思うんですね。

 

そんな、親でもちょっとめんどくさいハードルの高さがある伝え方の切り替えについて、言われる側から「伝え方が悪い」と言われたらどんな風に見えるだろう、とちょっと考えてみたいのです。

 

ちょっと前章の最後に戻って読み直してみてもらえたらな、と思います。

 

これ、頑なになったらあちら側と同じ

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスと同じに、なりかねない危うさがありませんか。

 

「何度言わせるの」にも「伝え方が悪い」にも秘められた、折り合えなさ

この件についてのツイッターでの発言の中で私はあえて

「伝え方が悪い」

ではなく

「伝え方が受け取り手に適していない」

という言葉を使いました。

 

根っこにあるのは誰が悪いか何が悪いか、ではなく「方法が適していない」というマッチングの問題です。

 

「前にも言ったけど」という表現そのものが悪なわけでは実はありません。

「あぁ前にも言われていたのか、じゃあより気をつけよう」と受け取る人もおそらくは存在するわけです。(それが多数か少数かは私にはわかりませんがいないとは言い切れないですね)

 

「前にも言ったけど」という表現が適さない人間も存在する、というのもまた、事実です。

 

そのマッチングの問題ありきなのに、双方相手の非を責める方向にシフトするとどこまで位っても平行線で、折り合うところは見つけられないだろうなと思います。

 

折り合えない相手もいる

もちろん、相手がモラハラっぽい人だったりすると折り合う以前の問題で「逃げて身を守れ」と解決法を取る必要があることもあるでしょう。

ここら辺はケースバイケースだと思います。

 

このブログでも何度も書いてきましたが、相手と折り合おうと思ったらまず自分が折り合う姿勢を見せなければ始まらない。

ファイティングポーズを取っていたら向こうも身を守るためにそうしますから。

 

自分がその姿勢を見せてもそれでも向こうがファイティングポーズを崩さないなら、折り合うのは無理。「逃げて身を守れ」という助言をするしかないだろうなと思います。

 

みんなそれぞれに苦手の多い人間ばかりかもしれない

発達障害のある次男と暮らしながら、自分も特性ありきで人に支えてもらっての生活。

ハンディのある人間としては「やってもらえたら助かること」はたくさんあります。

でも、息子に対しても自分への戒めとしても、支援者以外の人に対して「やってもらえて当たり前」と思ってしまうと相手から傲慢に見られてこじれてしまうことも出てきてしまうなぁと思っています。

 

そのさじ加減は本当に難しい。

 

やって欲しいことを、相手が察してやってくれたらとても楽。

でもそんなにうまくいく関係ばかりではないから、こちらの特性や性格やメンタルの都合から「こうしてもらえたら助かる」を伝えていくことも大切。

 

相手がプロの支援者相手じゃないなら(まぁプロの支援者も様々だけど)生身の人間として得手不得手があるのもまた、ある意味当たり前のことだったりするわけで。

 

苦手が多い人間としてつい相手に大きを求めたくなったりもするけれど、所詮自分と変わんない苦手の多い人間の一人かもしれないし、という視点は持ってて損はないかなぁと思ったりしています。

 

その上で「苦手がある人間同士、うまくいかないときもあるよね」って関係性の存続を諦めることもまた、一つの解決策かもしれないとも思ったりはしています。

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