街ゆく「わたしの推し」たちの話。
はてなのお題として「わたしの推し」というテーマが上がっていた。
長男を産んで17年あまり、末子を産んで11年あまり、わたしの周りのママ友と呼ばれる人たちが推しを愛でている様を日々のTwitterで眺めている。
最近一番多いのは某韓国の男性アイドルグループのような気がする。
ジャニーズを長年愛している友もいる。
なぜ私たち世代の女性たちが推しに心を寄せたくなるのかを私は知っている。
子供たちが少しずつ成長していく中で「手を離さねばならない」現実に直面するからだ。
私たちが手を出さなくては死んでしまう小さな生き物だった彼らが、自分の足で歩き、自分の言葉で主張し、そして自分の道を歩き始めていく。
彼らよりも長く生きている上、彼らを色々なことから守りたい私たちはつい、彼らの人生に介入したくなる。
彼らの人生に転がっているたくさんの石を見つけ、取り除き、彼らを守りたくなる。
小さい頃に自宅のリビングでそうやって彼らを守ったように。
公園で道路で、そうやって彼らを大切に守ってきたように。
でも、どの時点からなんだろう。
私たちのその守りたい気持ちは、時に彼らにとっての石のひとつになり始める。
嫌がられると分かっていても心配でつい要らぬ口を出してしまう。
危ないと分かっていても見て見ぬ振りをるしかない時もある。
子によっては自分から無理に手を離さないと互いに依存しすぎてしまうと思ってこちらから意識して離れる必要があることもある。
そんな、彼らの自立を喜ぶべきだと分かっていてもどこか切なく寂しい気持ちを埋めてくれるもの、それが私たちにとっての「推し」の存在なのだろうなと思う。
さて、私もそんな「推し」を必要とする人生のターンに差し掛かっている。
友人たちのようにいわゆるアイドルや俳優に熱を上げることを考えてもみたのだけれど、どうもしっくりくる出会いがなくて今に至る。
「推し」の存在に救われてきている娘から「推しは作るものではなく、落ちるものだからね」という名言を吐かれたので無理に誰かを選ぶのはひとまずやめにした。
それでもなんとなく暮らしている日常の中で、なんとなく「推し」というのはできるものなのだな、と感じている。
私の「推し」たちは今、私が暮らす街の中にいる。
1人目は毎日犬の散歩で通る道すがら、旗当番に交代で立っているらしい他校の保護者の中の、あるお父さん。
私の友人の配偶者であり、また子ども同士も仲良しでもある。
(あくまでもイメージです)
知らぬ仲ではないお父さんは、旗当番をしながらこちらに気づくといつも満面の笑みで手を振ってくれる。(ご本人はもっと堅気な感じのシュッとした優しい方です)
異性としての好意とは全く違うのだけれど、こちらに笑顔で手を振ってくれて、それだけでなんだか嬉しくなる。
何家庭で順番が回っているのか知らないので、いつそのお父さんに出会えるかの法則が全くわからない。
友人に聞けばいいのだけれど、あえてそれは聞きたくない。
その辺のガチャ要素もまた、会えた嬉しさを増す要素なのかもしれない。
2人目は高校生の息子の同級生のAくん。
暑い日も寒い日も自転車で通学をしている(うちの子もそうなんだけど)彼は、私を見かけるとニコッと笑って爽やかに頭を下げてくれる。
ただそれだけのことなのだけど、たまに出会うとやっぱり嬉しくて、今日も頑張ろう的な謎のモチベーションになっているのは事実である。
3人目は末っ子の小学校に通う低学年のBくん。
なぜかはわからないけれど彼が入学してきた頃から、その落ち着きのなさと屈託のない笑顔に私はノックアウトされ続けている。
先日は通学路の途中でなぜかランドセルを放置していたらしくお兄ちゃんに怒られながら歩いているところに私が通りかかると「(三男)君のお母さんやん!」とやはり満面の笑みで手を振ってくれた。
多分年末ジャンボ宝くじに当たってもこんなに嬉しくないかもしれないと思う。
たったその出来事だけでニヤニヤが止まらなくなるほど嬉しくて、何度あの笑顔を反芻してはニヤニヤしたかわからないくらい、本当に可愛い。
4人(?)目はいつも犬の散歩をする川原でたまに出会う猫の「うし」。
白と黒のマダラ模様だから、と「うし」と名付けたのは娘。
猫の名前としてはいささか不適切な気もするのだけど、見かけたときに呼ぶと甘えた声で鳴きながらすり寄ってくるので本人も満更ではないのかもしれない。
「うし」は鈴のついた赤い首輪をしているので野良ではないらしく、川原では滅多に見かけない。
川原には時々散歩をしにきているのかもしれない。
ごく稀にしか出会うことがない「うし」に川原で出会えるとなんだかすごくいいことが起こったような気がする。
私にとってはかなりの激レアな「推し」のひとり、それが猫の「うし」。
私には挙げた他にも何人かの推しが存在していて、車を走らせながら「推し」に出会うと歓喜の声をあげる私に助手席の娘がよく呆れている。
よその旦那さんや息子さんを勝手に推しとして愛でるのは倫理的によろしくないのだろうかと思ったりもしたのだけど、先日の朝、旗当番の推しお父さんの妻である友人からLINEが入ってその悩みは一蹴されることになる。
「さっき通勤途中に登校中の次男くんに会ったよ!私見て笑顔で会釈してくれてすごく嬉しかった!今日も頑張れる!」
私にとって手を焼いて仕方ない次男が彼女のモチベーションを支えるお役に立ったというのは親としてなんだかとても嬉しくて、その日の朝のコーヒーがいつもよりちょっと美味しくなった気がした。
うちの子たちもどこかで誰かの「推し」としてお役に立っているのかもしれない。
誰かのモチベーションを上げる一助となっているのかもしれない。
もしかしたらかつての細面美男子の面影を失い巨大化したうちの夫や、初老の私や、うちの保護犬出身のおじいちゃんワンコも、誰かにとっての「推し」として、知らぬ間にお役に立っているのかもしれない。
冬休みは登校途中の「推し」に会えないなぁとちょっと寂しく思いつつ、一番身近な「推し」である愛犬にせっせとおやつを与える、そんな年末年始の休みがいよいよ始まりました。