スズコ、考える。

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東洋経済の『「ほめる教育」で自己肯定感は高まらない衝撃事実』に関して


今朝、Twitterのタイムラインに流れてきたこの東洋経済の記事。

news.yahoo.co.jp

寝起きで一読してどこからどう突っ込んでいのか頭を抱えるような内容だったこと、またこのタイトルや要旨から「やっぱり叱らないと」って鵜呑みにして勘違いする「叱りたい大人」による子供たちへの被害が出ることを懸念して、きちんと批判したいと思います。

 

 

因果関係が定かではない

まず冒頭で「ほめて育てる」ということが言われ始めた時期とその後の意識調査の結果を紐付けする形で、その結果を理由に「ほめて育てても自己肯定感は低い」と結論づけています。(該当部分を画像で引用します)

 

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著者は年代をもとに因果関係を語っています。

「ほめて育てる」ことが推奨される風潮になったのは確かにその年代からですが、引用している2014年と2017年の統計は、家庭や学校で「自己肯定感を伸ばせるよう、不適切な叱り方を制限し適切にほめながら育てる」という推奨されるようなあり方が周知徹底されていることを確認した上での調査ではないと思われるため、これら統計結果が「ほめて育てた結果」と導けるような因果関係があるとは言えません。

 

私は1990年台に小中高と過ごしてきた世代ですが、自分の頃を振り返っても、またその後2000年台に出産して園から小中高と我が子を育ててくる過程のなかで自分が受けた教育や目にしてきた指導環境が「ほめて育てる」「自己肯定感を伸ばす」という前提でおこなわれてきたような実感はありません。

 

年々良くなってきているようにも見えません。

社会的に保護者に求めるハードルはどんどん高くなり、精神的にも経済的にも余裕のない家庭も増えていますし、学校の先生方の就労環境も年々悪化しているように見えます。

自己肯定感が低くならないよう、と色々な意識を持たれて適切な対応を心がける保護者の方や先生方は増えている印象はありますが、現場全体がそうなっているとはとても思えず、むしろ子供たちを取り巻く環境は悪化の一途を辿っているように見えます。

 

これら統計結果を「ほめて育てることを徹底的にやったところで、自己肯定感はまったく高まっておらず」とほめて育てることがさも徹底されているように描くのは現状に則しておらず、因果関係を示せているとは言えず、根拠として不適切です。

 

小学校での暴力事案増加との因果関係について

筆者は続けて、小学校での暴力事案の増加について言及しています。

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このような事案は私も実際に子供たちの学校で経験したことのあるものです。

 

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現場を見たり、我が子が関わるケースとして対応をしてきた経験からはこの見立ては全く逆だと感じています。

 

ストレスフルな教室の中で衝動に駆られて不適切な対応をしてしまう子供たちは確かにいます。しかし、多くの場合、その子たちがその行動を起こしてしまったのにはそれに至るたくさんのトラブルや子供たち、また教職員を含む大人とのディスコミュニケーションの積み重ねによる信頼関係の欠如があります。

 

学校で荒れていたように見える子供たちが落ち着いていったケースを実子を含めて複数知っていますが、どのケースも大人が子供たちの話を軽んじることなくしっかりと聞き、信頼関係の構築に努めた上での改善ばかりです。

 

家庭と学校が連携して子供から大人への信頼を取り戻し、少しずつ感情のコントロールができることをほめながら導いた結果、その成果が出た子供たちが安定した予後を送っています。

10数年の小学校保護者としての経験の中で、厳しく接することで子供の状況が改善したケースを、私はひとつも知りません。

 

また、子供たちと教員のディスコミュニケーションに関しても、読み聞かせボランティアなどを含めて学校に多く入る中で児童のコミュニケーション能力欠如だけが問題だとは思えません。

近年、学級だよりなどのおたよりの文章でも誤字脱字だけでなく一読しても内容の整合が取れていない文章を書かれる先生方も増えていますし、保護者としてやりとりをしていても会話が成り立たない先生も各校に何人もおられるような状況を肌で感じています。

 

教員と児童のディスコミュニケーションの要因を児童の生い立ちにだけ求めるのは無理があると言わざるを得ない現状が今の公立小中学校にはあると思います。

 

「小1プロブレム」の課題の誤認

筆者は次に、ネットでもよく話題になる「小1プロブレム」について言及しています。

 

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授業中にじっとして居られないなどの行動が見られる児童の場合、発達障害の特性がある可能性も含めて対処する必要があると思われますが、今回の記事の中にはそれに関する言及は見られません。

 

また、特性ゆえの衝動のコントロールなどに関しては「厳しく躾けてどうにかなるものではない」というのは教育に携わる方にとってはもはや一般常識レベルの知識だと思います。そのような平易なことに関して専門外の方に「厳しくすれば良い」と誤認をさせるような表記により現場の教員や他の保護者に間違った知識を与えようとすることは非常に危険です。

 

教室で落ち着いて過ごせない児童に対しては、その子の行動がどこから起こっているかを丁寧にアセスメントしながらスモールステップで良い行動を強化していく指導が必要です。

 

保護者が幼少期から療育と関わりながら家庭内や園で適切な対応をしながら育ててきたお子さんが、小学校入学後に教員の不適切な厳しい指導により精神的不調になるケースは毎年複数の学校で見聞きします。

 

教室での課題のある子たちに対して学校が「ほおっておくしかない」となること自体がおかしいのです。教室で取り組めることはたくさんありますし、教員の相談窓口もありますし、支援学校や相談支援員の巡回を依頼して現場を見た上での助言をもらい現場に活かしたケースも知っています。

 

これは子供たちの問題ではありません。

適切な対応ができていないのは、学校の課題です。

 

「叱られてショックを受ける子供たち」という誤解

次は、叱られたショックで不登校になった児童の話に触れられています。

 

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私の周りでも、教員の不適切な対応を受けて不登校になった児童生徒を知っています。

例として挙げられているケースで「そこに居合わせたおとなしい子」にまで影響がいっていることを非常に軽視されていることに保護者として驚きを隠せません。

当該の児童のみならずその場にいた子がショックを受けるような教員の態度、一体どんなものだったのでしょうか。

 

子供たちが不適切な行動をしたとして、その場にいた大人、話を聞いた大人として適切な指導をする必要はあります。しかしそれは、声を荒げて威圧的な態度を取ることとイコールではないはずです。

親身になった指導の中で熱がこもることはあるでしょう。

しかし子供たちは感情的に怒鳴り散らすことと、自分のことを理解しようと努めながら語調が強くなることとの区別くらいつきます。後者で当事者やその場にいた他の子が強いショックを受けるような事態にはなり得ないのではないでしょうか。

 

担任が変わって教室が変容したケースの誤解

また、その後に子供たちの不満について触れられています。

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うちの子たちの小学校でそっくり同じようなケースに遭遇したことが複数回あります。

同じように高学年の教室が大荒れした翌年度、担任が変わったら驚くように教室の雰囲気が変わりました。

 

それぞれの子供たちに何が変わったのかを聞いたら口を揃えて言ったのは

「先生が話をちゃんと聞いてくれる」

ということでした。

 

5年生の先生は揉め事があっても「自分たちでなんとかして」と放置されたり、特定の児童の話だけを聞いて他方の話を聞かずに一方的な指導で終わったりしていた、今の先生はちゃんと話を聞いてくれる、と。

うちの子たちのクラスでは揉め事の対応だけでなく、「悪いことをしている子に先生がちゃんと対応している」「それによりその子が悪いことをしなくなっていっている」という安心感も教室の安定に大きく寄与していたようでした。

 

例として書かれているような「ちゃんと叱ってくれる」というのは「ちゃんと話を聞いてくれる」と同義だと私は思います。

 

「叱るかどうか」ではなく、児童の方を向いて信頼関係を築こうと意識してくれる先生の在り方が子供たちを変えたのだと思います。

 

「厳しくするポーズ」による弊害

次に触れられている新聞の読者投稿欄の「なぜ先生は叱ってくれないの?」という14歳の中学生の投稿には前段に通ずるものがあるように見えて、実は大きな弊害を孕んでいます。

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問題行動があり周囲に影響を与えている児童生徒を野放しにしているように見えることは周囲の子供たちにもよくない影響を与えます。

 

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このように周囲の子供たちに不信感を持たせます。

これは「当該児童生徒に適切に対応しない」という大人への不信感なのですが、これを大人の側が「こういう子たちのためにもちゃんと叱らないといけない」と誤認する可能性が懸念されます。

 

私の観測範囲内ではこのようなケースで周囲の子たちの目を過度に意識して厳しい態度を取るポーズを見せることはあまりよくない結果を生むことが多いように思います。

「良くない子は罰せられるべき」という誤学習をさせてしまう可能性を秘めているからです。ASD傾向のある子供たちにとって最悪の誤学習です。

保護者や教員を長くやっていれば「自分が嫌だと思うことを先生に言えばキツく叱ってもらえる」という誤学習をした子供に出会ったことがある方も多いのではないでしょうか。

この誤学習の刷り込み直しは本当に大変なものです。

大人になるまで引きずってしまっている方を思い浮かべる方もおられるのではないかと思います。

自分の感情と問題行動を起こす子の課題は切り分けて捉えねばならない、ということがうまく整理されなくなって当事者を長く苦しめるので、周りの子のために厳しく接する、というのはASD傾向の子を持つ保護者としてはお願いだからやめてくれという対応で、このような記事をもとに肯定的に捉えて実践される方がおられないよう願うばかりです。

 

「叱らない」は「事勿れ」ではない

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子供たちの自己肯定感を保つための接し方について真面目に取り組んだことがある人なら、この一説に違和感を覚えることだろうと思います。

 

スモールステップでほめながら適切な行動を強化していく育て方は、その場その場で叱ることの何倍も何十倍も時間も手もかかることだからです。

不適切な行動が出ないように環境調整をし、良い行動をつぶさに言葉にしてフィードバックしていくより、不適切な行動が出るまで何もせずに出たときに大きな声で叱る方がずっと楽です。

 

「叱られたら心が折れない」という内容について

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心が折れる」というお話に関しては「レジリエンス」について学んだことのある方なら「叱られたことがないと頑張れない子になる」というのは筋違いだということがお分かりかと思います。

子どもたちは自分たちを信頼してくれる大人の中で安心して失敗しながら成長していき、その過程でしなやかな心を育んでいくのだと私は思います。

逆にその安心感がない状況での失敗で傷ついた心はそう簡単には癒えません。そうやって学校で傷ついて苦しみ、児童精神科のお世話になっている子供たちが日本中にたくさんいるのもまた、事実なのです。

 

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繰り返しになりますが、衝動のコントロールは叱られればできるようになるものではありません。

また、思うようにならない環境の中でも適応しながら生き抜いていくためにはそれに耐えられるだけの余裕あるメンタルの強さが必要で、それは厳しく叱られることで身につくものではありません。

我々大人の中にも、幼少期の厳しい躾の弊害によって失敗を恐れ、自分にも他人にも厳しくあろうとして崩壊していく人がたくさんいるではないですか。

 

また、子供たちが疑問を抱いているのは「叱らずにほめてばかりの大人の姿勢」ではありません。自分たちの方を向いて理解しようとしてくれない大人の姿勢に疑問を抱いているのではないかと私は思います。

 

おわりに

全文を通して同意できる内容でなく、またこの記事を根拠に不適切な対応をする大人の存在によって被害にある児童生徒が一人でも出てほしくないという気持ちから長い内容のエントリを書かせていただきました。

 

私は子供に対して「叱るべきでない」と言うつもりはありません。

うちの子たちも私が叱らない大人だとは思っていないだろうとは思います。

 

また「ほめる育児」「ほめる教育」を実践していると表明しながら指導すべきことをせず危険な場面でも放置しているように見える保護者や教員がこの世に存在しないと言うつもりもありません。

 

ただ、今回の記事に書かれているような主張に関しては真っ向から批判の声をあげます。弊害がとても大きいからです。

 

私が最初に子供と児童精神科を受診したとき、先生から言われたのは

「声を荒らげて怒っていいのは3つだけ」でした。

 

「自分を傷つける・他人を傷つける・ものを壊す」

 

この3つです。

これを目にしたら声をあげてストップをかけるのが大人の仕事。

それ以外のことは、キツく叱るのではなく問題の根幹を見据えて落ち着いて指導していくことだと注意を受けました。

また、上記の3つに関しても大きな声を出していいのはあくまでも止めるためであって、強い語調で長く叱るのはNGと指導を受け、これまでガミガミ言いすぎていたことを痛感して反省したのを覚えています。

 

叱ることは根気強く指導するよりずっと手っ取り早くて、楽なことだと私は思います。

 

筆者が最後に書いている「高学年〜中学生」という思春期の入り口から真っ只中の子供たちにとって自分の話を丁寧に聞くことなく叱る大人に対して信頼がおけるとは思えませんし、彼らは信頼しない大人の話は一切取り入れません。ご自分の思春期の頃を考えたら、みなさんそんなものだったんじゃないかなぁと思うのだけれど。

 

過去をふりかえって思い出に残る良い先生というのは「叱る」とか「ほめる」という上っ面の行動で評価するものではなく、自分たちの方を見て理解しようと努めてくれた、信頼関係を築けた相手だったのではないでしょうか。

 

最後に、うちの子が経験した印象深いエピソードを書いて終わろうと思います。

 

娘が5年生のころ、当時教室はかなり荒れていました。

担任の先生は子供同士のトラブルを訴え出た子たちに「もう高学年なんだから自分たちで話し合って」と言ったそうです。

 

それを聞いた娘は「話を聞いてもらえないとがっかりして、それ以来頼るのをやめた」と話していました。

 

今年、当時の娘と同じ5年生になっている三男。

昨年度は教室が大荒れし、本人も長い間登校できずにいましたが、担任が変わって担任の先生との信頼関係がうまく保て、今は毎日楽しく学校に通っています。

 

そんな彼が先日「〜君とちょっと揉めてね、先生に話したら『もう高学年なんだから自分たちで話し合ってごらん』って言ったんだ」と言うのです。

同じ言葉を言われたことのある娘の表情が一瞬曇ったのが目に入りました。

 

ところが、三男はこう続けたのです。

「確かにそうだよな〜と思ってさ、僕も自分で話をしにいってみたんだよ。もしうまくいかなかったら先生に相談すればいいかなぁと思って」

 

あぁ、これが娘の担任の与えきれなかったものなんだな、と思ったんですよね。

表面に出た言葉は全く同じでも、子供たちが受け取るメッセージは全く違う。

 

「叱る」「ほめる」というのも、表面に出てくる言葉の問題ではないのだろうと思うのです。

 

いかに子供たちと信頼関係を築けているかが大事で、今回紹介した記事にあるような子供たちの声はどれも「叱らないから」ではなく、大人としての真摯な態度を大切にしていない大人のあり方が生んでいる声だと思うのです。

 

この記事を鵜呑みにして「叱るべき」とベクトルを向けるのではなく、目の前の子供の方を向いて大人として信頼されるべき行動を心がけるところから取り組んでもらえたら、と思うと同時に、それを叶えるだけの安定した余裕ある就労環境を確保してあげてほしい、学校の話をするといつも結局、そこにたどり着いてしまいます。

 

おわりに、今話題になっている村中先生の本、おいときます。

「叱りたい」大人たちに、改めて自分の課題として考えてほしいテーマですね。

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