スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

なぜ夫を「チンパンジー」や「大きな子供」とみなそうとするのか。

前回のエントリの続きです。

 

夫を動物や「大きな子供」に例えることに感じるモヤモヤ

ブックマークコメントの中で夫を動物に例えることに抵抗があるという声があったり、「大きな子供とみなせばいいのよ」という年長の方の助言にモヤモヤを感じたというエントリ(「大きな子供がいると思って…」って、わたしは子供と結婚した覚えはないのです - ワーキングマザーは夢をみる)を拝読したりして色々と考えたことを。

 

前回のエントリで私は、相手を何かに見なすことで意識するのが難しかった自他の境界線を明確に意識することができるようになったのではないか、と書きました。夫をチンパンジーだ、と思うことで家事や育児に穴があっても、ゴロゴロしていてもまぁしょうがないか…と諦めがつくという種類のライフハックなのだろう、とは思います。ブクマコメントにもあったような、本来人間であるはずの配偶者を動物として心理的には見下す形になってしまっていることへのモヤッとした感覚は私もなんとなくわかります。だからこそ息子をネコだと思い込んでいたときにもそれをあらわにしてはならないと思っていたわけですが。

 

なぜモヤモヤを感じるのか

動物や「大きな子供」に違和感を覚えるのはなぜか、それは上で紹介したエントリのなかでmemi (id:memi1005)さんが書かれています。

大きな子供とわたしは対等ではありません。大きくても相手は子供ですから、根気よく教えて、導いて、成長を促さなくてはいけません。それも、5年、10年という時間をかけて。大きな子供本人は、ほめられたりごほうびがあればやる気を出しますが、気が向かなければやりません。子供なので仕方ないのです。(「大きな子供がいると思って…」って、わたしは子供と結婚した覚えはないのです - ワーキングマザーは夢をみる

 

本来対等であるはず(と私も恐らくはmemi (id:memi1005)さんや動物に例えることの違和感を書かれていた方も思っている)の配偶者を、子供や動物という対等ではないように感じるものに見なして「だから仕方が無い」と諦める形になっている、その構図にモヤモヤを感じてしまうんですよね。

 

色々なものに例えてみるという実験

前回のエントリで触れていたバターの容器についての思考実験をしてみます。

登場人物は、夫と、妻である自分です。まずは前回のエントリにあった通りのシチュエーションを想定します。

妻である自分がトーストを食べようとパンをトースターに入れ、焼けるころを見計らって冷蔵庫をあけ、バターの容器を取り出してテーブルにつき、さぁ焼きたてのトーストにバターを…と思って容器のふたを開けたら中身は空だった。同居人の夫に問いただしたら「自分が使った時に切らしてしまったけどなんとなく元に戻してた」と言う。空の容器を戻してそのままにしておくとはなにごとか!トーストを食べようと思っていたのに!と思って憤慨。

 

 子供だったら?

ではこのケースで、自分の直前にバターを使ったのが子供だったらどうでしょう。カチンとはくるかもしれない、トーストが食べられなくて残念に思うかもしれないけれど、自分より未熟な存在である子供だから仕方ない、と溜飲を下げることができるかもしれません。子供なので「使い終わったバターの容器をそのまま戻すと次の人が困るからお母さんに知らせてね」と伝える、というステップも難なくできるかもしれません。

 

では、その子供に対して以前同じことを注意したことがあったとしたらどうでしょう。一度言っているからできているはず、という気持ちが生じたらもしかしたら「なんで!?」という気持ちが湧いてしまうかもしれません。

 

それが一度ならず何度も言っていたら?年齢に応じてできないこともないだろうと思われるような成長段階だったら?

もしかしたらそのときは、できていないことに怒りを覚えるかもしれません、というっか私なら多分カチンときます。

 

チンパンジーだったら?

チンパンジーだったらしょうがないや…そう思う諦めの気持ちのなかにあるのはコミュニケーションの困難、そして能力的にもう求めるのは無理だろうという限界を感じる気持ちではないかと思います。

器用とはいえ動物だから、そんな丁寧な気遣いを教えることも、能力的にできるようになることも無理だろう、という限界に直面して諦めざるを得ない感じかなぁと。

 

エイリアン・外国人だったら?

この二つに共通しているのはまず言葉が通じないであろうということ。言語的コミュニケーションを諦める必要があります。そして、成人かもしれないけど育つまでの環境が自分とは全然違うということを認識している。文化が違うから仕方ないという諦めがつく相手だと思われます。

 

自分より能力的に高いか同等と分かっている相手だったら?

では、見下せない相手、自分よりよく気のつく人だったり、家事のノウハウを知っていたり経験があると分かっている相手だったら?私なら「できるはず」なのにやらないのは何かしら自分に対するメッセージが込められているんじゃないだろうか…と勘ぐったり不審に思ったり、掘り下げて考えて色々と仮定して傷ついてしまったり…してしまうような気がします。

それでは溜飲を下げる効果はないですよね。できるはずなんだからやってくれたらいいのにという苛立ちや怒りを感じるかもしれないし、できるはずなのにやってないってことは何か意味があるんだろうかと考えてしまうかもしれない。(これは実は私が自分の思うような言動を夫がとってくれないときに苛立ちを感じる心理だったりします)

 

能力を下に見なすことで得られる効果

前回のエントリで私は、異物と見なすことで境界線を意識できる、と書きました。溜飲を下げるためには格付け的に上や下である必要は実はないんですね。自分とは違う他者である、という境界線をお互いの間に認識できるだけでいいんです。私とあなたは違う、だから「できることもできないことも違う」という認識ができるだけでいい。

 

でもこの「できないことも違う」ことを理解するのが実はとても難しいんじゃないか、と思うのです。

 

人はみんな違う、というとうんうんそうだよねって思うと思います。ものの感じ方も考え方も多種多様です、っていうとやっぱりうんうんって思うと思います。「私には簡単なこれこれが、どう頑張ってもできない人もいます」って漠然と言うとまぁそうかなぁって思うかなと思います。じゃあ、「あなたには簡単な○○が目の前のその人にはかなり難易度が高いんですよ」って具体的に言うと「え?」って思うかもしれません。

 

自分にとっては楽にできること、少し頑張ればできることをとても難しいと思っていたり、そのために体力的心理的なハードルが自分よりとても高いという可能性。多様性という言葉で自分と周囲の人間をぐるっと見たときに、自分より能力的に優れている部分や自分が持っていない部分はすぐ目につくと思います。「隣の芝は青い」というやつですね。自分がコンプレックスに感じている部分なんかは特に際立って目につくのではないでしょうか。

でも。

自分の方がより優れている部分、自分は持っているのに相手にはない部分についてはぱっと見ではなかなか目がいきません。意識しないと感じられない。だから、あえて能力的に人間の成人よりも低いと思われる子供や動物に例えることで意識しづらい「個々の能力差があり自分より優れていない部分」に目を向ける効果があるのではないかと思います。

 

異文化で育ったと見なすことで得られる効果

エイリアンや外国人のように異文化で育ったと見なすことで得られる効果として、ベースになる文化が違うから仕方が無い、という諦めがつくことがあると書きました。

これ、別に日本人同士でも違っててもおかしくないんですよね。地方によっても風習が違うことも多いし、家庭ごとに違う習慣があって結婚してビックリする、なんてこともありがちだと思います。でもそれも、見た目が似たような日本人という大きな枠のなかに一緒に存在していると見落としがちになってしまうことなのかもしれないなと思います。

本当なら育った家庭も置かれていた環境も違うんだからベースになる文化が全く違っていてもなんらおかしくないんですね、でもそれをなかなか意識できない。それを助けるのが、異文化で育った存在だと見なすことなのかもしれません。

 

おわりに

今回は「イライラの対象を何かに見なして溜飲を下げる」ことについて掘り下げました。誰しも自分が基準です。自分が簡単にできること、自分が努力してできるようになったことは周りの同じような姿形をした人間だったら当然できるだろう、と思い込みがち、それが引き起こすトラブルを避け、自分の波立った心の中を自分で整理するための一つの方法が「何かに見なす」ということなのかなと思います。そしてその無意識に選んでいた方法が実は意識できていなかった自分と他人との境界線を意識するためのツールであり、また自分より能力的に低い存在だと見なすことで意識しづらかった自分より劣る部分に目を向ける効果があるのではないか、と考える過程を長々とお送り致しました。

 

ちなみに、昨日のエントリで触れたバター容器からはかなり脱線した感があります。おそらくですが、あのバター容器問題の根幹にあるのは自他の境界線うんぬんというよりは「困っているのは誰?」問題ではないかと思っています。

それについてはかなり前に書いたことがあったのでご参考までに。

次男と私のお洋服 〜世界自閉症啓発デーに寄せて

ユニクロのような安価の既製品のお洋服をするっと着こなせる方がいます。

 

なんとなく違和感は感じるけどまぁ問題なく着られる、という方もいるでしょう。

 

自分で工夫して着こなせば問題ない、という方もいるかもしれません。

 

洋裁の心得があって自分でお直しして着心地を良くしている方もいます。

 

お直しをプロや得意な方に外注して自分に合ったお洋服に直して着ている方も、

 

お直しでは調整が難しいからオーダーメイドのお洋服を着ている方も、

 

既製品では合わずストレスが溜まるけれど直す術を知らずに着続けている方もいるかもしれません。

 

 

お洋服に例えましたがこれは、自閉症を含む発達障害についても同じことが言えると思っています。

 

 

私は、自分で工夫したり洋裁を学んだりして自分なりお直しをしたり、時々身近な方にお直しを頼んだりしています。つまり、恐らくは当事者であろうという自覚がありますが自力でそれをカバーすべく色々な工夫やツールを駆使したり、身近な方に具体的に協力を自分で依頼して問題なく生活を送っています。

 

夫や4人のこどもたちのうち2人は既製品の洋服を気持ちよく着ているように見えます。

1人はなんとなく着心地の悪いこともあるようなので私が時々少しお直しをしたりしつつ、既製品のお洋服で過ごしています。

 

そしてもう1人は、私やプロのお直しを利用したり、ときにオーダーメイドのお洋服を発注したりしています。つまり、教室や家の中で快適に過ごせるように私がツールを工夫したり、周囲に配慮をお願いしたり、通級指導教室を利用したり通院したりして彼に合った環境を整えるための色々な手を必要として過ごしています。

 

でも、私たち6人は見た目はたぶん、どこにでもいる似たような顔をした家族です。並んでもそれぞれがどんな服をどんな風に工夫して着ているかはきっと分かりません。

 

なないおさん発の世界自閉症啓発デーに寄せたコラボ企画。

この、なないおさんの書かれた記事のタイトル「私たちはあなたの身近で生きています」というこのままが、私の気持ちでもあります。

 

昨年の同企画で私が書いたのは、当事者と定型発達者として生きている人たちの間には本当は境界線なんてないんじゃないの、ということでした。

 

 

いろいろな当事者の方や当事者家族のみなさんと関わりを持ったこの1年を経て、改めてこの記事を読み直してみました。

私は今も、発達障害当事者と定型発達者の間には境界線は存在していない、と思っています。でも去年と少し違うこと、それは、境界線は存在していない、でも「困っている」という診断は支援を受けるために必要だと言うこと。当事者と定型さんの間に境界線があるのではなくて、困っている人と困っていない人の間には境界線を必要としているんじゃないか、ということです。

 

私は、恐らくは当事者ですが困ってはいません。

自分がどんなことが不得手かを知っているし、苦手なことについては誰にどんな支援を頼めばいいか、どこに愚痴を吐けばいいか、その自分の取扱説明書を自分で把握して、自分でなんとかできているからです。

 

でも、次男は教室で困っていました。小手先の工夫ではどうにも対応しきれませんでした。彼は、困っている人という境界線の向こうであると本人も周囲も認識する必要があった。その認識の向こう側に初めて、公的な支援や配慮が得られた。境界線を越えることで彼は初めて、これまで着ていた自分に合わなかった既製品のお洋服から、自分に合わせてお直しをしてもらった着心地のよい洋服を着ることができたのかもしれません。

 

学校の先生や知識を持った周囲の知人…たくさんの方の援助により彼に合っているのはどんなお洋服かを一生懸命模索し続けています。どう直せばよいか、どうしたらストレスを感じないか、私たち夫婦も含めた複数の大人たちが彼のために考え、試行錯誤する日々です。彼が笑顔で過ごせるように、そして周囲がそんな彼と楽しく過ごせるように。

 

彼は「困っている」ことを周囲に気づいてもらえた、だから彼のためのお洋服を直したり作ったりするためのチームができました。

 

でも。

 

何となく既製品のお洋服を着ているようで実は肌触りの悪さや締め付けの苦しさを感じて、でもどうする術も無くストレスだけを募らせている子たちももしかしたら教室にいるのかもしれない。子供だけじゃなく大人の社会のなかにも、みんなが着てる同じ服を着ているけどなんだか違和感がある、でもどうにもできずにイライラを感じてしんどい人がいるのかもしれない。

 

パッと見た目は着心地よく着ているように見えても実はストレスを感じてしまっている、本当はお直しやオーダーを必要としている人は多いのかもしれない、と思っています。

 

境界線を「発達障害者」と「定型発達者」の間にあると考えてしまっていたら、その着心地の悪さを感じながらもそれなりに過ごしている人はいつまでもそこでストレスを感じ続けることになるかもしれません。「ストレスを感じて困っている」からこそ何かの工夫や支援が必要なんじゃないか、お直しをしさえすれば着心地がぐっと良くなるのかもしれない、その、困っているんだよっていう境界線を自分も周囲も意識できたら。

 

昨年も書いたインクルーシブ教育や教育のユニバーサルデザイン化はその既製品そのものの概念を覆すことなのかなと思っています。工業製品として流通しているファストファッションではなくセミオーダーのお洋服が誰にでも手に入る環境。

 

でもそこに行きつくのはきっとまだまだ時間がかかるから、今できることはまずその、困っているという境界線を本人が自覚したり周囲が意識したりして支援に繋げることなんじゃないかな、と思っています。

 

お題の「うれしかった配慮やお礼の気持ち」の具体例からはかなり離れてしまったのだけれど、次男のお洋服お直しチームができたことがこの1年の私のうれしく、そして支えてもらったこと。さてそのチームの大半の方が異動となってしまった来年度、どんな新しい出会いが待っているのか期待と不安が入り交じった複雑な心境の母とは裏腹に、前だけを向いている次男です。

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