相変わらずブログを放置しているスズコですこんにちは。
昨日広告を貼っているグーグル先生から「お前最近ちゃんと運営してねえだろ」的なメールが届いておりまして、そのうちなんか書こうかなぁと思っていたら今朝ふと書きたくなるトピックが湧いて時間も取れたので、ちょっとなんか書きます。
サッカー少年団のお世話をしてるときに怪我で見学してた高学年の子が私に近寄ってきて「のどかわいた!」「ねぇ、のどかわいた!」って言うの、で?ってなったけどこういうことなのかもしれないなぁ。 https://t.co/ZGS91PYLCV
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2023年5月17日
このツイートから考えた「察する」という行動について。
「ねえ、のどかわいた!」
まず、このエピソードについてもうちょっと詳しく説明をしときます。
私が息子の入っているサッカーのスポ少の役員をしていた頃のこと。
仕事終わりに練習を見に行くことが割とよくあって、その日も夕方のグラウンドを座って眺めていたんですね。他の保護者さんも来て一緒に話しながら見学する日もあれば、私だけの日もあるような感じ。
その日は怪我をして練習に参加できない高学年の子が練習を見学しに来ていて、ウロウロしていたその子が一人で座る私の近くにやってきたんですね。
私の顔を見て「ねえ、のどかわいた!」と言うので、そうか、暑いもんねえ、とか、そんな感じのことを返したと思います。
その子は同じことを2〜3度言ったあと、ちょっと苛立ちながら「喉が渇いたんだってば!」と言うので、「それで?」と返したんですね。
「水が欲しいの、あの水!」と団の倉庫を指すので、あぁなるほど、とわかりました。
彼が本当に言いたかったこととその背景にあるもの
練習中は原則自分の水筒や予備の水分も持参、という決まりがあったのですが、飲み干してしまった場合には熱中症予防のために倉庫に保管している遠征用のペットボトルを提供することがあったんですね。もちろんそれが常態化してはいけないのでいろんな予防線を貼った上での運用をしてたんですが、その辺のことやその後のその子とのやりとりは本題ではないので、ここでは詳しく書くのは控えます。
彼が本当に伝えたかったのは「自分は喉が渇いている」という事実の申告ではなく「飲み物がないので団のものを提供してほしい」という要求。
そのときに感じたのは「この子の家では少なくとも『お世話をしてくれる相手』に対して「喉が渇いた」と申告すれば自分の希望する飲み物が自動的に出てくるんだろうな」と言うこと。
その子の普段の様子を知っているので、誰彼構わずそういうものの言い方をする子ではなかろうとも思いました。おそらく私がそこにおらずどうしても喉が渇いたら自分で水道の水を飲むなり、親が迎えに来るまで待つなり、指導者に「喉が渇いたので倉庫の水を飲んでもいいですか」と声をかけることもできたと思います。
このエピソードを書いたのは、その子がいいとか悪いとかその子の家庭の躾がどうこうとか親の在り方がどうこう、という話がしたかったからではありません。
その子が置かれた環境においてはお世話をしてくれる人にそう言えば「察して」動いてくれるのが当たり前だったわけで、そしてこれから先も彼が同様の環境に身を置いて生きていけるなら何ら問題のあることではないわけですね。
ただ、彼がこのときに私との間で齟齬が生じたことでもわかるように、この先彼が自宅以外の場所で同じことをやると同じようなディスコミュニケーションが起こる可能性は容易に想定ができます。
なぜこのようなディスコミュニケーションが起こってしまうのか、ということについて、今日は掘り下げて書いてみようと思っています。
「自分のための危機管理」としての「察する」行動
最初にリンクを貼ったツイートの引用元に書かれている内容を転載します。
仕事ができる
— oishi haru / 学びの引き出しはるラジオ (@wa_mamaharu) 2023年5月9日
会社で気が利く
こんな両親は無意識に陥りやすい罠。
子供と外出。寒いから上着、小腹空くかもおやつ、ゴミが出るかもビニール‥と、準備して子供のリュックに入れて自分が持ってる。
子供がぐずったらおやつ、汚れたらすぐにお手拭き、寒いなと感じたら冷えるから上着を着せる。… https://t.co/p33Xq8rDdn
自分が母親として生活しているとき、この「子どもに対する気を利かせる作業」の根っこにあるのは往々にして「自分のための危機回避」だと思うんですね。
風邪を引かれたら心配だし生活の支障も出て困るから防寒具は必須、小腹が空いてぐずられると手こずるからそれを予防するおやつ、ゴミ箱を探してウロウロうする手間を省くためのビニール袋…
もちろん子供自身に対する心配や他の家族、周囲の人への配慮もそこには影響していると思うのですが、突き詰めていけば「なんか手こずったら自分が困るからそれを最小限にするため」なんじゃないかと思うんです、少なくとも私は子供たちが小さい頃はそうだったと思う。
「察する」ときの視点、視野、展望
子どもたちがだんだん大きくなってくる中でその察する作業が常態化していくケースも多いと思うんですよね。お互いその方が早いし楽だしローコストだから。
子どもに何かを習得させる、自分でやるように仕向ける、失敗の可能性があっても見守る、ってすごく時間と心の余裕が必要なこと。
小さい子に自分で冷蔵庫から麦茶のポットを出してコップに注ぐ作業をやらせるより、簡単なシグナルを受け取ってこちらで作業した方がうんと早い。
にこぼした麦茶を拭いたり、落としてぶちまけた麦茶を補充するために慌てて沸かしたり、ポットやコップを割って大惨事になったり…
そんな「その場で起こり得るリスク」を考えたらそれを事前に防いだ方が家庭はうまく回る。
「何でもかんでも子どもにさせる」は家庭生活への負担が大きすぎるから、それぞれの家庭で今は何をどの程度「子どもにさせる」か「やってあげる」か、家庭ごとにさじ加減を考えながらやってるんだろうな、と思うんですね。
「察する」ときにどこまでの展望を持っているか
母親として家庭の中で、また「気の利く人」として社会の中で、「察する」という行動を取るときにどこまでの展望を持っているのか、というのは一つの鍵になることなんじゃないか、と今回ぐるぐる考えていて気がつきました。
乳幼児期に親として自分のリスクを最小限に抑えるための危機回避としての察する行動は、年齢が上がるごとに「黙ってやってあげる」リスクを想定しそれを天秤にかけながらの対応に変化していく必要があります。
その天秤にかける作業の段階で自分が取る「察する」行動が誰のため何のためなのか、どんなリスクを回避するためなのか、またその行動をとってしまうことによりどんなリスクがあるのか、までを整理してから臨む必要がある。
そこらへんの歯車がうまく噛み合わなかった時に最初のエピソードで起こったような外部との齟齬が起こってしまうのかもしれません。(そしてそれもまた子どもの成長過程において有意義な経験とも言えるとも思います)
「気が利く人が損をする」について考える
ネット上でもリアルの生活の中でも「気が利く人破損する」「良い人として振る舞っていたらバカをみる」的な話があります。
「気がついた人がトイレットペーパーを替える」という仕組みの会社でいつも自分ばかりやっている、的な話だったり、気が利く人間として振る舞っていたらみんな自分にばかり用事を言いつけるようになる、とかもよくあるやつ。
これ「察することができる人が損する社会の仕組み」みたいに言われることも多いのだけど、今回色々考えててそれちょっと違うかも、と思うに至ったんですね。
ちょっとしたシグナルを受け取って察して動いてあげる、ということができることは能力のひとつとして有益だと思うんだけど、こういう損する目に遭いやすい人ってその察する行動の後に体を動かすとき「そのやってあげる行為がどんな影響を及ぼすか」という想定が甘かったり見誤ったりしてる可能性があるんじゃないかな、って。
数日前我が身に起こったことなんだけど、実家の母が自分が苦手なある身内に聞きたいことがある、と話していたのね。私はうんうんとその話を聞いて、こういう感じで打診してみたら?と話したの。私はその少し後に母が言っていたその人に会う機会があってね。
私が気を利かせてその身内に「母がこう言ってたよ」と代わりに聞いてあげることもできるなと思ったんだけどあえて言わなかったの。
母から「あなたから聞いてほしい」と頼まれてはいなかったし、母の性格を考えたら母の代わりに聞いてあげる行動を私が勝手にとったら次から母はその人に何か話したいときは私に同じように打診して代わりにやってもらうのを望むようになるだろうと容易に想像がついたから。
その後のリスクを考えたら、気を利かせて行動をするのは避けるべきだという考えに至ったんですね。
「察して動く」「気を利かせる」という行動は小さいうちから社会的には評価されることが多いから、先のことを考えることなくとにかくやるのが良いという形でインプットされがちなことなんじゃないかなぁと思うんですね。
でも、無自覚に動いてしまった結果自分が損をすることがあるのなら、それはやっぱり行動として見直す必要も、見直せる要素もあるんじゃないかと思う。
トイレットペーパーを毎回替えるのが嫌だと思ったら、自分も「替えない」選択を取ったらどうなるかを考える。
相手がやってほしいと思っていることが透けて見えてもあえてやらないことを選ぶことが相手のためにも自分のためにも必要なこともあるかもしれないし、組織にとって長期的にはその方がいいこともあるかもしれない。
「察する」とか「気が利く」ことそのものがいいとか悪いとかそういう話ではなくて、それで自分が損したりうまくいかないと感じることがあったらそれは算段を見誤っているんじゃないかな、というところに辿り着いた、今日の考えたことでした。終わり。
https://twitter.com/suminotiger/status/1658949350318546944?s=20
https://twitter.com/suminotiger/status/1658949350318546944?s=20