スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

ラジオから流れてきた介護のお話が育児とリンクしているなぁと感慨深かった話


今朝次男の軽いパニックに飲み込まれてひとしきり大騒ぎをしたあとのこと。

気を晴らそうと出勤前にワンコを連れてちょっと景色のいい散歩コースまでドライブしていたときにラジオから、ちょっと興味深い話が流れてきました。

 

介護についてのお話のようで「先週は『介護には余裕が必要』というお話を伺いました」とアナウンサーの誘導から。

 

うんうん、育児もそうだよねえ、と運転しながら耳を傾けました。

 

お話をされていたのは理学療法士の方。

認知症介護についてのお話のようでした。

 

介護者に余裕があるかどうかで「天使になるか悪魔になるか」変わってきますね、と話す理学療法士さん。

 

天使や悪魔になるのが介護者なのか介護される側なのかがちょっと聞き取れなかったのですが、育児においても自分の心の余裕があれば子が天使のように可愛いし、余裕がなくなれば悪魔になるよなぁ、そして自分もまた然り…と思ってしまいました。

 

どのように余裕を持つか、というお話が流れていきます。

 

介護をする中で、介護者が困る行動をとる認知症患者さんに直面したときに、医療面から「問題行動だから無くしてしまわなければ」と見られやすい。

 

けれど「異文化」という視点に切り替えて行動を観察したらどうだろう。

 

文化人類学に触れながら、認知症の方の見せる一見問題行動に感じられる行動について、異文化であるという目線で見つめ直してみるようなお話をされる理学療法士さん。

 

自分が当たり前だと思っていることが文化が違えば全く違う側面を持つこともある。その視点切り替えのために自分が進めているのが海外旅行だとお話をされていました。

 

新型コロナウイルスの関係で今は無理だけれど、介護現場の職員を連れてアジア、特にインドへの旅行をすることがあったというお話が続きます。

 

インドでは路上で犬と一緒に寝ている人がたくさんいる。

それを見た職員が「あぁ、廊下で寝ていても何もおかしいこと、ないですよね」と漏らす。

職務としてどうしても「ベッドで寝ましょうね」と促すし、それに応じないと「問題行動である」と捉えがち。

でも「床で寝ても別になんらおかしいことではないんだなぁ」と捉えることで介護者の側に少し心の余裕が生まれる。

 

次のエピソードは牛のおしっこ。

インドでは路上に野良の牛がたくさんいるのだけれど、牛がおしっこをしようとしたところに女性が突然駆け出し、両手でおしっこをすくう。

驚いて見ていたら、女性はそのおしっこを周囲の人にかけ、自分たちにもかけようとしたので慌てて避けた。

ガイドにあれは何かと尋ねたら「牛はヒンドゥー教では信仰の対象なので、そのおしっこをかけることは祝福になるのだ」と説明を受けた。

その文化を知らなければ「おしっこをかける」という問題行動にも見える。

 

このように、文化の違うところへ旅行に出かけると自分の常識が通用しない異文化を身をもって経験することができる。

 

自分たちの常識を疑うこと、一見わけがわからないように見える行動も違う文化があって行われているのだと考えて対応することで自分たちの余裕を持つことができる……

 

短い時間の中で文化相対論や文化人類学レヴィ=ストロースにも触れる、とても興味深いお話でした。

文化相対主義(cultural relativism)とは他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。

レヴィ=ストロースも著書『野生の思考』のなかで、自らを洗練されていると見なす西洋文化圏から「未開社会」と見られていた地域でも一定の秩序や構造が見いだせると主張しています。

 

一見問題行動に見えるものが、実は彼らなりの理由ある行動だった、ということは特性のある子たちとの生活の中でも本当によくあることです。

 私も実体験を書いたことがありました。

 

前述の文化相対主義で掲げられている「自己と異なる存在であると容認し、自分たちの価値のみで判断せずに理解と対話を目指す」という姿勢は、特性のある子たちとの暮らしの中でもとても大きな意義を持つものだなぁと思います。

 

ラジオの中では「心の余裕を持つために有効な手段」として触れられていた異文化という視点。

 

もちろん、床で寝られて困ることもあるだろうし、おしっこをかけられるのは困る。

行動を変容してもらわないと困ることが多いから「やっぱり問題行動じゃないか」と言われてしまうかもしれない。

 

でも、自分の価値観を基軸にして「それに反する問題ある行動だから是正すべき」と見るのか、他者にも自己と違う価値が存在しているのだ、というリスペクトを前提にして「しかしここは変容していただいた方がお互いに共存しやすくなるよね」というスタンスで接していくのか。

 

前者と後者で、自己の心の持ち方も、余裕も、相手の心持ちも、かなり大きく違ってくるなぁ、と思ったりするのです。

 

認知症のある方の介護においてどうかはわかりませんが、特性のある子とのやり取りでは…

 

例えば前記のブログ記事の例で言うと

 

「油性ペンでノートを取るのはいけません、やめなさい」

と問題行動と捉えて行動を変えようとするのと

 

「油性ペンの方が書きやすいんだね、でもそうすると机や下に敷いたものが汚れてしまうから良くないね、裏写りしない違うものに変えたらどうかな」

と話すのと。

 

圧倒的に後者の方が話が通りやすい、これは異論が出ることはないんじゃないかと思うくらい。

 

そして、話者の心持ちとしても

「油性ペンを使うなんて問題行動だ!(だからやめさせねば、いうことを聞かせねば)」と思って接するか「油性ペンを使うということは何か理由があるのかな、なんだろう」と思うかで、心の余裕は全く異なってきますね。

 

これ、別に特性のある子に対する話だけではないですねえ。

 

泥遊びなんか汚れるからダメ!と思うか、泥に入ると楽しいよねえ、でも汚れるからこうしようか、って思うか…みたいに、小さい子を育てていても応用できる。

 

価値観の違う配偶者、ママ友さんなど保護者関係、仕事でもそうかなぁ。

違和感を覚える言動、自分ならそうしないと思うような行動、なんでそんなことするんだろうと思えるようなことに出会ったときに自分の価値観だけを軸にして判断してしまいがちだけれど、同じ日本語を話す似たような顔の人類であってもそこに異文化があるのかもしれないなぁと考えることで少し余裕を持って対応することができるような気がします。

 

ラジオの中で理学療法士の方がお話ししていた中で特に興味深かったのは「共生」についてでした。

 

認知症のある方を管理していくのではなくて、共に生きていく、共生していくのが目標。

そのためには困ったときに「これは問題行動だ」とみなして矯正を考える視点ではなく、相手にも相応の文化があるのだと見て接していくことでお互いに良い距離を保ち一緒に生きていけるのではないか、というお話でした。

 

共に生きていくためのリスペクト。

特性のある子たちと暮らして日々の大変さに追われてしまうとつい私から抜け落ちてしまう視点だなぁと、朝から次男と一悶着やってしまった自分の頭をガツンと殴られたよう。

 

まだまだ修行が足りませんなぁ、と思いながら、散り始めた桜を眺めつつわんこと歩いた、そんな朝でした。

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