「感謝ポルノ」は余裕のない大人のコストカットの結果なのかもしれないなぁと思った話
お友達が「俺の描いた絵をブログに載せやがれこのやろう」と愛を込めて言うてきたので今回からたまにエッセイっぽいブログを書くときにそれっぽく載せてみようと思う、そんな今日この頃です。
こないだちょっと呟いた「感謝ポルノ」のこと
少し前に末っ子が参加しているスポーツ少年団で「やたらめったら感謝の儀式を求める気持ち悪さ」のことについて呟いたんだけども、言葉足らずな面もありでまぁ色々と飛んできて早々に楽天ROOMのリンクを貼ってミュートしちゃう、というのがありました。
リプライの中に私が現場で感じた気持ち悪さを「感謝ポルノ」と表現してくださっている方がおられました。
一時期話題になった「感動ポルノ」をもじった表現だと思われます。
言い得て妙な感じに、あぁなるほど納得!と思ったりもしました。
ツイートもしましたが、私は学校やスポーツの活動の中で「やってもらったことに対する感謝をする」ということを教えられることについて否定するつもりはありません。
指導者や保護者、いろんな関係者の尽力によって学校生活や各種の活動を行うことができていることは事実だし、そこにどんな人が関わっているのか子供の目線では見通せないものを大人が教えることも、感謝の仕方を指導することもあって良いと思う。
ただ、長男が小学校に入学してから約10年、年を追うごとに「感謝をする儀式的なもの」がエスカレートしていっているように見えてとても気持ち悪さを感じるのも事実ではあります。
園児に儀礼的な親への感謝の言葉を暗唱させたり、スポーツ活動に関してもものすごく細かいところまで言及して関わりのある大人に細かな感謝の言葉を言って回るように強要するシーンが見られたりすることもあり、気持ちはわかるけどちょっと行き過ぎなのでは…と感じることがよくあります。
前述したように「感謝することを教えること」そのものを否定するつもりはありませんし、儀礼的な感謝の形を覚えておくことが将来身を助けることもあるかもしれないのでさじ加減の問題ではあるんだろうなぁとは思っています。
ただ、中身を丁寧に指導するのではなく「感謝の言葉を大袈裟に伝えるスタイルを強いる」というやり方についてモヤモヤとする違和感があるのもまた、事実ではあります。
次男くんのお弁当箱
前置きはこのくらいにして。
我が家のファンタジスタ次男くん、高校生になって毎日お弁当を持っていく生活が始まりました。
注意欠損の特性のある彼が毎日確実にお弁当を持っていき持って帰ることなどどだい無理だろうとと最初から覚悟はしていましたが、ほぼ毎日帰宅後に弁当箱を出し忘れ、週に2回は食卓の上に置き忘れたまま登校しています。予想通りです。
そんな彼の弁当箱。
先週末金曜日の夜、キッチンに出ていませんでした。カバンからの出し忘れです。
いつもならその日のうちに声をかけて自分で洗うよう促しているのですが、たまたま私が夜の用事が入っていて慌ただしくしていたため声かけを忘れ、土日も所用でバタバタしていたため確認を怠り、お弁当箱は月曜の朝まで次男くんの机の上で静かに時を過ごしていたようでした。
それに気づいた朝の5時。
サブのお弁当箱もあるし、緊急用の紙箱のストックもある。
どうしようかな〜と思いながらなんとなくその日は彼の自室からお弁当箱を引き取り、洗いながらぼんやりと脳裏に浮かんだことがありました。
「やってあげてるのに」という思いと見えない感謝の気持ち
その日の私は時間の余裕もあったので心にもゆとりがあったように思います。
弁当箱を洗いながら「これ、自分が余裕ない時だったら腹立っただろうな」とふと思ったのです。
毎日毎日弁当を作ってやってるのに、忘れていったり出し忘れたり、ありがたみをちゃんと感じてるんだろか、ってイラッときたかもしれないなぁって。
ADHDで、かつ思春期の次男です。
彼の人となりを知っているから、私がお弁当を作ることについてのそれなりの感謝の気持ちがあろうと推測はできます。また、本当にありがたみを感じていてもそれを表現することが特性的にも年齢的にもやりづらかろう、というのは想像に難くありません。
でも表出する行動が伴わない限り、私はその「感謝の気持ち」というものが実在することを確認することはできない、もどかしいなぁと思いながらお弁当箱を洗って、いつも通りにお弁当を作りました。
もどかしさとわかりやすい感謝の言葉と
お弁当を作りながら、前述した「感謝ポルノ」のことが頭に浮かびました。
このもどかしいお弁当作りの日々に、例えば次男くんが
「お母さんいつもお弁当を作ってくれてありがとう」
というLINEのメッセージをよこしてきたら、手紙を書いてよこしたら。
多分嫌な気はしないだろうなぁとは思う。
その手紙を彼が書くに至る背景について考えたとき、成長をゆっくり見守りながら年齢相応の教育を施し、自発的にその手紙が書けるまで見守るのはとても気が遠くなるような、コストも時間もかかることだなぁと思ったんですよね。
でも例えば学校で「みんなで書きましょう」っていう時間があったら書けちゃう。
自発的に感謝の言葉を表出できるようになるまで見守るのは大人の側の負担が大きいことだけれど「ありがとうを言いなさい」「みんなでやりましょう」なら同じ形を外に出せてしまう。
今朝の私に余裕がなかったら、私の育児に余裕が持てなかったら、私は「次男の成長をゆっくり見守る」ことより、「やってあげている自分を満足させるためにありがとうを言わせる」ことに主眼を置いてしまっていたかもしれない。
コストカットの結果の「感謝の儀式」
あぁ、学校で感謝の儀式がどんどんエスカレートしてるのは、こんなふうにコストをカットしていく過程の中でのことなのかもしれないなぁ、とふと思ったのですね。
子どもたちから自発的に感謝の言葉が出るように、年齢に応じて諭し促しながら見守って少しずつフォローしていくような関わり方は、時間も手もかかるし、何よりそれを見守る側の大人に余裕がないと難しい。
でも「はい、ありがとうとここで言って」と言えば大半の子どもたちはそれに従って感謝の言葉を述べることはできる。
内部の成長を見守ることなくして形だけの感謝を表出させることもできてしまう。
昔に比べてどんどん人手が足りなく、余裕の無くなっている学校ではもうずいぶん前から手軽に感謝の言葉を並べることができればそれでよし、というスタイルに落ち着いていっているのかもしれない。
子供たちが感謝の気持ちを持ってくれるような大人の接し方、自然と感謝の言葉や態度が表出できるような環境づくり、多様な子供たちを見守っていく余裕…
自分にそれがあるかを問う日々の中、子供に接するところにある方々にその余裕を持ってもらうために自分に何ができるのかを改めて考えたりする、そんな冬の朝のお話でした。