相変わらず不定期な更新です、ごめんなさい。
今回は、ちょっと前に子供と話した「ズルいって言われないか心配」というお話のこと。
「ズルい」と言う子たちのお話については前にも書いたことがあったな〜と思ったら、7年も前のことでした。
不安定な教室と、五月雨登校
寒さと共に1年の終わりが少しずつ近づいてきた頃のこと、少し落ち着いているように見えていた子の教室の様子がまたちょっと心配な感じになってきました。
秋口くらいから交友関係のトラブルが見え隠れしていたので気にして様子を見ていたのですが、うちの子や他の保護者、他学年の子たちの話、参観で見た印象などを総合するにどうも担任の先生とクラスの子たちがあまりうまくいっていないようです。
過敏なうちの子は案の定誰よりも早く持ち崩す片鱗を見せていました。
介入しないと無理をしすぎてバーンアウトしてしまうタイプの子なので、本人とも話し合った上で学期末までの登校は無理のないペースで自分なりに調整しながらにしよう、ということになりました。
具体的に言うと、前日のうちに次の日の登校をどうするか(お休み・〜時間目から・〜時間目まで、等々)を話して決めておこう、という感じです。
教室にいる時間に自分なりに頑張って過ごすことを前提に、どのペースならそれが叶うかを無理のない範囲で考えながら調整する練習。担任の先生にも当たり障りのないような形で事情をお話しし、同意を得ての調整です。
「ズルいって言われてると思う」
調整しながらの登校を始めて1週間くらい経った頃でしょうか。
遅刻しての登校にした日、学校へ向かう車内で子がポツリと「ズルいって言われてるんだろうな」と漏らしました。
どしたの?と聞くと、彼と同じようにポツポツと登校している同級生の名前が出てきました。
クラスの子たちが教室でその子の名前を挙げて「自分たちは頑張って登校してるのに、〜はズルい」って話している、と。きっと自分がいない時には自分も同じように言われているんだろうなって思う、と話してくれました。
「ズルい」って言っちゃう子たちの心の中のこと
私の脳裏に浮かんだのは、7年前に書いたブログと同じことでした。
「ズルい」って言っちゃう子たち、きっとすごく頑張って登校してるんだろうな、ということ。
うちの子や名前の上がった子のような方向を選ぶことは選択肢になく、嫌々ながら毎日学校に足を運んでいる子たち。
その頑張りを誰かに認めれることはもしかしたらあまりないのかもしれない子たち。
ただ、そんな彼らのことを理解せよと我が子に話しても仕方ないなぁと思って、ちょっと違う方向からのお話をすることにしました。
「教室、しんどいよね?」というお話し
そういう悪口みたいなのを言っちゃうのがいいか悪いか、というのはとりあえず置いといてね、と前置きをして。
「そういう発言が出てくるってことはさ、そもそもみんなにとっての教室があまり居心地良くないってこと、ない?」
と問いかけたら神妙な顔。
「君がこれまで学校に通っている間を思い出してほしいんだけどね、朝起きて朝ごはん食べてみんなと登校して学校で授業受けて…って放課後までなんの引っかかりもなく過ごしてた期間、なかった?」
「ある」
「じゃあその間、たとえば欠席の子がいたり遅刻してきた子がいたりしたとして、ズルいなぁって気になったと思う?」
「うーん、ならないかも」
「あ、ちょっとわかったかも」
と話し始めたのは、習い事の話でした。
子が通ってるサッカーの習い事、色々あっていまは2つ行ってるんですが、一つは大好き(Aとします)、もう一つはちょっと面倒だけど辞めずに頑張って通ってるもの(Bとします)。
「Aの練習時間のとき、遅れてきた子がいたら『遅れちゃって残念だったね〜』って思うけど、Bの練習のときは遅れてきた子に対して『あいつサボっててズルいな』って気持ちになるかも、そういうことだよね?」
そうそうそういう感じ、と話しながら、君や別の子たちに対して「ズルい」って気持ちが湧いてるってことは、今の教室はみんなにとって楽しく通える場所ではなくなっているんだろうなと思うよ〜と話したところで学校に到着しました。
話さなかった、もう一つのこと
子には話さなかったけど、多分彼らの中の「ズルい」にはもう一つの要素があるんだろうな、とは思います。
それは「自分と他人の境界線」がまだ緩い、ということ。
たとえば大人が何かの講習に通うとして、そこに遅刻してくる人や欠席する人がいたとしても「その人はその人」「自分は自分」という切り分けができていれば気になりにくいものだと思うんですね。
小学校より中学校、中学より高校、成長していくにつれ、子どもたちは周りの同級生との間の距離がより上手に取れるようになっていって、不登校や五月雨登校の子たちともそれなりに折り合いをつけて付き合えるようになっていく傾向があるように感じます。
それなりの事情がそれぞれにあることを知識として知っていくのも、距離を保つことができるひとつの要素なのだろうなと思います。
まだ幼い子どもたちにとっては、相手との距離が近すぎるくらい近い。
自分と相手との間の境目がはっきりしない子どもたちにとっては、自分に課された負荷を同等に課されていないように見えることを切り分けて考えるのはなかなかに難しいことなんだろうなと思います。
おわりに
自分と他人との境目の話、これ、年齢の話にしましたが、大人でも自分が追い詰められたら簡単にこの視野の狭さ、相手との距離の近さに陥りやすいなぁと経験上感じています。
育児で髪を振り乱してた頃なんかその最たるものだったなぁと…
その頃のことはこのブログでもよく書いてきたよね。
大人としての理性、適切な相手との距離感、自分と他人との境界線を超えないように人と付き合っていくスキル…
どれも「持っているだけ」じゃなくて「それを活かすための余裕」がないと簡単に子どもたちの群れと同じような幼さが顔を出してしまうんだろうな、と思ったりしています。
今年のうちにもう1エントリくらい書けるかしら、書かないかしら。
書きたくなったら、また書くかもです。