スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「それはこちらの課題じゃない(=知ったこっちゃない)」という視点

思考の整理をしにきました。

 

TLで流れてくる「緊急避妊薬市販化」「夫婦別姓」あたりについて悶々と考えている中での話です。

 

ツイッターでズイショさんという白い犬と仲良くさせていただいているんですが、先日こんなことをおっしゃっておりまして

 

 

自分の悶々と考えてたことをスパッと言葉にされたような気がしたんですよね。

 

ズイショさんの指摘するような「お前らの痛みなど知ったこっちゃない」って言い切るの、すごく冷たくて残酷なような気がするじゃないですか。

 

でもそうじゃないな、と思ったの。

「あなたの痛みなど知ったこっちゃない」

というとき、そこに痛みがあることは否定してないんだよね。

 

あなたにはあなたの痛みがあるんだね、そこは否定しないよ、あるんだね、っていう、そこに立ってるからこそ言えることなんだよなぁと思ったのね。

 

なんでこんなことをわざわざ書こうかと思ったのは、さっきこんなのが流れてきたから。

(ツイートをお借りします)

 

こういう、男女を入れ替えて女性の苦しさを理解してもらおう、的なやつはいろんなところで目にするんだけれど、いつももやっとした違和感があって。

 

それがなんか紐解けたような気がするのですね。

 

結論から言うと「無理じゃん」だと思うの。

どんなに立場を入れ替えても、想像してもらっても、現実に緊急避妊薬のお世話になったり、ピルを常用している女性の抱えているものって絶対にわかんないし、それわかってもらう必要あるのかな、って。

 

「私は苦しい」

「私は権利を侵害されている」

 

その当事者からのメッセージを、何かを入れ替えたり表現を変えたりしてこねくり回す必要はないんじゃないか、と思うの。

まっすぐそのままでいい。そこにあるんだもの。

 

そして、その自分たちの、また誰かの苦しみがそこにあることを誰も曲げずかえずそのまま受け取るということは、翻せば別の立場の人たちのそれもそのまま、ということだとも思うの。

 

緊急避妊薬の市販化に【私には理解できないけれど】否定的な人がいる。市販化されることに対する心理的な不安や懸念を持つ人がいる。

 

夫婦別姓が法的に認められることにより婚姻時に同姓か別姓かを選べるようになってしまったらそれにより苦しむ人が出る。それを避けたいと考えている人たちがいる。

 

こういう話に直面すると説得したくなるものなのかもしれない。

「いや、あなたたちのしんどさはこちらに比べれば大したことないんですよ、だからこちら側の主張を認めてもらえれば」と話したくなるのかもしれない。

 

それ、一見平和的な態度に見えるけど、ズイショさんが指摘してるように、自分が被害者サイドに立った状態でやんわり対応しようとしながらも相手のしんどさを完全否定してる、それってどうなの、って。

 

この手の漫画のような「わかってほしい」という話にいつも違和感があったのは、弱者の側に立って反対勢力を説得してあげるように見せていて、実質は相手のしんどさを低く見積もったりゼロカウントしたりしているズルさにモヤモヤしてたんだと思う。

 

これ、ハンディのある子の支援について話し合うときにもやりがちだなぁと思ったりするのです。

 

我が子のハンディについて学校や周囲と話し合っていく中で、自分の子供や自身のしんどさにクローズアップするあまり「みんなはしんどくないだろうけどうちの子しんどいんです、理解してください」っていう話に流れがちだなぁって。

 

でも実際には周りの子達や先生方もそれぞれにしんどさを抱えてる。

 

じゃあそれに忖度して主張を取り下げたりする?それも違う。

 

そっちにはそっちのしんどさはあるよね、でもそれはこちらの課題じゃない(=知ったこっちゃない)

こちらにはこちらのしんどさがあるので、あなたのそれもある前提で、じゃあどうしていこうか、っていう話をしよう。

 

学校との交渉はいつも割とこんなスタンスだったんだけど、ズイショさんのご意見を受けてスッキリ言語化できたような気がする。

 

勢いでダーっと書いてお昼になっちゃったからこれでおしまい。

読み返したりしてないから、あとで読み返してこそっと手直しするかも。

「法律がある」ということを知る、ということ。

やっと梅雨の終わりが見えそうな薄曇りの朝です。

今日はここ最近の身の回りのことからふわっと考えた「法律を知る」ということについて。

 

保護犬の講習に行ってきました

実家にいた頃から飼っていた子が亡くなって数年、子育てでそれどころではなかったのもあって新しい子を迎えることはなかった我が家ですが、ここ最近子どもたちから「ワンコ欲しい」の声が度々上がるようになっていました。

 

お金もかかるし手もかかるし…と躊躇する気持ちもありました。

何度か話し合いの場を持ち、10〜15年近く生きること、病気をしてお金がたくさんかかることもあること、その間に君たちの方が大人になっていくこと、君らが大人になっていく中でもし私や夫が育てるのが大変になったときに家を出たからしらないって言われたらとても困ってしまうかもしれない…いろんな可能性について話しながら、生涯家族みんなで世話をする、という合意のもとで新しい子を迎える準備をすることになりました。

 

せっかくだしと以前から興味のあった保護犬の受け入れを検討することに。

 

問い合わせたら愛護センターや保健所で講習を受けると譲渡会に参加できる仕組みになっているようなので早速講習の予約を入れ、先日子どもたちと参加してきました。

 

ワンコについての法律あれこれ

講習の中では育てるための心構えや各種助成制度、病気のことなど多岐にわたる内容の説明がありました。

育て方についてはお話を聴きながら「人間の子どもと同じじゃん…」と思う場面も多々ありで。(そのときのことは先日ツイートしてましたね。)

 

今回の本題はそっちじゃなくて、法律のこと。

 

なんとなくぼんやり罰則規定があることは知ってたものもあったけど、改めて聴かされるとへ〜〜ってものもいくつかありました。

 

例えば狂犬病予防法」

年1回の狂犬病予防注射を毎年受けさせねばならない、ということは知っていたけれど、

  • 注射済票をその犬に着けておかねばならない
  • 予防注射を受けさせず、または注射済票を着けなかった場合は20万円以下の罰金

 

隣に座っていた三男がその金額を見てえええええって顔をしていたのが印象的でした。

 

犬に関する法律には他にも「動物の愛護及び管理に関する法律」や自治体によって各種条例が定められていることも紹介されました。

 

大分県では「大分県動物の愛護および管理に関する条例」というものがあり、

  • 公共の場でふんを排泄した場合は、遅滞なく、当該ふんをその場から除去し、適正に処理すること(罰則は5万円以下の罰金または科料
  • 飼い犬が逸走し、または人の生命、身体もしくは財産を侵害しないよう、常に係留(網や鎖などでつなぐ、囲いに入れる、等)しなければならない(罰則は5万円以下の罰金または科料

 

など、罰金が科せられる条例がいくつかあるようでした。(私もダメなのは知ってたけど罰金やその金額については知りませんでした…)

 

同席していた子どもたちにとっても、ただルールがある、守らねばならない、というだけではなく、なぜ守る必要があるのかという理由についての説明や、罰則があるということ、またその内容について知ることができたのはとてもいい機会になったなと思いながら帰宅しました。(講習後に参加した譲渡会では残念ながら希望したわんこの抽選に外れてしまったのでさみしい帰路となりました…)

 

道路に関する法律の話から見えてきたもの

ワンコの法律のことをなるほどと勉強して帰って来た週明けの昨日、こんなツイートをしました。

 

先日ツイートしていましたが実は私、今回ゴールド免許になりましたの。

30分の講習を受けまして、その中でこの【横断歩行者等妨害等】が2点減点・普通車反則金9千円という結構重い罰則があることを聞いたばかりでしたん。

 

もちろん免許を取得するときにこの辺のことは一通り勉強してはいたけれど、長く乗っていると忘れていくことも多いし、法律は年々更新されていくので知らないことも出て来てる。

 

定期的に勉強するのは大事だなぁと今回改めて思ったりしました。

 

この横断歩道の一旦停止はやってない運転手さんほんと多いなぁと感じます。

今回のツイートにも、停まったら後ろからクラクションを鳴らされたとか、追突されそうになって危ないとかリプライがいくつか。

 

こうやって罰則規定も定められているほどの運転者の義務なんだけれど、優しい人がやってあげるマナーくらいの認識になっている雰囲気もあったりしますね。

 

でもそこが落とし穴だなぁと思ったりするのです。

 

ワンコの話を聞いていても感じたことなのだけれど、ちゃんと法律が制定されていて、こんな風に罰則も用意されているのに「やれたらやればいいこと」的なフワッとした受け取り方をされがちだったりするなぁ、と思ったりするのですね。

 

そして、そのフワッとした認識で犬を飼ったりドライバーとしてハンドルを握ったりしていると、突然罰則を提示されたときに「そんなつもりじゃなかった!」とパニクることになっちゃったりするのかなぁって。

 

ワンコの散歩をしながらふんを放置したところで即現行犯逮捕されることはそうそうないだろうとは思うのだけれど、それでもこうやって法律として明文化されていることなのだからいつ通報されて罰が科せられるかわからないし、科せられたところで逃れようはないわけですよね。

 

でも、日頃からその法を意識して生活していなかったら多分「なんで!」「みんなやってるじゃん!」ってなっちゃう。

 

ワンコの件についても子ども達と「誰がやってるとか誰はやってないとかじゃなくて、法律があることを理解して守ることが大事だよねえ」と改めて話すきっかけになったりしました。

 

学校・子どもに関する法律のこと

こんな風にいろんな法律のことを考えている中で、やっぱり私の思考がたどり着くのは我が子を取り巻くいろいろな法律。

 

ちょうど昨日、上記のワンコの飼い方についていただいたリプライに対してこんなことをツイートしていました。

私や子どもたちが犬を飼う上で知っておかねばならない法律について指導を受けたように、子どもを持つ前に子に関する法律についてもある程度知っておく必要はあるよなぁと。そして私も含めて、知っているようで厳密には把握しきれていない我が子に関する法がたくさんあるんだよなぁと痛感したりもするのです。

 

例えば「保護責任者遺棄等」という刑法第218条の中では高齢者や子ども、障がいのある人や病人などを世話する責任のある人(親子の場合は主に親)が見捨てたり生きるのに必要な世話をしなければ3ヶ月以上5年以下の懲役が科せられることになる。

 

なんとなくその法律の存在や「よくないこと」とはわかっていても、具体的に何年の懲役が科せられるような罪なのかまでは知らないことも多いなぁと思ったりするのです。

 

「子ども子育て関連3法」や「いじめ防止対策推進法」「障がい者差別解消法」など、子どもにまつわる法律はたくさんあって、私も知らないことがたくさんあります。

 

発達障害の子を持つ親としてはやはり障がい者差別解消法のことを知らぬわけにはいかぬと勉強を少しずつしているところではありますが、学校の先生方と話していてもこのことを把握されていない先生に出会うことも多々あるのが悲しい現実です。

 

先生との面談の中で、彼らの学習の権利を守るため合理的配慮をお願いしてもサラッと一蹴され、法律のことを持ち出して初めて目の色が変わる、あるいは残念ながら全く理解なくお話にならない、ということも何度もありました。

 

私たちが運転手としてハンドルを握る時に「横断歩行者等妨害等」という交通違反について知らないとは言えないように、犬を飼う時に「狂犬病予防法」について知らないとは言えないように、学校の先生方も教育にまつわる法律や「障害者差別解消法」について知らないとは言えない、保護者として生活する上で子にまつわる法律を知らないとは言えないんじゃないか、と思ったりするのです。

 

おわりに

「知らないとは言えないんじゃないか」と書いてはみたものの、たくさんある法律や条例のすべてを把握しきることは一般庶民である私たちには到底無理な話だろうと思います。

 

でも、生きている以上、何かの権利を有している以上、また何かに携わっている以上、【それにまつわる法がある】【それに関する罰則規定がある(こともある)】という事実については目をそらしてはいけないんだろうなぁと、ここ数日の身の回りで起こった法律の話から考えたりしています。

 

「法律を知る」の一歩前の「法律があるということを知る」という認識。

無知の知、みたいな、感じかなぁ。

「自分の把握しきれていない法律があるのだ」という認識をひとつ持っておくことで、何かに臨むときに勉強すべきことを洗い出しやすくなるのかもしれない。

 

現在施行されている法のすべてが問題ない間違いのないものだと言って良いのかわからない部分もあるのですが、それでも制定され施行されている以上、その法のもとに我々は暮らしてる。そこからは目をそらしてはいけないんだろうなぁと思ったりしています。

 

今更ながらやっと手に入れた『こども六法』を子どもたちの手の届く本棚におく前に一人チマチマ読んでおります。

こども六法

こども六法

 

 

残念ながら今回ワンコは連れて帰れなかったけれど、またご縁のある子に出会えるかもしれない。

その時が来たときに困らないように、犬の飼育に関する法律をもう少し勉強しておかねばなぁと思ったりしています。

 

長くなりましたが、今日はこのへんで。

これは親として必読書になるかもしれない。『発達障害の子どもたちから教わった35のチェンジスキル』が届きました。

発売を心待ちにしていた阿部利彦先生の著書

『大人が変われば、子どもが変わる 発達障害の子どもたちから教わった35のチェンジスキル』

が届きました。

 

 

手元に届いてからブログを書き始めるまで約10分、一気読み初動の感動を忘れないうちにみなさんにお伝えしたいことをしたためておこうと思います。

 

まずはじめに

冒頭の「はじめに」の中でこの本の対象として書かれているのは「園や小学校の比較的早い段階のお子さんをお持ちの保護者の方」です。

発達障害のある子を持つ保護者、とは書かれていないところが阿部先生の素敵なところだなぁと思うのですが、ここに書かれている接し方は基本的にどんな子に対しても共通しているのではないか、と私は思います。

これはこの本に限らずですが、発達障害のある子に対する声かけの例の多くは定型発達やそれに近いお子さんにも有効です。

定型発達の子達は曖昧な表現を特別好む訳ではないと思うんですね。

多くは違和感や不快感をそれなりに覚えながらも、理解できないわけではないからスルーしてくれているんじゃないか、と感じています。

 

この本で示されているような丁寧な関わり方は一見発達障害のある子のための特別なスキルのようにみられがちですが、実際にはどの子に対してもコミュニケーションのストレスを軽減し、信頼関係を築きやすいのではないかと思います。

 

 

1章「ほめるスキル」と2章「しかるスキル」

この2つの章がまずすばらしい。

 

よく「子どもをほめましょう」と言われるけれど具体的にどうしたらいいのかわからない、というのはTwitterなどでもよく目にすることです。

 

また「叱らない育児」なんて言われるけれど実際には苦言を呈する必要は日常の中でたくさん出てきます。

 

「ほめましょう」「怒らない・叱りすぎない」なんてサクッと言われてしまうけれどなかなか実践するのが難しいこれら行為について、それぞれ7つの具体的な注意点をNG例も添えながら詳しく説明されています。

 

添えられているNG例がまた…

「上手に書けてるけど書き順がめちゃくちゃだよ!」

「いいかげん宿題しなさい!何回言わせるの!」

「やる気がないんだったらやらなくていいのよ、好きにすれば、もう勝手にしなさい」

 

ね…耳が痛いでしょう……

 

これら耳の痛い声かけについて、そう言われたら子どもがどう受けとってしまうのかを詳しく説明した上で、こういう声かけにしてみよう、という提案が添えられています。

 

3章「伝えるスキル」

ここでは、不適切な行動を禁止するときや違う行動に変えて欲しいとき、こうしてほしいときにどんな声のかけかたをしたら伝わりやすいか、NGの方法も例示しながら紹介されています。

 

明日は用事があるから早く寝てほしい、

危ないことをやめてほしい、

公園から帰りたいから遊ぶのをやめてほしい…

 

日常の中にたくさん出てくる、ちょっと言うことをきいてほしいんだけど…というタイミングでどんな風に言葉を選んだらいいかがわかりやすく書かれているなぁと思います。

 

4章「励ますスキル」

親として一番難しいかもしれない、手や口を出しすぎずに本人を見守り励ます方法について書かれている章です。

 

いわゆる傾聴と呼ばれるような、耳を傾ける方法も簡単に説明されています。

(この部分をもっと掘り下げようと思ったらぜひこちらを)

 

傾聴の他に、プロセスを楽しませることの大切さや成功体験を意識しやすくなるちょっとしたコツ、レジリエンス(立ち直り力)を育てるための言葉のかけかたなども紹介されています。

 

5章 スキルを支えるスピリッツ

ここは、親として何度も読み返したい章だと感じています。

トピックだけ書き出して壁に貼っておきたいくらい。

 

頭ではわかっているようで、でも日常の喧騒の中でつい忘れがちな大切なこと。

子どもを観察することの大切さやその子なりのプライドがあるということ、親としての心の持ちかたや自分のケアを大切にするということ…

 

阿部先生のやわらかい言葉で、親である自分をまずケアすることの大切さを諭されているような、読んでいて肩の力が抜けていくような、そんな章でした。

 

おわりに

バーーーーッと読んで感動をざーーーっと書いているので、もっとこんなことも言いたかった!こんな素敵なところもあった!と後から出てくるような気がして仕方ありませんが、とりあえずこのくらいでおわりにしておきます。

 

本全体、挿し絵も多く、またその挿し絵もとてもわかりやすく描かれているなぁと思います。

視覚優位の親御さんだったらこのイラストだけコピーして壁に貼っておいても効果絶大なんじゃないかと思うほど。

 

文字はユニバーサルフォントが全体を通して使用されており、スッキリした文字の配置でとても読みやすい紙面になっているところもさすがだなぁと。印刷業の端くれにいる者としても参考になるようなデザインだなぁと感じています。

 

親の会でも是非紹介させていただきたいなぁと思っています。

この1冊は発達障害のお子さんをお持ちの親だけで読むのはもったいない、ぜひ、小さい子を持つ親御さんや子どもと接することのある方に手にとっていただきたい。

 

知識のがっつりある親御さんにはちょっと物足りなさはあるかもしれませんが、これに物足りなさを感じたら【子どもに対する接しかたマスター】を名乗ってもいいかもしれない。

それくらい、子どもに接するときに大人として気をつけるヒントがぎっしり詰まっている1冊だと思いますよ〜〜!

 

慌ただしく書きましたが、ここまで!

「居場所」は今いくつあるだろう、という確認

新学期を迎えた途端にコロナの関係で学校は大混乱、

三男の不登校や入学したての長男と娘の対応、

受験生になった次男がメンタルはだだ崩れ、

そこに来て予想外の大雨被害…(幸いうちの周辺は大丈夫でした)

 

イシゲ家、大波乱の4〜7月を過ごしているところです。

 

今日は娘との会話の中でふと考えた「居場所」のこと。

 

塾に行こっかな、な娘さん

中学生になって多くの子が部活に入る中、習い事を継続して部活には入らないことを選んだ娘。

 

最初の定期テストの結果が思ったよりよかったこともあり、もっと上を目指したい気持ちも出て来たようで。

そんな娘に塾に行ってもいいんじゃな〜いと勧めたりしていました。

 

塾を勧めたのは成績を上げるため、ではありません。

部活に入らなかった娘にとって、居場所がもうひとつ増えてほしいなぁと思ったから。

 

家と学校以外の「居場所」

自分の学生時代を思い返したとき、塾のあの家とも学校とも違う不思議な場所に随分助けられたように思うんですね。

 

進学と同時に塾をやめた途端、それまで自分のホームだった場所がひとつ無くなったような喪失感があったような覚えがあります。

例えば卒業した小学校の職員室が総入れ替えになって自分のいた頃とガラッと変わってしまったり、住んでいたアパートを引き払った後に再び訪れたときに違う人が住んでいるのを見たりしたときの、あのなんともいえないさみしい感じ。

 

自分の居場所がそこにあったんだな、と、失って改めて身に沁みるような、そんな感じ。

 

習い事をやっている娘にとってお教室やレッスン場はひとつの居場所ではあるけれど、自分のレッスンの時間にしか立ち寄らない場所なのでちょっと居場所としては心もとない。

 

塾という、行ける場所がもうひとつ増えるのは彼女にとってのホームをひとつ増やすことになるだろうな〜と思ったりしたのです。

 

私の「居場所」はいくつあるだろう

塾の提案をした数日後のお休みの昼下がり。

三男をサッカー教室に送った帰りに、お茶でもしよっか、と娘とふたり、馴染みのカフェに立ち寄りました。

コロナの影響で長くお休みをしていたから久しぶりに行ったのだけれど、顔を出したら狭い店内にお友達や顔見知りがずらりいて、マスターも一緒にあれこれおしゃべりをして。

 

煎れたてのコーヒーを楽しみながら娘に、居場所としての塾のお話を少し。

話しながら、あぁここも私の居場所のひとつだよなぁ、と思ったり。

 

学校や塾のなくなったいまの私にとっての居場所ってどこだろう、とぼんやり考える。

 

家と、職場と…あぁ、思えばそうたくさんはないかもしれない。

 

次男が通級指導教室に通っていた頃、週に1回入れるそこは私にとってゆっくり過ごして次男のことを思う存分話せる大事な居場所だった。あそこがなかったら今の私はないと思うほど。

 

それがなくなって今、家以外に落ち着ける場所、ほかにどこがあるだろう。

 

安心してそこにいられる場所、居場所。

それが少なくなればなるほど、息をするのが苦しくなる気がする。

たくさんキープしておくと、生きやすい気がする。

 

思い返してみたら今、あんまり居場所がないかもしれない。

自分のメンタルを維持するためにはもうちょっと頑張って居場所、増やしとくほうが良さそうだなぁ…

 

おまけ 三男の新しい「居場所」

学校との話し合いがうまくいかず、完全に不登校状態になってしまった三男さん。

紹介された適応指導教室に体験に行くことになりました。

 

見学に行ったときに先生が話してくれた中で印象に残ったのは

「この教室の一番の目的は『居場所作り』です」

という言葉。

 

あぁ、ここが彼のホームのひとつになるとしたら、それは彼にとっての大きな支えになるんだろうなぁとお話を伺いながら思いました。

 

 

居場所、意図してどんどん増やせるものでもないとは思うけれど、少なくなりすぎるのはやっぱりしんどい。

Twitterも自分にとっての大事な居場所だからつい覗いちゃうのかもしれないなぁ…

 

あぁそうか、今朝いくつかツイートしたオンラインサロン構想、サロンというのもバーチャル空間に自分の居場所を作ることになるのかもしれないね。

そういう居場所づくりのお手伝いができるかもしれないんだなぁ。

うん、ちょっと本腰入れて考えてみたくなったかもしれない。

 

今日はここまで〜。

少年スポーツの保護者負担や性的役割分担の話に思うこと。

朝ぼんやりTLを眺めていたらお子さんが少年野球を始められたらしい方のツイートが流れてきていました。

 

(引用はしないので気になる方は検索していただけましたら)


その方が書かれていたのは送迎の負担やお茶当番などの負担だったように思います。

お当番は母親がやるものとされているような、性的役割分担の傾向が強いことにも触れられていました。

 

私も息子が小学校の頃に少年サッカーチームに所属し、その後中学の部活を経験していく中でこのような親の負担問題について直面してきたので色々と思い出したりしたところです。

 

現状、サッカーをやりたい末っ子を長男のいたスポーツ少年団ではなくプロコーチが基礎を教える楽しさ優先のサッカー教室に通わせているあたりで色々お察しいただければ…という感じではありますが、今日はちょっとこのスポーツの保護者負担問題から派生して考えたことを書いてみようと思います。

 

 

 

少年スポーツにつきものの、保護者負担

私の息子が所属していたのはサッカーチームなので野球ほど強固なものではなかったとは思うのですが、それでもお茶当番や送迎、子どもたちのお世話などが保護者会のやるべきこととして存在していました。

 

役員をしていた6年生のころには練習日にはほとんどグラウンドに出向き、毎週土日どちらも遠征や練習試合のお世話…

生活をまるまるサッカーに捧げたような1年間を過ごしました。

 

サッカーでは「母親がやるべき」という性的な役割負担はそう強くなかったような気がしますが、それでもお父さんは指導の手伝い(お父さんコーチという言葉があった時期もありました)でお母さんはお茶やお世話の手伝い、という雰囲気はじわっとあったような気がします。

 

うちの子は野球チームに入ったことはないのですが、参加経験のある親御さんの話を聞くと野球はこの辺の性的役割分担の色がサッカーより濃い印象はありました。

持病があるママさんのご家庭が「お手伝いは父親が行きます」と言うと周りのお母さんにすごく驚かれ拒否され、母親が出ざるを得なくなった話も聞いたことも。

 

少し前、たまたま高校野球の練習試合をやっているところに居合わせたことがあります。

球児のお母さんであろう女性が複数人、同じTシャツを着てお茶を配って回る場面に出会い「あぁ、高校生になってもお母さんがやるんだ…」と衝撃を受けました…

 

廃れつつあるもの…と思っていたのだけれど

このような保護者負担は大昔の名残が一部に根強く残っているもの…と思っていましたが、息子が中学に入り部活を始めたときから、アレ?と思うようになりました。

 

部活には保護者会が存在していて、入部してすぐに新入生保護者が集まり役員を決め、保護者会費の徴収や、試合のお茶当番や先生のお世話係を順番に回す説明がありました。

 

私自身が中学で部活をしていた頃に学校の部活に保護者が関わるということはなかったんですね。

飲み物は自分たちで用意していたし、顧問が電話注文した弁当を部員で連れ立って買いに行った記憶もあります。親が試合を見に来ることすらほとんどなかったように思います。

当時のことを両親に聞いたら「保護者会などなかったし、学校に払う以上の徴収も無かった、試合は見に行きたかったけどみんな行ってもなかったしあなたに来るなと言われたから行かなかった」と返ってきました。

 

昔はなかった中学の部活の保護者会がどこかの段階で発生し、そして子どもたちや顧問のお世話をする仕組みがだんだんとできていったんだなぁと。

私たちの頃は中体連など学校の関わる公式戦しかありませんでしたが、市外県外の大会参加が増えてきて保護者が関わる機会が増えてきたのも背景にあるようです。

 

少年サッカーや少年野球などの子どもをとりまくスポーツでも、保護者負担の傾向や性的役割分担の色は今も一部では加速する形で残っているのかもしれないなぁと感じたりしています。

 

中学の顧問の対応から見えてきたもの

息子が入部したころ、

  • 試合時の部員の飲み物の準備(キーパーを持ち帰り自宅でお茶を作って持って来る)
  • 顧問の飲み物や食事の手配

などが保護者の係として割り当てられていて、さらに試合のときに使った場所を片付けたりするのもお母さんたちがたくさんサポートしている状態でした。

前年度のやり方がそのまま踏襲されていた状態だったのだろうと思いますが、中体連のあとに役員が代替わりしたころから顧問から少しずつ「子どもたちに」という言葉が出るようになりました。

 

親が荷物を運ぼうとしたり、使った場所の掃除のために掃除用具を探そうとしたりしていると先生から「お母さんいいですから、子どもたちにやらせますから」と制されるようになったんです。

 

息子たちが部活の最高学年となり私たちに保護者会の主な仕事が回ってきました。

打ち合わせなどを通して先生の考えをゆっくり伺う時間が少しずつ増えて、見えてきたもの。

それは、先生が部活の指導で意識されている大事なことでした。

 

 

「サッカーだけを指導する場ではない」

 

生活の基礎や人間関係、礼儀などスポーツの技術だけではない成長の場であるわけだから、お母さんたちがそれを奪うのは良くない、と話してくれました。

 

技術だけを伸ばすなら子どもはサッカーだけやればいいかもしれない。でも中学の部活動である以上、スポーツをやる上で付随するたくさんのことを学ぶ場であるはずだ、と。

 

先生の意向を受け、保護者会の活動内容をかなり見直していきました。

 

お茶当番を廃止し、保護者会からペットボトルを箱買いしてキャプテンに預ける。

子どもたちがそれを管理してなくなれば保護者会へ申告する…

 

など、子どもたちの自立を促していくための方向にシフトしていきました。

 

少し前までは食べ終わった弁当の容器を応援にきていた親に「ハイ」と手渡していた子どもたちが、方針を変えてからは自分たちで残飯も含めたゴミの分別をし、どう処分するかまで話し合い、わからなければ先生や保護者に聞きにくるという姿まで成長をしたのには本当に驚きました。

 

あぁ、手を出し過ぎていたんだなぁという反省とそれを見抜いて指導方針を徹底してくれた先生への感謝と。

親としても大切なことを学ばせてもらった中学の部活動になりました。

 

しかしながらこれは、とても珍しい事例のようではあります。

この話を聞いたママ友から「そんな顧問珍しいよ、うちは顧問が『お母さんたちがやってくれて当たり前』って顔でなんでもやってもらってるよ」と驚かれました。

 

中学でもそんな状況ですから、少年スポーツの世界ではいまも「親がやって当たり前」は根強く残っているのだろうなと思います。

 

なんのためのスポーツ指導なのか

中学の部活顧問の言葉は今も頭に残っています。

彼らはなんのためにサッカーをやっているのか、ただ強くなればそれでいいのか。

 

指導者という立場に立つ方の中で、また子を預ける保護者の中で、これを意識している方がどれくらいいらっしゃるだろう、と思ったりするのです。

 

「どこを目指して指導していくのか」

「どんな子どもたちに育って欲しいのか」

 

指導の結果たどり着けるところについて大人としてもっと深く、大切に考える必要があるのかもしれない、と思うのです。

 

今この地点だけを見れば、少しでも強くなるために、少しでも上手くなるために、と誰しも考えがちだし、親もそうなんだろうなぁと思うのです。

 

それそのものが間違っていると言い切れるほど私はものを知っているわけではないのだけれど、息子たちのサッカー部の変容を目の当たりにして「彼らにどこまで手を出してやるべきか」「どんな環境を用意してやるべきか」はよく考えねばならないのだなぁと思ったりもするのです。

 

子どもたちは大人が子どものためと思って与える以上のものを、その場からどんどん学んでいくと思うんですね。

 

お茶を親が当番制で用意することが子どもたちにどんな影響があるのか

「お当番はお母さんが」と促される環境の中で子どもたちが何を学び取るのか

保護者にお世話をしてもらいながら指導する監督に子どもたちは何を思うのか

 

未来に向けて生きている子どもたちに、どんな姿を見せていけばいいのか、学びの場をどんな風に形作ってあげるべきなのか…

 

あぁこれは学校現場や家庭の中でも大事な、大人として責任の重いこと。

我が身を振り返り、そして先生方はどう意識していらっしゃるのだろう…と考えたらちょっと胃が痛くなってきたので今日はこれくらいで。

小学校がしんどくなった三男の、辛さのヒントをくれた宇樹さんの記事のこと。

 

今日は、今朝目に留まったこの記事のこと。

 

抽象理解力と語彙の解離がASDの子どもを苦しめる? - decinormal

 

学校がちょっとしんどい、三男

ツイッターでちょっとだけ呟いたけれど、我が家の小4三男が最近ちょっと学校がしんどい。

少し前から登校を渋ることがちらほらあったんだけど、コロナウイルスの関係で(彼にとってはちょうどよく)長い休校があったおかげでいい感じにインターバルが挟まって気持ちが落ち着いてきたかなぁ…という感じだったのもつかの間。

 

分散登校で少人数の登校が終わり、全体での登校が再開されたところで「やっぱ無理」の白旗が上がったので担任と相談の上、無理せず少しずつ、という感じに切り替えて対応しているところ。

 

目に留まった、宇樹さんの記事

宇樹義子さん@decinormal1 とはツイッターで長く相互の関係にあるライターさんで、彼女の書くものにはいつも法度させられたり、考えるきっかけをもらったり。

 

今回目に留めた記事は彼女が2015年に書いた、少し古いものだけれど、いまの三男のしんどさを紐解くヒントをもらったような気がしたのです。

 

 

白いパンツのエピソードの「子供だからってばかにしてる!」というあの憤慨。

 

別記事になるけれど「お友達」という気持ちの悪い表現への違和感。

 

クラスの男子にうまく説明し切れなかった悔しい気持ち。

 

羊たちを愛でた後に大人が出したジンギスカンが喉を通らなくなるあの感覚。

 

彼女が挙げていたエピソードはどれも私自身が幼少期〜学童期に感じていたものとあまりにもそっくりで、ベッドの中で寝ぼけながら「ここに私がいる」と背筋がぞくっとしたほど。

 

あの頃の私と、うちの子供たち

私も、宇樹さんと同じように「お友達お友達って、いや、友達じゃない人も混じってるやん」とか「なんでたまたま同じクラスになっただけの嫌なやつとも仲良くしろと言われるのか」なんて思っては悶々と考え、不機嫌を隠せない子だったなぁと。

 

大人が書いたものに「ここはおかしい」「こっちで言ってる通りにしたらこっちに書いてあることに矛盾する」と食ってかかっては怪訝な顔をされたことも何度もあった。

 

廊下を走ってはいけません、と言う先生が廊下を走っていたら見過ごせなかった、そんな子供だった。

 

私は今も、そんな大人として生きている。

 

うちの子供たちには「学校などで『お友達』というときは便宜的に言っているだけで必ずしも『お互いに好きあっている中の良い状態』を求められているのではない。周囲の大人が求めているのは表面上うまく付き合っていくことであって、真に仲良くするという意味では言っていない。」と説明をしている。

 

そして、そんな私が育てて、その説明を飲み込んでいる子供たちはやはり私や宇樹さんと同じように程度の差はあれASDらしさを抱えていると考えた方が自然だったのだなぁと今になって改めて思う。

 

うちの子たちは4人とも、小学校中学年くらいで学校がしんどくなった。

しんどさもその内容もそれぞれに違うし、教室の雰囲気も多分に影響していると考えた方が自然だから、一概にしんどさが特性とイコールだとは思わない方がいいと思う。

 

でも、今回の記事と私やうちの子たちの様子を照らしてみると、やはり何かしらの関連はあると考えた方が良さそうだ。

 

抽象理解力と語彙の乖離

記事の中で

中学3年ぐらいになって、徐々に国語で評論文を読むようになった。そこで評論的な表現や学術用語をいろいろ知るようになって、上記のようなことが突然全部言語化できるようになった。目の前にかかっていた靄がパーッと晴れわたって、振り返ると自分の歩いてきた道を初めてはっきりと見ることができた感じだった。

その後、自分が発達障害だと自覚するまでに10年以上かかったが、そうして自覚したあとになって、「ああ、あれが、自分の抽象理解力と語彙が釣り合った瞬間だったのだ」と思い当たった。

と宇樹さんは書かれている。

この、自分の中のモヤモヤとしたものが一気に言語化される経験を私も中学時代にしている。

 

私の場合は父が当時買ってくれたワープロによって手で書くより早く文字として言語化できるようになったことがその要因だと思い込んでいたけれど、もしかしたら彼女が書いているように、私の中でもこの、抽象理解力と語彙がガチッと釣り合う瞬間がそこだったのかもしれない。

 

思えば同じ時期に学校がしんどかった上の子たちも、中学に入るのを境にしたように学校生活がかなりスムーズになり、交友関係のトラブルもぐっと減ってきたように思う。

やはり、何かしらのターニングポイントが彼らの中にもあったのかもしれない。

 

まだまだしんどい三男と、一緒に歩く

三男が、ポツリポツリと学校であったことを話してくれることがある。

 

「(担任の)先生が悪い言葉を使った子に『先生は人権の先生だから、そんな言葉は許しません』って言ってたんだ」

注:うちの地域では各校に1人〜数人程度人権教育担当の教員がいて、全校の指導をしているようです

「でも、それだったら(隣のクラスの)●●先生の前なら言っていいことにならない?でも使ったら悪い言葉だよね?それはおかしいと思ってすごく気になったの」

 

こんな風に、先生の注意する言葉やクラスメイトの発する言葉の中の些細とも思えることに彼はたくさん反応し、心の中にモヤモヤとしたものを溜めている毎日だったんだなぁと胸がぎゅうっとなるのです。

 

三男に

「先生は、自分だからよくて他の先生はいい、って意味じゃなくて『自分は人権の先生だから、自分のクラスの生徒には特に気をつけてほしい』って思ってそう言ってるんだと思うよ」

と伝えると、

「そう言ってくれたらわかるんだけどなぁ」

と困った顔をしながら笑う三男にも、いつか私たちに訪れた日が来ると信じて、ぼちぼち一緒に歩いていこうと思う、そんなよく晴れた初夏の午後。

読書について親になにができるのかを掘り下げて考える

相変わらず適当な更新頻度ですすいません。

 

昨日かな、Twitterで本のある家で育つかどうかみたいな話がいろいろ流れてきてたのでちょっと思うところを描いてみようと思い至りました。

 

話題の発端がどの辺りなのかもう追いかけるのも難しいんですが、今日書こうと思ったのはこれについて。

 

 

 

 

「本のある家庭の子は学力が高い」という説に対する疑問

TLを流れていく中に、海外の統計結果だかで「本が〜冊以上ある家庭で育つと学力等高い子になる」というものもありました。

一見なるほどと思うような話ではありますが、これ、「朝食をとる子は成績が良くなりやすい」というのと似たような話の可能性もあるな、とは思うんですよね。

 

「朝食をとる子」と「成績が良い」の相関関係が直接あるというよりも、「毎日朝食を用意して子供に食べさせるだけの母体がある家庭で育てられる子」と成績の相関関係を考えた方が良いのではないかという、あれです。

 

「本がたくさんある家庭で育つ」という状況についても、

  • その親のそもそもの学力が高い(遺伝的要素)
  • たくさんの本を買い揃えられ、かつ置いておける家に住むことができる(経済力がある)

など本の冊数の話ではない背景が考えられます。

 

つまり「本をたくさん与えれば学力の高い子になる」という直接の関係性で語るのはかなり危ういのではないか、というのがまず大前提。

 

その上での今回の本題。

 

「本に興味を示さない子は親が読み聞かせをしたりしてないから」

このような発言、学校現場や子供に関する場面で見聞きしたことのある方、多いかもしれません。

私自身も読み聞かせで教室に入っていて、図書担当の先生やボランティア仲間が話しているのを聞いたことが何度かあります。

 

小学校に入ると図書の時間、というのがあり、子どもたちはそこで学校図書館の本に出会います。

また、私がやっているような読み聞かせボランティアが定期的に入って教室で絵本を読んだり本を紹介する取り組みがあったりもします。

 

そんな授業や活動の中で、本に興味を示す子もいれば、逆に全く興味を示さない子というのも一定数います。スルーするだけならまだ問題にはならないのかもしれませんが、相手はこないだまで園児だったおチビさんたちですから、興味がないけれどそこでおとなしくしてるというわけでもなく。

 

騒がしくしたり、ふざけたり、静かにしてる子の邪魔をしたり、なんてことも日常茶飯事です。

 

問題行動があれば大人はそれを正そうとしますし、なんでそうなのかを自分なりに考えようともしますよね。

 

ここで浮かぶのが、子どもに本を読み聞かせして育てている保護者と本好き&好成績のお子さん、という親子の存在だったりします。

学校関係者や読書ボランティアをやっている方の周りには大抵、これに当てはまる親子が実際にいるんですよね。

 

だから、その逆も想起してしまいやすいんだろうなと思うんです。

 あぁ小さい頃から読み聞かせをして育ててなかったんだろうな、って。

 

我が家の4人と本の関係

ここで我が家の話をしましょう。

私が本好きなのもあって我が家には所狭しと本棚が埋まっており、夫と私がそれぞれ実家から持ってきたり買ったりした本や漫画が詰まっています。

読み聞かせボランティアの活動を始めてからは図書館に通う頻度も増え、子どもたちがついてきてそれぞれ借りたりすることも良くありました。

 

高1から小4まで4人の子たちがいるのですが、どの子に対しても本を読めと求めたことはほぼなく、置いとくし欲しい本があれば買うし、読みたければ読めば、というスタンスです。

 

似たようなスタンスで育ててきた4人ですが、本に対する関わり方は見事に4者4様です。

学校の図書室にこもって本を読み漁る子もいれば、まったく読まない子、気が向いた時だけ没頭して読む子、自分で読むのは嫌いだけど読んでもらうのは大好きな子。

 

そんなバラバラの4人を見ていると

「読み聞かせする」→「本に興味を持つ子になる」「学力が上がる」

という相関関係に関してはう〜〜んと首を傾げたくなったりするのです。

どれだけ読み聞かせをしようと親が本を読んでいようと、我が家には国語の成績がいい子もずば抜けて悪い子もいるんですよねえ…

 

結論、やっぱり個人差

4人の子たちを見てて、読書を好きになるかどうかとか、本を読めるかどうか、文字を追うのが得意かどうか、ってやっぱり個人差が大きいよなぁと思うんですよね。

 

私と同じように息をするように文字を追うことができる子もいれば、逆にそれがとても苦手な子もいます。

うちの4人でもこうなんだから、学校のクラスとなればもっと多様だろうなと思うのです。

 

うちで一番文字を読むのが苦手なのは三男なのですが、彼は小さい頃から絵本を読んでもらうのは大好き。気に入った同じ本を何度も読んでとせがまれました。

 

他の子たちが自分で読み始めていた時期にも読んで欲しいと持ってくるので「甘えたいのかな?」と思っていたんですが、入学と同時に音読の宿題が出てわかりました。文字を追うのにすごく時間がかかって嫌がったんです。

 

あぁ、なるほどと思い軽度のディスレクシアを疑いながら様子を見てきました。

少し前に念のため専門のアセスメントもとってもらいましたが支援を必要とする程度ではないけれど読むのは苦手だろうと言われているので無理をさせず家庭でサポートしている状態です。

 

三男程度の軽い状態で、かつ家庭でものすごく意識して育てていても、音読に難ありで、学年相当の児童書は滅多に読みません。

ディスレクシアや他の傾向が重なって読書を敬遠する子はたくさんいるんじゃないかなぁと思うと、読み聞かせの時に本に興味を持たない子たちに対しても色々と思うところも出てきたりします。

 

三男はどちらかというと文字より絵や耳から入る情報の方がしっくりくるタイプのようです。

読むのは嫌いだけど読んでもらうのが好き、という小さい頃の様子を思い、なるほど納得という感じです。

 

どんなに大人が頑張って環境を整えて働きかけたとしても、子どもが本を好きになるかも、興味を持つかも、そもそも本が読めるかどうかも、その子次第なんですよね。

障害として大きくわかるようなものでなくても、特性として軽度の困難が隠れている子もいるし、興味の矛先も熱量も子どもによって様々に違う。

それぞれ違う子どもたちに、同じように働きかけて同じようになれ、なんて無謀だよなぁ、と諦めにも似たことをよく考えたりします…

 

読書について親にできることと、できないこと

お母さんとして子どもたちと接していて日々痛感するのは、親にできることってそう多くないんじゃないかということ。このブログでもこれまで似たような話の中で何度も書いてきたことがあると思います。

 

読書に関しても、なるべくたくさん読んで欲しいとか、本を好きになって欲しいとか、親として色々と思い入れがつい出てしまうところではあります。

 

でも、実際に子どもと面と向かって見てどこまでできるかと考えたとき

 

  1. きっかけを作ること
  2. 環境を整えておくこと
  3. 嫌いにならないよう無理強いしないこと

 

この3つしかないのかもしれないなぁと思うのです。

 

本に出会うきっかけを作ることと、その結果興味を持った子が本と付き合っていける心地よい環境を整えること。そして、無理に読ませて本を嫌いにならないように自制すること。

それ以上は結局できないんだろうなぁと。

 

こちらが用意したきっかけで本に親しんで、その後整えた環境で読書好きになる子もいると思います。

娘がまさにそれで、国語も得意ですね。

私が図書館や本屋に行くと言えばついてきて、本棚を楽しそうに眺めてあれこれ欲しがっては積み上げて読んでます。

 

私と娘の関係を見ていたら、親がうまくやれば本好きになる、学力も上がる、という相関関係が成り立っているように見えると思います。

 

 読書好きと自認するほど本を読んでいるのは、4人いるうちのたった1人です。

ほかの3人が失敗だったとかじゃないと思うんですよ。

たまたまそこまでハマらなかった、ってだけなんだろうと思います。

 

逆に、どんなにハマる素養を持ってる子でも本に出会うきっかけがなければ娘のような本好きにはならないかもしれませんから、親の影響が全くないとは言えないですよね。

 

私と娘と、たまたまマッチングがうまくいっただけなんですよね。

 

余談ですが、認知特性のこと

相変わらずダラダラと長く書いてしまいましたが、最後に認知特性のことに触れて終わろうと思います。

 

私のブログでも何度か認知特性やそのテストについて書いたことがありました。

 

多読な傾向のある人は言語優位な方が多いんじゃないかなぁ(私もそうです)

文字を読むことに困難を感じず、むしろ置いてある調味料の瓶の原材料欄とかトイレの芳香剤の裏の注意書きとかを読んでしまうような度のすぎた方もいらっしゃるかと思います(私もそうですww)

 

学校の先生には言語の2タイプが高く出るタイプの方が多いのではという話を聞いたことがあります(特に辞書タイプ)。

漢字を覚えるのに何度も書いて覚えるのが得意な種類の脳を持つタイプです。

 (だから学校の宿題は…という話をしたくなりますがそれはおいときましょう)

 

三男は言語の部分がやや弱く、聴覚や視覚の方が高く出ていて、あぁなるほどという感じです(自己採点なのであくまでも目安ですが)。

 

このテストと読書の関係がはっきりしているわけではありませんが、脳のタイプが色々とあることを知るだけでも「働きかければみんなそうなる」とは簡単に言えないことが見えてくるんじゃないかなと思います。

 

おわりに

文字を扱うことを得意とする学校の先生や本好きが集まる読み聞かせボランティアの人たちの輪の中では、文字を苦もなく読み、本に楽しみを見出しやすい方の方が多数派になりやすいんだろうなと思います。

ツイッターでもそうですね。140字で自分の今を綴ることを難なくこなす人たちの集まりですから、文字に対する苦手さがある人の方がマイノリティ。

文字を追うのが苦手ならタイムラインを眺めるだけでも苦痛でしょうから。

 

多数派としてそこにいると、どうしてもそうでない人たちがいることを見逃しがちになるんじゃないかなぁと思うのです。

 

でも、いろんな感じ方をして、いろんな記憶の仕方をして、いろんな趣味趣向を持つ人がいる。

どんな働きかけをしたとしても、結局はその生まれ持った特性やその人そのもののあり方には親であっても教員であっても変えることはできないんだろうなと思います。

 

それを踏まえた上で、じゃあどう接していこうか、ってことを考える必要があるんだろうなというところで、迷走を繰り返して4000字を超えてしまった今日のエントリを閉めようと思います。ではまた〜。

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