スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

障害者割引の歴史や現状の課題について調べました。

スズコです。今年もよろしくお願いいたします。

相変わらず適当な更新ですが今年もよろしくお付き合いくださいませ。

 

さて、新年最初になった今回は数日前からTwitterで話題に上っている「障害者手帳による割引」についてまとめてみようかと思います。

件の内容について議論したり是非を問うたりする意図ではありません。

このブログにも何度も登場している次男、間近に迫っている自立の日を前に働き方を考えるにあたって手帳を取得する方が良いかどうかも合わせて考えていくことになる予定です。今回話題になっている中で、手帳に関して自分の知識も足りてないなぁと思ったため、調べて書き残しておきたくなったのです。

 

私の備忘録という形になりますし、なにせ慌ただしい中で調べたこと。

本来なら文献を丁寧にあたりたいところですが、オンラインで得られる資料からの引用が主になります。

引用元の正確性までは確認が取れておりませんので、もし誤りがあった場合はご指摘いただけたら助かります。

 

 

障害者手帳とは

まず、障害者手帳とは何か」を確認しましょう。

 

障害者手帳は、身体障害者手帳療育手帳精神障害者保健福祉手帳の3種の手帳を総称した一般的な呼称です。
制度の根拠となる法律等はそれぞれ異なりますが、いずれの手帳をお持ちの場合でも、障害者総合支援法の対象となり、様々な支援策が講じられています。
また、自治体や事業者が独自に提供するサービスを受けられることもあります。

障害者手帳について|厚生労働省

 

それぞれの手帳の根拠となる法律や障害の分類などは上記リンクの厚生労働省のサイトをご確認ください。

 

今回まとめようとしているいわゆる「障害者割引」は、上記引用の中で触れられている、障害者手帳保持者に対する「自治体や事業者が独自に提供するサービス」のことになります。

 

障害者割引の歴史

障害者割引はどのような経緯で導入されていったものなのかを確認するために、その歴史を紐解いてみます。

 

障害者割引の歴史についてはこちらに掲載がありました。

mirairo-id.jp

日本の本格的な障害者施策は、戦後から始まりました。
当時、主な対象となったのは傷痍軍人※。

傷痍軍人(しょういぐんじん)…戦争や公務によって負傷した軍人のこと。

そこから、1949年に身体障害者福祉法、1950年に精神衛生法(のちの精神保健福祉法)、1960年に精神薄弱者福祉法(のちの知的障害者福祉法)などが制定されました。

(中略)

そして、身体障害者福祉法の制定と同時期に国有鉄道運賃法が改正され、傷痍軍人だけでなく、一般の障害者も対象とした割引が始まりました。

 

上記リンク先に掲載されていた調査資料「公共交通における障害者・高齢者運賃割引制度 ―日英の取組―(高峯 康世)」(https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10310079_po_20170209.pdf?contentNo=1)によると障害者割引制度のスタートは国鉄による、国主導のもののようです。

 

【鉄道】

昭和24(1949)年の身体障害者手帳の交付に伴い、同法の附則によって国有鉄道運賃法(昭和23年法律第 122号)が改正。介護者を必要とする身体障害者が乗車する際に両者の運賃を半額とする旨の規定が追加。

 

昭和27(1952)年に国鉄は「身体障害者旅客運賃規定」を制定し、障害の等級による区分を設け、100km を超える場合の単独乗車の割引を認めるなどの変更。

 

国鉄分割民営化後の平成3(1991)年には知的障害者療育手帳・愛の手帳保持者)が割引対象に加えられていますが、この背景には親の会による働きかけが強くあったようです。

育成会は運動を続けています - oyanokai-tanashi ページ!

 

 

【路線バス】

昭和27(1952)年、身体障害者及び同乗することが必要な介護者の運賃を半額とすることが規定。

平成3(1991)年に知的障害者が、平成24(2012)年に精神障害者が対象に加えられています。

 

【タクシー】

平成13年に、身体障害者知的障害者について、運賃の 1 割を割り引く旨が規定されています。

精神障害者は、被爆者・戦傷病者とともに「事業者の申請に基づき個別に設定するものとし、割引率は 1 割とする」とされ、身体障害者知的障害者と違い、任意の扱いとなっています。

 

【航空】

国内線航空における障害者の割引制度は、身体障害者を対象として昭和55(1980)年に設けられ、 知的障害者は、鉄道などと同時期である平成3(1991)年に割引の対象に。

 
 
その他事業者の変遷はオンライン上では年代などを確認することができませんでしたが、これら公共交通機関の取り組みの流れを汲む形でさまざまな事業者が障害者に対する割引制度を拡充させながら今に至っていると考えられます。
 
 

さまざまな障害者割引制度

 
障害者割引制度を取りまとめたサイトは検索するとたくさん出てきますが、ここではリタリコさんのサイトをご紹介します。

 

snabi.jp

各事業者の割引制度の詳細については、上記のサイトに詳しく書かれています。

前章で歴史を紐解いた交通事業者だけでなく、美術館や博物館などの公共施設、ホテルなどの民間施設、映画鑑賞やNHKの受信料など、さまざまな事業者が障害者割引の制度を取り入れていることがわかります。

 

 

そもそも障害者割引とはどんな仕組み?

 
リタリコさんのサイトの中では障害者割引について以下のように記されています。
障害者割引とは
 
障害のある人が暮らしていく上で受けられるさまざまな割引のことを「障害者割引」と呼んでいます。障害のある人の経済的負担を軽減することにより、社会参加を支援する仕組みです。
 
 
障害者割引は何のためにある?
 
障害者割引は、障害のある人の暮らしを支えるためのサービスです。障害のある人の場合、通常より生活や移動するコストがかかることがあります。
 
例えば車で移動しなくてはいけなかったり、介助者が必要だったり、そのことで外出やレジャーなどの社会参加へのハードルが高くなってしまうことがあります。割引制度はそのハードルを下げ、障害者の自立と社会活動への参加を支援するために設けられています。

 

元々国鉄という国営企業で国策として始まったものだけに公金による制度と勘違いされやすい仕組みなのではないかなと思うのですが、その後の変遷から制度の担い手は「各事業者」であり、またその広がりには「親の会」などの当事者の声が大きく影響を与えているのがわかります。

 

リンク先も含めてここまで読んできて気づいた方もおられるかもしれませんが、ここまで紹介してきた中で「割引を受けられる障害者」の中に「精神障害者」が含まれている割合は非常に低くなっています。

 

この課題に関して日本弁護士会が昨年6月に意見書を出しています。

www.nichibenren.or.jp

この中で各種障害者割引の中に精神障害者が含まれないことについて「国は各事業者に精神障害者も加えるよう理解と協力を求めてはいるけれど事業者は消極的」であること、また「割引制度に対する国の補助金等の制度は存在せず」法的拘束力を持たない通知によって、事業者に対し、理解と協力を要請したり、通知の発出によって事業者が導入した割引制度を周知したりする等の支援にとどまっている」と指摘されています。

 

障害者割引制度を支える事業者負担

上記の意見書だけでなく今回調べたさまざまなサイトや文書の中でも、精神障害者の経済的困窮、他の障害者手帳保持者との格差是正を求める声などは多くあるようでした。
 
ただ、事業者としても制度の拡充による事業者の負担が増えてしまうことはひいては正規の料金を支払う利用者の負担を増やすことにもなりかねないため、拡充に慎重な姿勢を見せている様子が窺えます。
 
事業者の負担についてはTwitterなどでも定期的に「タクシーの障害者割引は運転手負担なのでは?」という声などが上がります。
 

こちらのまとめサイトでも色々な声がありますが、ドライバーの負担ではない事業者もあるものの「事業者の負担」であることは間違いない話です。

個人タクシーであれば事業者=乗務員なのでドライバー負担ということになりますし、タクシー会社の雇用形態には固定給ではなく歩合制(売上に応じて賃金が支払われる仕組み)のところも多いため、障害者割引を適用させた売上しか計上されない場合はドライバーの負担も発生するということになります。

 

まとめサイトでは「だから乗車拒否をするタクシーがあるのだ」と糾弾する声もありますし、乗車拒否は擁護されることではありませんが、そもそもの仕組みの成り立ちなど歴史的変遷から紐解いていくと「国が割引の権利を保障しているような種類の仕組みではない」ということ、また「障害者を支援しようという事業者(現場で働く人を含む)と適正な料金を支払う利用者の善意のもとで成り立っている仕組みなのでは」と感じます。

(そういう意味ではタクシードライバー自身にも「仕組みを成り立たせている立役者の一人である」という自覚も必要なのでは、とも思います。)

 

ちなみに、各事業者にどのくらいの負担が生じているのかについての記載を一つ見つけたので紹介しておきます。

なお、この障害者割引制度は、市町村が費用を負担する福祉タクシー券等による割引とは異なり、タクシー事業者の負担による公共的割引である。任意で集計を行っている東北5県 (山形県を除く。)のタクシー協会(以下「協会」という。ハイヤー協会を含む。以下同じ。) 加盟事業者における割引負担額は、平成29年度で約28千万円となっている。総務省|東北管区行政評価局|行政相談を契機とした「タクシーの障害者割引適用時の適正対応に関する調査」の結果に基づく公表について より)

 

決して少ない額ではない事業者の負担があるこの障害者割引の仕組みに関して、弁護士会の意見書の中でも「国からの補助金等の制度」が強く求められています。

 

国からの協力依頼はあっても、その仕組みを支えているのはあくまでも各事業者です。そして、その各事業者のサービスの運用を支えているのは労働者や事業者に料金を支払っている利用者であるのが現状だということはおさえておかないといけないのかなと思います。

 

 

おわりに

ここまで書いてきて「障害者は制度を利用させていただいているのだから申し訳なさそうにしろ」という話に感じる方もおられるかもしれませんが、そういう話にはしたくないな、と思います。
健常者に比べて賃金の低さや生活の困難などさまざまな社会的障壁がある障害者の方に対するサポートの仕組みは公的なものも民間のものも様々にあります。
 
障害者がより外出しやすくなるような社会的な支援の一つの形が「事業者による障害者割引という制度」であり、その事業者の善意によって提供されたサービスによる利益を享受することには何ら問題はないと思います。
 
ただ、ここまで述べてきたようにその仕組みは公金の援助のない事業者による金銭的な負担の大きいものであり、当事者のニーズの声に応じる形で事業者が善意のもとで提供し続けてきてくれているもの。
 
ニーズが増え、不景気や物価高が続く中で、何の苦もなく続けられているサービスではないのだ、ということもまた、頭の片隅には置いておかないといけないのかもしれない、とも思います。
 
手帳を保持していない私や私の家族にとっては無関係のような気がしていたこの制度でしたが、今回調べていく中で私たちも色々な形でこの仕組みを支えるパーツの中の一つなんだなぁということも見えてきました。
 
事業者の善意とサービスを支える利用者の力という薄い薄い氷の上に成り立っているのが各種障害者割引制度であり、様々な背景から維持存続の難易度は上がっていると考えた方が自然なのだろうと思います。
前述の弁護士会の意見書でも、国による補助金等の制度を創設するよう強く求められています。それほどギリギリの状態を事業者が善意で維持してくれているのが現在の障害者割引制度なのかもしれません。
法的な縛りのない仕組みのため、事業者が「存続は無理」と判断したらいつ潰えてもおかしくないとも言えます。(悪用を理由にディズニーランドで障害者のためのサービスが停止されたという話も過去にありましたね…)
 
一人一人の乗車料金や入館料は、全体からしたら些細なものに思えるかもしれません。
でも、多くの健常者が満額のそれら料金を支払い、また障害者自身も料金の一部を負担し、その小さな力が集まって、障害のあるたくさんの方の利益となる制度を維持存続させることができている、それが事業者による障害者割引の仕組みです。
 
我が家の次男が自立にあたって障害者手帳を取得することになるかどうかはまだわかりません。(支援者さん達と相談して決めることにしています)
しかし、もし取得することになるにしろ、取得しないにしろ、社会の一員として生きていく彼や他の子達とも一緒に、この仕組みの経緯や現状について学んでいく必要があるんだろうな、と感じています。

入学前におさえておきたい、学校とその周辺組織のアレコレ。

相変わらず気分で書いたり書かなかったりするブログです、こんにちは。

 

今日ふと書こうかなと思ったのは、学校関係のツイートを見かけたから。

(参考までに貼っとくのだけど、これに関する掘り下げ、という話ではありませんのであしからず)

 

元ツイートや自分のツイートに対する反応を色々と眺めながら

「あぁ、小学校に上がる時の保護者側のアップデートってあまり意識されにくいものなのかもしれないな」と思ったんですよね。

 

保育園と学校の違い、学校と学童保育の違い等々、似たようだけど全然違うそれらのこと、進学の際に把握としくといいことをまとめておいてもいいのかな、と思ったり。

 

「一緒に育てる」保育園から「教育を受けさせる」学校へ

保育園(子ども園)から学校への環境の変化の最たるものは、これだろうな、とTwitterで色々な声を見ていて、よく感じます。

 

保育士さんが保護者とある意味一体となって「子育て」を助けてくれていたのが「保育園」。管轄は厚生労働省であり、福祉の範疇に入ります。

 

かたや公立の小学校の管轄は文部科学省です。

保育のためではなく、子供たちの「教育を受ける権利(日本国憲法第26条の学習権)」を保障するために大人に教育を受けさせる義務があり、そのために通わせる施設が小学校です。

 

未就学時は「子育ての仲間」であった先生という存在は、小学校では「保護者と連携しながら児童へ文部科学省の学習指導要領に沿った学校教育を行う」存在となります。

 

保育園の先生方が想定してくれていたような(保育に欠ける)家庭のあり方を小学校は当たり前の前提とはしていません。

もちろん、各学校で異なる家庭の傾向などについてはある程度の把握はあるかもしれませんが、最初から個別の家庭状況に配慮することは前提になっていないと思っておいた方が良いと思います。

 

福祉と教育という組織の目的がまず違う、管轄する省庁も違うということは一番大事な大前提として把握しておく必要があろうかと思います。

 

多様な家庭がある、ということ

公立の小学校に臨むにあたって、もうひとつ絶対に忘れてはいけないことがあります。

それが「家庭のあり方が恐ろしく多様な可能性がある」ということです。

 

保育園では園にもよるとは思いますが、家庭の内情に食い込むほどの付き合いに至る必要はそうないかもしれませんし、「両親共働き」という前提で通園している家庭が多いと思っていてもさほど影響はなかったかもしれません。

同じ園に集まっている保護者の傾向が似通う可能性も高いと思います。

 

これが、公立の小学校となると状況は一変します。

両親が揃っていない家庭も結構な割合でありますし、祖父母や親戚が養育する家庭、里親や施設から通学する子たちもいます。

また、両親が揃っていたとしても経済状況や家庭のあり方、価値観、金銭感覚などは本当に多様です。

 

例えば、夜寝る前の絵本の読み聞かせの時間を当たり前にとってきた家庭もあれば、家に本など1冊もなく手に取ったこともない、という子もいます。

小さい頃から歯医者で定期点検を欠かしたことのない子と、歯医者になど行ったこともない子が同じ教室で机を並べたりすることもあり得る。

 

自分の家で当たり前だと思って子供たちに施してきたことが全然当たり前じゃない、逆に自分の家でやったこともないことを「常識だよね」とやっている家庭もあったりする。その、恐ろしいほどの家庭環境の違いが表面的にはすごく分かりづらい形になっているのが、公立の小学校だと思います。

(もちろんその差が明るみに出にくいことは子供にとってのメリットでもあるわけですが)

 

大抵の方が謙遜の気持ちもありつつ「自分の家庭が普通(もしくは普通以下くらい)」と考えやすいのですが、自分が想像もつかない、これまでに接したことのない生活水準のご家庭で育った子たちも公立小学校にはいる可能性が高いです。

逆に、とんでもない金持ちが「小学校くらい公立で」と通わせているケースもあります。

 

また、様々な宗教や生活の規範となる特定の思想などがベースにあるご家庭もあります。

 

自分の家庭が標準、とは絶対に思わず、いろんなご家庭があるのだ、という前提で臨まれた方が色々とスムーズだと思います。

 

学校と学童保育の違いとその種類

保育園からの入学の場合、下校時間の早い低学年のうちは学童保育の利用をされるご家庭も多くなるのではないかと思います。

 

学童と称されることが多いですが、法的には「放課後児童クラブ」と呼ばれます。(障害のある子が通う「放課後等デイサービス」とは別物です)

 

放課後児童クラブは大まかに分けて3種類あります。

  • 公設公営(自治体が設置し、自治体が運営する)
  • 公設民営(自治体が設置し、民間団体が運営する)
  • 民設民営(民間団体が設置し、民間団体運営する)

 

民間学童の場合は学校と別組織であることがわかりやすいのですが、上の2つに関しては学校の敷地内に設置されているケースも多く、学校と同じ組織であると勘違いされやすい傾向があるかと思います。

 

公設の放課後児童クラブは校舎や体育館の一部を借り上げる形や学校敷地内別棟などで運営されていることが多いですが、学校とは別組織であり、多くは自治体の福祉部門が管轄していることが多く、役所の保育園を管轄する部署が兼務しているケースも多いのではないかと思います。

 

学校とは全く別の組織になりますので、問い合わせや申込みの窓口も違います。

それぞれの先生同士でやりとりをすることもあまりないと思っておいたほうが良いと思います。むしろ勝手に個人情報をやり取りするという問題になる可能性を考えると保護者の同意なく児童のことについてやりとりをすることは控えるべきとされる方向だと思われます。

 

学童の先生と呼ばれる方々は放課後児童支援員、有資格者でない方は補助員と呼ばれます。教員免許や社会福祉士、有資格者とは保育士など特定の資格を持っていたり、支援員としての研修を受けたりした方々です。(2015年の子ども子育て支援制度で規定され、5年の移行期間を経て2020年より有資格者の配置数などの制度が義務化されています。)

 

民間ではいろいろな特色を打ち出しているところもあるかもしれませんが、主な目的は保護者が迎えに来るまでの時間の安全に配慮した見守りになります。

宿題をさせるところもありますが、あくまでも本人の意志に任せる前提で、強制したり細かく教えたりすることは業務の中には入っていないと考えたほうが無難だと思います。

 

学校の入学説明会の中で学童からのお知らせの枠があったりすることもあるため、同じ組織のように勘違いされやすい側面があるかと思いますが、保育園と学校の関係と同じように【管轄も目的もちがう別組織】だということはおさえておいたほうが良いかと思います。

 

学校とPTA

学童と同じように学校組織と混同されやすい組織として、PTAがあります。

学校によっては今もかなり境目がわかりにくいところもあるようではありますが、基本的には学校とPTAは全くの別組織です。

 

PTAのTはTeacher(教師)なので、もちろんキッチリ切り離されているわけではありません。先生方が各校のPTAに入るかどうかに関しては仕組みの上では任意であるとは思います。(もちろん忖度がそこに存在する可能性は否めないのが現実だとは思いますが、それは保護者である我々には介入のしようのないことなのでここではおいておきます)

ちなみにうちの子たちの小学校では先生方は全入ではなさそうではありました。

 

学校によっては管理職の先生がPTAの事務的なことをやったり、PTAが雇用する事務員さんが職員室に机を置いて在籍したりしているケースもあります。

この辺も傍から見たら同じ組織の中と見えやすい要因だと思います。

 

また、お便りの形式が似通っていたり、子供がまとめて持ち帰ったりするため、PTAからのものと学校からのものとが区別しづらくなっていたりすることもあるかもしれません。

 

公的なお便りにはたいてい、右肩に発行した責任者の組織や役職、氏名が入っていると思うので、受け取った際はそれらを確認してどこからのお知らせなのか把握した上で対応すると良いかと思います。

 

おまけ、学校との対応で困ったら。

ここまで色々と組織のことを書いてきました。

入学を前に、いろんな不安がきっとあるだろうなと思うのだけど、そういえば3年前にそんな記事を書いていたので貼っておくね。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

↑の記事にも詳しく書いていることだけど、本当に困っていることをきちんとお話しして邪険に扱われることはほぼないなぁと経験上思います。

長男が入学してから丸12年経ちますが、ほとんどの先生方は皆さん一生懸命に子供たちにとって必要なこと、大切なことを一緒に考え、対応してくださっています。

 

ネット上にはいろんなこと(急にラップの芯もってこいって言われるとかからいじめのことやらなんやら)が渦巻いているし、私も学校の先生の心無いように思える対応に泣いたり、怒ったりしたこともないわけじゃないんだけど、でも、本当に大抵のことはちゃんと話せばどうにでもなる。

 

言わなくてもわかるだろうとか、ちょっと考えたらわかるでしょとかが一番危ないのね。それは、これまで書いてきたように「いろんな家庭がある」のも要因の一つだと思うし、先生方がとてもとてもお忙しいのも、理由としてあると思う。

 

こちらが対話の姿勢をしっかりと持てばうまく進むことも、こちらが感情的に踏み込んでしまえばうまくいかなくなったりもする。

 

「一緒に育てて」くれていた保育園から、「子どもを真ん中にして対等に支え合う」学校へ。

違う場所へ進んでいく子どもたちをフォローしていくために、保護者としてできるだけの情報をバックボーンにして漕ぎ出していく必要があるのかな、と考えたりしています。

 

余談ですが、先日「小1の壁」のことも書いてたのでそれ、置いとくね。

入学を前に「いざという時に動ける働き方」についてお家で話すの、大事。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

「みんな頑張ってるのに、ズルい」って言われる心配について子と話したこと。

相変わらず不定期な更新です、ごめんなさい。

 

今回は、ちょっと前に子供と話した「ズルいって言われないか心配」というお話のこと。

「ズルい」と言う子たちのお話については前にも書いたことがあったな〜と思ったら、7年も前のことでした。

suminotiger.hatenadiary.jp

 

 

不安定な教室と、五月雨登校

寒さと共に1年の終わりが少しずつ近づいてきた頃のこと、少し落ち着いているように見えていた子の教室の様子がまたちょっと心配な感じになってきました。

 

秋口くらいから交友関係のトラブルが見え隠れしていたので気にして様子を見ていたのですが、うちの子や他の保護者、他学年の子たちの話、参観で見た印象などを総合するにどうも担任の先生とクラスの子たちがあまりうまくいっていないようです。

 

過敏なうちの子は案の定誰よりも早く持ち崩す片鱗を見せていました。

介入しないと無理をしすぎてバーンアウトしてしまうタイプの子なので、本人とも話し合った上で学期末までの登校は無理のないペースで自分なりに調整しながらにしよう、ということになりました。

 

具体的に言うと、前日のうちに次の日の登校をどうするか(お休み・〜時間目から・〜時間目まで、等々)を話して決めておこう、という感じです。

 

教室にいる時間に自分なりに頑張って過ごすことを前提に、どのペースならそれが叶うかを無理のない範囲で考えながら調整する練習。担任の先生にも当たり障りのないような形で事情をお話しし、同意を得ての調整です。

 

「ズルいって言われてると思う」

調整しながらの登校を始めて1週間くらい経った頃でしょうか。

遅刻しての登校にした日、学校へ向かう車内で子がポツリと「ズルいって言われてるんだろうな」と漏らしました。

 

どしたの?と聞くと、彼と同じようにポツポツと登校している同級生の名前が出てきました。

クラスの子たちが教室でその子の名前を挙げて「自分たちは頑張って登校してるのに、〜はズルい」って話している、と。きっと自分がいない時には自分も同じように言われているんだろうなって思う、と話してくれました。

 

「ズルい」って言っちゃう子たちの心の中のこと

私の脳裏に浮かんだのは、7年前に書いたブログと同じことでした。

「ズルい」って言っちゃう子たち、きっとすごく頑張って登校してるんだろうな、ということ。

 

うちの子や名前の上がった子のような方向を選ぶことは選択肢になく、嫌々ながら毎日学校に足を運んでいる子たち。

その頑張りを誰かに認めれることはもしかしたらあまりないのかもしれない子たち。

 

ただ、そんな彼らのことを理解せよと我が子に話しても仕方ないなぁと思って、ちょっと違う方向からのお話をすることにしました。

 

「教室、しんどいよね?」というお話し

そういう悪口みたいなのを言っちゃうのがいいか悪いか、というのはとりあえず置いといてね、と前置きをして。

 

「そういう発言が出てくるってことはさ、そもそもみんなにとっての教室があまり居心地良くないってこと、ない?」

と問いかけたら神妙な顔。

 

「君がこれまで学校に通っている間を思い出してほしいんだけどね、朝起きて朝ごはん食べてみんなと登校して学校で授業受けて…って放課後までなんの引っかかりもなく過ごしてた期間、なかった?」

「ある」

「じゃあその間、たとえば欠席の子がいたり遅刻してきた子がいたりしたとして、ズルいなぁって気になったと思う?」

「うーん、ならないかも」

 

「あ、ちょっとわかったかも」

と話し始めたのは、習い事の話でした。

 

子が通ってるサッカーの習い事、色々あっていまは2つ行ってるんですが、一つは大好き(Aとします)、もう一つはちょっと面倒だけど辞めずに頑張って通ってるもの(Bとします)。

 

「Aの練習時間のとき、遅れてきた子がいたら『遅れちゃって残念だったね〜』って思うけど、Bの練習のときは遅れてきた子に対して『あいつサボっててズルいな』って気持ちになるかも、そういうことだよね?」

 

そうそうそういう感じ、と話しながら、君や別の子たちに対して「ズルい」って気持ちが湧いてるってことは、今の教室はみんなにとって楽しく通える場所ではなくなっているんだろうなと思うよ〜と話したところで学校に到着しました。

 

話さなかった、もう一つのこと

子には話さなかったけど、多分彼らの中の「ズルい」にはもう一つの要素があるんだろうな、とは思います。

それは「自分と他人の境界線」がまだ緩い、ということ。

 

たとえば大人が何かの講習に通うとして、そこに遅刻してくる人や欠席する人がいたとしても「その人はその人」「自分は自分」という切り分けができていれば気になりにくいものだと思うんですね。

 

小学校より中学校、中学より高校、成長していくにつれ、子どもたちは周りの同級生との間の距離がより上手に取れるようになっていって、不登校や五月雨登校の子たちともそれなりに折り合いをつけて付き合えるようになっていく傾向があるように感じます。

 

それなりの事情がそれぞれにあることを知識として知っていくのも、距離を保つことができるひとつの要素なのだろうなと思います。

 

まだ幼い子どもたちにとっては、相手との距離が近すぎるくらい近い。

自分と相手との間の境目がはっきりしない子どもたちにとっては、自分に課された負荷を同等に課されていないように見えることを切り分けて考えるのはなかなかに難しいことなんだろうなと思います。

 

おわりに

自分と他人との境目の話、これ、年齢の話にしましたが、大人でも自分が追い詰められたら簡単にこの視野の狭さ、相手との距離の近さに陥りやすいなぁと経験上感じています。

育児で髪を振り乱してた頃なんかその最たるものだったなぁと…

その頃のことはこのブログでもよく書いてきたよね。

 

大人としての理性、適切な相手との距離感、自分と他人との境界線を超えないように人と付き合っていくスキル…

どれも「持っているだけ」じゃなくて「それを活かすための余裕」がないと簡単に子どもたちの群れと同じような幼さが顔を出してしまうんだろうな、と思ったりしています。

 

今年のうちにもう1エントリくらい書けるかしら、書かないかしら。

書きたくなったら、また書くかもです。

「小1の壁」フルタイム共働きに対応した学校にはなっていかないと思う、という保護者の働き方の話(ツイートまとめ)

スズコですこんにちは。

 

昨日、なんとなく書いた「小1の壁」関連のツイートが思いのほか伸びたので備忘録的にこちらに転記しておこうかなと思います。

当該のツイートはこちらです。

(おおむね、昨日の連ツイをまとめて加筆修正するような内容になります)

https://twitter.com/suminotiger/status/1594543753590558720?s=20&t=QMlIPfCBKwywo2XUgn85zA

 

 

発端となった恒例のツイートの話

まず、私がこのツイートをしたのは(直前にRTしていたと思うんですが)毎年この時期になると同じようなツイートが流れてくるなぁということからですね。

 

当該のツイートへのリンクは貼りませんが、内容としては

「入学に関する学校からの招集が平日の昼間ばかりなのはフルタイム共働きが対応できなくて困る」

という主旨のもの。入学前保護者説明会のお知らせがで始めるこの時期時毎年流れてくるこのお知らせ。

かく言う私も現在18歳の長男の小学校入学時には似たようなことを思ったりしたのでそう感じる気持ちはわからなくもないなぁ、という感じではあります。

 

毎回上がってくるこの声に対して、小学校の保護者を12年間やってきて色々と見てきた中から思うところを書いたのが、最初にご紹介したツイートから始まる「多分、学校はフルタイム共働きの働き方暮らし方に合わせてくれる方向にはいかないだろうな」というお話です。

 

(余談ですが、ここからのお話は「私がどうしたいか」「どうすべきだと思っているか」と言う個人の思考の話ではなく、現状の学校がどうか、保護者の傾向としてどうか、子どもたちを取り巻いている状況はどうか、という大まかな全体像についての話になります)

 

理由① 教員の働き方改革が進んでいるよ、という話

学校の内情として、ここ数年で急速に「教員の働き方改革」が進もうとしている印象があります。

もちろん地域差や学校による差も大きく、また進んでいるとはいえまだまだブラックな就労環境である傾向は強い現状は残っていると思いますが。

 

ただ、古く根強く残っている「教員になったからには家庭を犠牲にしてでも長時間働くのが当たり前」という風潮は、保護者としてはかなりテコ入れが始まっているように見えます。

 

定時になったら電話を留守電に切り替えたり、「〜時以降の連絡は受け付けません」と年度当初にきっちり明言する学校も出てきています。

また、ノー残業デーを決めている学校や部活動の時間を教委単位でルール作りをして制限をかけている地域も増えてきています。

 

教員が自分の子供の世話や行事を理由にして早退したり欠勤したりするケースは性別を問わず増えてきているし、最近は子どもたちもそれが当たり前になりつつあるので家庭で話題にも上らないようになってきているような印象もあります。

 

「教員は時間外労働という無理をしてまでニーズに応える必要はない」という風潮が少しずつではあっても現場に浸透しつつある、それが保護者にも少しずつ届くようになりつつあります。

 

まだまだ十分な改善に至っているとは言えないかもしれませんが、あと数年で迎える50代教員の大量退職、50〜40代教員が極端に少ないことも勘案するとその後に現場でマジョリティになるのは若年層の教員。

若い先生方が中心になっていくことも影響して、この働き方改革が進む傾向はおそらく加速度的に広がっていくだろう、と思われます。

 

それを考えると、現状で「平日昼間」を指定されているような行事関係が「フルタイム勤務者に合わせて教員の労働時間外に設定される」という未来はおそらく来ないと考えたほうが妥当だと思います。

 

「その時間に来られない人」に対応する何かしらの仕組みづくり、という方向で改善する可能性はあるかもしれませんが、現状でも欠席する家庭への対応はどの学校でも行われているはずのことではあります。

ICTを利用したりするような改善はあるかもしれませんが、それらが時間外労働の上に成り立つような方向への改善はないだろうな、とは思います。

 

理由② 現役保護者からのニーズが束として上がることは考えにくい、という話

フルタイム共働きの働き方暮らし方に合わせる方向に学校がシフトすることはないだろうな、と考えるもうひとつの理由のベースになっているのは、子供たちを取り巻く環境の状況とその対応の難しさです。

 

長く小中学校の保護者として義務教育と関わってきましたが、保護者として子供と接する時間、学校とやりとりする時間を確保する、というのが子供たちの成長に関わる重大な役割なんだな、ということを痛感していたりします。

 

各種行事のように事前に日程がわかっているものへの対応はもちろんですが、体調不良やメンタルの不調、校内でのトラブル、ここ数年のコロナ禍など、保護者として対応する必要がある事態が予測のつかない形で突発的に飛び込んでくることは本当によくあります。

我が家でも何度もありましたし、周囲でも小学校ではずっと優等生だった子が中学で急に不登校になったり、本人にも理由のわからない腹痛で毎日保健室から早退希望の連絡が入ったり、なんていう事例も周りで起こったりしています。

 

また、自分だけの不調ではなく、例えば学級崩壊に遭遇してしまいケアが必要になる、集団でのトラブルに巻き込まれて学校や他の保護者との話し合いが必要になる、なども起こり得ます。

 

これらの対応も、仕事の時間を削らないと対応ができなかったりするものも多いのではないかと思います。

 

このような様々なトラブルに関して、そばにいる保護者として「とにかく今は子の対応を最優先にしなくては」となるターンがしばしば来ることがあります。

 

未就学児の頃の病気などの有事は「とりあえず死なないように治るまで誰かが面倒を見ておく」というお世話が主体になってくると思うのですが、思春期以降の不調では同居の保護者でないとケアできない細かな機微が必要になる場面も多くあり「誰かに代わってもらう」というのが難しいと感じることも多いです。

また、そのような不調の際に保護者を信頼して話をしてくれるだけの関係性を日頃から築いておくための保護者側の時間的精神的余裕というのも鍵になってきます。

 

トラブルの際にvs学校、vs他の保護者に対する牽制として「保護者の立場」を誇示するメリットがあることも当然ながらあるのですが、そういう建前のことよりももっとシンプルな理由として「目の前の我が子の安定のために親が安定してそばにいる必要がある」というターンも起こり得ます。

 

我が家ではこれは小学生だけでなく、中学、高校に入っても完全に目も手も離しきれない難しさを感じてはいます。(高校生にもなるとほぼ手は離れますが、それでもメンタルが安定して通えているか日常の細かな様子を見る必要はありますし、校内でトラブルが起こった時の保護者としての責任は義務教育である小中学校より遥かに大きくなります。(次男がトラブった時は夫婦で平日昼間に複数回、学校に駆けつける日がありました…))

 

こんな形で子育てを経験している身からすると、小学校就学以降の子育てにおいては「突発的に仕事を休んで昼間の学校に出向ける」「突然学校を休むことになった子に対応できる」というのは「整えておくに越したことはない体制」だと感じます。

 

このような経験をしてきている保護者が少なからずいるだろうことを考えると、保護者の総意として、大きな声として「学校はフルタイム勤務の保護者に対応すべき」という声は上がりにくいだろうな、と考えた方が妥当だなと思っています。

 

先ゆくものが後進のために整えるべきだというムーブメントにはなりづらいのではないかな、と。

 

保護者として有事に対応する、ということのお話

就学前のお子さんを持つ親御さんが「昼間学校にこいというのは共働きに対応していない」と仰りたくなる気持ちは、同じ共働き保護者として痛いほどわかります。

ですが、残念ながらここから先の育児において「それに対応できないような就業体制だと起こり得る有事に対応できないかもしれないよ」とも思います。

 

様々な要因から「学校の方が保護者にとって都合よく変わってくれる」ことはないと考えておいた方が無難です。

 

すぐに働き方を帰るのは難しいかもしれませんが、就学前に家庭で

「朝、急に子供が学校に行かないと言い出したら」

「子供の異変を感じて休ませるべきか悩んだ時どうするか」

「突然の休校で1ヶ月以上子供が学校に行かないことになったら」

「早退したいという連絡が突然毎日来るようになったら」

など、いろいろなケースを想定しながら家族でどう対応していくかを話し合い、それぞれの職場とどう折り合っていくかを検討しておくほうが後々スムーズかもしれないなと思います。

 

根っこは家庭の問題ではなく「働かせ方」の問題だと思うという話

ここまで保護者の働き方を主に話をしてきましたが、子どもたちが健やかに育つための環境という側面から見たら変わるべきは「保護者の働き方」であり、それはひいては「保護者を雇用し働かせる組織のあり方」の課題だと思います。

そしてそれは、ループのように「教員の働き方」「教員(としての大人)の働かせ方」の課題ともリンクしていくのだろうと思っています。

 

保護者が精神的な余裕を持って子育てをすることはひいては子供の権利を守ることにつながります。

保護者の働き方の問題が改善されていくこと、保護者が安心して仕事を休みながら子育てしていける環境を整えていくことは、児童生徒の健全育成を考えたら至極真っ当な、進むべき方向だと思います。

 

余談① vs学校 vs他の保護者に対する保護者としての立場

ここからはちょっと余談のツイートまとめです。

 

過去に加害側被害側巻き込まれた側、等、いろんな立ち位置で学校や他の保護者と接してきた経験がありますが、そのどの立場に立った時も「迅速に学校に出向ける保護者」の方が絶対的に強いな、と感じます。可能なら「夫婦揃って駆けつける」ができるとかなり強いです。

 

どの立場にあるときでも、その先の話し合いや交渉がスムーズに進みやすくなる傾向があります。

当たり前と言えば当たり前ですよね、何かあったときにすっ飛んできてくれる人の方が信頼に足るだろうなとは思います。

 

初手が遅れると拗れやすい(我が家もこの失敗で痛い目を見たことがあります)ので、やりとりや出向くのは少しでも早く、そしてそれができる体制を整えておく、というのが鍵かなぁと思います。

 

余談② 学校からのオーダーに「無理!」ってなったときのお話

これも毎年このくらいの時期に呟いていることなんですが、学校から届く何かしらのオーダーに直面して「この通りの対応はうちは無理!」ってなることは起こり得ると思うんですね。

 

そういうときには「早めに正直に担任に相談する」ことをお勧めします。

ギリギリになってぶっちぎったり、自分の都合をゴリ押ししたり、クレームとして叩き込んだりするのはお子さんのためにもならないのでお勧めしません。

 

これはちょっと無理だなっていうことは事前に正直に担任の先生にお話をし、協力を依頼したりヘルプを出したりすれば大抵の先生方は一緒にどうすればいいかを考えてくれると思います。

 

期日までに何を持ってきて、とか、保護者だけくるように指定された行事だけどどうしても下の子を預けられなくて困る、とか、そういうのも「なんとかしてよ!」っていうスタンスじゃなく「困っているけどどうしたらいいでしょう」って持ちかけたら、先生方はたいてい、真摯に対応してくれると思いますし、そういう声が次年度以降の改善につながったりもすると思います。

 

こんなこと言っていいのかな、って思うかもしれないけど、心配せずに相談してみると良いと思います。

 

(丁寧に申し入れても無碍にされて腹立ったらTwitterで愚痴るといいよ…)

 

終わりに

大変長くなりましたが、そろそろツイートまとめブログを閉じたいと思います。

この保護者としての働き方の課題は、これまではケア要員として母親に押し付けられがちだったと思うんですね。

でも、私は性別を問わない、父親も母親も両方が考えるべき課題だろうな、と思っています。

 

両性が互いに当事者として関わらないとそれぞれの職場も変わっていかない、という、雇用環境の問題がひとつ。

 

そして、両親が当事者として考え関わっていくことで家庭の中でも子供たちが男女問わず「自分がどう働いていくか」を考えていくベースにもなっていくだろうなとも思うんですね。

 

就労する人全てが「仕事だけをする人」ではなく、「育児や介護を含め家族との生活も大事にしながら働く人」としての働き方ができる社会になっていくこと、それがひいては子どもたちの健全育成につながっていくのだろうな、とちょっと壮大なことを言って終わりにしようと思います。

次男がお弁当を忘れなくなった意外なハックの話

こんにちは、イシゲスズコです。

今日は2年目を迎えた高校生活の中で次男の大きな課題となっていた「お弁当問題」のお話です。

 

 

「毎日のお弁当」という難関

高校2年になった次男、平日の昼食は毎日お弁当です。

注意欠損の特性のある彼がお弁当を毎日忘れずに持って行く、というのがとても難しいだろうということは親として予測の範囲内でした。

 

我が家にはすでに1つ上の兄がお弁当生活を送っていました。

私が毎朝作ったお弁当をキッチンの作業台の上に置いておき、それを自分でカバンに入れて持ち出す仕組みにしています。

次男のお弁当が始まってからは台所に2つのお弁当が並ぶ日々となりました。

 

案の定、入学後お弁当が始まってからすぐに事件は起こりました。

登校後に残されているお弁当、別の日は昼休みに私が自宅に戻ったら残されているお弁当…

 

最初のうち何度かは慌てて高校の事務室に届けてあげていました。

でも毎回それを繰り返していては解決はないよなぁ…と思い、1年の途中からは「忘れていても届けないから自分でどうにかして」というシステムに切り替えていました。

 

それなりになんとかしていたらしい、次男くん

システムを変えて「忘れたら自分が困る」仕組みになっても弁当の置き忘れがなくなるわけではありません。

さすがADHDだな、と変な感心もしたものです。

往々にして「自分が困ればなんとかするだろう」と考えがち。

だけどその想定を斜め上を超えていくのが発達障害なのだなぁと改めて痛感したりしていました。

 

お弁当を忘れても彼は彼なりにどうにかしていたようです。

自分の手持ちやクラスの友達に借りたお金で購買のパンを買ったり、通学途中にある祖父母宅によって小銭をもらってコンビニに寄ったり、お腹を空かせたまま帰宅して夕方弁当を食べたり…

 

とりあえずはそれでなんとか回っていたようなので、自分なりに解決している、とみなして様子を見ていました。

 

次なる問題が…

高校卒業までこの仕組みでいいかなと思っていたあるとき、とある課題が浮上しました。

それは「残った弁当未消化問題」です。

 

当初は帰宅後に家に残されていた弁当を帰宅後に食べたり、夕ご飯の時に食べたりしていた次男でしたが、あるところから「帰宅途中の祖父母宅で何か食べさせてもらう」とか「帰宅後に弁当ではなく家にある違うもの(インスタントのストック等々)を食べる」という、残された弁当以外のものを食べるようになったんですね。

 

そりゃ置きっ放しの弁当(一応私が気づいた時は冷蔵庫に入れてました)よりもばあちゃんの作ってくれたものや自分で作る夕方のうまかっちゃんの方が美味しいのは当たり前だし、チンした弁当より出来たての晩ごはんの方が美味しいに決まってるわけですね。

 

「自分が忘れてしまったから」という責はあっても目の前の美味しいものを選んでしまい、夜遅くに冷蔵庫には食べていない弁当箱が。

私が「責任を取って自分で捨てて弁当箱を洗え!」と憤慨する事態が週に数回起こってしまうようになりました。

 

これではいけない、と次なる対策を母、考えました。

 

母の「おにぎりだけ用意します」宣言

悩んだ末、ちょっとひどいかなぁと思いながら

「もう、次男くんにはおにぎりしか用意しない」

と宣言しました。

 

翌日から、数種類数個のおにぎりを台所に並べ、ランチ用のトートバッグを添えておきました。おにぎりバイキング方式です。

 

もし次男が忘れて出かけたり残していたら私はそのラップに包まれたおにぎりを冷凍庫に突っ込めば保存食として置いておけます。夢の廃棄ゼロです。

 

次男が嫌がるかなと思いきや「昼休みに課題をやったりして時間がないこともあるから食べやすくてむしろ助かる」とノリノリ。

これまでのお弁当作り生活はなんだったんだ…とちょっと切なくなりました。

 

「おにぎりバイキング」の意外な効果

おにぎりバイキング方式に変更したのが2年生の1学期途中だったと思います。

それ以降、次男のお弁当忘れは記憶の限り、ほぼゼロです。

 

手順だけを考えたら、台所に置かれた弁当(専用のポーチに入ったもの)を掴んで出かけるのと、おにぎりを選んでバッグに入れてチャックを閉めて持ち出すのは、前者の方が簡単なはずです。

 

なんでだろう、と彼の様子を観察したりしていたのだけど、どうも日替わりのおにぎりを「選ぶ」という楽しさが追加されているらしいのがひとつ。

それから「何個にしようか考える」など複数のステップが追加されたことにより、ただ掴んで出かけるのより忘れにくくなっている様子が見て取れました。

 

私が苦肉の策として取り入れた作戦は、彼のADHDとしての特性をうまく刺激する結果になっていたのかもしれません。

 

おわりに

発達障害のある彼との暮らしは大変なこともたくさん。

だけど、こんなふうに日々の面白い発見も散りばめられていて時々ニヤニヤしてしまう。

 

サポートを考えるとき、私たちはつい「手順を簡潔に」「ステップを減らす」という形で楽にすることで取り組みやすく、と考えがちだけど、一概にそれだけが本人にとってベターだとは限らないんだなぁと改めて「個人に合った配慮」について考えるきっかけになるお弁当問題でした。

 

そして、このおにぎりバイキング方式ももしかしたらそのうちまた違う問題が浮上して、さらなるテコ入れの必要が生じるのかもしれません。

その時はまたなんかしら考えて、また何か書くかもしれません。

とりあえず今日はこの辺で。

「夏休みの宿題が終わらない」問題を抱えるお子さんの保護者さんへ

こんにちは、もう夏休みが終わったご家庭も、最後の追い込みを迎えているご家庭もある時期でしょうか。

 

ギリギリに泣きながらやっても終わらない、そんな我が家の数年前の惨状をそこからの日々を思い返しておりますが、そんな次男くんももう高校生になりました。

 

今日は、そんな彼との軌跡の中で私たちが経験したこと、悔やんでいることなどをまとめてみたいと思います。

 

 

過去より「これから」、反省より「リカバリー」

ギリギリの段階でもう絶対終わらない、という宿題を前に、お子さんと途方に暮れていらっしゃる方もおられるかもしれません。

能天気なお子さんに苛立つ保護者さんもおられましょう。

「学校にいけない」とパニクっているお子さんへの対応に苦慮されているかもしれません。

 

過去を振り返って「あぁしとけばよかったのに」がたくさん浮かぶかもしれません。

 

でも、大事なのは「ここからどうするか」だということを、まず意識するといいと思います。

 

過去を整理して反省することも無意味ではないですが、最優先すべきはリカバリの方だ、ということを押さえておくといい結果に繋げやすくなります。

 

終わらなくてもなんとかなる、は絶対ダメ

宿題を終わらせるのが苦手なお子さんの場合、その傾向は中高と長期的に残ることを覚悟する必要があります。

 

私の知る中で「小学校の頃はできなかったけど中高ではどうにかなった」というケースは皆無です。

ごく稀に本人のやりたいことと能力のリンクが成長と共に訪れて能力が突如開花したという話もないわけではないですが、そんな万に一つのような奇跡の事例が我が子に振ってくると思わない方が無難です。宝くじが当たるより確率が低いと思っていいと思います。

 

長期的な目で見たとき、宿題に関して一番やっちゃダメなのは「終わらなかったけどなんとかなった」という経験を積ませることです。

 

うちは次男くんが小中でこれを経験してしまったため、修正のために膨大な時間と経費(家庭教師の先生に丸投げせねばならなくなったので)を費やすことになりました。

 

宿題をきちんとやり終えられなくてもそれなりに二学期がスタートしてしまってなぁなぁで学校生活が送れてしまう、ということは十分あり得ます。

学校の先生もお忙しいのでそこまで丁寧に付き合ってもらえないのも仕方がないことで。

でも、この経験を何年も積んでしまうと本人にとって大きなリスクが残ります。

中学校では宿題の未提出は内申点に響きますし、高校では単位認定のための評点が削られることになります。

 

間に合わないときのリカバリー法

最後の日まで家で頑張ったけど無理だった、というときにそこからできることを考えましょう。

 

まず、何がどのくらい残っているのかを確認する必要があります。

お子さん自身気づかず放置してしまっていたものもあるかもしれないので、学校からリストが提示されていたらそれと照らしながらお子さんと確認すると良いと思います。

 

次に、その残っているそれぞれについて「どのくらいで終わるのか」をお子さんと話します。

この時の「どのくらい」というのは、学校がスタートしてからの生活を想定して考える必要があります。朝の登校前、休み時間や放課後、お休みの日、自分の生活と照らしながら、学校の勉強以外の時間で進めたときにどのくらいの時間がかかるのか、を試算します。

 

ここまで整理すると「いつまで延期してもらったら提出できるか」が見えてくると思います。

 

始業式に学校で先生に、自分からこの期限の延長を申し入れれば第一段階突破です。

 

「自分から」というのがとても大切だ、と経験上思っています。

無策の状態で先生に「やってこれなかったけどどうしたらいいですか」と聞いて指示をもらう、というケースも学校ではあるあるなんだろうなと思うけど、これが習慣づいてしまうのはリスクが高いです。

 

このスタンスだと「やる気がない」と見做されやすいんですね。

年齢が上がるごとにその傾向は強まると思います。

 

先生に指摘されてから、ではなく自分から申し入れることで「完了させたいという意思があるのだ」という表明になり、延長を受け入れてもらいやすくなります。

 

期限を守れそうにないときに自分から期限を決めて延長を申し入れる、というスキルを身につけておくことは大人になっても役に立つので、先延ばし癖のあるお子さんは年齢が低いうちから練習しておくと良いと思います。

 

また、自分から宣言することで「やらされる」感が薄れて、自分のためにやるもの、という自覚を持ちやすくなる(かもしれない)といううっすらとした期待も込めた方法ですね。

 

保護者としてのスタンス

全体を通した保護者としてのスタンスとしてまず大事なのは「宿題は子供自身に課された課題」という事実を意識することかな、と思います。

 

私自身、過去にこのブログでも書いてきたことがありますが、次男の宿題の完了にかなり熱心に介入した結果、本人との関係が悪化してしまい主治医からドクターストップをかけられた経緯があります。

 

「宿題はお家でやらせてください」と言う担任と、やれない次男との間で板挟みになって家で無理にやらせようと躍起になっていた私に

「宿題は子供と学校の先生の間の契約」

「親が介入してはいけない」

「お母さん、高校生になっても次男くんの宿題の面倒見るの?」

と諭してくれた主治医の言葉で目が覚めて、学校の先生に私の関与に関してドクターストップがかかったことを話しました。

以降、高校生になる今に至るまで、担任になる先生に経緯を詳しくお話しし、私はあくまでも環境を整えるためのサポートに徹しています。

 

宿題に取り組むのも本人。

間に合わない時の延長期限を決めるのも本人。

それを先生に申し入れるのも本人。

最後までやり遂げるのも本人の仕事です。

 

保護者はそれが叶う環境を整えるのがお仕事。

お家を勉強しやすい環境にしたり、ときに場所を移すことに付き合ったり。

(宿題が終わらない次男と気分転換で場所を変えるために図書館の学習室や夜中のマックなんかに行ったこともありました)

 

学校への期限延長の申し入れに関しては、始業式前に担任の先生に「頑張ったけど終われなかった、子供からこう言ってくると思うので対応をお願いします」と一報入れておく、と言うのも一つの手かもしれません。

 

終わらなかったことを責めない

最後に書きたいこと。

これ、私の最大の後悔です。

 

「だからもっと早くからやっとけばよかったのに!」

「もっと計画的にやれたんじゃないの」

「あんなにダラダラしてたのは自分でしょう!」

 

たくさん言ってしまったんですよね。

そして息子が高校生になった今、その言葉たちは彼を傷つけるだけで何の糧にもなってないことを痛感しています。

 

きっと本人が一番わかってたことなんです。

その「わかってる」ことを信じてあげられなかった。

 

エンパワーメントの基礎の基礎、本人にできる力があることを信じることができていなかった過去の自分への反省として、みなさんが同じ轍を踏まぬよう、ここに書き残していきます…

 

要らんことを言わない、その代わりに、たくさんたくさん褒めてあげていいと思います。

宿題を期限までに終わらせることができなかったのは残念なことだけど、やり遂げようという意思があることも、そのためにどうするか自分で考えることも、先生に自分から伝えることも、どれも評価に値することだし、勇気もいること。

 

できる力があることを信じてバックアップして、頑張れたことや去年より成果が出たことを褒める。

 

そうやって褒めつつ、頭のどこかで介入しすぎないように線を引く。

この辺のさじ加減を自分なりにうまくやっていくのが、子供の宿題に付き合うコツかな、と思います。

 

余談ですが…

最後におまけの余談です。

お子さんの宿題をどこまで手伝うか、という保護者として難しい課題があるかと思います。

これに関する私の現段階の答えは

「子供が自分で申し入れてきたら、できる範囲で」

です。

 

次男くんの場合は最近は「一人になると怠けてしまうからここに座っててほしい」とダイニングテーブルでの宿題の様子を見る、とかがたまにありますね。

中学のころは自学ノートに貼るためのプリントを用意してほしいと言われて手伝ったりしたことも。

 

あとは「今日中にやらないといけない宿題があるけど煮詰まっているのでマックに連れて行ってほしい」と夜中に言われて24時間営業の店舗で1時間くらいコーヒー飲みながら付き合ったりしたこともありました。(一応、ガラガラの店内で周囲に迷惑がかからないかは気をつけていたと書いておきます)

 

他の子たちにも「申し入れがあれば手伝うことはやぶさかではない」というお触れを出しています。

最近では三男の自由研究のまとめ方についての助言や、娘が苦手な教科について教えてくれと言ってきたときに対応したりとかそんな感じ。

 

こちらからプッシュ型の支援をするのではなく、あくまでも申し入れを自分でしてくることを前提にしています。

そうすると本当に困ったときには子供たちから言ってくるようになる。

その延長で私以外の人を頼ることもできるようになるといいな、という期待も込めての対応ですね。

 

あとちょっとの追い込みの親御さんもいらっしゃるかもしれませんし、冬休みや来年に向けての参考にと読んでくださっている方もおられるかもしれません。

宿題をなかなか自分でやり遂げられないお子さんを育てるの、大変だと思うけど少しずつできるようになっていくよう、心の距離を保ちながらボチボチフォローしていくお手伝い、これからもいろんな形でやっていけたらなぁと思っておりますの。ではまたね。

 

【教員の年度途中での産休】に保護者が言及する問題について考える。

相変わらずブログを放置しているスズコです、こんにちは。

 

今朝Twitterを眺めていたら #教師のバトン タグのとあるツイートを目にしました。

(燃やしたいわけではないのであえて引用はしないでおきます)

 

大まかな内容としては「先生産休に入らないよね?」と保護者から言われることについて。保護者批判的な内容も含むのでそれ以上には触れませんが、何年も何十年も温存されているこの問題について「いまだに保護者のせいにして終わられてしまうのか」という残念な気持ちがあるので、掘り下げて考えてみようと思います。

 

 

「そんなことを言っちゃう」保護者という存在

女性教員が産休に入ることで保護者からクレームが入る、というのは今に始まった話ではありません。

遡れば私たちが子供の頃からあったと思いますし、私が小学校の保護者になった12年前にも見聞きすることのあるものでした。

 

この歴史の古い問題について紐解くとき、まず前提として考える必要があるのが「そんなことを口に出しちゃう保護者」という問題です。

私が目にしたツイートの教員の方が想定して語っておられるのはおそらくそういうケースだと思います。

 

女性教員の妊娠出産について迂闊に言及すると「女性教員には産む権利はない」「我が子たちのために私生活を犠牲にして滅私奉公せよ」という、非常に前時代的でかつ差別的な思想を含む主張と受け取られかねない危うさがあります。

表出した言葉だけを受け取れば、私が見たツイートの先生のように「自分には子供を産む権利はないということか」と言われた先生が憤ってしまうのも仕方ないと思います。

 

だからこそ、私たちはそうそう口にはしないのです。

だからこそ、「そういう保護者」だけがうっかり口に出してしまうのです。

 

そして「一部の心無い保護者が無茶なことを言う」という話として現場で共有されてしまい、水面下に潜む大きな課題が放置されたままになっているのではないか、と思うのです。

 

水面下に潜む大きな「仕組みの問題」

では、水面下にどんな問題が潜んでいるか、について考えていきましょう。

小学生の保護者をしたことのある方、特にハンディのある子や繊細で周りの影響を受けやすい子を育てたことのある親御さんにとって「担任」という存在による影響が非常に大きい、というのはご理解いただけるのではないかと思います。

 

私も4人の子を育てながら、毎年の人事異動や担任発表をハラハラしながら見守ってきました。「誰が担任になるのか」でうちの子たちのその一年にかなり大きな影響を受けるからです。

 

子供たちにとって学級担任というのは学校という環境の中で影響を受ける要因としてとても大きな存在です。

これは、小>中>高と年齢が低いほど大きい傾向にあります。

 

小さい子ほど身近にいる大人に影響をより受けやすい、という年齢の問題がひとつ。

 

そして、年齢が上がるごと、進学するごとに教職員の配置は手厚くなる傾向にあり、副担任の存在や教科担任制など「一人の教員」の影響が薄れやすいというのもひとつだと考えます。(この辺りのことは次男の高校進学のことを書いたときにかなり言及しましたが、入学式のときにひとクラスに関わる教職員の多さに圧倒され、小中学校との違いを痛感しました)

 

担任が交替することによるリスクについてはずっと昔から保護者の中には懸念としてあったと思います。

 

それでも大きな問題になってこなかったのは、我々の幼い頃は保護者がそこまで学校のことに介入すべきでないという価値観があったことも影響としては大きいかもしれませんし、何よりもかつてはそれなりに校内で対応できていたというのもあると思います。

 

私たちが小学生だった頃の教員の在り方と今のそれは、誰の目から見ても明らかにブラック化しているといえるからです。

 

そこに、もっとも大きな課題がさらに潜んでいると私は見ます。

それが「担任が年度途中に変わるリスク」に対応できない、という仕組みの問題です。

 

「担任交替」に対応しきれない学校の現状

学級にいる子たちの中には「誰が担任になるか」の影響をほぼ受けない子ように見える子から、担任交替で不登校まっしぐらになり得る過敏な子まで多様ですが、年齢が低いほどそれぞれの子たちに交替の影響は色濃く出ます。

 

そしてそれをクラス全体という枠で考えたとき、担任が年度途中で変わることによりクラスの雰囲気全体が大きく影響を受けることにつながりやすいのです。

 

そして、その子供たちにとっての大きな変化に柔軟に流動的に対応できるほどの人材の余裕が、今の学校、特に公立の小学校にはありません。

 

産休に入る先生の代わりを見つけるのも大変と言われるような状況の中で、やっと見つかって入った先生のクラスが学級崩壊、というのも近年珍しい話ではありません。

また、そうやって崩壊しそうな状況にある学級に担任外の教員やサポート役が手厚く介入して問題を未然に防ぐのもとても難しい。

 

柔軟に対応できる管理職がいたら何とか成り立つ程度で、そんな「デキる」管理職がいたとしても人員不足に対応するのはかなり難しく、そしてその皺寄せが現場の教員に寄ってしまっているのが現状だと思います。

 

私が小学生の保護者になった12年前から今日までの間だけでも、副担任がつかない学級が増え、ここ数年は小規模校では担任を持たない教員がほぼいない状態が続いています。

担任一人の負担はより増え、イレギュラーな状況に対応する人員に乏しい状態が続いているのが現状です。

 

矛先を保護者に向けられることの弊害

私はTwitterで噴き上がる教員の保護者批判を見かけるたびに仕組みの不備について言及してきました。

保護者と教員が対立関係になることを避けたいからです。

そこが対立してしまったら苦しむのは狭間にいる子供たちだからです。

 

今回目にした担任交替に関する課題でも同じことが言えると思うのです。

 

現状の学校、特に公立の小中学校では担任一人にかかる責任がとても大きく、学級に与える影響も大きすぎるほどに大きい。

安定している学級の担任が変わっただけで学級崩壊まっしぐらになるケースを私が見てきたのは我が子のクラスだけではなく複数あります。

 

このような惨状において「子供の学級担任が交替する」というのは保護者にとっては大きな問題です。

もちろん、妊娠出産の権利を侵害することは誰にもできないし、おめでたいことを祝福し受け入れるのが筋だとわかっています。

だからこそ、学校に向けて簡単に口にすることは避ける保護者がほとんどだと思います。

 

しかし、ツイートされている先生方のように「矛先を保護者に」で留まってしまうことを私は懸念しています。

表面上の対立を産み、そして水面下にある根本的な仕組みの問題から目を逸らすことができるようになってしまうからです。

 

職員室の中で特定のクレーマー保護者が無茶なことを言ってくるよね、という話にしておけば管理職にとっては、さらに上のお役所にとっては、国にとっては、水面下に潜んでいる大きな問題で現場の不満が噴き上がるのを先延ばしにすることができてしまいます。

 

皺寄せは弱い方へ、弱い方へ

「一部の心無い保護者のせい」で教員が大変な目に遭っており、そういう人たちが改心し行動をあらためてくれたら済む、という話になってしまっていることが今の学校現場にはたくさんあります。

 

しかし、実際にはそれぞれの問題について学校内部、また公教育全体の仕組みの問題は大きく、保護者がおとなしくなれば改善するような小手先の課題ではないものばかりです。

 

しかし、水面下の課題を放置したまま教員と保護者の間に対立構造ができてしまう。

そしてそこで一番の被害に遭うのは、はざまにいる子供たちに他ならないのです。

 

保護者は教員の資質や在り方のせいだと断じ、教員は常識のない保護者のせいだと嘆く。

仕組みの問題はいつまでもそのままそこに放置され、どんどん悪化の一途を辿り、教室の中でより弱い子たちに皺寄せがいく。

私が小学校の保護者として学校とやりとりをしてきた12年間で、どんどんこの傾向は強まっていっているように感じています。

 

おわりに

長くなりましたが、そろそろまとめましょう。

 

年度途中での担任交替で学級に大きな影響を与えてしまうような教育制度の仕組みがある、というのがまず古くから日本の公教育の課題のひとつ。

 

その担任交替により学級への影響を最小限に防いだり、トラブルが起こったりしたときに校内でそれなりに対応してきた経緯があったと思われるが、近年の教員不足によりその対応に割ける人員が極端に減っているのが現状で、その傾向は年々顕著に、悪化傾向にあると思われる。

 

この、過去から温存されてきている2段階の課題がまずあること。

そして、多くの保護者はその問題を感じていないわけではないけれど、近年の人権意識の高まりにより言及することは憚られるため、ごく一部の「言っちゃう」保護者が目立つこと。

それにより、公教育の大きな課題であるこの問題が「理解のないクレーマー保護者により無茶を言われる事案」と受け取られやすいこと。

 

そうやって保護者と教員の間に不要な対立構造を生み出すことで子供達にその皺寄せがいくこと、また子供の中でもより弱い方弱い方へと皺寄せがいってしまうこと。

 

また、学校の中でもより立場の弱い先生方のところに皺寄せがいってしまうこと。

 

理想を持って現場に臨まれたのに、数年で心を病み現場を去る先生、長く教員を続けてこられた現場主義のベテランなのに管理職との間で苦しんで早期退職してしまう先生…私の周りでも学校の在り方に苦しみ現場を去っていく先生は年々増えています。

 

また、Twitterでは保護者批判を繰り返す教員アカウントも多く目にします。

 

変えなければならないものはもっと違うところにあるはずなのに、改善しなくてはならないことはもっと他の場所にあるのに、矛先は私たち保護者ではないはずなのに。

 

いつももどかしい気持ちで、どうか対立を避けてほしい、どうか先生方の環境がもっとよいものに、これからの先生方が保護者を恨まずに済むような環境に恵まれるように…と願い続けています。

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