ここから始まる一連のツイートへの反応をたくさんいただいています。長くて連ツイでは読みづらいというお声もあったのと、ツイートはどんどん流れていってしまったりもするなぁという思いもあるので、今回大まかな流れを保持した上で一部加筆修正したものをここに保存しておこうと思います。前に「ごめんなさい、ありがとう、こまっているので助けてください、が言えるようになるとそこから人生が変わるよ」とツイートしたことがある。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2021年4月11日
- 「ごめんなさい」「ありがとう」「こまっているので助けて」という言葉
- 障害のある子を育てる中での「ありがとう」
- 諸刃の剣にもなり得てしまう、腰の低さ、穏便さ
- 「謙虚でない人間は支援しなくて良い」という価値観と「障害者差別解消法」
- 多忙な現場への周知徹底の難しさ
- 現場の就業環境の改善と、当事者が声を上げるということ
- それでも黙っていることはできないから
- おわりに
「ごめんなさい」「ありがとう」「こまっているので助けて」という言葉
私自身これらの言葉を言うのがとても苦手で、人を頼るのが難しく、なんでも抱え込んでしまっては爆発していた過去がありました。(今もたまにやらかしますが)
自分の失敗やいろんな人の声を聞きながら、これが言えるようになったら楽になる、と実感し、それを呟いたものだったような記憶があります。
障害のある子を育てる中での「ありがとう」
障害のある子を育てていく中で、配慮を得るために低姿勢に、穏便に、温和なそぶりで話を持ちかけてなるべくこちらの利を多くしようとするようなハックを我々は使うことがあります。
また、ときにそれを人に勧めることもあります。
目の前の我が子の利益のためにはそれが妥当な選択だということを肌感覚で知っているからです。
諸刃の剣にもなり得てしまう、腰の低さ、穏便さ
しかし、現場でそのハックを駆使しながら、ときに「これは諸刃の剣だ」と感じることがあります。
こちらが低姿勢でいることで法律や仕組みの上で義務やすべきとなっているような内容も軽くあしらわれるような結果になってしまったり、あの保護者もこんな風にしてくれたらという教育者・支援者側の感情を左右する要因にもなってしまうからです。
実際に現場でそのような愚痴を聞いたこともあります。
(「あの方みたいに言ってくれたらこっちもねえ…でも…」みたいなね)
私も人の子ですから、尻尾を振る犬は可愛いし、上手に助けを求めてくれる人の方が助けたくなる気持ちはわかります。
生き抜くためのハックとして、感謝の意思表示を欠かさず、低姿勢で配慮を求めていくということは私自身が実行し、また息子に教えていることでもあります。
当事者の選択肢として実務上間違っていることではない、とは思います。
今回の伊是名さんのお話を発端に語られるツイートの中には、支援者や医療関係者などからも同じように「そうすべきなのに」という声がたくさんあったのも目にしました。
現場で交渉するときにはこの方がずっと通りやすいのを私たちは知っているし、実際にそうしている当事者は私も含めてたくさんいらっしゃることと思います。
「謙虚でない人間は支援しなくて良い」という価値観と「障害者差別解消法」
しかし、忘れてはならないことがあります。
このハックを声高に提唱することや現場で実行し続けることは、ともすると「そうしない人間は支援しなくても良い」という誤った価値観による線引きを生むことになり得てしまうのです。
今回の騒動で私が懸念していることのひとつが、それです。
そしてこれは「そんな価値観は良くない!」という道徳的なお話ではありません。
街ゆくみなさんが路上で困っている障害のある方がいて、それを助けるかどうかに関しては、どうぞ善意で判断していただいても構わない、とは私は思います。
避けたければ避ければいい、私人としてその自由は皆さん平等に有していると思います。(この辺り、厳密には法的にどうかが不勉強な部分なので突っ込まれる可能性があろうかとは思いますが)
ただ、今回の駅のケースのように、また私が日々直面している教育現場のケースのように「障害者差別解消法」で合理的配慮の提供は「国や地方公共団体への義務」と「事業者への努力義務」という形で漏れなく課されています。
「謙虚だから助けたい」
「人間性に問題があるから助けたくない」
というような、感情で左右されて良いような話を前提とはしていないのです。
教育者も、支援者も、駅員も、感情のある人間であることには間違いありません。
しかし、それと、管理者や事業者が業務上課せられている責任を組織として放棄して良い、義務を果たさなくても良い、という話は筋が全く違います。
「障害者差別解消法」は対人職に携わる人間全てに関わりのある法律です。
紹介のため過去記事を貼っておきます。
詳細はワード検索していただけたら内閣府の啓蒙リーフレットなど参照できるものがたくさん出てくると思います。
障害者差別解消法は、国連の「障害者の権利に関する条約」の締結に向けた国内法制度の整備の一環として、平成25年に公布され、平成28年に施行されました。
私が初めて知ったのは、施行直前の障害児の親の会で開催された勉強会の中でした。
長く特別支援教育に携わってこられた講師の先生は「待ちかねていた黒船だ」と表現されていました。
やっと、障害者・児のニーズが現場で通るようになる、個別のニーズに現場が応じてくれるようになる、話し合いのテーブルについてもらえるようになる、と先生はおっしゃり、勉強会の場で、参加した保護者みんなで喜びました。
余談ですが、障害者の雇用に関する法律もこの時同時に施行されています。
今回の伊是名さんのケースは、障害者差別解消法の合理的配慮の提供義務と、総務省が提唱する合意形成プロセスについての知識がないと理解は難しいと思います。
そのベースがない状態で、自分のそれまでの経験と知識だけで判断してしまっているように見えるご意見が本当にたくさんありました。
また、素人ならまだ仕方ないにせよ、教育関係者や支援者など、この法律を知らないわけにはいかないだろうというお立場の方からも同様の声が上がっていて、驚きを隠せません。
また後日ブログにまとめますが、次男の高校進学に関しての合理的配慮の話し合いの中でも、窓口となっている支援担当の先生方が「現場ではまだまだ周知が徹底されておらず、自らに義務が課せられていることへの認識が浅い先生方も多くいる」と現場に浸透させる大変さについてお話をされていました。
多忙な現場への周知徹底の難しさ
まだまだ周知徹底が足りていないこの法律に関し、私たちが我が子のために丁寧に、時に下手に出ながら申し入れをしていることが、結果的にその認識の浅さを助長させてしまうことになってしまうこともあるんだろうか、と考えることもあります。
正解は私にもわかりません。
その場その場でできることをやっていくしかないんだろうとも思います。
勉強会で「黒船だ」と喜んでおられた先生からその後
「保護者サイドからどんどんこの法律を現場に持ち込んでいかないと」
というようなことを言われた記憶があります。
当事者が活用しようと意識して動かなければ、現場にこういう法律があるって知ってるよ、って持ちかけていかないと、現場での周知徹底はなかなか自発的には進まないから、と。
今回の件でJR職員の雇用環境について指摘するご意見もありました。
同じようにブラックな環境の事業所や公共団体は他にもたくさんあるでしょう。
その余裕のなさのなか、自ら新しい法律の施行について学び、内部を整えていくことが組織として難しいだろうことは私にもわからないわけではありません。
しかし、我々はその法に守られるべき当事者のそばで生きているからこそ、せっかく施行されたこの法律が意味をなさないものにならないように、現場で生きて使われるように、忙しさの中で忙殺されてしまわないように、できることをしていく人がいなければならないのかもしれない、とも思うのです。
現場の就業環境の改善と、当事者が声を上げるということ
現場の皆さんはただでさえお忙しい。
そこに向けた声を上げるとき、
「もっと忙しくなれ」
とは私は思っていません。
先生方の環境も支援者の状況も、駅員さんの負担も、現場で我々やその子たちに対応してくださる方がもっとゆとりのある恵まれた環境で働いていただきたい。
それはその方々のためでもあるし、サービスを受けるこちら側にとっても助かることです。
今回の件で「駅のバリアフリー化は進みつつあるのだから個別に言わなくても」というご意見も出ていましたが、筋が違います。
「合理的配慮」は個別のニーズに事業者が対応するものを指します。
「車椅子ならエレベーターがあればいいだろう」は合理的配慮ではありません。
合理的配慮は、当事者それぞれのニーズを現場に申し入れることができる、その権利を保障されているところから始まります。
行きたい駅まで電車に乗りたいというのも、この授業を受けたいというのも、保護されるべき当事者の大事な声です。
(ただしそれがその希望の通りに通るかはまた別の話です)
その個別のニーズを受けて事業者が実行可能かを十分に検討し、不可能な場合はその理由を丁寧に説明をするプロセスが提唱されています。
(詳しくは上記リンクの過去記事や総務省のリーフレット、各自治体などから広報されている資料などをご参照ください)
この法律により、ただでさえ多忙な現場にもっと負担が生じてしまうことは否めません。
最大限の実行のための検討や折り合いをつけるための話し合い、実行できない場合の丁寧な理由説明などの義務(または努力義務)を課している法律ですから。
でも逆に言えばこれまでは、業務の中で「無理ですね、できません」の一言で断るという障害者差別が容認されてしまっていた、ということでもあります。
現場の負担増大の側面に関しては心から、現場環境の改善を求めます。
それでも黙っていることはできないから
ですが、考えてください。
その現実を見た上で「お忙しそうだから」と私たちが黙ったら、雇用環境が良くなりますか。
いつまで黙って待てば先生方や駅員さんたちの環境は今より良くなってお話を聞いていただけるようになりますか。
「改善されるまで黙っている」ことはできません。
その間にも障害のある子どもたちは成長し、学校に通い、また障害者は街の中で生きているのです。
黙って見守れば、その間に犠牲になる当事者が出てしまう。
改善の過程で黙殺されてしまうことも決して許されていいことではないのです。
おわりに
私は彼女の主張ややり方の全てに同調しているわけではありませんし、おそらく私がその手法をとることはそうそうないでしょう。
(三男の不登校から登校再開に至る過程の中でそれに近い場面はあったので、絶対にないとは言い切れません)
今回の伊是名さんのブログ記事で書かれている件は障害者差別解消法の合理的配慮についての知識がなければ全体像の把握は難しいのではないか、と思います。
障害のある方は、その人間性や日頃の言動に関わることなくこの法の元に平等に、配慮を受けるための申し入れをする権利が保障されています。
そして、その権利が侵害されたと感じたら、声を上げていい。
その実行可能性を、私たちは潰してはならないと思うのです。
また、障害者差別解消法は障害者にのみ関わりのある法律ではありません。
対人職についている方はサービスを提供する側の事業所や団体の一員として提供義務(または努力義務)を負っています。
そして、今は健常者として生きていても将来的にどの段階で障害のある人間として生きていくことになるかは予測がつきません。
今、これを読んでいるほぼ全ての方が無関係ではないのです。
これをきっかけに一人でも多い方が障害者差別解消法と合理的配慮の提供義務、合理的配慮の提供のための合意形成プロセスについて知ってくださる方が増えることを願って、この長いツイートまとめを終わりたいと思います。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。障害のある家族のそばで生きる一人の人間として、心から感謝します。