数日前からTwitterやTogetterまとめで話題になっていた、担任から「やる気がないなら帰れ」と言われて本当に帰って来てしまった息子さんのエピソードを書いたふみきちさんのツイート。
先日、支援級の登校日で、次男は担任からやる気が無いなら帰れ、と言われて帰ってきてしまった。
— ふみきち (@fumikichi2525) 2016年8月12日
やる気はなかったからと本人談。
これ、ずっと考えてる。
やる気が無いなら帰れと言われても帰ったらダメなんだよ、と本人に教えるべきなんだろうか。
まとめ記事ではコメント欄でのやりとりが加速し、閲覧数やコメント数、Twitterなどのリンクもかなりの数になっていて、特定の人たちにとって関心の高いトピックだったことが伺えます。
今回はツイート主であるふみきちさんに保護者としての立場から、また複数の学校関係者の方からも情報を頂いたので、「教員が生徒に『やる気が無いなら帰れ』と発言すること」についていくつかの視点から考えてみたいと思います。
「ふみきちさん」のこと
今回保護者としてお話を伺ったふみきち(id:fumikichi2525)さんは、はてなでお子さんの発達障害についての経緯などを書き綴られているブロガーさんです。
私とはTwitterでも相互フォローの関係にあり、以前から親しくさせていただいています。ふたりの息子さんの発達障害についての知識や経験の深さから、私も子供たちのことで困った時にはよく個人的にお話を聞いて頂いたり、相談させてもらったりしている方です。
今回の「やる気が無いなら帰れ」のシチュエーション
まず大前提として、今回担任が発言したシチュエーションを共有しておく必要があると考え、ふみきちさんにお話を伺いました。
ふみきちさんの次男さんは発達障害で支援を必要とするため、現在は公立中学校の支援学級に在籍しています。事が起こったのは夏休みの登校日。通常の授業の日ではなく、支援学級の子たちのクラブ活動のために用意された時間で、宿題のチェックや体育指導など、補習のような学習日だったようです。(※欠席のときは必ず連絡を入れるよう指示があったようです)
この当日の活動の中の室内運動の時間中に、暑かったこともあり機敏に動けていなかった次男さんに対して担任が発したのが「やる気が無いなら帰れ」という発言でした。
その発言を受けた次男さんは自主的に下校、本来の下校時間よりかなり早い帰宅となったので異変に気づいたふみきちさんが次男さんに話を聞いて、この担任の発言があったことがわかったようです。
この発言を受けて、母親であるふみきちさんは発達障害の次男さんが将来的に同じようなことを言われる場に遭遇したときにどう対処していくよう教えていくべきなのかについて思い悩んでおられました。
「発達障害だから」帰って来てしまったのか
Togetterまとめ記事の中でも争点になっていたようですが、今回のこの「帰れって言われたから帰って来た」案件は発達障害児だから起こったことなのでしょうか。
ふみきちさんが次男くんがについて相談している専門の先生に相談されたところ「発達障害は関係ないと思う」と返答があったそうです。その担任の先生だから帰って来た、状況によっては次男くんはおそらくは帰らないことも選べたと思う、と。
次男くんはおそらくは「言葉をそのとおり受け止めてしまった」から帰って来たのではなく「帰れ」と言われたことで帰るという選択肢ができたのでそちらを選んだ、と考えられるのではないかと思います。
もちろん、発達障害の特性の出方によっては相手が言った言葉をそのまま受け止めて「帰るよう指示された」と理解して帰ってしまうケースもあるかもしれません。が、発達障害児(者)だから言外の意図が汲み取れなくて帰ってしまう、というわけでは必ずしも無いのだろうということがこの先生とのやりとりからはわかります。
私自身も特性を自覚して生活していますが、「やる気が無いなら帰れ」と言われたとして相手が本当に帰れと言っているわけではないだろうということは理解できます。また、うちの特性のあるうちの子たちもサッカークラブの指導の中で実際に言われた場面で帰らない方を選んだと聞いたこともありますし、逆に帰って来てしまったこともあります。
「やる気が無いなら帰れ」と言われて本当に帰ってしまうことは「言葉通り受け取ってしまう」という特性だから、ではないのかもしれません。
発言を受けても「帰れなかった」人たちの存在
あえてリンクは貼っていませんが、ふみきちさんのツイートを発端とするTogetterまとめではかなりの数の方が担任の発言に怒ったり、実際に言われたという自分の過去を振り返ったりしておられました。たくさんの方の琴線に触れるトピックであったのだろうと思います。
なぜそんなにたくさんの方の琴線に触れたのか、なぜ炎上したのか、その答えを紐解く鍵が「発言の意図をわかった上で帰ることを選べなかった」方がたくさんいらっしゃることにあるのではないかと思います。
発言者が想定しているであろうやりとり
「やる気が無いなら帰れ!」という発言をする指導者が想定しているのは、恐らくはこういうやりとりです。
「やる気が無いなら帰れ!」
「いえ、やる気はあります!」
「じゃあもっと見せてみろ!」
「はい!」
or
「すみません、がんばります!」
「よし!」
で、生徒が自主的にやる気を出して頑張る
そうやって突き放すことで相手の意欲を高める方法、としてこの手法が便利に使われてきたのかもしれません。
教育現場や職場で長く使われてきた過去とその背景
話題にしやすいトピックなのでしょう、以前私もハーネスのことで話題にしたことのあるテレビ番組の討論コーナーでも取り上げられていたことがあったようです。
この中では
「『上司の頭が冷えるまで』とか言う前に、なんでオマエが怒られたんだ? っていうところだろ!」
「絶対的に言えるのは、帰っちゃダメなんだよ! 何があっても仕事中に帰ったらダメ」筆者もこれにまったく同感である。確かに本来は、スマホで何をやっているのか聞き、その答えに応じて具体的な注意をするのが理想かもしれない。しかし「やる気がないなら帰れ!」という言葉の揚げ足取りをする前に、そもそもの怒られた理由を考えないのはなぜなのかと首を捻ってしまう。
「今の時代なら上司が悪い」「『帰れ』って言われたら帰る」
「『帰れ』って言わなくても(いいと思う)何がダメでどうしてほしいとか言われれば、頑張るんですけど」「帰れ」という言葉をそのまま受け取ってしまう人は、素直で良い部分も多々あるのかもしれない。しかし「この人はつまり、何を言わんとしているのか」と、状況から想像する努力を放棄しているともいえるのではないだろうか?
これは学校現場ではなく職場を想定しているのでイコールで語ることはできないのですが、「やる気が無いなら帰れ」という言葉は「何がどうダメでどうすればいいのか」を端折るために便利に使われてきたことがわかります。それを相手に働きかけて汲み取ろうとするのは言葉を発する上司の側ではなくて、教えを乞うべき部下の役目だと考えていることも透けて見えます。
この言葉がたくさんの方の記憶にあるようにこれまで学校を始めとする指導の場でも便利に使われて来たのはその、「教えてあげる側」である上司(教員)と「教えを乞う側」である部下(生徒・児童)の関係性が前提としてあること、双方がその力関係を理解して(もしくは抗えずやむを得ず受け入れて)いるからこそ成り立っていた言葉だったのかもしれません。
人間関係の変遷と価値観の変化
前述の記事の中にもあったように、今の時代には即さない言葉になりつつあるのを感じている方も少なからずいるのではないでしょうか。記事の中でも街頭調査では「帰る方が悪い」と答えた人の方が多いのですが、上司の叱り方が悪いと指摘した層の大半は若い人たちの声だったようです。
ふみきちさんのツイートが使用されたまとめ記事が炎上した背景には、この若い人たちと同じように「叱り方に問題があるのでは」と思っている方が多かったことが考えられます。私もふみきちさんのツイートをTLで見たときにはまずそれを思いました。
なぜそう感じるのか、その理由は、前述した人間関係の変遷にあるのではないかと考えます。
かつてのような絶対的な権力者・必ずつき従うべき歯向かってはならない存在としてのトップ(上司・先生・担任)と、従順に教えを乞うべき存在(部下・生徒・児童)という人間関係が既に崩壊しつつあること、特に学校現場では既にその力関係を利用した指導をすることは否定されてきている状況があります。
学校の中では教員は君臨する君主でも入門希望者が教えを乞うて集まる偉人でもなく、寄り添い指導する責務のある立場です。
児童や生徒は下僕でも先人に教えを乞う入門者でもなく、個々に寄り添った指導を受ける権利を持つ立場です。
まとめ炎上の背景
絶対的権力者である教員が「何を想定してそれを言っているか」を汲めている以上、たとえ表出している言葉が「帰れ」であってもそれに従ってならないぞという空気に歯向かうことはとても難しい。腹の中に不満を溜めつつ、理不尽だと思いつつ、教員の「言外の意図」を尊重することを選ばざるを得なかった、その鬱屈した感情、過去の記憶が、あのまとめ記事が多くの方の琴線に触れることになった背景にあるのではないかと思います。
分かっていても帰ることを選べない空気があったこと、それが苦痛だったこと、教員に対して理不尽だと不満に思った記憶があったこと、それらがマイナスの記憶として残っていること…。その記憶の蓋を開けたことが、あのまとめのアクセス数の多さとその中でわき起こっていた「担任が悪い」という流れの理由だったのではないかと思います。
「空気を読まない」特性と、読まなくてよくなっている空気
発達障害の特性がそう強くない方の多くは、場の空気を読んで自分の行動を選ぶことを自然と行う習慣が身に付いています。教員がたとえ言葉の上でも「帰れ」と提示して「言葉通りに受け取って帰る」ことが自分の中に選択肢として現れたとしても、明らかなヒエラルキーが存在する環境の中であえてそれを選ぶことはおそらくはそう簡単ではないはずです。「当然帰らないよね?」という空気を感じたときにそれに抗うことは多分とても難しい。
また、先の見通しを立てることに長けている人はその抑圧を受けた段階で当然「帰った時にどうなるか」が想像できるでしょう。相手をより怒らせて事態がめんどくさくなってしまう、それならここで折れといた方があとあと楽、という見通しを立てることができる。しかし、発達障害の特性のなかでその「見通しを立てることが極端に苦手である」という困難を抱えている人たちも少なからずいます。
発達障害ゆえの特性が発動するのは実はそこらへんなのかな、と考えています。
発言の意図を汲めないのではなくて、「帰れ」という選択肢が自分の中に存在した時に周囲の同調圧力に抗わずにそれを選ぶことに抵抗が少ない、そういう種類の「空気を読まない」特性、プラス「今帰ったらあとあとよりめんどくさくなる」という見通しを遠くまで立てるのが苦手という特性が発動されたときに、目の前の面倒な状況よりとりあえず帰ることを選んじゃう、という発達障害者(児)らしい行動が出てしまう。それが、ふみきちさんが懸念していた「空気を読まず行動してしまう」の正体なのではないかと考えています。
そして、前述したとおり学校現場での教員と生徒の人間関係は確実に変化しています。トップダウンでの指示ではなく、自分たちに寄り添った指示、その環境にいることに馴染んでいる子供たちにとっては、一部の教員が醸し出すその絶対的権力を利用するような空気を読む必要はなくなりつつある。
それでもふみきちさんが懸念するように、変わりつつあるといってもまだまだ社会のなかには蔓延している環境もあります。学校の中でも、また今後社会に出ていった先でも「やる気が無いなら帰れ」という発言をする人に出会うかもしれません。そのときにどうしていけばよいのか。
長くなったので一旦ここで区切って、次の記事では公立学校での現状と、将来的な対処についてふみきちさんや学校関係者の方に伺ったお話をまとめます。