スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

子供の選んだ本に「え〜〜それ〜〜」ってなった話

本屋へ行って来ました。

小1三男と小4娘を連れて、久々に本屋さんへ。

 

田舎暮らしゆえ蔵書の多い立派な本屋さんまで行くのはちょっとした小旅行。

今日は時間もないし、近所の小さな本屋さんまで。

 

娘は「歴史の本が欲しいの」と児童向けの本棚をウロウロ。

 

三男が選んだ「本」…

三男は絵本のコーナーを見た後はちょっとしたおもちゃが置かれたコーナーとガチャガチャコーナーを行ったり来たり。

「あ〜〜ダメよね〜〜」

「おもちゃはダメよね〜〜」

「は〜〜〜ガチャガチャいいな〜〜〜」

と本音がダダ漏れの三男。

 

「もう小学生なんだからおべんきょうになる本にしたら?」と娘に促されて幼児〜児童書のコーナーをうろつく三男。

 

「これ!」と手に取ったのはこれでした…

 

「え〜〜〜それ〜〜〜」と顔を見合わせる私と娘。

娘と一緒に「これはどう?」「こっちは?」といくつか見せてみましたがどれも「やだ〜〜〜」と拒否する三男…

 

脳裏にいろんなことが浮かびます。

 

考察1 「本を買ってやる」という約束

確かに「本を買ってやる」と私は言った。

今三男が手にしているそれが「本」かどうか。

私には「雑誌」に見えるし、少なくとも学問の役に立つ本とは思えない。

約束をした時に私が思い描いていたような「本」ではない。

しかしそれを今この場で6歳児の末っ子に理解させることは難しい。

いやそもそも「本」とはなんだろうか、それを説明するだけの定義が自分の中にあるんだろうか…

 

「本を買ってやる」と言った私の発言に矛盾しない行動を取るためには選んだそれを買ってやるべきではないか、という一つの結論。

 

考察2 大事にすべきなのは何か

「本を買おう」と出向いた本屋、ここにある中から何かを買ってもらえると思っている三男、「本人のためになる良い本を買ってあげよう」と心のどこかで思っている私。

 

「このほんじゃダメなの〜」「これがいいなぁ」とてれびげーむマガジンを抱える6歳児を眺めながら、私はどうしたいんだろう、とふと思いました。

 

私が買ってあげたいと思っているような「ためになる本」を無理に買ったところで彼がまず自主的に読まないだろうことは容易に想像がつきます。

 

じゃあここで大事にすべきなのはなんなんだろう。

三男にどうしてあげたいんだろう。

 

「本を嫌いにならないで欲しい」

やっぱりそこは大事にしたいなぁと思ったんですね。

無理に好きでもない本を手に取らせて押し付けるようなことはしたくない、本に対して悪いイメージがつくようなことはしたくない。

 

じゃあ、「ほん」と本人が思っているものならなんでもいいじゃない、というのが、もう一つの結論。

 

結論「それでいいじゃない」

「うん、それでいいよ」と私が言うと漫画のようにぴょんぴょん跳ねて喜ぶ三男。

読む部分なんかたぶん全然内容な雑誌ではあるけれど、マイナスの記憶を残さないことが最優先なんだろうな〜と思うとこれが最適解だったような気がしています。

 

ここから先、学校の図書室や我が家の本棚、図書館、大きな本屋さん、子供たちがどんな本に触れていくのかわからないけれど、上の子たちと同じように本そのものに抵抗のない子に育ってもらえたら本望だなぁと思ったりしています。

 

4人目にして初めてこんなに考え込んだんだけど、そういえば上の子たちがこの手の本を欲しがった時どうしていたんだろう…記憶が曖昧であまり思い出せないのだけど、欲しがったら買っていたのかなぁ、あまり本屋にいく精神的余裕もなかったような気はしますが。

 

おまけ

娘が選んだのはこれ。歴史のことが知りたいの〜だそうです。

 

私が買ったのはこれ。

ぜったいがっこうにはいかないからね (チャーリーとローラ)

ぜったいがっこうにはいかないからね (チャーリーとローラ)

 

 一年生向けの特設コーナーで見かけました。

学校での読み聞かせでも使えそうだなぁと思って。

 

帰りの車の中で「お母ちゃんの買ったやつ、夜に読んでね」と三男。

4人の中で一番絵本を読んでもらうのが好きな彼が今後学校でどんな本を借りてくるのか、ちょっと楽しみではあります。

 

余談ですが私がほんとは欲しかったのは、こっち(笑)

 

怒って送り出した朝の一人反省会

朝のイライラと、爆発

 

何でか今日は朝から色々なことがうまくいってなかった。

私も起き抜けからちょっとイライラしていたような気がします。

いや、あとから考えて見えてきたことだけれど。

 

朝食に出したウインナーの取り分で喧嘩、パンは嫌だご飯がいい(今朝はお弁当いらなかったから炊いてない)とグダグダ言う末っ子、テレビに見とれてご飯が進まない子供たち、履いていくはずだった靴下が見当たらないとイライラする長男、通り道に座り込む娘にぶつかったくせに「(娘)が蹴った!」と怒り出す次男とそれに反論して怒る二人の喧嘩、ドタバタしているところでぬらぬら起きてきた夫が「ねえ今日の夜、スーツで行くけどどうなってたっけ〜」

 

知るか!

靴下もスーツも自分でどうにかしてよ!

通り道に座るな!

わざと蹴ったわけでもないのに、いちゃもんつけるなチンピラかよ!

ウインナーの数くらい出したところで考えて食べてよ!

朝ごはんの時テレビつけるなって言ってるじゃん!

 あるもの食えよ文句言うな!

 

で、ドカーーーンと怒ってしまいました。

 

怒ったままのお見送りと一人反省会

結局納得のいかない靴下を履いて、ブーブー文句を言いながら長男は早々に登校していきました。

小学生3人は玄関先でも誰が先に行くだの誰が押しただの邪魔だのもめながら出かけていきました。

 

家族がいなくなった居間にポツンと残った長男の忘れ物。

几帳面で忘れ物を滅多にしない彼の不快な気持ちがそこに詰まっているようで自責の念が押し寄せてきました。

 

洗濯物を干しながら、一人反省会。

 

あんなに怒るようなことじゃなかったよね

言い方悪かったよね

気持ちよく送り出してあげないと学校でもうまくいかないかもしれない

まだ、1年生が始まったばかりの子が2人もいるのに

長男の靴下も中学の校則を守らないといけないって思ってるから焦ってたのに

気持ちの整理が苦手な次男が学校でしんどくなるかもしれないのに

 

怒りの後に込み上げてくる、言葉にできない色んな感情を冷めたコーヒーで流し込んで。

 

感情の整理と、次のステップ

 

くよくよ悩む性分の私は、この切り替えがとても苦手でした。

いつも、してしまった失敗に囚われて先に進めない。

夫が言ってくる善意の助言も受け止めることができずに「そんなことわかってるよ!」と何度言い返したことか。

 

でも、次に進まないと同じことを繰り返してしまう。

だから、解決のための手段が私には必要なんだろうと思うのです。

 

具体的な対策を考える。

大皿にまとめて出したウインナー

→人数分の皿に分ける

 

靴下がみあたらない

→買えば済むものは躊躇なく買い足そう、まとめ買い決定。

 

ご飯かパンか

→入学したてで不安の多い三男を尊重して当分は本人が好きなご飯を用意するのもありかも。

 

夫のスーツ

→いやこれは自己管理の徹底をお願いしよう

(というか多分私にどうにかしろというよりはなんとなく口にしたそのタイミングが恐ろしく悪かったんだろうと思うけど)

→つまり悪意のない夫のその言葉が刺さるほど自分がテンパっていたとも言える。

 

そして突き詰めていって見えてくる自分の今朝のイライラがどこにあるのかに向き合わないといけない。

多分それが、いちばんの発端。

私が私の感情を上手に整理できてなかった、いちばん見直すべきは、ここ。

 

おわりに

「いちばん見直すべき」と私が考えた自分の感情だけれど、お母さんだって人間だもの、なんでかわかんないけどイライラする日もあると思う。

そこがうまく整理できてない時に夫から「こうすればいいじゃん」とか言われても、そこがうまく受け止められないことがある。

ほう太パパさんからもらったメンション、夫婦あるあるだと思う。

 

 

感情の整理を上手にできない人は私も含めてたくさんいると思う。(男女差というより個体差が大きい?基本的自尊感情が大きく関わっているような気もするのだけどそれを掘り下げると長くなるのでまた別の機会に)

 

でも、それを理由に周りの人を巻き込んで不快の輪を広げちゃったら楽しく生きていけない。

 

感情に折り合いをつけていく訓練も大事だし、私が例に挙げたようなお金や工夫でなんとかなりそうな対策は適当に受け入れたり、色んな方向から試行錯誤を繰り返して「怒らないで送り出せた日」が続いていくようにしたいなぁと思う、今日この頃です。

 

おまけ

アップした後、ふみきちさんからこんな反応をいただきました。

 

そっか〜と思いながら、その「まいっか〜」と切り替えるのが私には難しいんだよなぁと改めて。

そこがサクッとできるようになったらいいなぁと思うけどなかなかハードルが高い。

だからこその、具体的な対策の積み重ねなのかもしれません。

 

靴下がたくさんあれば少なくともそのことでのトラブルは起こらないし。

そうやって小さなことを積み重ねていくことでトラブルを防げたら、起こるトラブルを小さくしていけたら、そして「まいっか」と思う回数を増やしていけたらなぁ、と。

 

 ※サムネイル画像が後から追加できるのか実験。

靴下、中学の校則ではくるぶし丈でワンポイントまで、だそうで。梅雨が来るし、やっぱり買い足さないとだわ。

お兄さんになった、長男のこと。

4月から中学生になった長男。

朝食の食器をキッチンに運んだら、自室へ。

 

居間でテレビを見ながらダラダラ過ごしていた小学生3人がランドセルを背負ってワラワラと家からいなくなる頃、学ラン姿で静かに部屋から姿を見せて、嵐が去った後の散らかった居間をすっと通り抜け、「行ってきまーす」と低い小さな声。

 

kangaeruhito.jp

 

午前中の仕事がひと段落したところでふと目に留まって読んだ村井さんのエッセイ。

読みながら、長男のことを思う。

 

1歳半でお兄ちゃんと呼ばれる立場になって、

6歳ですでに3人の弟妹がいた長男。

 

下の子たちのお世話に翻弄される中で一番甘えたかった時期に多分全然甘えられなかっただろう彼が、やっぱり私が弟妹のお世話にあたふたしているうちにあっという間に中学生になってしまっていた。

 

仕事用のPCデスクの前に貼っている子供たちの写真の数々。

幼稚園の運動会で張り切る長男の姿は私が気に入っているもののひとつ。

 

 

写真の中の長男の姿。

 

私の腕に抱かれていた小さな彼が

もみじのような小さな手を繋いで一緒に園まで歩いていた可愛かった彼が

運動会で「転んでも泣かないよ」と一生懸命走っていた彼が

 

気づけば自分と肩を並べるほど大きくなってしまっていて。

 

小さな長男の写真の隣には、小学校最後のサッカーの試合で撮った姿。

それは我ながらよく撮れた一枚で、ユニフォーム姿で芝の上に立つ彼は高校生の頃の(当時は痩せていてかっこよかった)夫を思い起こさせるようなスラリとした立ち姿。

 

玄関に並んだスニーカーはいつの間にか私の靴よりも大きく、

並べて干したズボンの股下はよく見ると私のものよりも長い(悔しい)。

 

あぁ、もう立派なお兄さんになったんだなぁ。

 

目の前にひたひたと迫る思春期。

おそらくはこれまでとは違う形になっていくであろう長男との関係。

 

私も、親として新しいステージに入ったんだなぁと、寂しいような、ちょっとワクワクするような、不思議な気持ちになる春です。

どうしても食べられなかったチーズの記憶と、食べられない「何かしらの理由」

TLが偏食の話題で賑やかです。

NHKの「おはよう日本」で発達障害の偏食と過敏のことが取り上げられたからみたいですね。

 

わたしと偏食

Twitterで何度か書いたことがありますが、わたしは生魚がほぼ食べられません。

これを告白すると「本当に美味しいのを食べたことがないからじゃない?」と言われることもあるんですが、過去に景気の良い時に羽振りが良かった父が肴にしていたお刺身や勤めていた会社の社長に連れられていった高級料亭で食した時もやはり不味いと感じたので、本当に自分には合わない食べ物なんだろうと思っています。

 

他にも食感がどうにもダメで食べられないものがいくつか。

 

プロセスチーズの匂いと食感は大嫌いで、小学校の頃は給食の時間にどう頑張っても食べられず、いつまでも片付けさせてもらえず泣きながら口に運んだ思い出があります。

 

 

あの頃「クラス全員が食べ終わるまでグラウンドに出てはいけません」というルールを作った担任のせいで早く場所取りをしたい男子にものすごく文句を言われたことは未だに覚えています。先生、まだ私、あのルールを作った先生を許せてないです。

 

食べられるチーズと食べられないチーズ

プロセスチーズは食べられませんが、ピザ用チーズというのに出会って「チーズ食べられる」と気づきました。

その後、お菓子作りで出会ったクリームチーズに始まり、パルメザン、モッツァレラやゴルゴンゾーラ、あれこれチーズを買っては食べてきましたが、どれも食べられないものにはまだ出会ってません。

あんなに嫌いだったチーズ、本当は嫌いじゃなかった。

むしろお金を払って買い求めるほど、好きな食べ物の一つになりました。

でも未だに、プロセスチーズだけは食べられません。

それが本当に苦手だから食べられないのか、あの頃のトラウマがそうさせるのかはわかりません。

 

雪印 6P チーズ

雪印 6P チーズ

 

子供の頃見たくもなかったこの三角チーズのパッケージ…

でも上3人はかなり好きみたいで欲しがるのでよく買ってます。

 

プロセスチーズは食べられなくても

プロセスチーズってそもそもなんだ?と思って調べてみました。

日本で昔からなじみが深いのが「プロセスチーズ」。
原料は1種類または数種類の「ナチュラルチーズ」で、細かく刻んでから加熱溶解し、乳化剤などを加えて再び成型したのが「プロセスチーズ」です。『スライスチーズ』や『6Pチーズ』などさまざまな形に加工されます。
加熱殺菌しているため保存性が高く、嗜好性や用途に合わせてお好きな種類を選べます。

ナチュラルチーズを加工したもののよう、ということはナチュラルチーズや同じようなとろけるチーズを食べている私はプロセスチーズが食べられないという理由で困ることはほぼ無いんですよね。

 

乳製品は大丈夫だからアレルギーとかではなさそうだけど、とにかくなんでかわからないけどプロセスチーズだけはどうにもダメ。発達障害ゆえの偏食と関係があるかもしれませんが、真相は闇の中です。

 

でもまぁ、チーズに限らず、これだけ色々な食品食材が手に入る状況であれば、何か特定のものが「何かしらの理由で」食べられないということはそれほど大きく騒ぐようなことではないんじゃないかなぁ、というのが私のスタンスです。

 

「何かしらの理由」

特定の食材が「なんでかわかんないけど」いや、っていうケース、発達障害という診断がなくても起こりうるんじゃないかな、と思っています。

 

我が家にはアレルギー児の末っ子がいます。

卵と乳で皮膚症状や喘息発作を起こすことがあるので入学を控えて給食での配慮をお願いしているところです。

 

ただ、彼のこの卵と乳の除去、本当にアレルギーだけが原因なのかははっきりしていません。

 

アレルギーというと血液検査、とよく言われますが、あの数値と症状の有無や出方はイコールではありません。

数値がすごく高くても全く症状が出ないこともあるし、数値が規定以下でも発作を起こすこともありうる、それがアレルギーの難しいところです。

 

末っ子は血液検査を繰り返して卵と乳の数値がだんだん下がってきたので、少しずつ食べてみる試験を進めているところです。その中で、マヨネーズをいれたマカロニサラダは喜んで食べましたが卵焼きはどうしても食べたがりません。

少し食べてすごく嫌な顔をする。

 

ヨーグルトは喜んで食べましたが、プロセスチージはやはり少しかじってあとは拒否。

 

結局、乳も卵もなかなか食べ進まず様子を見ているところです。

 

主治医に「これは単なる好き嫌いなんでしょうか」と相談したところ、

「うーん、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。皮膚症状や分かりやすい発作としてではなくもしかしたら口の中や喉が少しチクチクするとかその程度の反応が出ているのかもしれないし、感覚過敏で嫌なのかもしれない、何かはわからないけど、とりあえず本人が嫌なら無理強いしないようにするしかないねえ」とのこと。

 

発達障害に起因する偏食や感覚過敏、アレルギー…私の身の回りだけでもこれだけの「何かしらの理由」で特定の食べ物を嫌がる可能性が見えます。

知らないだけでもっと他にもきっと色々あると思う。

味覚の障害や加齢による影響もあるかもしれない。

 

「食べられない」ことが悪いわけじゃない

末っ子はアレルギーがあることにも起因して、食べられないものがいくつもあります。

園生活でもお友達と同じものが食べられないこともよくありました。

幸い、それで本人が辛い思いをしないよう先生方が気をつけてくださっていたので、お友達ともそれで何かあったりはしていないようですし、本人も「僕は食べられないからしょうがないし〜」とケロッとしています。

 

我が家には末っ子以外にも、それぞれの子供達にそれぞれの好き嫌いがあります。

その好き嫌いの理由が何なのか、私にもわかりません。

食わず嫌いだったこともあるし、何度か勧めて食べてみてもやっぱり嫌っていうこともありました。

年齢が上がったら食べられるようになったものもあるし、長く嫌っているものも色々。

 

でもそのうち食べられるかもね〜という程度であまり気に留めずにここまできています。

学校でも昔のような強制はされていないようなので子供達が私と同じような辛い思い出を作らずに済んでいて助かっています。

 

栄養は他のもので補えばいいし、1日で帳尻が合わなくても1週間くらいかけていろんな栄養素が取れてればいいかな〜と思ってゆるゆると好き嫌いだか偏食だか感覚過敏だかアレルギーだかわからないなにかと今日も付き合って暮らしています。

 

おまけ

そういえば過去にもこんなことについて書いたことがありました。

 

 

紙オムツ自販機の実現とコンビニ紙おむつ問題、そこにあるのは性差か、それとも。

こんな記事がTLに流れてきました。

 

男性が言えば通るのか…という声

いろんなコメントが寄せられる中で、女性が言っても通らないことが男性だと通るのか…という声も少なからず見られました。

 

少し前に流れた同じYahooニュース

ツイッターで起こったこの声についての記事では「買う人がいないから」「ストックを切らすのが悪い」という辛辣なコメントも多く見られました。

 

男性が提言すれば実現するのに…という声はこの、2つの声への対応の差から生まれたものなのかな、と思います。

 

2つの声の違い

この2つの提言、男性発信と女性発信、という違いに括られて語られているようなのですが、実際はちょっと違ううような気がしています。

 

紙おむつ自販機の記事では

「こんなモノがあったらいいな」という子育て中の父親の声を受け、地元のNPO法人「こまちぷらす」(森祐美子代表)や企業が連携、約1年かけて開発した。

(中略)

こまちぷらすは、ヤマト運輸神奈川主管支店と協働で「ウエルカムベビープロジェクト」を展開中。地域で子どもの誕生を祝う文化を醸成しようと、戸塚区の新生児の家庭に「背守り」と呼ばれる刺しゅうなどを贈っている。

自販機設置のきっかけは同プロジェクトのワークショップ。育児に必要なモノをテーマに意見交換する中で、参加者の一人、同市在住の団体職員池田浩久さん(40)が提案した。

(中略)

森代表は、父親の声を受けて誕生したことや、実現に向け地域の人たちが協力したことは、これからの子育てを象徴していると評価。

と書かれています。

 

実績のあるNPO団体が企業と提携したプロジェクトのワークショップの場ででた意見を元に実現に向けて複数の人や団体が動いた結果、実現したもののようです。

 

かたやコンビニにオムツを、という声はツイッターで起こったもの。

共感の輪は広がっていったのだけれど、実際にはニーズの吸い上げが難しく、商品としては存在しているものの置いている店舗は限られてしまうという企業側の声が記事の中でも紹介されていました。

 

この2つの声からの流れの違いは発信が男性なのか女性なのか、ではなく、声が起こった場の状況と主体的に関わっているメンバーの立場、戦略的に実現につながるノウハウの有無など、性差とは違う要素も大きく関わっていたためと考える方が自然です。

 

PTA絡みでで出たとある声

話は少し変わりますが、先日参加したとある会合の中で長年PTAと関わる男性から「なぜお母さんたちは会議の場で意見を出してくれないんだろう」と相談を持ちかけられました。

私も実感のあることなのですが、会議、役員決め、何かを決める場、というPTAの中では割とよくある場面の中で、会議の最中に意見を言う女性はそう多くありません。

思ったことをとりあえず言う種類の私のような女性は大変に浮くのですが、その男性が言うにはそうやって色々と意見が飛び交うような会議を行いたいのだけれどなかなか難しい、意見はあっても後から伝え聞いたりして結局改善に繋がらないことも多くてもったいなく思っている、とおっしゃっていました。

 

提言を実現させるためのノウハウ、手段と、性差

こんな話をしていると「女は話し合いができない」「男はうまくやれる」という流れになりがち。

でも実際はそうじゃないと思うんですね。

そんな記事をかなり前に書いてたのを思い出しました。 

女という性がそもそも話し合いができない、何かを実現させるのが下手、というわけではないんですね。

長い間育児や介護を女性の仕事だとしてきた(その結果男性が関わる機会は乏しかった)結果、女性の方がうまくやれるように見えている、錯覚しているに過ぎない。

 

それと同じように、恐らくは女性の多くが「会議の場で自分の意見を主張したり、実現するために尽力する」という機会が乏しかった、その影響は大きいのではないかと思います。

 

抑圧されてきた過去と、今と、これから

女性が抑圧されてきた過去をなかったことにすることは当然できませんし、私の住む九州の片田舎では今も露骨な女性差別を目の当たりにすることもあります。

ネット上でも驚くような性差別が存在するのもまた事実です。

 

でもそれにとらわれるあまりにうまくやれるはずのことがうまく回らないのもまた勿体無いなぁとも思うのです。

 

紙おむつ自販機が実現した背景には、たくさんの方が企業も含め周りとうまくやりながらこぎつけていった経緯があると思います。

その背景には男尊女卑だった歴史が無関係だと言うことはできない、関係はゼロではないでしょう。

 

もともと男社会だった企業のやり方もあるかもしれないし、男性の声の方が通りやすい風潮はまだまだあるかもしれない。

 

そこと上手に向き合い、時に利用しながら、自分たちの声を実現につなげていくやり方はきっともっともっとあるんじゃないかな、と思うのです。

抑圧されてきた過去と少しずつ変わっていく今から、戦略を立てて生き抜いていく。

みんなでそうやって前向きに協力していけば、コンビニの陳列に影響を与えることだってできるのかも、と思ったりしています。

 

おまけ

余談ですが、会議の場でなぜ女性の発言が出ないのか、ということについては発言機会の有無やその歴史だけで考えられることではないと考えているんです。

というのも夫経由で聞いた話ではPTAの中でもお父さんだけの会議の場で似たような沈黙の時間が起こることはままあると。

 

組織のあり方や責任の所在、仕組みの問題も大きいのでは、と考えていますがここでは話がずれていくのでそれはまた別の機会に。

読書離れを子供の問題にしてはいけないと思う

大学生の疑問の声

今朝のTLに、読書についてのツイートが流れてきていました。

大学生が新聞に投稿した文章の中には、「1日の読書量が0分という学生が五割という記事に懸念の声が上がっている」と書かれ、「役立つかもしれないが読まなくても生きていけるというのが本音」「楽器やスポーツと同じような趣味の範疇」と続き、「読書をしなければならない確固たる理由があるなら教えて欲しい」と締めくくられていました。

 

TLに並んでいた、数々の反論

私のTLにはその大学生の投稿に対して色々なかたが読書の有用性について触れているツイートが並んでいました。

うん、その一つ一つには私も納得のいくものが多い。

でも、違和感はあるのです。

私もその大学生と似たようなことを考えたことがあったから。

 

「本を読みなさい」という大人たち

小学生の頃から、本をたくさん読む子どもは褒められていました。

図書室の貸し出しカードがたくさんたまると賞をもらえたりもしていましたし、規定の本を読んだかのチェックシートが教室にはられることもありました。

私は読書が苦にならずむしろ活字の虫のように読んでいた子だったので、その風潮に馴染んでどんどん本を借りては読んでいた記憶があります。(自己肯定感の低い子だったので、本を読めば褒められるというのが一つの社会的自尊心を満たす手段になっていた可能性もあります)

 

息子たちの学校では今も当時と同じように、たくさん借りた子が表彰をされたりする仕組みが残っています。

図書室の前の廊下には、たくさん本を読んだ子の名前が掲げられていたり、長期休みには何冊読みましょう!という宿題が出たりします。

 

それらを目にするたび、ふわっと違和感を覚えるのです。

そんな風に、強いて欲しくないな、と。

 

私にとっての「読書」

読書というものについて考えた時、一つのツールに過ぎない、というのが私の中の答えでした。

テレビでも映画でもネット上の記事でも漫画でも人との会話でも、私たちは色々なものから日常的に情報を得ています。私にとっては本はそれらと同じような、一つの情報源というイメージです。

もちろん、テレビと映画館で見る映画から得られるものがそれぞれ違うように、同じテーマであっても小説を読むのと漫画で読むのとは少しずつ違うものが得られるとは思います。

 

その様々なものが得られるツールの一つが、私にとっての本です。

 

心の安寧を得る時間を共にするもの、知識や教養を得るためのもの、誰かと情報を共有するためのもの…人それぞれ、また本それぞれに色々な目的があるだろうとは思います。

認知特性により合う合わない、向き不向き、色々人によって違うわけで、いろんなメディアからいろんな情報を、それぞれが好みに合わせて選べばいい、その一つが本なのかな、と。

 

本を読むことのメリット

新聞も含め、活字を目で追うことだけでしか得られないメリット、というのは確実にあります。読書を勧める大人たちの中にはそれを具体的に想定している方もたくさんおられるでしょう。

 

パッと思い浮かぶだけでも、語彙力が高まること、自分のペースで文字を追っていくので他のメディアより能動的なメディアであること、進学につれて必要になる読解力や文章を綴る能力が高まるだろうこと…

いろんなメリットが、読書にはあるのは事実です。

たくさんのメリットがある、たくさんの発見がある、電源も必要なく比較的安価に手に取ることができ、人と共有することもでき、世界が広がっていくツール。

私もそれを知っているから、こうやってブログを通して絵本のことを発信したり、いろんな学校を回って読み聞かせボランティアを続けています。

 

卒業生への最後の読み聞かせの時間を担当させてもらえたらよく読むのがこの絵本です。本は想像力の海を満たす大切なツールの一つだよ、と伝えています。

 

本に、読書に、マイナスのイメージを持って欲しくないから

我が家では子供たちに「本を読みなさい」と言ったことはありません。

狭い狭い家の中に、玄関から廊下、居間、子供部屋、スペースを見つけたら本棚を置いては本を詰め込んでいます。何も言いません、ただそこに置いています。

 

全く興味を持たれていない棚も、掃除を怠るとホコリをかぶってしまって慌てる棚もあります。それでも、何も言いません。

いつか背表紙の文字に目を留めて、いつか琴線に触れる日が来たら手にとってもらえたら母さんとしては本望なのです。

 

うちの子たちに読書を強いていないのは、本を嫌いになって欲しくないから。読書という行為に負の感情を持って欲しくないから。

うちの子も1日の読書量が0分という日もおそらくあります。でも突然図書室からたくさん借りて来て読みふけっていることも、私が読み聞かせボランティア活動のために定期的に行く図書館について来てあれこれ借りて帰って楽しんでいることもあります。

 

読書という行為そのものを押し付けられ、義務的に本を読んでもつまらないんじゃないかなぁ、と思うんですね。だから我が子には絶対にしたくない。

うちの子たちも好きな絵本は何度でも繰り返し読んでいるし、学校の子供たちも面白い本は順番を待ってでも借りたがります。

読み聞かせで読んだ本が後日学校で借りられているとちょっと嬉しい(心の中でガッツポーズ)。

 

 

子供の問題じゃなくて、大人の問題

投稿をした大学生のように、本を読めという圧力から読書そのものに負のイメージを感じている人も多いんじゃないかなぁ、と思ったりしています。

 

昔より、私たちが小さいころより、今のほうがテレビにしろゲームにしろ、子供たちが触れるメディアは確実に増えていて、本というメディアと触れ合う時間が相対的に減ることは仕方がないことと思います。

 

でも、時間が減るだけではなく読書という行為そのものに負のイメージを持っていたり、嫌っていたりする子供やそこから成長した大人が存在するのもまた現実なんだろうなと思うと、それは子供の問題ではなくて、たとえ良いものだとしてもそれを強いてきた大人の問題なんじゃないだろうか、とも思えてくるのです。

 

本の良さを勧めるがあまりそれが強制として働き、義務としての読書を子供たちに敷いて来た代償が、今の本離れ、本を読む時間が0分の学生が5割、という現実なのではないか、それは、あまりにももったいない。

 

子供の読書離れを嘆く前に、私たちは大人として子供たちを尊重しながら本に触れる場を作っただろうか、と考えたい。子供たちが喜ぶ本を、手に取りたい本を、手の届くところに用意できただろうか、子供たちがそれを自由に楽しむ生活を提供できているだろうか、と再考したい。

 

読書という行為を強いるのではなく、自分が面白いと思った、自分がワクワクした、自分が何かを感じた、そんな本たちを「よかったらどうぞ」ってそっとそこに置いておく、そんな大人でありたいなぁと思うのです。

 

 

おまけ。

ブコメにもあった自宅での読み聞かせについてですが、うちでは今は私からそれを促すことはありません。子供たちが「読んで」と持って来れば可能な限り応じています。

子供がゲームしてる横で私が絵本を読んでいて、寄ってきた子供に「それ読んで」と言われることもよくありますね。

 

本を好きになってほしい、というより「本を嫌いにならないでほしい」という気持ちの方がしっくりくるような気がしています。

「折り合いをつける」という視点

最近、「折り合いをつける」という言葉が気に入っていて、よく使っています。

これまでの人生でも色々やってきたことだとはと思うんですが、この言葉を通して意識することで色々としっくりきた感じがしているのです。

 

公の場での「折り合い」

年度末を前に、私や夫の周りでも役員ぎめだの引き継ぎのための話し合いだのが頻発していてパンク寸前な我が家です。

先日参加したとある会合の中である議題についての意見が交わされる場がありました。

 

理想と現実

Aさんが主張していたのは、正論でした。

こうあるべき、こうすべき、というど正論。

人員に余裕があり、能力のある人が集まっていて資金も潤沢にあり、担当者への適切な報酬が支払われる前提であれば是非そうしたい、と思うような、理想的なありかたでした。

 

でも現実には、私たちが参加している会はギリギリの資金で、保護者の有志がボランティアでやっています。

 

試験や色々な条件をクリアして入会した人たちの集まりではなく、保護者は経済的にも能力的にも雲泥の差があるだろう状態、役員になるのも優れた人だけの特権ではありません。みんなで持ち回りですし、当然報酬らしいものは皆無です。

 

Aさんが主張していたことが実現すれば組織はもっと健全になるだろう、ということはわかります。が、それを実行するための土壌がそこにはありません、もし無理に導入すれば役員になる人の負担が増大して運営に支障をきたすことも想定されるし、長期的に見ればその負担が大きいことが災いして入会希望者が減ることも、そのために存続が難しくなることも十分あり得ます。

 

現状の組織の中と、先を見越した結論から言うと、Aさんの主張をそのまま受け入れることは難しいと言うのが、私たちの会の現実です。

Aさんの主張の方向性は汲み取りながら、じゃあこうしたらどうだろう、という妥協点を見つけるための話が進みました。(若干腑に落ちない様子ではありましたが)。

 

「折り合おう」とする姿勢

似たような場面で折り合いがつけられず意見が拮抗して口論に至ってしまうことも、たまに見かけます。

違いは、意見が食い違う双方に「折り合う点を見つけよう」と言う視点があるか否かだと考えています。

 

自分の意見を持ち主張する、と言うところまでは同じです。

違うのはそこから、自分の意見が正しいのだから周りがその主張に合わせるべきだ、となるか、自分の意見はこうだけど周りの意見や全体の現状や将来の状況などに照らして全体として今後どうしていくべきか、となるか、その視点の有無、視野の広さ、見通しが立てられるか否かの違いなのかな、と。

 

正しいとはなんだろう。

ここで一つ考えたいことがあります。これは最近子供たちとよく話すことでもあります。

「正しい」と自分が思っているそれは、いつでもどんな場でも正しいのだろうか、共通なんだろうか、いかなる場でも主張できることなんだろうか、と言うこと。

前述のAさんの意見は、Aさんにとっては最適解だったのだろうと思いますし、法的な問題もなく、決して間違った話ではありませんでした。

本来あるべき形、望ましいあり方、理想的な状況、ではあったかもしれません。

が、この会でそれを突き通すことで起こりうる弊害については想定されていなかった。

 

Aさんにとって正しいと考えていたことは、ある場では最適解かもしれなかったけれど、この場ではそうではなかった。

 

自分の思う正しさというのは、あくまでも自分の脳の中での答えでしかない。

集団全体にとっての正解が、自分の思う正しさとイコールになるとは限らないし、その正解を見極めるためには集団の性質や周りとの関係性や時勢や色々な要素から掘り下げていかないといけないのではないか、と、そんなことを子供たちと最近よく話しています。(最近だと次男と話したメダカについての話はまさにそんな会話だったんじゃないかと思います。) 

 

おわりに

ここまで書いてきて、この「折り合いをつける」というのがこれまで私がブログや色々なメディアで記事を書かせていただく中で言葉にしてきた、夫婦の関係にもつながっていくのだなということを感じています。

 

理想的な夫婦像というのはあるかもしれません。

でも現実には、妻は自分であり夫は目の前にいるその人、そして子供たちや舅姑などの家族、家の形状や土地柄、いろんな要素が絡み合っている中で生活している。

 

その中でその集団にとっての最適なあり方を見つけるために必要なことは、主たる構成員がお互いに「折り合いをつけていこう」という意志があることなのかもしれない。

それを持たずに「自分が正しいのだからこうあるべき」という姿勢でいたらいつまでもその折り合う点は見つけられないのかもしれない、と思ったりしています。

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