スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

組体操が無くなった運動会の感想文

今年度からなくなった組体操と保護者の反応

昨年度から何かと話題になっていた組体操、ついに息子たちの学校でも今年度の運動会から別の競技への変更となりました。

 

昨年度まで組体操を堂々とこなす高学年の子供たちを見て感動をしていなかったわけではありません。長男が1年生の頃に初めてそれを目にしたときは、うちの子がこんなことできる日がくるんだろうか…!って驚いたし、機敏な動きの子供たちが最後にタワーを完成させたときはすごいなぁと感動したのも事実です。

 

でも毎年練習中に軽微とはいえケガをした子の存在も知っていたし、体格のいい子が一番したで辛そうだったのも見て来ました。

 

批判も覚悟の上で変更を決めてくれた学校の英断にまず最初に感じたのが「我が子の大ケガを心配しなくてよくなった」という安堵。

あぁやっぱり自分もあの競技にこれまで不安を感じていたんだ、と改めて意識しました。

 

声高に変更についてもの申す保護者はいなかったものの、どうなんだろうね〜ちょっと寂しいね〜という反応はチラホラ見られていました。

 

 

子供たちの反応

組体操が無くなった!という情報はすぐに子供たちの間で広がっていき、帰宅後に長男が「組体操ないって、やったーーー!!!」と口にしたんですね。

昨年度練習を経験している彼にとっては、組体操は辛いものでしかなかったようです。次男は自分が経験していないためそこまでの喜びようではありませんでしたが、それでも周囲からあれこれ聞いてきての感想として「違うものになって良かった…」とこぼしていました。

 

うちの息子たち以外の高学年の子たちも口を揃えて喜んでいる様子が見聞きされ、あぁこんなにしんどいだけのものだったんだなぁ…と改めて。

子供たちはこれまで組体操の無い運動会を知らなかったからやってきていただけで、本当に辛かったんだろうなぁ…と過去の卒業生たちの顔が浮かんだりもしました。

 

数日後には代わりに導入された演舞の練習のきつさに弱音を吐くようになるのですが、それでも「組体操よりはマシ…」と長男の感想。

 

当日は確かに組体操ほどの大掛かりなパフォーマンスではなかったものの、練習の成果が見える演舞を披露してくれました。

 

「組体操」というパフォーマンス

あの組体操が何故こんなに長い期間続いているのかは私にも良く分かりませんが、他の色々な競技に比べて「がんばってるところが分かりやすい」というのはあるんだろうなと思います。

きびきびした動き、小集団でのパフォーマンスからだんだんと大掛かりになっていく披露の仕方、決まった!という瞬間。

 

パフォーマンスという面では、確かに良くできているとは思う。

 

近隣の幼稚園でも組体操を取り入れている園があったのですが、そこは体育を専門に指導する教室が年間通して行われていて、その中で練習を続けた成果を披露する、という形で行われていました。安全性にもかなり配慮されている造りになっていて、無理なく見栄えのする演技で構成されていて、専門家が絡むとこうなるのか〜と感心しました。

 

小学校ではそこまでの専門性の高さは求められない。その結果が、過剰なパフォーマンスや行き過ぎた指導によって子供たちを心理的に追いつめたり、ケガを誘発したりすることにつながっているのかもしれません。

 

息子たちの学校でも、変更を決めたときの学校からの説明のなかで「運動会練習という1ヶ月足らずの短い期間で練習して仕上げていいような種類の運動ではなく、その無理を子供たちにはさせられない」というお話があり、世論で批判されているから、ただ危険だから、という理由で思考停止的に変更を決めたわけではないことも学校の判断に好感が持てた理由のひとつでした。

 

「がんばっている姿を見たい」親の心理

親としてはやっぱり、運動会で子供ががんばっている姿を見るのは嬉しい。

発達に困難のある次男にとっては毎年様々なハードルのある運動会でもあるけれど、それでも去年より今年できるようになったこと、成長が見られること、それを見ることをやっぱりどこかで期待しているような気がします。

 

その親の心理が、組体操のような派手なパフォーマンスを下支えしてきてしまったのかもしれません。

 

見えなくてもがんばってた子供たち

運動会という場で、保護者が子供たちを主に見るのはグラウンドの中に居る姿だろうと思います。テントや限られた撮影スペースから、用意された場に出て来た子供たちを見る。数年前まで私もそれがメインでした。

 

ここ数年、PTA関連のお仕事があったり色んな理由で運動会開催中に保護者テントではないところをウロウロすることが増えてきて、今年度は複数の役目をうっかり引き受けてしまったこともありほとんどテントに座る暇なく、ずっと本部やグラウンドの中や児童席周辺をウロウロし続けていました。

 

そこで見たのは、舞台裏での子供たちの姿でした。

 

用具や進行など高学年の子たちはそれぞれが1人1つ係を担当し、低学年の子たちに招集をかけ入場門に並ぶよう指示をだしたり(「静かに」とか「2列で」とか手書きで書かれたボードを出して知らせていて「視覚支援だ!すごい!」と思いました。)、プログラムに合わせて用具を持ってグラウンドとテントをダッシュで往復したりしていました。

 

応援団の子たちは応援合戦としてグラウンドに出る以外の時間にもずっと交替で児童席で声援を送っていて、それに合わせて席や入場門で待機する子たちも大きな声で応援し、児童席の後ろで紅白の応援旗を交替で振っている子たちもいました。

 

体調の悪そうな子にいち早く気づいて救護テントへ行こうと促す子、演技のあとに足にハンディのある子の肩を抱えて一緒に児童席へ向かう子、衣装の着替えを急いでやるために遅い子を手伝ってあげる姿もありました。

 

救護テントには運動会を嫌がっていた子が座っていて「お、来たね」って声をかけたらニヤッと笑っていました。

 

派手でなくても、ずば抜けて秀でてなくても、子供たちはそれぞれにそれぞれなりにがんばってるんだよなぁ…と改めて感じた一日でした。徒競走で一番になるとか、組体操で華やかな姿を見せるとか、そんなの子供たちにとっての運動会のごくごく一部でしかないんだなぁと。

大人が分かりやすいがんばりだけじゃないんだよなぁと。

 

おわりに

私は今年たまたま色んな子たちを見てまわることができたけれど、どの保護者もそうすればいいってわけでもないんだろうなとは思います。

 

その子なりのいろんながんばりが、たとえそれが周囲から分かりやすいものではなかったとしても、親の目に写るものではなかったとしても、きっとそれぞれにあるんだろうなと思う。それがあるってわかってたら、派手な組体操なんか別になくてもいいんだよなぁって思ったりするのです。

 

集団の中で秀でた運動能力を見せるとか、カッコいいところを披露するとか、それだけが運動会じゃないんだよなって。

 うちの子たちは足もそんなに速くないし、運動会は活躍の場というわけではなかったりします。むしろ練習が辛くて運動会なんて無くてもいいとすら思うこともある様子。

 

でも、

長男は騎馬戦でちょっと活躍できたのがうれしかったようです。

次男は踊りをほめられたり、係の仕事をこなせたことが自信につながったようです。

娘は走るのがもっと早くなりたいから練習したいと思ったようです。

 

それぞれがそれぞれにステップを上がれたんだろうなと思う。それが、運動会の本来のあり方なのかもしれない。それを感じる場に同席できたこと、それを子供たちと話す機会がもてたこと、それがありがたかった、そんな今年の運動会でした。

「人を頼って生きる」ことと「共依存」

久しぶりにブログを書いています。

 

今日は、最近はてなTwitterで話題になっている18歳の大学生についてのイケダハヤトさんのこの記事を読んで気になったことを。

 


「登記が難しくてできない」

イケハヤさんのこの記事にもリンクされているけんすうさんのnote記事で、けんすうさんが石田さんと話した内容が記されています。

 

この中で「登記が難しくてできない」と二の足を踏んでいる石田さんに

「登記とかは超カンタンなはず。司法書士に頼めば一瞬だし、自分で調べてもできるはず。少なくても登記くらいの手続きレベルの話はすぐに終わらせたほうがいい。イメージ的には今日中にすすめるくらいじゃないと辛いと思う。」(起業家志望の石田さんと話してみた時のメモ|けんすう|note

 

と勧めるけんすうさん。

対してイケハヤさんはご自身のツイートで

スタートはみんな大したことないですよw ぼくも最初はひどかった!まともにビジネスできるようになったの最近ですよ……。登記は難しすぎて妻に任せましたw (石田祐希を笑うな。 : まだ東京で消耗してるの?

 と書かれています。

 

できないことを人に頼る姿勢

けんすうさんの実業家としてのスタンスからしたら、イケハヤさんの「妻に任せた」って情けない、って見えるかもしれない。でも私は、それもありだよなぁと思うのです。

 

人間、1人で最初から最後まで何でもやり遂げられるわけじゃない。

能力的に無理なことも、時間的に無理なことも、金銭的に無理なことも、いろいろ。

何かやろうとしたときに、人を頼らずやり遂げないといけないなんてきまりはどこにも無いわけで、できないことは人を頼ればいいと思うのですね。

 

けんすうさんも司法書士というプロを提案しているように、請け負ってくれるプロに対価を支払って頼むという手もあるし、イケハヤさんのように頼りになる配偶者にお願いするという手もある。

 

自分で頑張る、だけが答えではないんですよね。

 

「欠けた人間」としての私

私がそう思うのは、自分がとても欠けた人間だからかもしれません。

 

注意欠陥傾向のあるの私は、自分一人ではスケジュール管理すらまともにできません。

同僚や夫や友人、ときに子供たちにも協力をしてもらって、仕事や学校関係の諸行事や子供たちに関わる自分の予定を管理するお手伝いをしてもらっています。

 

お金の計算も苦手ですし、複数の女性と平和的に話し合いを進めるのも苦手です。その辺も場により事情を説明して協力を依頼することはよくあります。

 

自分のものすごく苦手なことを意地を張らずに認めて人を頼ることができるようになったのはごく最近のこと。

それまでは高過ぎる無意味なプライドのために自分で何でもできると抱え込んではやっぱりできずに崩壊していました。そういう過去の自分と今の石田くんの存在がどこか重なることも気になる所以かもしれません。

 

共依存の怖さ

過去の私は、自分に何が欠けているかを理解もせずに周囲の人が適切に助けてくれるのを待っていたような気がします。そしてそれはとても危険な状態でした。

 

なぜか。

 

自己理解がない状態で人を頼ること、人に甘えることは、共依存を産むからです。

 

自分が得意なこと、苦手なこと、自分に欠けていることを知ること、どのように人を頼れば良いかを考えること、そのステップを踏まずに誰かを頼るということは、その人と自分の境界線を見失うということ、それが、共依存です。

 

寄りかかった相手が自分の依存を嫌って距離を置かれたら、1人では立てないから倒れてしまう。

自分が自分という1人の人間として立つことを止め、相手に寄りかかり、相手が1人の人間として立つことを阻害してしまう、そんな人間関係に陥ってしまいやすくなってしまうのが、共依存の怖さです。

 

共依存にならないための、自分のトリセツ

人は1人では生きられません。

なんでも自分で全部こなすことはそうそうできません。

 

だから社会を形成して生きているし、補い合って暮らしている。

できないことは人に頼っていいんですね。

 

でも、自分のことをちゃんと知らないと共依存に陥ってしまう。

 

それを防ぐために必要なのが、自分自身の取扱説明書を把握すること。

欠けている人間である自分のトリセツを、自分で持っておくこと。

自分自身を自分で知っておくことです。

 

知って、頼る

自分自身を知って初めて、自分の足で立った状態で人を頼ることができるんじゃないかな、と思うのです。

相手と自分の境界線をしっかりと意識しながら、自分はこれが苦手だということを丁寧に表明できること、そして相手にそれを適切に依頼する。そのステップを踏めば、自分がどんな恩恵を受けたかを理解できるのでそれ対する感謝や労いや対価を提供することができるようになります。

 

おわりに

人を頼ってはいけない、何でも自分でやらないと、という妄想みたいなのに取り憑かれてしまいがちな人にとって、逆に「人を頼ってもいいんだよ」っていうのは光明でもあると思う。

でもその人を頼るという行為のためには何が必要なのかをちゃんとわかってやっていかないと、自分の思うような結果に至ることすらできないのかもしれない。

 

人を頼る、って、思ったよりずっと難しい。

 

だからこそ、まだ18歳の青年には難しいんだろうなとも思うけれどやれるようになったらどんどん世界が広がるんじゃないかなとも思う。

 

「ありがとう」「ごめんなさい」「困っているから助けて下さい」

 

これが建前でなく言えるようになること。

そのための最初のステップが、自分のトリセツを持つことなのかなぁと思ったりしています。

 

ぼくのニセモノをつくるには
 

 

「合理的配慮」を受けるためのプロセスと、その交渉のための第三の支援

「配慮」を求める声

ここ数日、映画の字幕のことで色々と議論が紛糾している様子を眺めていました。

聴覚障害のある方にとっては字幕が無ければ劇場では観ることすらできない、そこへの不満の声や、実際に現場で行われつつあるさまざまな配慮、今後実現可能性の高い技術などについて、色々な意見が交わされていました。

 

その中には、発達障害特性ゆえ字幕がついていることが逆に困難になるという声も存在し、障害に対する配慮の底の深さを感じています。私自身も字幕がついているとそこに意識が集中して画像を見逃したりしやすく、デジタルテレビの字幕のような不細工な文字が画面を埋めるような映像は観ていて辛くなるので、全映画に字幕がつくことになったら映画館で映画を観られるかは正直わからないところではあります。

 

一方に寄り添えば他方に支障が出るかもしれない、そうならないような体制が構築されていくこと、それは以前はユニバーサル(デザイン)と呼ばれ、最近ではインクルーシブという言葉が充てられることの多くなってきた配慮の理想的なあり方ではないかと考えています。

 

議論の中での「合理的配慮」のあり方

配慮について求める声やそれに付随する議論のなかで「合理的配慮」という言葉が散見されていました。

気になったのはその中に、この言葉の持つ意味を誇張してとらえられているのでは?という表現が見られたこと。ハンディを持つ人たちが権利を主張し、配慮を求めている中で、マイノリティが必要とし求める配慮はコストがかかっても提供されてしかるべきだととらえられている?と感じるような使い方をされているものもありました。

 

もちろん、定義を正しく把握された上で話をされていた方もたくさんいらっしゃったと思います。が、誇張や誤用が流布してしまうことが気になりました。

 

 

「合理的配慮」とは

合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるよう、一人ひとりの特徴や場面に応じて発生する障害・困難さを取り除くための、個別の調整や変更のことです。

2016年4月1日に施行される「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(通称、「障害者差別解消法」)により、行政機関や事業者には、障害のある人に対する合理的配慮を可能な限り提供することが求められるようになりました。

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

今年の4月に「障害者差別解消法」が施行され、その中で可能な限りの提供が行政機関には義務付けられ、民間の事業者には努力義務が課せられました。

 

この法整備により、これまでは配慮の内容や程度がサービス提供者に委ねられていましたが、障害を持つ人たち、障害により社会生活に困難が生じていた人たち、マイノリティ自らが配慮を求めることが可能になったことになります。

 

注意する必要のある「負担の重くない程度」という註釈

障害者差別解消法のもとでは、どんな配慮も求められたら提供しなければならないということにはなっていません。

ある人に配慮を行うことで、他の人たちの生活や活動が困難になるほどの影響が生じたり、あまりにも大きな負担を伴う場合は、「合理的」ではないとして、行政機関・事業者はその配慮を断ることができます。その配慮が「過度な負担」かどうかは、以下の観点を考慮しながら、行政機関や事業者が、個別の場合に応じて判断すべきとされています。
 
 ①事務・事業活動への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)
 ②実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)
 ③費用・負担の程度
 ④事務・事業規模
 ⑤財政・財務状況

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

 

過度の負担が生じない程度、という線引きが存在していることになります。

では提供側は「負担が生じるからできません」とバッサリ断ることができるか、というとそうではありません。

ただし、「過重な負担」を理由として配慮を断る場合は、配慮を求めた本人にその理由を説明する義務があります。また、負担が少ない形で他の配慮が実現できないか検討することが望ましいとされています。

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

 

合意形成のためのプロセス

合理的配慮を事業者などサービス提供側に求めるときには適切なプロセスを経ることが望ましいとされています。

①本人や保護者・介助者から、必要な配慮に関する意思表明をすること
②学校や企業、行政などがどんな配慮ができるか検討し、本人と話し合うこと
③どんな場面でどんな配慮ができるか、お互いに合意したうえで実施すること
④配慮を実施したあとも、定期的にその内容や程度について見直し・改善をすること

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

配慮を必要とする側が、必要な配慮に関する意思表明をすることがスタートです。

そして、それについて提供側が検討し、本人やその代弁者と話し合いを重ね、負担により不可能なケースについては本人側の納得のいく説明をし、代替案についても話し合い、お互いに合意した上でサービスが提供され、その後も定期的に内容を見直すためのコミュニケーションをとっていくことで双方にとって、また他の参加者にとっても過ごしやすい環境を模索していくことができるのではないかと考えます。

 

話し合いをするために

前述したように、合理的配慮を求めていく過程ではサービスを提供する側との交渉が必要となります。知的障害や自己肯定感の低さ、トラウマの存在など様々な理由により、ハンディを持つ当事者、不当な扱いにより心理的なダメージを受けた当事者が1人でその交渉の場に臨み対応するのが難しいケースも想定されます。

 

そのときに、当事者の求める必要な配慮を言語化し、形にして提供側に求め、交渉を進めるためのフォローをしていく代理人のような支援者が間に入ることも必要になるケースが出てくると思います。

 

交渉という第三の支援

辛い思いをしている当事者が声を上げることがまずスタートです。ネット上ではそれが、あちこちで起こっているのだろうと思います。

ただTwitterなどネット上のやりとりで難しいのは、その声が助けを求める当事者の声なのか、吐き捨てられただけの愚痴なのか、どちらなのかの判断がつきにくいこと(当事者がそれを区別して発信していないという可能性も含めて)。

そして仮想空間ゆえ、助けを必要としているのか、必要としているとしてそれを誰に求めているのか、の判断がしづらいこと。

 

それゆえにうまく言語化されていない状態の当事者の声が独り歩きして非難が集まってしまったり、言葉の誤用や誇張による誤解が生まれる可能性が生じたりと、配慮を求めるために本来必要なプロセスの外で不要な論争が起こり、それにより傷つく当事者が出てしまうこと、そしてそのやりとりのために障害者に対する偏見やさらなる差別が助長されてしまわないか、という懸念もあります。 

 

法が整備されたことで、外枠はできました。

今後はその枠の中で、これまで出てこなかった声からさまざまな配慮の可能性を模索し、言葉にし、配慮を求める交渉をしていくため支援が受けられる体制、そのレールを敷いていく必要があるのではないか、と考えています。

 

おわりに

コミュニケーションスキルのある人だけが得られる配慮、ではいけない。

 

どんな困難やどんなハンディやどんな心の傷がある人も、その人それぞれの主張を周囲に受け入れられる形で表出することが可能になるようなフィルターのような支援が、新たに必要になっていくのではないか、と考えています。

赤すぐさん連載、2回目がアップされました。

連載2回目

赤すぐnetさんの連載、前回の記事(幼児用ハーネスを使っていた私に、あるおばあちゃんがかけてくれた意外な言葉 by イシゲスズコ - 赤すぐ 妊娠・出産・育児 みんなの体験記)に引続いて2回目がアップされました。

 


今回は、以前書いたブログ記事のリライトのような感じ。

 

改めて見直してみたらブックマークが400超えてたんですねえ。

 

キッチンタイマー、現役です。

この記事を最初に書いたのは240日前、それから約8ヶ月経っていますが、我が家では今も今回の赤すぐさんの記事で描いたタイプのキッチンタイマー2台が元気に稼働しています。

 

いろんなライフハックを試しては合わないとサクサクやめていく我が家で、キッチンタイマーは我が家に合っていたということなんでしょうね。生き残ってます。

 

2台はそれぞれ、WiiUタブレットの使用時間を守るために稼働しています。

このタイマーの良いところは10分単位で押せるので30分なら3回しか押さなくても設定できるのがひとつ。子供でも操作がしやすくなってます。

もうひとつは時計代わりにもなること。タイマーとして使う以外のときはモードボタンを押せばデジタル時計として使えます。

 

そして私が一番便利だなと思うのがプレアラーム機能がついていること。

設定した時間の少し前にお知らせしてくれるので、子供たちにとってもゲームの時間を調整する目安になっているようです。

私も、プレアラームがなったところで「もうすぐだよ〜」と声をかけたりすることも。

 

時間の可視化

時間が見える、というのはやっぱり良いなと思います。

やっている当人だけではなくて、順番を待っている次の子にとっても「あと何分待てばいいのか」が分かりやすいのでもめることがかなり減りました。

 

私もそうですが、見通しを立てるとか先の事を考える、というときに視覚的に提示してもらえると自分の中に入りやすいようです。

 

聴覚優位なのか視覚優位なのか、人によって認知特性の違いがあるので必ずしもタイマーやデジタル表示が効果があるとは限らないかもしれませんが。

 


おわりに

普段長いブログ記事ばかり書いているので、赤すぐさんのような短くライトな記事を書くのに色々と苦悶しております。が、前回の発達ナビさんで書かせて頂いたときのように、お腹を壊しつつも少しずつ自分のスキルや見識が広がっていっているのを感じるのは楽しみでもあります。

 

今後も、できる範囲内ではありますがこつこつと記事を書いていけたらなぁと思っております。

 

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ワクチン論争を見て考えた、インターネット上で情報に浸かる危険性のこと

私のTwitterのフォロワーさんたちには医療関係者も多く反ワクチン派を否定する意見が良く流れて来ます。ここ数日それが加熱しているように見えていろいろと拝見していました。

 

余談ですが私は今のところ受けられる予防接種は子供たちになるべく受けさせている状態ですがワクチン全肯定派でも否定派でもありません。判断の結果そうなった、というのが現状です。

 

ワクチンを子供に接種させるかどうか、させないことがネグレクトなのかどうか、それぞれがどんな影響力を持つのか、その答えをここに書きたいわけではありません。

 

今日私が書きたかったこと、それは、その答えをネット上で求めることの危険性についてです。

 

ワクチン接種について戸惑った自分の過去

長男が生まれる前後、色んな本を読みあさりました。それこそワクチンを肯定するものから否定するもの、私のTLで叩かれている自然派育児を推奨するものや自宅で出来る手当法の本、科学的にそれに反論するものなど様々。

 

その中で読んだものに対して、ワクチン接種について過剰に否定的な意見のものもあり、接種について一瞬ひるんだ自分がそこにいました。

 

自分は何の疑問もなく接種してもらってきたものだけれど、副反応もある、後遺症が出ている人もいる…様々な事実を取り入れる中で「これを息子に接種しても大丈夫だろうか…」という不安が自分にもありました。

 

そのころにネットで色々と調べたんですね、それについて。

そこにはたくさんの、ワクチンを否定する意見がある。肯定する意見もある。たくさんの情報がそこにありました。

 

必ず存在する「私の願望」を肯定する情報

ワクチンに限らずですが、不安に駆られてネット上で何かの情報を探しているとき無意識に情報を選別していることが少なからずあります。

山のようにある情報の中から、自分の欲しいものを探しているんですね。

そして、それを見つけると安心する。肯定してくれる人が居た、やっぱりそうかと安心する。

 

そのたった1つの肯定する情報は、その周囲にはるかにたくさん存在する否定的な情報の価値を凌駕することがあります。1つの光を見つけると周囲に山のようにあったものは闇の中に消える、自分の中でなかったことにできてしまう。

 

不安に駆られて情報を求めているときにたくさんある情報を冷静に精査できる人はそうそういません。

自分でも言葉にできていない心の奥に潜んだ「本当はこうだったらいいのに」という願望を無意識に探します。

 

そして、恐ろしいことに広大なネットの海の中には必ず、自分のその奥深くに潜む「こうだったらいいのに」という願望を肯定する意見が存在します。

夜中にベッドの中でスマホを握って何時間もネットの海を彷徨えば、それに出会うことができるんです。

 

私というフィルターを通して見る世界

インターネットの海は広い。誰にとっても同じように広く見えるかもしれません。

でも実際には「私」というフィルターを通して選別した情報をかきあつめた世界に過ぎません。

Twitterを例にとっても自分のタイムラインに並ぶツイートを普段見ていると世論がそういうもののように錯覚しがちですが、検索をしたり違う人のリストを見たりしてみるとまったく違う意見が飛び交う世界がそこにあるのを見ることができます。

 

私たちは無意識に自分の見る世界を選別しているんですね。

 

信じるという危険への入り口

ネット上には答えを求めて彷徨う人がたくさんいます。そしてその人たちに答えを与えてくれるような情報がたくさん存在しています。

彷徨う人たちに救いの手を差し伸べようと記事を書いている人もたくさん居ます。

そこで救われた人もたくさんいるでしょう。それら全てを否定したいわけではないのです。

 

たくさんの雑多にある情報のなかで、あなたがたどりついたそれが正解かは誰にも分かりません。ネット上で叩かれている自然派育児ブログ、反ワクチン記事、アレルギーの存在を否定しているような記事(私も反論を書いたことがあります)を書いているそれぞれの人たちも、それが正解だと思って書いています。流布させることが善だと思ってやっている人の方が多分多い。

 

たくさんの人が「これが正解だ」「これが善だ」「いやそれは間違っている」「これは害悪だ」とあちこちに書いている、その「どれかを信じる」のは楽です。でもそれは危険への入り口でもあります。

 

それが正しいかどうか、あなたの生活に適しているかどうか、は誰にも保証されていないのです。

 

自力で見つけるしかない「答え」

私のブログに対するご意見のなかで「答えがどこにも書いていない」と言われることがたまにあります。意図的ではなく無意識にやってきてました。

なぜかと振り返ってみたときに気づいたんですね。そんなの私には提供できないんです、だから書いてない。

 

夫婦関係にしろ、子育てのことにしろ、答えはその人その家族の数だけあります。

法律とか虐待はダメだとか、最低限のラインはあるとは思います。でもその先のどんな選択が適しているかの答えはその人の数だけある。

だから、私には「これが答えです」とは書けないのです。

あなたの答えは、自分で見つけるか、自分を知っている誰かに助けてもらうかしなければ得られない。一般化したもののなかからは手に入らないのです。

 

おわりに

ネット上の広い海の中で不安に駆られて検索してしまうとき、何かの情報にすがりたくなったとき、そのとき見つけて安心した答えは「ネット上で見つけた正解」ではなく「自分がそうあってほしいと願っていたもの」かもしれません。

 

ネットの海に浸かっていたらそこにひきずられてしまう。その波に揺られているところにはあなたを陥れる情報も山のように存在しているし、その多くは一見とてもやわらかく優しくあなたに近寄ってきてあなたを包みます。(本当は自分が引き寄せているのかもしれないのだけれど)

 

そんな居心地のよいところをたとえ見つけたとしても、自分に合わせた答えを見つけるためには反対する意見や中立な意見にも目を通す必要があります。

でもそんな反論が自分に刺さって来たり、敵に見えたりして受け入れることが難しくなっているときにはインターネットから距離を置くのもひとつの方法だと思います。

 

もちろんそれを自力で判断して自力で離れる、というのが簡単ではないということも含めてのネットの情報に浸かる危険性、だと感じています。それこそ「こうすればいい」の答えがここには書けませんが、そういう危険性があることを知っているかいないかだけでも違うかな、という気持ちで書いています。

発達ナビさんに記事を書いてお腹を壊した話。

先週末、発達ナビさんに書かせて頂いた記事がアップされました。


少し前にコノビーさんに記事を書かせて頂きましたが


今回は同じリタリコさん系列の発達ナビさんから「感動ポルノ」をテーマにした記事を、というご依頼を頂きました。

 

繰り返したメールのやりとり

お話を頂いたのは「24時間テレビ」と「バリバラ」の放送を間近に控えたころ。

編集長の鈴木さんと内容を詰めるために何度も何度もメールをやりとりしましたが、テーマがテーマだけに本当に言葉にしていく作業が難航しました。

 

いつものブログや寄稿記事では思いついたり頂いたりしたテーマについて、小一時間うんうんと考えれば大抵形になるんですね。あれこれ考えたり、ぱらぱらとツイートしたり誰かとそれについて話したりしたらパーーーーっと脳の中で全体像がクリアになって、よし書ける!ってところに至る。

 

ところが今回はそれがなかなか来ないんです。

依頼されていること、自分が書きたいこと、見えているものや考える過程で見えて来たもの、障害を持つ子のお母さんたちにクローズドの環境でお話を聞かせてもらったり逆にこちらの考えたことを吐き出して聞いてもらったり。

 

そして見えて来た骨子を鈴木さんに長文メールで送りつけては細かいお返事をいただきまた考える作業に入る…を放送の前後数日何度繰り返したことか。

 

レベルアップを夢見て

直前にライターのヨッピーさんがPCデポについての記事を書いたことについてご自身のブログで触れているのを読んだんですね。

その中でヨッピーさんが「自分のレベルが上がったような(うろ覚えですいません)」と記事に取り組んだ経緯の中で書かれていて、ハードルの高過ぎるテーマに取り組んでいる自分ももしかしたらこれを乗り越えたらレベルアップの音が聴こえてくるんじゃないかと甘っちょろいことを考えたりしました。

 

しかし、考えても考えてもまとまらない。

 

やっぱり私はヨッピーさんにはなれない、なれるわけない…とカレーの鍋を混ぜながら落胆したり、いやミムラさん演じる向田邦子さんも中華料理屋で何度も唸っていたじゃないか、担当さんからの電話から逃げていたじゃないか!と思い出して根拠の無い自信を取り戻したり…

 

そして壊した、お腹

考えて考えて、でも答えが出ないんですね。

見えて来ないんですね。

夫に話を聴いてもらったり、友人に励ましてもらったり…

 

たぶん、相当煮詰まっていたんでしょうね。

お腹がキューーーーっと。キューーーーっと痛んでトイレと友達になる時間が続きました。

 

トイレの中で考えた、たくさんの書きたかったこと。

座って、スマホ片手に鈴木さんとのやりとりを何度も読み返し、広がり過ぎている頭の中を何度も何度も整理し、ときにツイートでそれを漏らし…

 

今回の記事はユーザーさんの読みやすさも考えて2000字程度にする前提で書いていましたので、その都合で端折ってしまった内容がかなりありました。

 

バリバラがこれまでやってきたこと

感動の対極にあるのは笑いなのか、ということ

障害者でも芸として面白くなければ笑っても良いのか(「障害者を笑ってはいけない」というある種の逆差別の存在)

大衆が感動を望むからメディアがそれを提供するのか、はたまたメディアが提供するから大衆がそれを受け入れていくのか

 

24時間テレビの番組そのものについて思う事

(募金と視聴率の関連、番組としてのこれまでの経緯と視聴者としてのありかた)

(実際の番組内容よりも「障害者を見せ物にしている」イメージが強く広がっている印象について)

(番組の作り方、エンターテイメントとしての質、そこに障害者を利用されること)

(寄付の募り方、その経緯、実際の使途)

 

24時間テレビよりも…という代替案と「ズルい」の心理

テレビの外にも「キラキラした頑張る障害者」の存在とそれを消費する社会はあること、またそれを障害者サイドも利用せざるを得ない状況になっているのではないかということ

テレビで「頑張る障害者」がクローズアップされることについての抵抗(ワーママ特集とかでも同じ事が起こって来なかったか)

 

バリバラのなかで鈴木おさむさんが言及していた「ドラマのキャストに見える障害者がいない」ことと、逆に障害者ではなく「奇異な人」としてたくさんの創作物のキャストとして描かれてきた発達障害者の存在

 

……ざっと書き出しただけでもこれくらい、この倍くらいの「思いついたけど掘り下げ過ぎたら2000字にまとまらないから書けなかったこと」が鈴木さんとのメールのやりとりや自分のメモログのなかに残っています。

 

もっと、書きたいし、知りたい。

今回の記事のテーマを頂いてから、色んなことを調べたり、当事者の方にお話を伺ったりして「知らなかったたくさんのこと」に出会いました。

その知らなかったこととの出会いで、これまで私が抱いてきた先入観や誤解がガラッと崩れた場面も1度や2度ではありませんでした。

 

まだまだ私の知らないこと、知らない過去、知らない概念、知らない誰かの経験や思いがそこにある。

 

「知る」ことからこんなにたくさんのことが見えてくる。

「知る」ことでこんなに思いを馳せられる、傲慢な自分から一歩出ることができる。

 

もっと、もっと知りたい。

 

今回高過ぎるハードルを私に課してくれ、知らないたくさんのことに出会うきっかけをくれ、そして端折り過ぎた記事を丁寧に編集してくださった発達ナビ編集長の鈴木さんをはじめ、お話を聴かせてくれた友人のみなさま、私の垂れ流す愚痴を聴いてくれたフォロワーのみなさま、そして記事を読んでくれているたくさんの方に感謝申し上げます。

 

レベル、ちょっとは上がったかな。

逃げられるものと、逃げてはいけないもの。〜正しく「逃げる」ために意識したい大事なこと

9月1日という、ある種メモリアルな今日。

 

若年層の自殺率が高い日としてネット上では数年前から9月1日を前に警鐘を鳴らす話題が散見されるようになりました。

 

私も去年、こんなエントリを書いています。

 


 

「逃げろ」という大人たちの声

ツイッターのTLには、辛かったら逃げていいという大人たちの声が並びます。

本当に逃げた人の声もたくさん。


「逃げる」ってなに?

まとめのなかでは学校をしばらく休んだという話や仕事を辞めた話などが並んでいます。

私自身も大学生のころにバイト先で店長から執拗ないじめを受け、君臨する店長の怖さに同僚も離れ孤立し、その状況に耐えきれなくなってある日シフトをぶっちぎってそのまま音信不通にして逃げたことがありました。

 

今振り返ってみればもっと周りに波風立てないやり方もあったんじゃないかとも思いますが、二十歳そこらの当時の自分にはできず、店からの着信を無視し、ちらほらと店長が私のことで暴言はきまくってるのを風の便りに聴きながら、二度と関わりを持つことなく逃げ切りました。

 

逃げて、その後気づいたこと

あのときの私には逃げる以外の選択肢はありませんでした。

でもその先も、選んだ環境によっては居心地の良いところもそうではないところもありました。

 

あの店長のように姑息ないじめ方をする人にはその後は出会いませんでしたが、それでも「なぜ自分がこんな目に」と思う事は1度や2度ではありませんでした。

あんな逃避行をしたことはその後は無かったけど、色んな理由を見つけてやんわりと逃げの姿勢に転じたこともありながらの、これまでの人生でした。

 

色んな経験を経て子どもが産まれて、ある日発達障害というものがあるという知識を得ました。そのときに調べた色々なこと、思い当たる色んな自分の過去、あぁここにあのときのトラブルの要素があったんだ、あぁこれで私はうまくいかなかったんだ、頭のなかのパズルのピースが、ばばばばーーーっとはまっていった瞬間でした。

 

逃げることは解決ではなく先のばしに過ぎない

私はいろんなところから逃げて来たし、自分の意志で環境を変えたと思った形の逃げもあった。でもそれを経て今思うのです。自分の抱えていたものにもっと早く気づけていたらもっと良い選択を出来たかもしれないのに、と。

 

逃げることは、一時的に自分を守ること。傷つける人を避けること。

 

でも、その行為で全てが解決するわけではありません。

自分以外の人が適応しているその環境の中でなぜ自分がそこで辛くなったのか。そこには必ず、何かしらの理由があります。

 

いじめられて辛い環境を離れてもその、自分の中に抱えているものは変わりません。

逃げるのは一時的な避難、解決を先延ばしにしているにすぎないのです。

 

いじめが起こる環境

もちろんそれを理由に人を傷つける人がいなければそんなことは起こりません。いじめる人、環境を悪化させる人、人を傷つける人の存在がなければ傷つかなかった。

でも、その環境は自分にも誰にもコントロールできません。いじめている加害側の人そのものも、なぜいじめるに至ったのかすらきっと把握していません。「いじめる悪い人」がそこにいるからいじめが起こるわけではありません。

いろいろな要素が絡み合って結果的に誰かが傷ついてしまう、傷つける人ができあがってしまう。

 

一時的に逃げ、環境を変えても、自分の中に抱えているものがそのまま変わらずに残っているなら、次に入る環境でもまた同じことが起こるかもしれないのです。

 

適応力という視点と、その先

今の環境が辛く、逃げたいと思っているのであれば逃げた方がいい。逃げましょう。

大事なのはその先です。

 

次の環境を選ぶ必要があります。

どんな環境が次に自分に適しているでしょうか。どこでもいいわけではありません。「逃げたい」と思った現状がある以上、どんな環境でも柔軟に適応していける「適応力」を持っていない可能性が高いんです。

 

その自分と向き合わねばなりません。

それが、自力でできるか、助けてくれる人は、話を聞いてくれる人は、相談できる先は…

その見通しを立てられているか。

逃がす対象が子供であれば保護者がその見通しを立てられているか。

 

そこが、逃げたあとの人生をどう生き抜いて行くかの鍵を握っているのではないかと思います。

 

いじめられる人には何の非もありません

誤解を避けるために繰り返しますが、いじめ行為に至る人間がもっとも卑劣です。そして、いじめられる人には何の非もありません。そこは、太字で強調していきたい。

なんの非もありません。いじめてよい理由などそもそも誰も持たない、存在してはいけないんです。

 

非があったからいじめられたわけではありません。

でも逃げた先にはこれからの人生があります。新しい環境を選ばねばなりません。そのときに、以前の環境になぜ適応できなかったのか、その内省をおざなりにしてしまうとまた同じ事を繰り返してしまう可能性がとても高い。

 

そうやって何度も何度も辛い思いをするのではなく、前向きに自分に合う環境を探して転々としても良いと思うのです。そしてそのためには、なぜ自分が(もしくは我が子が)以前の環境には適応できなかったのかについて分析していく必要がある。

 

自力では難しければ専門家に頼る必要もでてくるでしょう。

支援が必要なケースもあると思います。

先日書いたふみきちさんの息子さんのケースでも、相談者からは合わないと感じたら違う環境を求めることを勧められています。


 

逃げられる環境と、逃げられない「自分」

私の場合は自分自身が恐らくはそれなりの発達特性を抱えているだろうことが過去のいろいろなトラブルの根底にあった、という結論に辿り着きました。

しかし「逃げたい」衝動の理由が全てそれで説明がつくわけではないと思います。人それぞれに何かしらの要素が周囲にも自分の中にもあっての、居場所の無さだと思うのです。

 

自分が居づらかった環境からは逃げられる。

でも、自分が居づらくなる要素の中にあったかもしれない「自分の中にあるもの」からは逃げられません。

 

「逃げたい」と思ったときに、休息して傷が癒えたあとでその「自分の中にあるかもしれないもの」に向き合う見通しが立てられているか、子供であれば親がその見通しを立てられているか。

 

もしできそうなら気持ちよく逃げていいと思うし、それを一緒に背負ってくれる相談先が見つかればもっと自信を持って逃げられる。

 

そこを意識せずに逃げるだけだと、同じことを繰り返してより傷ついてしまうのではないか、と危惧しています。

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