スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

赤すぐさんに幼児用ハーネスの記事を書きました。

赤すぐさんへの初めての記事

リタリコさんのコノビーへの寄稿(「夫の理解が得られない…」絶望する前に考えたい”第3の道”の探し方 | Conobie[コノビー])に続いて、同じ時期にお話を頂いていた赤すぐさんで書かせて頂いた記事が今日公開されました。

 


「アクセスランキングの1位になってますよ!」と担当さんから喜びのメールを頂いて驚いているところです。たくさんの方に読んでいただけてとても嬉しいです。

 

記事の中に書いた私がかつて見たハーネスは

 

こんな感じのタイプのものだったと思います。

一番長く使ったのは友人からプレゼントされた斜め掛けバッグにリードがセットできるタイプのもので、リードが必要なくなった今も5歳の末っ子がお出かけ用に使っています。

 

関心を持ち続けている、ハーネスのこと

ハーネスに関しては私も過去に何度も書いてきたことのある話題です。

 

 

 

 

 

 


過去2年で6つ。

Twitterやネット上でハーネスがらみの炎上があるたびに自分の思いを書いているので、自分の中でも関心の高いトピックなんだなぁと改めて思います。

 

かけてもらった言葉のこと

今回の赤すぐさんの記事の中では 、私が見知らぬおばあちゃんにかけてもらった温かい言葉にも触れました。

 

地方都市住まいなのもあり、子供をたくさん連れてウロウロしていることもあり、子供の事で声をかけられることはわりとよくあります。赤すぐさんの記事のなかでも書いたように、産後の私は「誰かから責められないか」となぜかピリピリしていたような記憶があります。ネットで色々と見て頭でっかちになっていたからかもしれません。

 

でも実際に私がもらった言葉は好意的な、私の気持ちをほぐしてくれるものばかり。

スーパーで袋詰めを手伝ってくれる子供たちを褒めてくれたり、お子さんたくさんで大変だけど賑やかでいいわねと労ってくれたり。

 

多動な子も含めて、外では良い顔ばかりできているわけではありません。ご迷惑をかける場面も多々あったと思うし、うるさくしてしまったり走ってしまったりするのを制する場面もありながらも、そうやって褒めてくれる人たちがいるおかげで極端に引きこもることなく毎日の生活を送ることができているような気がします。

 

うるさい盛りの年子の上2人男児に手を焼いて育児ノイローゼ寸前の時期にお隣のおばあちゃまに「いつもうるさくしてすみません」と声をかけたら「年寄りばっかりだから子供の声が聴こえると嬉しいのよ、気にしなくていいのよ」と言ってもらったときは思わず涙がこぼれました。

 

そうありたい、と思いながら

もちろん優しい人ばかりではないのです、ネットで見るたくさんのパパママさんたちが辛辣な言葉をかけられたという声に、いかに自分の置かれた環境が良いものなのかを痛感しています。

 

私自身もわずかではありますが通りすがりの方に暴言を吐かれたり、育て方についてきついことを言われてしまったりしたこともあります。育児中のそんな経験は脳裏に焼き付いてしまってなかなか取れない。相手にはそんな傷つける意図がない言葉でも、産後になぜか過敏になっている時期には些細な言葉がザクザクと刺さってしまうこともあります。

 

私が出会ったたくさんの、温かい言葉をくれた人たちのような年のとり方をしていきたい、とあたらめて今回の赤すぐさんの記事を書きながら思いました。

 

おわりに

ここ最近あちこちからお声をかけていただいて、ブログ以外の媒体で書かせて頂ける機会が重なっています。とてもありがたいです。自分の裁量だけで書いていくブログとは違って、それぞれの担当さんと相談しながら骨子を固め、直しなどの編集をしていただいて、それぞれのメディアに合わせた記事になっていくのはまたブログとは違った面白さがあります。

 

色々な場を与えてもらえて、脳がザクザク耕されている感じ、楽しいです。

「やる気が無いなら帰れ」考 〜当該保護者や学校関係者にお話を伺いました②

前回の続きです。

 

おさらいすると…

「やる気がないなら帰れ」という発言に悩むふみきちさんのツイートを発端として、その言葉を受けて本当に帰ってしまうことと発達障害の関連、またなぜその言葉がたくさんの方の琴線に触れたのかについて、ふみきちさんとの会話を元に色々と考えてみました。

 

 

 

今回はその続きとして、今の学校現場でこの「やる気が無いなら帰れ」という言葉を教職員が発したら、というお話や、ふみきちさんの息子さんをはじめ発達障害特性ゆえ本当に帰って来てしまいかねない子供たちがどう対処していけばよいのか、ということについて、ふみきちさんや学校関係者の方などにお話を伺った内容をまとめていきます。

 

学校でその発言が出たら…

現役で教員をなさっている方と、自治体で支援に関わるお仕事をされている方にお話を伺ったところ、お二方声を揃えて「NGワードだ…」と仰っていました。

 

未だに言っている先生もいるだろうけど、という前置きがあった上で、今の学校現場では「帰れ!って言ったら本当に帰るから、帰れとは言わないようにしている」「下手な指導の例として笑い話のネタになっちゃう感じ」のだそうです。

 

地域性や学校単位での校風の違いなどにもよるところが大きいかもしれませんが、お話を伺えた関東首都圏の公立小中学校勤務経験のあるフォロワーさん曰く、もし学校のなかでその発言が出たら職員室は大騒ぎになる、発言した教員には指導が入る、と仰っていました。

 

また、支援担当のお仕事をされている方も「教育委員会側も『帰れ』『出て行け』という言葉は子供の教育を受ける権利を奪うことになるから言ってはいけない、と話しているはず」と仰っており、教育現場では「帰れ」というワードそのものが禁止事項だという概念が広まりつつあるようです。

 

もし本当に子供が帰ってしまったら…

教員の「帰れ!」発言に乗っかって子供が自主的に下校してしまったらどうなるのかも伺ってみたところ「普通は校長室呼び出し案件」との返答を頂きました。

 

まず下校予定時間より前に子供が学校を出ているという問題。もし教員の「帰れ」発言があってもなくても、本来学校に居るはずの時間に子供が学校を出たことが分かったら教員はまず保護者に連絡、その後他の教員と連携して所在を確認、また学年主任や管理職に報告、という手段をとらねばならないのではないか、と現役教員さんのお言葉。

 

もしご自身の学校で「帰れ」発言のあとに不在→帰宅となれば学年主任や管理職と一緒に自宅まで謝罪に伺うような案件ではないか、とのことでした。

 

私の子供たちが通う学校でも、災害など緊急時の対応について学校の先生方と話した事がありましたが、児童を下校予定時刻より早く帰宅させるときは必ず担任が電話で保護者の在宅を確認し、同意を得てから下校させねばならないことになっている、と聞きました。

 

今回のふみきちさんのケースのような、通常の学校運営が行われている日ではないある種イレギュラーな登校日にそのルールが適用されるかどうかについては判断が難しいところだろうとは思いますが、本来の下校予定時刻より早く学校から出ているのを把握していても保護者に連絡が無かった点についての問題点は指摘されても仕方ないのではないか、と思われます。

 

先生に一極集中していないか、という懸念

ここまで読んで頂いた所で、今の学校の先生に過度の負担がかかっているのではと感じられた方も多いのではないかと思います。それは私も感じていていることですし、ふみきちさんご自身も想定されていることで、だから「教員が悪い」「指導の仕方が悪い」で一蹴できる問題ではないのではないのではないかと思います。

 

あの話題になってしまったTogetterのまとめ記事では「先生の指導力の無さ」に話が集中しているようにも見え、まとめに使うツイートの選別の仕方や編集方法からもその意図が垣間見えるような気がしました。

 

ただ、そこを責めても何も変わらない、むしろ担任個人を攻撃して余計疲弊させてしまうことにもなりかねない、とも思います。

 

ふみきちさんご自身もその流れを懸念され、こんな風にツイートされていました。

 

担任の先生がどんな背景があってあの「やる気が無いなら帰れ」というNGワードを口にしてしまったのかはわかりません。そういう思想がもともとあって日常的に言っているのかもしれないし、他に言葉を見つけられないほど切羽詰まって言ってしまっているのかもしれない。

どちらにせよそこをピンポイントで責めてもふみきちさんの息子さんの環境が良くなっていくことには繋がりません。学校の環境全体を、教職員のみなさんの就業環境をよりよくしていくべきだというマクロな視点と、ふみきちさんや次男さんにとって自分の目の前の困難とどう向き合っていくかというミクロな視点の双方が必要になってくるし、保護者としては先ず子供にとっての目の前の課題、ミクロな対応を優先して行くことになろうかと思います。

 

ふみきちさんの見つけた「こたえ」

複数のフォロワーさんたちとの会話や次男さんのことを相談している専門家の先生への相談からふみきちさんが見つけた3つの答えを教えてもらいました。

 

1、その場で確認する

言葉から相手の意図が見えなかったりしてその場の行動を決められない、という状態に陥ってしまったときの対処法、佐川・抜け首・なん ‏@nankuru28さんのアイデアです。

 

リスクとして、「おちょくってるのか!」とかえって相手を怒らせる可能性はゼロではないなぁとは思います。が、それで更に怒る人、というとそこである種の人付き合いを考える線引きができるかもしれない、という見方もできるかもしれません。

 

2、先送り&リカバリー

こちらは 寺島ヒロ @terashimahiroさんのアイデアです。 

 

この先送り法は私にとってとても画期的な方法に感じられました。

自分や子供たちのソーシャルスキルの向上のためにどんなトレーニングをしていくべきか、と考えたり情報を集めたりするとき、ついその視点が「その場をどう繕うか」に集中していたような気がするのです。定型発達の人と同じような行動がとれるようにどう繕えばよいか、定型発達の人の輪のなかで浮かないようにどうすればよいか、いつもそんな視点で考えて来たような気がします。

 

でも、そうではなくてよかった、それを教えてくれたのがこの寺島さんの方法でした。

 

今この場で答えを出さず、落ち着いて自分のペースで考えてからリカバリーすれば人間関係が大きく崩れることはない。たしかに、人間関係ってその場限りではないことのほうが多いんですよね。一度失敗しても誠意を持ってあとから働きかけて関係を修復することもできる。そしてこれに対応してもらえないなら関係の継続は難しいという判断指標にもなるのかなと。特性のある自分を受け入れてもらいながら関係を続けられる人というひとつのフィルターになるのかもしれません。

 

 

3、 その環境そのものから離れる

「やる気が無いなら帰れ」と発する人そのもの、その人の存在がある環境そのもの、そこから離れるのがベストではないか、というのが、ふみきちさんが相談をされた専門家の先生の助言です。

 

そんな甘いことが言ってられるのか、と言われるかもしれません。でも私も、これがもっとも次男さんにとっても、「やる気が無いなら帰れ」と言われて辛い思いをした過去のある人にとっても有効な方法なのかもしれない、と感じました。

 

自分が属している環境そのものを自分が変えていくというのは簡単な事ではありません、リスクも大きい。

でも、自分が属する環境を選ぶことはできる。

 

この視点を持っていること、合わないなら違う環境を求めて離れることは何も悪いことではなく、むしろ発展的で自分のためになるのかもしれないということ。それを知っておく、周囲から肯定されておくことのメリットはとても大きいと思います。

 

「帰れ」という言葉が出ない環境に身をおくこと、職場で言われたら退職を考えてもいい、とふみきちさんは療育の先生から言われたそうです。

 

学生の身分で環境を変える、避ける、というのはそう簡単ではないかもしれません。が、そういう道もあるのだ、それは選んでもいいのだ、と知っておくだけでも救いになってくると思うし、いずれ進路を選ぶときの指標にもなるのかもしれません。

 

3つの方法すべてがふみきちさんの息子さんに有効か、即効性があるか、というとそれはまた別のステップになるのだろうと思いますが、この策を含めていろいろと試行錯誤しながら本人にとってベストの方法を見つけていくことになるのだろうなと思います。

 

 

おわりに

ふみきちさんや学校関係者のお二人、またいろいろなフォロワーさんたちからたくさんのお知恵をお借りして、今回の記事を書く事ができました。

ご協力いただけたみなさまにこの場をお借りして改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

「やる気が無いなら帰れ」と言われたらどうしようか、これは私も、うちの子供たちにとっても他人事ではありません。田舎ゆえ、私たちの周囲にはまだまだこの言葉が実際に出てしまっているのを見聞きすることも日常的にあるのが現実です。

 

本当はこんな言葉が死語として消滅してくれたらいいのに、と思っています。でもそれは私がコントロールできることじゃない。

 

私も、子供たちも、たくさんのこの言葉で傷ついたことがある人たちも、その人なりの対処法を模索しながら少しでも穏やかな暮らしが続けられることを願ってやみません。

恐らくは時間が経過すればするほど、この言葉の効果は過去ほど得られなくなっていくはずです。師弟関係が明確な場以外では通用しなくなる日もそう遠くない。この言葉に頼って指導をしている人たちがそうではない、より相手に伝わりやすい方法を見つけられたらいいなぁとも思って居ます。

「やる気が無いなら帰れ」考 〜当該保護者や学校関係者にお話を伺いました①

数日前からTwitterTogetterまとめで話題になっていた、担任から「やる気がないなら帰れ」と言われて本当に帰って来てしまった息子さんのエピソードを書いたふみきちさんのツイート。

 

 

まとめ記事ではコメント欄でのやりとりが加速し、閲覧数やコメント数、Twitterなどのリンクもかなりの数になっていて、特定の人たちにとって関心の高いトピックだったことが伺えます。

 

今回はツイート主であるふみきちさんに保護者としての立場から、また複数の学校関係者の方からも情報を頂いたので、「教員が生徒に『やる気が無いなら帰れ』と発言すること」についていくつかの視点から考えてみたいと思います。

 

「ふみきちさん」のこと

今回保護者としてお話を伺ったふみきち(id:fumikichi2525)さんは、はてなでお子さんの発達障害についての経緯などを書き綴られているブロガーさんです。

私とはTwitterでも相互フォローの関係にあり、以前から親しくさせていただいています。ふたりの息子さんの発達障害についての知識や経験の深さから、私も子供たちのことで困った時にはよく個人的にお話を聞いて頂いたり、相談させてもらったりしている方です。

 

今回の「やる気が無いなら帰れ」のシチュエーション

まず大前提として、今回担任が発言したシチュエーションを共有しておく必要があると考え、ふみきちさんにお話を伺いました。

 

ふみきちさんの次男さんは発達障害で支援を必要とするため、現在は公立中学校の支援学級に在籍しています。事が起こったのは夏休みの登校日。通常の授業の日ではなく、支援学級の子たちのクラブ活動のために用意された時間で、宿題のチェックや体育指導など、補習のような学習日だったようです。(※欠席のときは必ず連絡を入れるよう指示があったようです)

 

この当日の活動の中の室内運動の時間中に、暑かったこともあり機敏に動けていなかった次男さんに対して担任が発したのが「やる気が無いなら帰れ」という発言でした。

 

その発言を受けた次男さんは自主的に下校、本来の下校時間よりかなり早い帰宅となったので異変に気づいたふみきちさんが次男さんに話を聞いて、この担任の発言があったことがわかったようです。

 

この発言を受けて、母親であるふみきちさんは発達障害の次男さんが将来的に同じようなことを言われる場に遭遇したときにどう対処していくよう教えていくべきなのかについて思い悩んでおられました。

 

発達障害だから」帰って来てしまったのか

Togetterまとめ記事の中でも争点になっていたようですが、今回のこの「帰れって言われたから帰って来た」案件は発達障害児だから起こったことなのでしょうか。

 

ふみきちさんが次男くんがについて相談している専門の先生に相談されたところ「発達障害は関係ないと思う」と返答があったそうです。その担任の先生だから帰って来た、状況によっては次男くんはおそらくは帰らないことも選べたと思う、と。

 

次男くんはおそらくは「言葉をそのとおり受け止めてしまった」から帰って来たのではなく「帰れ」と言われたことで帰るという選択肢ができたのでそちらを選んだ、と考えられるのではないかと思います。

 

もちろん、発達障害の特性の出方によっては相手が言った言葉をそのまま受け止めて「帰るよう指示された」と理解して帰ってしまうケースもあるかもしれません。が、発達障害児(者)だから言外の意図が汲み取れなくて帰ってしまう、というわけでは必ずしも無いのだろうということがこの先生とのやりとりからはわかります。

 

私自身も特性を自覚して生活していますが、「やる気が無いなら帰れ」と言われたとして相手が本当に帰れと言っているわけではないだろうということは理解できます。また、うちの特性のあるうちの子たちもサッカークラブの指導の中で実際に言われた場面で帰らない方を選んだと聞いたこともありますし、逆に帰って来てしまったこともあります。

 

「やる気が無いなら帰れ」と言われて本当に帰ってしまうことは「言葉通り受け取ってしまう」という特性だから、ではないのかもしれません。

 

発言を受けても「帰れなかった」人たちの存在

あえてリンクは貼っていませんが、ふみきちさんのツイートを発端とするTogetterまとめではかなりの数の方が担任の発言に怒ったり、実際に言われたという自分の過去を振り返ったりしておられました。たくさんの方の琴線に触れるトピックであったのだろうと思います。

 

なぜそんなにたくさんの方の琴線に触れたのか、なぜ炎上したのか、その答えを紐解く鍵が「発言の意図をわかった上で帰ることを選べなかった」方がたくさんいらっしゃることにあるのではないかと思います。

 

発言者が想定しているであろうやりとり

「やる気が無いなら帰れ!」という発言をする指導者が想定しているのは、恐らくはこういうやりとりです。

 

「やる気が無いなら帰れ!」

 

「いえ、やる気はあります!」

「じゃあもっと見せてみろ!」

「はい!」

or

「すみません、がんばります!」

「よし!」

 

で、生徒が自主的にやる気を出して頑張る

 

そうやって突き放すことで相手の意欲を高める方法、としてこの手法が便利に使われてきたのかもしれません。

 

教育現場や職場で長く使われてきた過去とその背景

話題にしやすいトピックなのでしょう、以前私もハーネスのことで話題にしたことのあるテレビ番組の討論コーナーでも取り上げられていたことがあったようです。

この中では

「『上司の頭が冷えるまで』とか言う前に、なんでオマエが怒られたんだ? っていうところだろ!」
「絶対的に言えるのは、帰っちゃダメなんだよ! 何があっても仕事中に帰ったらダメ」

筆者もこれにまったく同感である。確かに本来は、スマホで何をやっているのか聞き、その答えに応じて具体的な注意をするのが理想かもしれない。しかし「やる気がないなら帰れ!」という言葉の揚げ足取りをする前に、そもそもの怒られた理由を考えないのはなぜなのかと首を捻ってしまう。

「今の時代なら上司が悪い」「『帰れ』って言われたら帰る」
「『帰れ』って言わなくても(いいと思う)何がダメでどうしてほしいとか言われれば、頑張るんですけど」

「帰れ」という言葉をそのまま受け取ってしまう人は、素直で良い部分も多々あるのかもしれない。しかし「この人はつまり、何を言わんとしているのか」と、状況から想像する努力を放棄しているともいえるのではないだろうか?

これは学校現場ではなく職場を想定しているのでイコールで語ることはできないのですが、「やる気が無いなら帰れ」という言葉は「何がどうダメでどうすればいいのか」を端折るために便利に使われてきたことがわかります。それを相手に働きかけて汲み取ろうとするのは言葉を発する上司の側ではなくて、教えを乞うべき部下の役目だと考えていることも透けて見えます。

 

この言葉がたくさんの方の記憶にあるようにこれまで学校を始めとする指導の場でも便利に使われて来たのはその、「教えてあげる側」である上司(教員)と「教えを乞う側」である部下(生徒・児童)の関係性が前提としてあること、双方がその力関係を理解して(もしくは抗えずやむを得ず受け入れて)いるからこそ成り立っていた言葉だったのかもしれません。

 

人間関係の変遷と価値観の変化

前述の記事の中にもあったように、今の時代には即さない言葉になりつつあるのを感じている方も少なからずいるのではないでしょうか。記事の中でも街頭調査では「帰る方が悪い」と答えた人の方が多いのですが、上司の叱り方が悪いと指摘した層の大半は若い人たちの声だったようです。

 

ふみきちさんのツイートが使用されたまとめ記事が炎上した背景には、この若い人たちと同じように「叱り方に問題があるのでは」と思っている方が多かったことが考えられます。私もふみきちさんのツイートをTLで見たときにはまずそれを思いました。

 

なぜそう感じるのか、その理由は、前述した人間関係の変遷にあるのではないかと考えます。

かつてのような絶対的な権力者・必ずつき従うべき歯向かってはならない存在としてのトップ(上司・先生・担任)と、従順に教えを乞うべき存在(部下・生徒・児童)という人間関係が既に崩壊しつつあること、特に学校現場では既にその力関係を利用した指導をすることは否定されてきている状況があります。

 

学校の中では教員は君臨する君主でも入門希望者が教えを乞うて集まる偉人でもなく、寄り添い指導する責務のある立場です。

児童や生徒は下僕でも先人に教えを乞う入門者でもなく、個々に寄り添った指導を受ける権利を持つ立場です。

 

まとめ炎上の背景

絶対的権力者である教員が「何を想定してそれを言っているか」を汲めている以上、たとえ表出している言葉が「帰れ」であってもそれに従ってならないぞという空気に歯向かうことはとても難しい。腹の中に不満を溜めつつ、理不尽だと思いつつ、教員の「言外の意図」を尊重することを選ばざるを得なかった、その鬱屈した感情、過去の記憶が、あのまとめ記事が多くの方の琴線に触れることになった背景にあるのではないかと思います。

 

分かっていても帰ることを選べない空気があったこと、それが苦痛だったこと、教員に対して理不尽だと不満に思った記憶があったこと、それらがマイナスの記憶として残っていること…。その記憶の蓋を開けたことが、あのまとめのアクセス数の多さとその中でわき起こっていた「担任が悪い」という流れの理由だったのではないかと思います。

 

「空気を読まない」特性と、読まなくてよくなっている空気

発達障害の特性がそう強くない方の多くは、場の空気を読んで自分の行動を選ぶことを自然と行う習慣が身に付いています。教員がたとえ言葉の上でも「帰れ」と提示して「言葉通りに受け取って帰る」ことが自分の中に選択肢として現れたとしても、明らかなヒエラルキーが存在する環境の中であえてそれを選ぶことはおそらくはそう簡単ではないはずです。「当然帰らないよね?」という空気を感じたときにそれに抗うことは多分とても難しい。

 

また、先の見通しを立てることに長けている人はその抑圧を受けた段階で当然「帰った時にどうなるか」が想像できるでしょう。相手をより怒らせて事態がめんどくさくなってしまう、それならここで折れといた方があとあと楽、という見通しを立てることができる。しかし、発達障害の特性のなかでその「見通しを立てることが極端に苦手である」という困難を抱えている人たちも少なからずいます。

 

発達障害ゆえの特性が発動するのは実はそこらへんなのかな、と考えています。

 

発言の意図を汲めないのではなくて、「帰れ」という選択肢が自分の中に存在した時に周囲の同調圧力に抗わずにそれを選ぶことに抵抗が少ない、そういう種類の「空気を読まない」特性、プラス「今帰ったらあとあとよりめんどくさくなる」という見通しを遠くまで立てるのが苦手という特性が発動されたときに、目の前の面倒な状況よりとりあえず帰ることを選んじゃう、という発達障害者(児)らしい行動が出てしまう。それが、ふみきちさんが懸念していた「空気を読まず行動してしまう」の正体なのではないかと考えています。

 

そして、前述したとおり学校現場での教員と生徒の人間関係は確実に変化しています。トップダウンでの指示ではなく、自分たちに寄り添った指示、その環境にいることに馴染んでいる子供たちにとっては、一部の教員が醸し出すその絶対的権力を利用するような空気を読む必要はなくなりつつある。

 

それでもふみきちさんが懸念するように、変わりつつあるといってもまだまだ社会のなかには蔓延している環境もあります。学校の中でも、また今後社会に出ていった先でも「やる気が無いなら帰れ」という発言をする人に出会うかもしれません。そのときにどうしていけばよいのか。

 

長くなったので一旦ここで区切って、次の記事では公立学校での現状と、将来的な対処についてふみきちさんや学校関係者の方に伺ったお話をまとめます。

小5次男とシン・ゴジラを観てきました。(ネタバレなし)

TwitterのTLに毎日毎日並ぶ、シン・ゴジラを観て来たよという声にうずうずしていた先週。恐竜好きの次男に「ゴジラ、観に行かない?」と誘って数時間後「行く!ゴジラ行く!」とノリノリの次男。

ネットで色々検索してどうやらツボど真ん中だった様子。せっかくなので福岡市美術館で開催されている「ゴジラ展」と合わせての、ゴジラ弾丸ツアーを計画し、昨日決行。

 

今日はそれを振り返りながら、子連れシン・ゴジラ鑑賞を全力でお勧めするまとめを書いてみようと思っています。

 

ゴジラ」未視聴で楽しめるのか?

ゴジラシリーズはほぼ未視聴の次男。検索してひっかかった動画などいくつかは観て「キングギドラが好きだ!」とか色々言ってましたがストーリーそのものは全く知らない状態でした。

それで楽しめるのか?とやや危惧しましたが、Twitterのフォロワーさんたちから「ゴジラという概念がゼロの現代にゴジラがやってきたという設定だから知らない方が楽しめるかも」という声をいくつかいただき、それなら大丈夫かな、と細かく話したりすることなく劇場に向かいました。

 

次男の様子や一緒に観た私の感想としては、過去シリーズ未視聴でも十分楽しめる作品だったと思います。予備知識が無いとわからない、というシーンは恐らくは無かったんじゃないかな。ただ、音楽や画面に写り込むもの、ゴジラの声の種類など、知っていたら気づく細かい設定や描写というのはものすごくたくさんちりばめられていて、知っているからこその楽しみ方もできる映画なんだろうなと感じました。

次男も帰ってからいろいろ検索しては「あの場面はあれだったのか〜」と何度も叫んでました。彼はきっと今後2度3度と見返すことになるんだろうな。

 

小学生に分かるのか

ゴジラの登場場面より大人同士の会話のシーンの方が多く、早口で聞き取りづらいところも多い、というのも事前にネットで仕入れていた情報でした。

これについても懸念していて隣に座る次男の様子が気になっていましたが、結果としては杞憂に終わりました。

 

確かに全編通して大人同士の会話のシーンが多く、現れたゴジラに国家としてどう対応していくかという流れのなかで政治家や役人のやりとり、焦っている早口の会話などが続いていたのですが、次男はずっと画面に見入っていて、小ネタ的な部分では時折ぷっと笑ったりもしていて、おおまかな会話の流れは理解できていたようでした。

 

会話自体は小難しい単語や政治や法律の専門用語も多く、全体を理解するのは大人でも難しかったかもしれませんが、作りとしては聞き漏らすところがあってもそれで流れについていけなくなるような感じではなかったと思います。

 

4DXか、通常版か

ここも、悩んだところです。

実際に4DXで観たというフォロワーさんに様子を伺って楽しめそうだなぁと思ったのですが、今回我が家ではスケジュールの都合上通常版しか選択肢がありませんでした。

私も次男も4DX未経験だったのですが、上映前に流れる映像のなかで4DXのCMを観た次男が「これじゃなくてよかった…」と呟いてたので結果オーライだったようです。

 

次男にとっては4DXだと情報量が多すぎてかえって会話や映像を楽しめなかったかもしれません。通常版でも映像の切り替わりや音でビクッとなるシーンも何度かあったりで十分以上に楽しめていたので、今回は通常版にしといてよかったな、と思っています。

 

予告編の中でカーアクションが激しそうな映画があり、次男も「これを4DXで観たらジェットコースターみたいで楽しそう」と言っていたので予めどんな動きかを知ったうえでアクション映画あたりを観に行くとアトラクションとして楽しめるのかもです。

 

子供と観ての、感想

ネタバレにならない程度の感想として思うのは、すごいもん観たな、ということ。そしてこれを小学生の息子と観られてよかったなということ。

CGとか映像のすごさはもちろんなのだけれど、この国で何か起こったときにどんな風に政治が動くのか、誰がどんな状況を想定しながら矛先を決めて行くのか、それの描き方がとても印象的でした。株価の動向など経済のこと、諸外国の動き、法律の壁、報道との関係、細部まで端折らず丁寧に描かれていたと思います、それだけでも子供のときに観ておいて損は無いなぁと感じました。

 

また、それぞれの立場の人間がひとりずつ手を抜かず作り上げられていて、それぞれの役者さんがそれぞれをきちんと演じていて、その完成系を見せてもらえた、という感想をいだきました。

そういえば庵野監督が撮影時にエキストラに配ったという文書がTwitterで流れて来てたなぁと映画を観ながら思い出していたのだけれど、あの思想がキャストひとりひとりにも伝わっての、あの仕上がりだったんだろうなぁと思います。

 

おわりに

もちろんゴジラ映画の真骨頂であるゴジラの動きひとつひとつも、作戦を遂行していくドラマチックな部分も、ワクワクしながら観ました。う〜〜〜んと感じる細かい設定がなかったわけではないです、がそれをもってしてもあまりある、面白かった!良かった!な映画でした。 DVDが発売されたら次男と一緒に、細かい所まであーだこーだいいながらまた観たいなぁと思っています。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 

 余談ですが、シン・ゴジラを鑑賞したあとで大濠公園福岡市美術館で開催中の「ゴジラ展」に足を運びましたがこちらも、行ってよかった!あと映画→美術館、の順番で良かった!です。

シン・ゴジラと一緒に写真を撮ったり、次男念願のキングギドラのスーツにご対面したりと親子で興奮しっ放しなゴジラ展、福岡近郊の方は是非映画と合わせて〜。勢い余って売店でカントクくんのトートバッグを買ってしまったのもよい思い出です…。

朝日新聞のお悩み相談、壇蜜さんの回答に思うこと

セクハラに悩む中1女子と、壇蜜さんの回答

昨日TLに壇蜜さんの名前が並んでいるので何事だろうと思ったら、こんなことだったようです。

相談者は中学1年生(12)女子、特定の男子生徒からの日常的なセクハラに悩んでいるようです。

そのハラスメントの内容は

「今日のブラジャー何色?」と毎日のようにクラスのある男子に聞かれます。最近では「胸をもませるかパンツを見せて」と言ってきます。 

というもの。日々これを繰り返されることにイライラが募っているという相談者の女の子。

 

壇蜜さんがこの子に対して

悪ふざけには貴女の「大人」を見せるのが一番だと考えます。次に見せて触らせてと言ってきたら、思いきってその手をぎゅっと握り「好きな人にしか見せないし触らせないの。ごめんね」とかすかに微笑(ほほえ)んでみてはどうでしょうか。 

 と「大人の女性としてあしらうこと」「手を握ること」を勧めているんですね。

 

回答に憤りを感じるたくさんの声、そして炎上

Twitter上にはセクシャルハラスメントに対して「大人として対応してね♡」という壇蜜さんの回答とそれを賞賛する声が、その後その対応の仕方や壇蜜さんの回答を秀逸だ、さすがだと賛美する声が並ぶことへの憤りや違和感を覚えた方々の怒りの声が続きます。

 

私が覚えた違和感

一通り読んでみて私が感じたのは、これ、壇蜜さんの回答が良くない、で終わって良い話なんだろうか、ということ。

相談者は中1の女子、投稿され掲載されたのは朝日新聞、答えたのが壇蜜さんという芸能人…そしてこの回答欄。

問題の焦点とすべきは、回答の仕方が良くない、ではないような気がしました。

この違和感を整理していこうと思います。

 

想定されるいくつかの制約

まず、このお悩み相談が新聞紙面上に掲載されているという制約がひとつ考えられます。紙面のスペースはあらかじめ決まっているので、当然文字数の制約があります。

 

次に、回答者が発言するのが「相談者に向けて」であるという制約がもう一つ。回答者である壇蜜さんが言葉をかけているのはあくまでも相談者である中1女子ただ一人です。他の誰に対する発言も省かざるを得ない、という制約がかかっての文章であると思われます。

 

この回答欄の中では、相談者の女子以外誰に対する働きかけもできない状況、つまり、ハラスメントの加害者である男子生徒にも、その保護者にも、現場となっているであろう学校関係者にも、働きかけることは制約上できなかった。

 

もうひとつの制約が、回答者が「壇蜜」というキャラクターを作ることで商売をしている芸能人であるということ。新聞社と契約して続けている連載でしょうから、当然担当編集者はついているでしょうし、「壇蜜」としての回答を求められていると思われます。

 

私が思い至らない、ほかの制限制約もおそらくは存在しているでしょう。

 

様々な制約の中でのお悩み相談欄

それら想定される様々な制約の中で、新聞紙面上で読者を楽しませる一つのエンターテイメントとして続いているコラム欄がこの、人生相談・お悩み相談のコーナーなんだろうと思います。

まとめ記事のなかのツイートにもありましたが、この手の紙面上のお悩み相談が人気コーナーとして続いているのは、「必ず解決する回答が得られる」という絶対的な回答を用意しているというよりは「そういう視点もあるのか!」と、相談者や読者が新鮮に感じる新たな視点を提供する程度のものとして提供されているからなのかもしれません。

 

今回の回答がどんな問題をはらんでいるのか

今回の炎上の理由は、前述しましたが壇蜜さんがセクシャルハラスメントを紙面上で否定しなかったこと、そして「大人としてあしらう」「手を握って微笑む」という解決法を提供してしまったこと、そして最後に「その困った君はきっと貴女が好きで、ちょっかいを出すしか愛情を示せないのでしょう。」と回答してしまったことではないかと思います。

 

セクシャルハラスメントを紙面上で否定しなかった

「今日のブラジャー何色?」「胸をもませるかパンツを見せて」

この発言がセクシャルハラスメントであることを否定する方が難しいと思います。しかし悲しいかな、こんな発言をしても良いと思っている成人男性が未だ存在しているのもまた事実で、そんなハラスメントに悩まされて来た女性、今も悩んでいる女性はたくさんいると思います。社会問題でもあるセクシャルハラスメントについて、大手新聞メディアが紙面上で否定しなかった、という点の手落ちは大きい、と私は思います。

 

「大人としてあしらう」「手を握って微笑む」という解決法を提供してしまった

この部分は、学校や周囲を変えることはできないという前提やさまざまな制約の中で相談者の女子が迷惑行為から自力で逃れるためにまず小手先でできること、として絞り出された解決策なんだろうなということは想像できます。

ただ、その制約はわかるけれどもこれが最適なやり方だったのかについて私は疑問が残ります。特に「手を握る」という部分についてものすごく抵抗があります。そんなことしたら逆効果ではないかとも思います。

 

「その困った君はきっと貴女が好きで、ちょっかいを出すしか愛情を示せないのでしょう。」と回答してしまった

これは、性的なハラスメントを受けた経験のある女性に対してのNGワードではないかと私は思います。事実か事実でないか、と言えば、可能性としてあるとは思います。

相手の関心を引きたいがために嫌がる行動をとりそれがエスカレートしてしまうというのは年齢や男女関係なく子供の間でよく起こることです。相手が嫌がれば「反応してくれた」と捕えて行動が強化されてしまう。

そこに前思春期から思春期にかけて恋愛感情が重なってくるのと、情緒的発達の個人差が大きくなってくるとで、相手を好きだと思う感情をうまく扱えない子がこのケースのような嫌がらせをする形でのちょっかいをかけてしまう、というトラブルは起こりやすい。

 

でも、それはあくまでも加害側の問題です。

被害に遭う側がその加害側の問題を一緒に背負ったり、肩代わりしたりする必要は全く無い。不快に感じることからまずは全力で逃げていいはずなんですね。

背負うのと思いを馳せるのとは違います。

ここを混同していることが問題なんですね。

 

加害行動の要因を一緒に背負うことと、要因に思いを馳せることの違い

加害者にも加害に至るそれなりの理由があるということ、問題行動を起こすにはそれなりの背景が恐らくはあるということ。この視点は、加害による心の傷を癒す過程で自分を助けてくれることはあります。

 

加害者を人格からまるごと否定したり、根幹から嫌いだと思ったりすることも被害の辛さから逃れるためのひとつの方法ではありますが、それは自分そのものを消耗するリスクの高い選択肢でもあります。

 

問題行動の起こった背景があるということを意識したり、その背景となる要因に思いを馳せたりすることで自分自身の消耗を避けたり、しんどさを往なしたり、自分のあり方を保ったりしていくというのも、加害による心の傷から立ち上がっていくためのひとつの手段ではあります。

 

それを、論理的にではなく経験則的に知っている人たちがよく、この手の助言をついしてしまっているように思います。現場で傷ついている人に直球で「〜〜にも事情があるんだろうから」と伝えても受け止めきれるとは限りません。それは自分自身である程度の余力ができてはじめて足を踏み込んでできること。相手がそれを受け止められるステップに無いときにこれを提示しても、「相手の事情をお前が背負え」と言われているようにしか感じられません。

 

繰り返しますが、加害者の事情を被害者が背負う必要は無いのです。まず全力で逃げていいんです。そこを混同させる助言になってしまっている、というのがこの回答欄の大きな問題点です。

 

どういう回答ならばよかったんだろう

私自身がもし同じように問われたら、この中1女子に対しては内容は違うかもしれませんがやはり小手先の対処法を提示するかもしれないと思います。

あの回答欄の中で「学校や信頼できる大人に相談しましょう」と書いたところでそれが実現するとは思えません。周囲の大人とすでにそのような信頼関係を築けている子なら新聞投稿に至る前に解決しているでしょう。

気軽に話せる親、相談して行動してくれる学校、がまず周囲にはない、という前提のもとで考える必要があるのではないかと思います。

ただ、大前提としてこれは性的なハラスメントであり全力で逃げていいこと、相手の加害男子にはそれを自覚して問題行動を止める必要があることや、彼の周囲の大人がそれをフォローする必要があるのであってそれを背負うのはあなたではないということは言い添えるだろうとは思います。

 

結びに〜メディアとしてのあり方を思う。

今回の記事が大衆向け週刊誌などではなく、朝日新聞という歴史も古い大手の新聞に載った、というのも話題になった要因のひとつだろうと思います。

 

新聞社が、あの投稿を得て、壇蜜さんを回答者に選んで、あのコーナーを仕上げた

 

そのことそのものの持つ意味についても、疑問の声が多く上がっていたのではないかと思います。(これについては最後に補足を添えましたが回答者が壇蜜さんであることはわかったうえで相談を募っているようです)

 

大手のメディアとして、なぜあのような記事の仕上がりにしたのか。

あの相談を他の形で購読者に伝える必要はなかったのか、その可能性は検討しなかったのか。

 

相談者の親や学校に連絡すべきではというコメントもありましたが、個人情報の取扱いについての制約もあるでしょうから彼女に直接なにかをできるかについては私にも分かりません。ただ、性的ハラスメントという大人の中でも社会問題にもなっている事態が中学生の間でも起こっていること、そして悩んでいる子が投稿してきていたという状況について、あの形が新聞社としての回答だったのかについてはやはり疑問が残ります。

 

私も最近、このブログ以外の場で編集さんと相談しながら記事を書く経験をさせてもらいながら、誰かに向けてマスメディアを通して記事を書く、伝える、ということについて色々と考えているところでした。

 

自分勝手に書くブログとは違って、媒体の上で、そのメディアに合わせた情報を提供し、それが紙面に合わせて編集され、メディアの一部として流れていく。

あのお悩み相談は「壇蜜さんが言ったこと」ではなく、「朝日新聞が大衆に向けての読み物として提供していたこと」であり、その持つ意味についてこれからも掘り下げて考えて行く必要があるのかなと感じています。

 

余談ですが、さまざまな方が、この件について「自分ならどう答えただろう」と自問しておられました。私自身も考えました。

その、自分が問われたら、と思いを馳せること、それそのものが、この手の人生相談お悩み相談コーナーの存在意義であるのかもしれない、とも感じています。

 

補足(2016.08.10)

このお悩み相談、回答者があらかじめ壇蜜さんと分かっているもののようです。私はデジタル会員として記事を読んでいたのですが、最後を見落としていました。よく確認すれば分かっていたことですね…反省です。

 

トピシュさんの記事でそれがよくわかるよう書かれていますしさらに深い洞察が添えられているのでリンクを貼っておきますね。さすがだなぁ…

topisyu.hatenablog.com

子連れポケモンGO体験談と育児ツールとしての使い方の工夫

なんだかんだと新しものは好きなので、ポケモンGOAndroid版リリースの一報から即ダウンロードして早速使ってみました。

 

はじめるまで

ポケモントレーナークラブというところでアカウントを取得していたら子供でもプレイできるようになっている仕様のようですが、現在そのサイトは新規の登録ができない状況のようなので始めるためにはGoogleのアカウントが必要になります。

 

私は既にプライベートで使用するアカウントを所有しているので、セキュリティ面の対応としてポケモンGO用に追加で新たなアカウントを取得しました。

 

ダウンロードしたポケモンGOアプリを開いて、まず生年月日を入れるところがあるので自分のものを。その次にアカウントについてGoogleポケモントレーナークラブの2つが提示されるのでGoogleを選んで先へ進みます。

 

生年月日を入れる段階で年齢が低いと選択肢にGoogleが出てきません。Googleのアカウント取得が13歳未満はできないようになっているので、おそらくそこがラインだと思われます。

 

プレイヤーの名前や外見の設定をして、博士がなにやらいろいろいうので言うに従いチュートリアルが始まります。

 

みつけて、捕まえる

とりあえずスタートした段階でできるのは、画面の地図上にあらわれたポケモンをタップして、捕獲画面にしたところでモンスターボールをぶつけてゲット、を繰り返すこと。

 

地図上にあるポケストップに行けばモンスターボールが補給できたり、たまにポケモンの卵が拾えます。この卵を孵化器に入れると歩行距離のカウントがスタート。私が最初にゲットした卵は5キロで孵化するものだったので、あと4.5キロくらい歩かねばなりません…。

 

スタートしたところでまず建物内で2体ほど見つけたのですが、その後ポケストップにも行ってみたくなったので5歳末っ子を連れて外へ出かけてみました。

 

安全に楽しむために

歩きスマホの危険性はリリース前から海外での事例も含めて懸念されていたことだろうと思います。

地図上にポケモンが現れたのをタップして捕獲画面に移る仕様になっているので、ゲームを進めるためには画面を確認する必要は出てきます。

ただ、設定画面で振動が起こる機能をONにしておけばポケモンが画面上に現れたときにバイブでわかるので実際には手に持って歩いていれば気づくことができます。

現れるときの効果音も鳴るので、人ごみでなければ音量を上げておいたり、危険の無い範囲内でイヤホンを使用するのもアリかもしれません。

 

ためしに広い場所でアプリが起動した状態で5歳児にスマホを持たせてみましたが、つい画面をじっくり見ながら歩き回ってしまうようなのでやはり公道で幼児に持たせて探させるのは厳禁です。小学生の子供にも持たせてみましたが集中すればそう変わらない結果になるのでやはり危険であることには変わりないと思います。

 

幼児でも安全に楽しむ方法

地図上で見つけたポケモンをタップして捕獲画面に移ってしまえば、あとは多少移動しても画面は維持できます。

ポケモンをゲットするのを楽しむためには、捕獲画面して移動→安全な場所で子供に捕獲してもらう、がよいのではないかと思います。

 

他にもポケストップでポンポン出てくるモンスターボールや卵もタップしてゲットするのを楽しんでいたので、近隣で安全に立ち止まることのできるポケストップの場所を確認しておくとよさそうです。ポケストップ自体も少し離れたところでもタップ可能ですがこちらは画面を切り替えてから離れるとアイテムは取れなくなるようでした。

 

子育てアイテムとして活かす方法

貪欲ゆえ、このアプリを子育てに良い方向で活かしたい、と企んでいるのでその視点からメリットを考えてみます。

 

1.小さな労力で「できた」が手に入る

ポケモンをゲットするのはモンスターボールを投げること。

コツが要りますが慣れればそう難しくありません。5歳児でも簡単に捕まえて、できた!やった!と喜んでいました。

小さなステップでゲットした達成感を味わうことができて楽しかったようです。

種類によってはゲットに時間がかかったりするものもいますが、操作そのものはポケモンに向かってとにかくボールを投げ続けることなので幼児でも割りと簡単にできてました。時間がかかる分、頑張った!という気持ちも味わえたようです。

 

2.兄弟で一緒に楽しめる

うちのように4人もいると何かゲームをダウンロードしても登録できる数の制限があったりであーだのこーだの揉めることも多くなり、ゲームの導入時に色々と工夫が必要になることもよくあります。

ポケモンGOは今のところ私のスマホで使える状態にしているのですが、ポケモンをゲットしたり育てたり、というのを「みんなで」やってる感を出せるんじゃないかな、と思ってます。

ポケモン自体は歩き回っていればゴロゴロ見つかる(地域性はあるかもしれませんが)ので、みつけたポケモンをゲットするのも交代でやればいいし、今のところモンスターボールが枯渇するような事態にはなりそうにない(ポケストップでどんどん手に入るから)のでバンバンゲットするのを交代で楽しむ、という遊び方が導入できます。

 

自分でゲットしたポケモンにあとからそれぞれが好きな名前をつけてそれぞれ育てる、ということもできそうです。

 

3.歩く目標ができる

ポケストップでゲットした卵を孵化させるためには一定距離を歩かねばなりません。距離は卵の画面で確認できるので、どのくらい歩いたのか・あとどのくらい歩けば孵化するのか、が分かりやすく、運動目的で導入したときの目標を決めやすいと思います。

歩いた分ちゃんと卵が孵化するというご褒美が用意されているので、子供も大人もモチベーションを保つのに使えそうです。うちは次男が以前やっていたスポーツ系の習い事を辞めてから運動不足気味なので、これをネタにウォーキングに連れ出そうと画策しています。


4.お兄ちゃんの知識が役に立つかも

ポケモンをどんどん集める段階では特に知識は必要としていなかったので私と末っ子でも楽しめていたのですが、レベルが上がってジム戦に挑めるようになってある壁に直面しました。

それが、ポケモン同士の相性のこと。
タイプにより攻撃が効きやすいとか効きにくいとかがあるポケモン。ジム戦で戦う相手は事前にわかっているのでそのポケモンを倒しやすいキャラを手持ちの中から選べると有利に戦えます。

それを詳しく知ってるのが、DS時代からポケモンをやりこんでいる高学年のお兄ちゃんたち。色々相談したり、ちょっと教えてよと散歩に連れ出そうと企んでいます。下の子たちにもいつも以上に尊敬の目で見られるお兄ちゃん、まんざらではなさそうです。

家族みんなで出かけて、簡単なポケモンゲットは末っ子に、難しいジム戦はお兄ちゃんたちに、と役割分担もできそうです。

5.ちょっといつもと違う時間作りに

夕方、暇そうにしていた5年生の次男を誘って近所を少し散歩してみました。並んで歩いて、ポケモンの話をしたり道端のいろんなものについて話したり。

きっかけがないと二人で散歩、なんて機会もなかなか作りづらいのだけど、ポケモン探しに行こう!って声かけたら次男もすっ飛んできてしばらく一緒にうろうろしました。

「家族でランタンを灯して夜の散歩をしてきたよ」というフォロワーさんも。

歩いているとおしゃべりはゲームのことから色々派生していきます。次男とも久しぶりに二人でゆっくり並んで歩いて、色々話して。

そんな、ちょっといつもと違う家族の時間作りに一役買ってくれるかもしれません。

 

おわりに

ざっくりやってみた感想をまとめてみましたが、今後継続してやっていく中でさらに色々な発見が出てくるかもしれません。そのときはまた後日談を追加したいと思います。

 

位置情報を扱うアプリなので基本的には子供に持たせて任せられるゲームではないと私は考えていますが、子供も大人も楽しめそうなものなので今後も上手に育児ツールとして使っていきたいと思っています。

子供という卑劣な生き物

今日は、ちょっとだけ。

 

慌ただしく仕事の打合せや学校行事を渡り歩いているなかの短い空き時間に、ニンパイさんのこんなツイートを目にしました。

 

 ※補足

ニンパイさんがでどころのブログを教えてくれたのでリンク貼っときます。

blogs.yahoo.co.jp

 

ググってみましたがうまくヒットしないのでこのツイートが「ピーナッツ」の作者チャールズ・M・シュルツ氏自身の発した物なのか、出展は何なのか、は全く不明です。が今回の本題はそこではないのであえて掘り下げず引用だけしとこうと思います。

 

「卑劣」な子供たち

子供にむけて「卑劣」という言葉を使っているこれ、一瞬の引っかかりがある人も居るかもしれないしいないかもしれない。でも私はなんか、しっくり来るような気もしたんですね。4人の子供たちと、その子たちを取り巻くたくさんの子供たちと日常的に接している生活の中で、清廉潔白なお子さんなどまずお目にかからない。ほとんどの子供たちは腹黒く、自己中心的で、ワガママで、自分を最優先して欲しい様子が見て取れる。それは、少なくとも私が日常接する乳幼児から小学校6年生まで年齢に関わらずそうだなぁと。

 

卑劣;することが正々堂々としておらず、いやしくきたならしいこと。

 

Google先生は仰っておられる。

 

卑劣というと悪意を持った嫌らしい行動、をまず思い浮かべるかもしれないけれど言葉そのものにはどうも悪意の有無は含まれてない様子。ウェルズ氏の言葉の中にある「無邪気な卑劣さ」とはまさに、私が日頃接している子供たちの、無自覚で愛おしい嫌らしさなのかもしれない。

 

生まれつきの「卑劣さ」

子供たちは往々にして、ときにこちらが恐れ入るほどに図々しく、いやらしく、自分の主張を押し通そうとする。年齢が上がるごとにその手練手管は磨かれていき、表面的にはわかりにくくなっていく。

 

じゃあその卑劣さの根っこにはなにがあるんだろう。

 

子供たちはアピールします。

「私を見て」

「僕をほめて」

「私を最優先にして」

「僕だけ特別扱いして」

 

その欲求は、この世に生まれ出てすぐから体を動かしているのかもしれない。乳児のお世話をしているとまだ意志の存在すらあやしいその小さな生き物が持つ欲求のままに振り回されていることに気づくことがあったのを思い出します。彼らはまだ言葉を発することすらままならないころから、周りの人間に自分を最優先してもらいたいという欲求を発信しながら生きているのかもしれません。

 

「卑劣さ」の根っこにあるもの

なぜ彼らはその「卑劣さ」を持って生まれてくるのか。それは、その方が生き残りやすいからかもしれません。兄弟のなかで、家族のなかで、たくさんの子供たちのなかで、自分により多くの栄養を、より多くの愛情を受けた方が生存の確率が上がっていく。小さな赤ん坊はそれを本能的に知っているのかもしれません。

 

この本能的な動きは、小さい子がいる家にさらに赤ちゃんが生まれると目の前で見ることができるかもしれません。我が家の次男が生まれたのは長男が1歳8ヶ月のとき。寝かせた赤ん坊を可愛いと眺めていたかと思えばその頬をぎゅっとつまんでみたりする長男に手を焼いていました。

赤ちゃん返りやこうした兄弟間の闘争の根っこにあるのは本能的に相手より自分を可愛がってもらおう、相手を蹴落とそう、という心理が働くから、と当時何かで読んだのを覚えています。自分と同じ養育者に育てられている弟を、理性では可愛いと思っているけれど本能的には競争相手としてとらえてときに攻撃的な感情が表にでているのだ、と。

 

 

「卑劣さ」と自尊感情

彼らが持って生まれた卑劣さ、それは、果たして忌むべき対象として成長とともに減少させていかねばならないものでしょうか。弟を攻撃するのは良くない行ないですから制止せざるをえない。でも、その湧いた感情はどうだろう、湧かせてはならない感情だったか、私はそうは思いません。

 

私を大事にしてほしい、という感情そのものは、成長していくうえでとても大事なものだと思うのです。そして、幼少期にその感情を周囲の大人に大事に守って来てもらうこと、それが、基本的自尊感情を育てることにも繋がっていくんじゃないか、と。

 

周りから大事にされて初めて、自分でも自分を大事にすることができるのではないか、と思うのです。

 

「卑劣」であることと「卑劣な行ないをする」こと

切り分けねばならないのは、たぶんここだと思うのです。

私も含め、子供たちも、そして大人たちも、みんなどこか卑劣であり、愛する人に自分を最優先して欲しいと思っていて、そして、自分を大事にしたいと思っている。

その卑劣であることは、恥ずべきことでもない、誰しもがそうであること。

 

でも、だから卑劣な行ないをして良いわけではけしてない。

 

卑劣さを持つ自分をその感情もまるごと含めて愛され大事にされていくなかで、成長とともにその卑劣さを行いに表すことは自分のためにもまわりのためにもならないということを私たちは学んでいくのかもしれません。

 

おわりに

子供たちのなかでは卑劣な行ないを見かけるケースもよくあります。そんな場面を見ると大人としてつい「あの子は意地が悪い」「あの子は卑劣な子だ」と評価してしそうになってしまうことも。

 

でも、子供たちは元来どの子も卑劣なのだ、というスタート地点に立った時、彼らは根っこから悪い子なわけではけしてないのだろうと思うのです。誰しもが持つ卑劣さをコントロールすることが難しかったり、方法を知らなかったり、誤った方法を学んでしまっていたりするだけかもしれない。

 

私たち大人は、その卑劣さを卑劣な行ないで表さない術を知っているにすぎないのかもしれないなぁと考えたりしています。

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