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niftyの「車に飛び出し」ニュースから考える、親としての責任

小学生の間で「車の前に飛び出す」遊びが流行 危険すぎる遊びにネット民から驚きの声|ニフティニュース

こんな記事を見かけまして、色々気になったのでスマホからエントリを書いてみている次第です。

 

■「流行ってるから」車に飛び出し

投稿したのは、こっちゃん@YZFさん小学校の周りをバイクで走っていたところ、3年生の女児がわざとバイクの前に飛び出してきたという。

投稿主がその女児に怒った際に、どうしてそのようなことをしたのか理由を聞いたところ、「流行っているから」と答えたという。

また、投稿主は、この遊びが流行っているはこの小学校だけかもしれないと前置きしたうえで、小学校の周りを通るときは気をつけて運転してくださいと注意。この危険な遊びについて、小学校にも知らせるという。

■危険すぎる遊びに驚きの声

この小学生たちの危険で奇妙な遊びに、ネット民からは驚きの声が。

(中略)

・流行るってことは周りの子もやってるんでしょ? 親は止めないのかね。

 (中略 実際の体験談のツイートが紹介されていました)

 

■「子供の問題行動は教育のせい」が5割

車の前に飛び出すという遊びは、まさに問題行動といえるだろう。しらべぇ編集部が全国20~60代の男女1,365名「子供の問題の責任」について調査したところ、およそ5割が「親の責任」と回答。

©sirabee.com

子供たちが内密に楽しんでいる遊びとはいえ、「親は止めないの?」という声が出るのは真っ当といえるか。子供の問題行動には親が責任をもってほしい、という気持ちのあらわれだろう。

 

親としての認知が可能なのかという疑問

「小学校に通報する(した)」という声がツイートでも流れています。我が子の問題行動やそういう流行りが身近にあることを知らされれば親や学校が対応はするでしょう。

 

でもその前の「下校時または外遊びのときに子供がやっていること」について「親は止めないのか?」という疑問については現役の小学生母としての正直な意見を声を大にして答えます。

 

「無理です」

 

外で、友人と集団でいるときの我が子の様子をまるっと把握してる親なんてそうそういません、自信をもって言える親がいるとしたら、子供が相当に言語能力が高く素直なのか、子供が巧妙な嘘をついているのか、親が勘違いをしてるのか、どれかの可能性が高いです。

見ようと思ってもそうそう全体は見えない、把握しようのないことについても「親の責任だと世間は言ってますよ」とまとめられてしまう、虚しいですね。

 

把握のために必要なこと

小学生の親として今回の話に思うのは、通報がなければ親や学校が把握するのはなかなか難しい案件だろうなということ。

 

国道でやろうとしているケースもあるようで、体が小さくかつ真面目さが残る低学年よりある程度巧妙に遊べる中〜高学年の子達に流行りそうな遊びに感じられます。

 

悪いこと、バレればキツく叱られることだとはわかってやってる可能性も高いのではないかと思います。

 

隠れてやったり、バレても特定されずに逃げたりしていたら発覚はしづらいですし、子供の間の圧力で秘密を共有したり日頃大人の前ではお利口にできるタイプのお子さんのストレスの捌け口としての遊びだったりするとさらに巧妙にすり抜けながらやってるかもしれない、そうなれば誰かがやってると噂が出ても個人の特定は簡単ではないかもしれません。(分かりやすい問題児ではなくまさかあの子が!ってケースもあり得ますから)

 

親でも、子供の何もかもが把握できるわけではありません。

年齢が上がるとどんどん難しくなっていくし、子供の異変もどんどんわかりづらくなっていきます。

 

それに、本人にどんなに先回りの指導をしても周りに流されればうっかりやらかすのが子供です。

 

流行ってる、みんなやってる、という現実に断固として立ち向かうことができる子はそう多くありません。(空気読まない族のうちの次男みたいなのはたまにそういう同調圧力に爆弾投げ込みますけれどもね)

 

だから、教えてください

親として、切なる願いです。

「アホなことをやらかしてる子がいたらすみませんが学校にお知らせをお願いします」

そこから先は学校やPTAや保護者がなんとかしていくことになりますから。

 

「親の責任」という微妙なニュアンス

結果的には、起こった問題に対応するのは親を含む保護者なわけで、そういう意味では問題行動の責任をとるのは親、というのはたしかにそうではあるんですね。そのための保護者な訳で。

 

でも、親として「問題行動が起こらないようにする責任」を全面的に負うのは現実には無理です。

年齢が上がるごとにそれは難しくなっていきます。

 

園や学校でも度々交通ルールについての指導は行われているし、入学に際して学校までの道の危ないところについて丁寧に指導する家庭も多いと思います。我が家でも度々子供たちに指導や注意を繰り返していますし、地域の見守りパトロールをやってくださっている方もいる。それでも予想のつかない危険な行動を見聞きすることはあります。

普段教室で比較的優等生の子達が集団で遊んでいるときにわーーっと車の前に飛び出してきて驚いたこともありますし、道路の飛び出しではありませんが高学年の頃集団で驚くような意地悪を仕掛けていた話が浮上したこともあります。

 

行動の制御は親の責任だろ、と簡単に言うかたにたまに出会います。そのときに問いかけることがあります。

あなたが小学生の頃、生活のすべてを親が把握していましたか?中学では?高校では?

 

自分が親に見せていなかった顔、秘密にしていたこと、隠れてやっていた悪事、親に知られずに来た過去が必ずあると思います、そんなもんです。

 

「親だけ」での解決はたぶん難しいから

やってはいけないとわかっててもその場の雰囲気や楽しさに飲まれてやらかします。

やるなと一度言っておけばやらなくなるわけではありません。

キツく叱ればやめるというわけでもないかもしれない。

 

そんなもん、だからこそ個々の親だけではなく問題行動を起こした子供たちやその周りの子を含めて、周囲の複数の大人が、ただ叱るだけでなく流行りになった経緯や飲み込まれた子達が抱えている問題に目を向け、解決に向けての大枠の取り組みをする必要がある、今回の飛び出しはそういう案件なのではないかと思います。

 

そのためにも、発端となる情報を外部からいれていただくのはありがたいことだと思います。

 

おわりに

紹介した記事を見て、まず悲しかった。

あぁまたこうやって、子供の問題ある行動が親のせいですよと記事にされてしまうんだなと。

それに対して反発の気持ちから「なんでも親のせいにするな!」と言いたくもなります。

 

でも、親に責任がないわけではけしてない。

実際にやらかしているならそこから子供のしたことの穴埋めや再発の防止に取り組まなくてはならなくなるわけで。そこから逃げることはできないわけで。

 

その、問題行動がわかったあとの取り組みは親として背負うことなのかな、とは思っています。(もちろん様々な理由でその部分で周りの力をかりる必要が出ることもあり得ますが)

 

でも、問題行動の前、親なのに防げなかったのか、と責められても誰も救われません。

 

責めて親の足を止めてしまったら解決は遠退きます。

親が問題行動のあとの解決に向けてのりだしやすくなることが結果的にはその子にとっても周りの大人や子供にとっても大きな意味を持ちます。

 

子供の問題行動を是正していくことが親として、周りの大人として子供にしてあげられること、そのために責めるのではなく、解決のための協力をしていただけたら幸いです。

 

2017.05.30 13:54一部追記しました。

ムーニーのCMに感じたモヤモヤしたものの正体と、あれがリアルだと感じるお母さんに伝えたいこと。

思い出した記憶

 

話題になってたCMのことですね、これね。

www.youtube.com

 

TLにはママさんたちの叫びにも聴こえる声が並んでた。

恐々見たけど、やっぱり私も鳥肌立ちましたね。

もっと部屋は散らかっていて、もっと髪も振り乱していて、もっとボロボロだったけど、ほんともうあんな感じで新生児を抱えていた自分、チンする余裕すらなく菓子パンをかじっていた自分、寝られなくて泣いていた夜。

それがとてもリアルに描かれていたと思う。

 

えぐられた古い傷

自分の過去は過去として抱えて生きているのだけれど、でもそれを最後にえぐられた。

「その時間が、いつか宝物になる。」というその言葉で。

 

長男を産んでから13年、干支一周分以上の時間が経過しているのだけれど、それでも宝物になんかなってない。痛々しい、古い傷。

 

自分の子供たちが育児をする頃にはあんな気持ちを味わってほしくない、もっと楽に、楽しく、赤ん坊との時間を過ごして欲しいと本当に心から思ってる。

 

同じような声がTLに並んでて、ネット上のメディアでも取り上げられていた。

私だけじゃなかったんだ、と改めて思った。

 

それでもそれが今もリアルだという現実

現役の赤ちゃんを抱えるお母さんからは「でもそれが今でもリアルだ」というリプライをいただいた。

良くも悪くも今もそれが自分も直面している現実であって、美化したり感動ポルノに仕立てていたりするCMよりよっぽど好感が持てた、と教えてくださった。

 

なるほど、と思った。

 

私が過去のトラウマを思い起こさせられるほどのリアルさ、それは、今まさにそこにいる人たちにとっては自分の現状が可視化された状態、熱心に育児参加する父親像や祖父母などのサポートが入って楽しそうに育児する姿よりよっぽど、共感の持てるものだったのかもしれない。

 

確かに、あの過酷な新生児期の自分がたまたまつけたテレビ画面で仕事帰りに買い物をして子供を保育園に迎えに行って夕食を作ってくれる夫の姿や家族で楽しそうに食卓を囲む様子、夜泣きの世話をする父親の横で安心して眠る母親の姿を見せられたら。

手に入れられない理想を突きつけられて泣き崩れていたかもしれない。

あの頃の私だったら、ムーニーのCMは自分のリアルを映し出してくれているのだと共感したかもしれない。

 

共感はわかる、でもやっぱりモヤモヤを感じる理由

あの頃は共感したかもしれない、でも今見ると辛い。

見ていてモヤモヤする。

 

なんでだろうと考えて、ひとつ見えてきたもの、

それは

「繰り返さないで」という私たちの抱えている気持ちなんだろうなと思う。

 

どんなにそれがリアルでも、

どんなにそれが今もある現実でも、

でも、やっぱり私は通り抜けてきた経験者として、

血だらけになりながらサバイブしてきた身として、

 

ここで立ち止まることを良しとしないでほしい

 

と思う。

 

肯定してはいけない現実だと思う、たとえそれが今の誰かのリアルでも。

 

 

ワンオペ育児になってしまう理由は様々だろうと思います。

夫が早く帰宅できない就業環境の問題かもしれないし、自分も育児に積極的に参加したいという父親の意識の問題かもしれないし、母親なんだからと周りに助けを求めることを自ら制限してしまう母親の抱えている問題かもしれない、母親なんだからそのくらい当然だろうという外部からの圧力を感じるからかもしれない、もっと他にも、いろんな要素があるかもしれない。

 

いろんな理由や環境ゆえの要素が絡み合って結果的にワンオペ育児になってしまっている、そんな辛い今を本人が止むを得ず飲み込むのは仕方ない、でも少なくとも外野が肯定して欲しくない、と焼け野原をボロボロになってサバイブした私は思うのです。

 

もっと、ゆとりを持って赤ちゃんのお世話ができていたら、もっとゆっくり眠れていたら、もっといつも笑顔でいられたら、そう思って今も引きずっている私たちの後悔を、辛かった記憶を、「いつか宝物になる」なんて言って欲しくない。宝物になんてなってない、何年経ってもトラウマでしかない。

 

これから子育てをするすべての人が、あの辛い思いをせずに済むように、いつも笑顔で子供を抱ける日が続くように、と願わずにはおれない。

 

最後に

今ワンオペ状態で辛いお母さんへ。

 

今の辛さは「母親なんだから仕方がないこと」じゃないです。

我慢しなくていい、もっと、周りを頼っていいと思うのです。

(それは、私ができなくて辛かったからこそあえて、そう言いたいの)

 

夫が頼りにできないなら行政のサービスや改善の方法がきっとあります。

ちょっとずつでもラクになる方法はきっとある。

twitter含むネット上にはそれを知ってるお母さんたちがたくさんいるから、リアルで一人で辛い時は同じくらいの子を持つママさんたちと繋がったり、先輩ママさんに色々教えてもらったりできると思う。

 

 

一人じゃないよ、大丈夫だから、あなたはもっとラクになっていいの。

 

 

子供の選んだ本に「え〜〜それ〜〜」ってなった話

本屋へ行って来ました。

小1三男と小4娘を連れて、久々に本屋さんへ。

 

田舎暮らしゆえ蔵書の多い立派な本屋さんまで行くのはちょっとした小旅行。

今日は時間もないし、近所の小さな本屋さんまで。

 

娘は「歴史の本が欲しいの」と児童向けの本棚をウロウロ。

 

三男が選んだ「本」…

三男は絵本のコーナーを見た後はちょっとしたおもちゃが置かれたコーナーとガチャガチャコーナーを行ったり来たり。

「あ〜〜ダメよね〜〜」

「おもちゃはダメよね〜〜」

「は〜〜〜ガチャガチャいいな〜〜〜」

と本音がダダ漏れの三男。

 

「もう小学生なんだからおべんきょうになる本にしたら?」と娘に促されて幼児〜児童書のコーナーをうろつく三男。

 

「これ!」と手に取ったのはこれでした…

 

「え〜〜〜それ〜〜〜」と顔を見合わせる私と娘。

娘と一緒に「これはどう?」「こっちは?」といくつか見せてみましたがどれも「やだ〜〜〜」と拒否する三男…

 

脳裏にいろんなことが浮かびます。

 

考察1 「本を買ってやる」という約束

確かに「本を買ってやる」と私は言った。

今三男が手にしているそれが「本」かどうか。

私には「雑誌」に見えるし、少なくとも学問の役に立つ本とは思えない。

約束をした時に私が思い描いていたような「本」ではない。

しかしそれを今この場で6歳児の末っ子に理解させることは難しい。

いやそもそも「本」とはなんだろうか、それを説明するだけの定義が自分の中にあるんだろうか…

 

「本を買ってやる」と言った私の発言に矛盾しない行動を取るためには選んだそれを買ってやるべきではないか、という一つの結論。

 

考察2 大事にすべきなのは何か

「本を買おう」と出向いた本屋、ここにある中から何かを買ってもらえると思っている三男、「本人のためになる良い本を買ってあげよう」と心のどこかで思っている私。

 

「このほんじゃダメなの〜」「これがいいなぁ」とてれびげーむマガジンを抱える6歳児を眺めながら、私はどうしたいんだろう、とふと思いました。

 

私が買ってあげたいと思っているような「ためになる本」を無理に買ったところで彼がまず自主的に読まないだろうことは容易に想像がつきます。

 

じゃあここで大事にすべきなのはなんなんだろう。

三男にどうしてあげたいんだろう。

 

「本を嫌いにならないで欲しい」

やっぱりそこは大事にしたいなぁと思ったんですね。

無理に好きでもない本を手に取らせて押し付けるようなことはしたくない、本に対して悪いイメージがつくようなことはしたくない。

 

じゃあ、「ほん」と本人が思っているものならなんでもいいじゃない、というのが、もう一つの結論。

 

結論「それでいいじゃない」

「うん、それでいいよ」と私が言うと漫画のようにぴょんぴょん跳ねて喜ぶ三男。

読む部分なんかたぶん全然内容な雑誌ではあるけれど、マイナスの記憶を残さないことが最優先なんだろうな〜と思うとこれが最適解だったような気がしています。

 

ここから先、学校の図書室や我が家の本棚、図書館、大きな本屋さん、子供たちがどんな本に触れていくのかわからないけれど、上の子たちと同じように本そのものに抵抗のない子に育ってもらえたら本望だなぁと思ったりしています。

 

4人目にして初めてこんなに考え込んだんだけど、そういえば上の子たちがこの手の本を欲しがった時どうしていたんだろう…記憶が曖昧であまり思い出せないのだけど、欲しがったら買っていたのかなぁ、あまり本屋にいく精神的余裕もなかったような気はしますが。

 

おまけ

娘が選んだのはこれ。歴史のことが知りたいの〜だそうです。

 

私が買ったのはこれ。

ぜったいがっこうにはいかないからね (チャーリーとローラ)

ぜったいがっこうにはいかないからね (チャーリーとローラ)

 

 一年生向けの特設コーナーで見かけました。

学校での読み聞かせでも使えそうだなぁと思って。

 

帰りの車の中で「お母ちゃんの買ったやつ、夜に読んでね」と三男。

4人の中で一番絵本を読んでもらうのが好きな彼が今後学校でどんな本を借りてくるのか、ちょっと楽しみではあります。

 

余談ですが私がほんとは欲しかったのは、こっち(笑)

 

怒って送り出した朝の一人反省会

朝のイライラと、爆発

 

何でか今日は朝から色々なことがうまくいってなかった。

私も起き抜けからちょっとイライラしていたような気がします。

いや、あとから考えて見えてきたことだけれど。

 

朝食に出したウインナーの取り分で喧嘩、パンは嫌だご飯がいい(今朝はお弁当いらなかったから炊いてない)とグダグダ言う末っ子、テレビに見とれてご飯が進まない子供たち、履いていくはずだった靴下が見当たらないとイライラする長男、通り道に座り込む娘にぶつかったくせに「(娘)が蹴った!」と怒り出す次男とそれに反論して怒る二人の喧嘩、ドタバタしているところでぬらぬら起きてきた夫が「ねえ今日の夜、スーツで行くけどどうなってたっけ〜」

 

知るか!

靴下もスーツも自分でどうにかしてよ!

通り道に座るな!

わざと蹴ったわけでもないのに、いちゃもんつけるなチンピラかよ!

ウインナーの数くらい出したところで考えて食べてよ!

朝ごはんの時テレビつけるなって言ってるじゃん!

 あるもの食えよ文句言うな!

 

で、ドカーーーンと怒ってしまいました。

 

怒ったままのお見送りと一人反省会

結局納得のいかない靴下を履いて、ブーブー文句を言いながら長男は早々に登校していきました。

小学生3人は玄関先でも誰が先に行くだの誰が押しただの邪魔だのもめながら出かけていきました。

 

家族がいなくなった居間にポツンと残った長男の忘れ物。

几帳面で忘れ物を滅多にしない彼の不快な気持ちがそこに詰まっているようで自責の念が押し寄せてきました。

 

洗濯物を干しながら、一人反省会。

 

あんなに怒るようなことじゃなかったよね

言い方悪かったよね

気持ちよく送り出してあげないと学校でもうまくいかないかもしれない

まだ、1年生が始まったばかりの子が2人もいるのに

長男の靴下も中学の校則を守らないといけないって思ってるから焦ってたのに

気持ちの整理が苦手な次男が学校でしんどくなるかもしれないのに

 

怒りの後に込み上げてくる、言葉にできない色んな感情を冷めたコーヒーで流し込んで。

 

感情の整理と、次のステップ

 

くよくよ悩む性分の私は、この切り替えがとても苦手でした。

いつも、してしまった失敗に囚われて先に進めない。

夫が言ってくる善意の助言も受け止めることができずに「そんなことわかってるよ!」と何度言い返したことか。

 

でも、次に進まないと同じことを繰り返してしまう。

だから、解決のための手段が私には必要なんだろうと思うのです。

 

具体的な対策を考える。

大皿にまとめて出したウインナー

→人数分の皿に分ける

 

靴下がみあたらない

→買えば済むものは躊躇なく買い足そう、まとめ買い決定。

 

ご飯かパンか

→入学したてで不安の多い三男を尊重して当分は本人が好きなご飯を用意するのもありかも。

 

夫のスーツ

→いやこれは自己管理の徹底をお願いしよう

(というか多分私にどうにかしろというよりはなんとなく口にしたそのタイミングが恐ろしく悪かったんだろうと思うけど)

→つまり悪意のない夫のその言葉が刺さるほど自分がテンパっていたとも言える。

 

そして突き詰めていって見えてくる自分の今朝のイライラがどこにあるのかに向き合わないといけない。

多分それが、いちばんの発端。

私が私の感情を上手に整理できてなかった、いちばん見直すべきは、ここ。

 

おわりに

「いちばん見直すべき」と私が考えた自分の感情だけれど、お母さんだって人間だもの、なんでかわかんないけどイライラする日もあると思う。

そこがうまく整理できてない時に夫から「こうすればいいじゃん」とか言われても、そこがうまく受け止められないことがある。

ほう太パパさんからもらったメンション、夫婦あるあるだと思う。

 

 

感情の整理を上手にできない人は私も含めてたくさんいると思う。(男女差というより個体差が大きい?基本的自尊感情が大きく関わっているような気もするのだけどそれを掘り下げると長くなるのでまた別の機会に)

 

でも、それを理由に周りの人を巻き込んで不快の輪を広げちゃったら楽しく生きていけない。

 

感情に折り合いをつけていく訓練も大事だし、私が例に挙げたようなお金や工夫でなんとかなりそうな対策は適当に受け入れたり、色んな方向から試行錯誤を繰り返して「怒らないで送り出せた日」が続いていくようにしたいなぁと思う、今日この頃です。

 

おまけ

アップした後、ふみきちさんからこんな反応をいただきました。

 

そっか〜と思いながら、その「まいっか〜」と切り替えるのが私には難しいんだよなぁと改めて。

そこがサクッとできるようになったらいいなぁと思うけどなかなかハードルが高い。

だからこその、具体的な対策の積み重ねなのかもしれません。

 

靴下がたくさんあれば少なくともそのことでのトラブルは起こらないし。

そうやって小さなことを積み重ねていくことでトラブルを防げたら、起こるトラブルを小さくしていけたら、そして「まいっか」と思う回数を増やしていけたらなぁ、と。

 

 ※サムネイル画像が後から追加できるのか実験。

靴下、中学の校則ではくるぶし丈でワンポイントまで、だそうで。梅雨が来るし、やっぱり買い足さないとだわ。

お兄さんになった、長男のこと。

4月から中学生になった長男。

朝食の食器をキッチンに運んだら、自室へ。

 

居間でテレビを見ながらダラダラ過ごしていた小学生3人がランドセルを背負ってワラワラと家からいなくなる頃、学ラン姿で静かに部屋から姿を見せて、嵐が去った後の散らかった居間をすっと通り抜け、「行ってきまーす」と低い小さな声。

 

kangaeruhito.jp

 

午前中の仕事がひと段落したところでふと目に留まって読んだ村井さんのエッセイ。

読みながら、長男のことを思う。

 

1歳半でお兄ちゃんと呼ばれる立場になって、

6歳ですでに3人の弟妹がいた長男。

 

下の子たちのお世話に翻弄される中で一番甘えたかった時期に多分全然甘えられなかっただろう彼が、やっぱり私が弟妹のお世話にあたふたしているうちにあっという間に中学生になってしまっていた。

 

仕事用のPCデスクの前に貼っている子供たちの写真の数々。

幼稚園の運動会で張り切る長男の姿は私が気に入っているもののひとつ。

 

 

写真の中の長男の姿。

 

私の腕に抱かれていた小さな彼が

もみじのような小さな手を繋いで一緒に園まで歩いていた可愛かった彼が

運動会で「転んでも泣かないよ」と一生懸命走っていた彼が

 

気づけば自分と肩を並べるほど大きくなってしまっていて。

 

小さな長男の写真の隣には、小学校最後のサッカーの試合で撮った姿。

それは我ながらよく撮れた一枚で、ユニフォーム姿で芝の上に立つ彼は高校生の頃の(当時は痩せていてかっこよかった)夫を思い起こさせるようなスラリとした立ち姿。

 

玄関に並んだスニーカーはいつの間にか私の靴よりも大きく、

並べて干したズボンの股下はよく見ると私のものよりも長い(悔しい)。

 

あぁ、もう立派なお兄さんになったんだなぁ。

 

目の前にひたひたと迫る思春期。

おそらくはこれまでとは違う形になっていくであろう長男との関係。

 

私も、親として新しいステージに入ったんだなぁと、寂しいような、ちょっとワクワクするような、不思議な気持ちになる春です。

どうしても食べられなかったチーズの記憶と、食べられない「何かしらの理由」

TLが偏食の話題で賑やかです。

NHKの「おはよう日本」で発達障害の偏食と過敏のことが取り上げられたからみたいですね。

 

わたしと偏食

Twitterで何度か書いたことがありますが、わたしは生魚がほぼ食べられません。

これを告白すると「本当に美味しいのを食べたことがないからじゃない?」と言われることもあるんですが、過去に景気の良い時に羽振りが良かった父が肴にしていたお刺身や勤めていた会社の社長に連れられていった高級料亭で食した時もやはり不味いと感じたので、本当に自分には合わない食べ物なんだろうと思っています。

 

他にも食感がどうにもダメで食べられないものがいくつか。

 

プロセスチーズの匂いと食感は大嫌いで、小学校の頃は給食の時間にどう頑張っても食べられず、いつまでも片付けさせてもらえず泣きながら口に運んだ思い出があります。

 

 

あの頃「クラス全員が食べ終わるまでグラウンドに出てはいけません」というルールを作った担任のせいで早く場所取りをしたい男子にものすごく文句を言われたことは未だに覚えています。先生、まだ私、あのルールを作った先生を許せてないです。

 

食べられるチーズと食べられないチーズ

プロセスチーズは食べられませんが、ピザ用チーズというのに出会って「チーズ食べられる」と気づきました。

その後、お菓子作りで出会ったクリームチーズに始まり、パルメザン、モッツァレラやゴルゴンゾーラ、あれこれチーズを買っては食べてきましたが、どれも食べられないものにはまだ出会ってません。

あんなに嫌いだったチーズ、本当は嫌いじゃなかった。

むしろお金を払って買い求めるほど、好きな食べ物の一つになりました。

でも未だに、プロセスチーズだけは食べられません。

それが本当に苦手だから食べられないのか、あの頃のトラウマがそうさせるのかはわかりません。

 

雪印 6P チーズ

雪印 6P チーズ

 

子供の頃見たくもなかったこの三角チーズのパッケージ…

でも上3人はかなり好きみたいで欲しがるのでよく買ってます。

 

プロセスチーズは食べられなくても

プロセスチーズってそもそもなんだ?と思って調べてみました。

日本で昔からなじみが深いのが「プロセスチーズ」。
原料は1種類または数種類の「ナチュラルチーズ」で、細かく刻んでから加熱溶解し、乳化剤などを加えて再び成型したのが「プロセスチーズ」です。『スライスチーズ』や『6Pチーズ』などさまざまな形に加工されます。
加熱殺菌しているため保存性が高く、嗜好性や用途に合わせてお好きな種類を選べます。

ナチュラルチーズを加工したもののよう、ということはナチュラルチーズや同じようなとろけるチーズを食べている私はプロセスチーズが食べられないという理由で困ることはほぼ無いんですよね。

 

乳製品は大丈夫だからアレルギーとかではなさそうだけど、とにかくなんでかわからないけどプロセスチーズだけはどうにもダメ。発達障害ゆえの偏食と関係があるかもしれませんが、真相は闇の中です。

 

でもまぁ、チーズに限らず、これだけ色々な食品食材が手に入る状況であれば、何か特定のものが「何かしらの理由で」食べられないということはそれほど大きく騒ぐようなことではないんじゃないかなぁ、というのが私のスタンスです。

 

「何かしらの理由」

特定の食材が「なんでかわかんないけど」いや、っていうケース、発達障害という診断がなくても起こりうるんじゃないかな、と思っています。

 

我が家にはアレルギー児の末っ子がいます。

卵と乳で皮膚症状や喘息発作を起こすことがあるので入学を控えて給食での配慮をお願いしているところです。

 

ただ、彼のこの卵と乳の除去、本当にアレルギーだけが原因なのかははっきりしていません。

 

アレルギーというと血液検査、とよく言われますが、あの数値と症状の有無や出方はイコールではありません。

数値がすごく高くても全く症状が出ないこともあるし、数値が規定以下でも発作を起こすこともありうる、それがアレルギーの難しいところです。

 

末っ子は血液検査を繰り返して卵と乳の数値がだんだん下がってきたので、少しずつ食べてみる試験を進めているところです。その中で、マヨネーズをいれたマカロニサラダは喜んで食べましたが卵焼きはどうしても食べたがりません。

少し食べてすごく嫌な顔をする。

 

ヨーグルトは喜んで食べましたが、プロセスチージはやはり少しかじってあとは拒否。

 

結局、乳も卵もなかなか食べ進まず様子を見ているところです。

 

主治医に「これは単なる好き嫌いなんでしょうか」と相談したところ、

「うーん、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。皮膚症状や分かりやすい発作としてではなくもしかしたら口の中や喉が少しチクチクするとかその程度の反応が出ているのかもしれないし、感覚過敏で嫌なのかもしれない、何かはわからないけど、とりあえず本人が嫌なら無理強いしないようにするしかないねえ」とのこと。

 

発達障害に起因する偏食や感覚過敏、アレルギー…私の身の回りだけでもこれだけの「何かしらの理由」で特定の食べ物を嫌がる可能性が見えます。

知らないだけでもっと他にもきっと色々あると思う。

味覚の障害や加齢による影響もあるかもしれない。

 

「食べられない」ことが悪いわけじゃない

末っ子はアレルギーがあることにも起因して、食べられないものがいくつもあります。

園生活でもお友達と同じものが食べられないこともよくありました。

幸い、それで本人が辛い思いをしないよう先生方が気をつけてくださっていたので、お友達ともそれで何かあったりはしていないようですし、本人も「僕は食べられないからしょうがないし〜」とケロッとしています。

 

我が家には末っ子以外にも、それぞれの子供達にそれぞれの好き嫌いがあります。

その好き嫌いの理由が何なのか、私にもわかりません。

食わず嫌いだったこともあるし、何度か勧めて食べてみてもやっぱり嫌っていうこともありました。

年齢が上がったら食べられるようになったものもあるし、長く嫌っているものも色々。

 

でもそのうち食べられるかもね〜という程度であまり気に留めずにここまできています。

学校でも昔のような強制はされていないようなので子供達が私と同じような辛い思い出を作らずに済んでいて助かっています。

 

栄養は他のもので補えばいいし、1日で帳尻が合わなくても1週間くらいかけていろんな栄養素が取れてればいいかな〜と思ってゆるゆると好き嫌いだか偏食だか感覚過敏だかアレルギーだかわからないなにかと今日も付き合って暮らしています。

 

おまけ

そういえば過去にもこんなことについて書いたことがありました。

 

 

紙オムツ自販機の実現とコンビニ紙おむつ問題、そこにあるのは性差か、それとも。

こんな記事がTLに流れてきました。

 

男性が言えば通るのか…という声

いろんなコメントが寄せられる中で、女性が言っても通らないことが男性だと通るのか…という声も少なからず見られました。

 

少し前に流れた同じYahooニュース

ツイッターで起こったこの声についての記事では「買う人がいないから」「ストックを切らすのが悪い」という辛辣なコメントも多く見られました。

 

男性が提言すれば実現するのに…という声はこの、2つの声への対応の差から生まれたものなのかな、と思います。

 

2つの声の違い

この2つの提言、男性発信と女性発信、という違いに括られて語られているようなのですが、実際はちょっと違ううような気がしています。

 

紙おむつ自販機の記事では

「こんなモノがあったらいいな」という子育て中の父親の声を受け、地元のNPO法人「こまちぷらす」(森祐美子代表)や企業が連携、約1年かけて開発した。

(中略)

こまちぷらすは、ヤマト運輸神奈川主管支店と協働で「ウエルカムベビープロジェクト」を展開中。地域で子どもの誕生を祝う文化を醸成しようと、戸塚区の新生児の家庭に「背守り」と呼ばれる刺しゅうなどを贈っている。

自販機設置のきっかけは同プロジェクトのワークショップ。育児に必要なモノをテーマに意見交換する中で、参加者の一人、同市在住の団体職員池田浩久さん(40)が提案した。

(中略)

森代表は、父親の声を受けて誕生したことや、実現に向け地域の人たちが協力したことは、これからの子育てを象徴していると評価。

と書かれています。

 

実績のあるNPO団体が企業と提携したプロジェクトのワークショップの場ででた意見を元に実現に向けて複数の人や団体が動いた結果、実現したもののようです。

 

かたやコンビニにオムツを、という声はツイッターで起こったもの。

共感の輪は広がっていったのだけれど、実際にはニーズの吸い上げが難しく、商品としては存在しているものの置いている店舗は限られてしまうという企業側の声が記事の中でも紹介されていました。

 

この2つの声からの流れの違いは発信が男性なのか女性なのか、ではなく、声が起こった場の状況と主体的に関わっているメンバーの立場、戦略的に実現につながるノウハウの有無など、性差とは違う要素も大きく関わっていたためと考える方が自然です。

 

PTA絡みでで出たとある声

話は少し変わりますが、先日参加したとある会合の中で長年PTAと関わる男性から「なぜお母さんたちは会議の場で意見を出してくれないんだろう」と相談を持ちかけられました。

私も実感のあることなのですが、会議、役員決め、何かを決める場、というPTAの中では割とよくある場面の中で、会議の最中に意見を言う女性はそう多くありません。

思ったことをとりあえず言う種類の私のような女性は大変に浮くのですが、その男性が言うにはそうやって色々と意見が飛び交うような会議を行いたいのだけれどなかなか難しい、意見はあっても後から伝え聞いたりして結局改善に繋がらないことも多くてもったいなく思っている、とおっしゃっていました。

 

提言を実現させるためのノウハウ、手段と、性差

こんな話をしていると「女は話し合いができない」「男はうまくやれる」という流れになりがち。

でも実際はそうじゃないと思うんですね。

そんな記事をかなり前に書いてたのを思い出しました。 

女という性がそもそも話し合いができない、何かを実現させるのが下手、というわけではないんですね。

長い間育児や介護を女性の仕事だとしてきた(その結果男性が関わる機会は乏しかった)結果、女性の方がうまくやれるように見えている、錯覚しているに過ぎない。

 

それと同じように、恐らくは女性の多くが「会議の場で自分の意見を主張したり、実現するために尽力する」という機会が乏しかった、その影響は大きいのではないかと思います。

 

抑圧されてきた過去と、今と、これから

女性が抑圧されてきた過去をなかったことにすることは当然できませんし、私の住む九州の片田舎では今も露骨な女性差別を目の当たりにすることもあります。

ネット上でも驚くような性差別が存在するのもまた事実です。

 

でもそれにとらわれるあまりにうまくやれるはずのことがうまく回らないのもまた勿体無いなぁとも思うのです。

 

紙おむつ自販機が実現した背景には、たくさんの方が企業も含め周りとうまくやりながらこぎつけていった経緯があると思います。

その背景には男尊女卑だった歴史が無関係だと言うことはできない、関係はゼロではないでしょう。

 

もともと男社会だった企業のやり方もあるかもしれないし、男性の声の方が通りやすい風潮はまだまだあるかもしれない。

 

そこと上手に向き合い、時に利用しながら、自分たちの声を実現につなげていくやり方はきっともっともっとあるんじゃないかな、と思うのです。

抑圧されてきた過去と少しずつ変わっていく今から、戦略を立てて生き抜いていく。

みんなでそうやって前向きに協力していけば、コンビニの陳列に影響を与えることだってできるのかも、と思ったりしています。

 

おまけ

余談ですが、会議の場でなぜ女性の発言が出ないのか、ということについては発言機会の有無やその歴史だけで考えられることではないと考えているんです。

というのも夫経由で聞いた話ではPTAの中でもお父さんだけの会議の場で似たような沈黙の時間が起こることはままあると。

 

組織のあり方や責任の所在、仕組みの問題も大きいのでは、と考えていますがここでは話がずれていくのでそれはまた別の機会に。

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