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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

子連れポケモンGO体験談と育児ツールとしての使い方の工夫

こどものこと そのときどき

なんだかんだと新しものは好きなので、ポケモンGOAndroid版リリースの一報から即ダウンロードして早速使ってみました。

 

はじめるまで

ポケモントレーナークラブというところでアカウントを取得していたら子供でもプレイできるようになっている仕様のようですが、現在そのサイトは新規の登録ができない状況のようなので始めるためにはGoogleのアカウントが必要になります。

 

私は既にプライベートで使用するアカウントを所有しているので、セキュリティ面の対応としてポケモンGO用に追加で新たなアカウントを取得しました。

 

ダウンロードしたポケモンGOアプリを開いて、まず生年月日を入れるところがあるので自分のものを。その次にアカウントについてGoogleポケモントレーナークラブの2つが提示されるのでGoogleを選んで先へ進みます。

 

生年月日を入れる段階で年齢が低いと選択肢にGoogleが出てきません。Googleのアカウント取得が13歳未満はできないようになっているので、おそらくそこがラインだと思われます。

 

プレイヤーの名前や外見の設定をして、博士がなにやらいろいろいうので言うに従いチュートリアルが始まります。

 

みつけて、捕まえる

とりあえずスタートした段階でできるのは、画面の地図上にあらわれたポケモンをタップして、捕獲画面にしたところでモンスターボールをぶつけてゲット、を繰り返すこと。

 

地図上にあるポケストップに行けばモンスターボールが補給できたり、たまにポケモンの卵が拾えます。この卵を孵化器に入れると歩行距離のカウントがスタート。私が最初にゲットした卵は5キロで孵化するものだったので、あと4.5キロくらい歩かねばなりません…。

 

スタートしたところでまず建物内で2体ほど見つけたのですが、その後ポケストップにも行ってみたくなったので5歳末っ子を連れて外へ出かけてみました。

 

安全に楽しむために

歩きスマホの危険性はリリース前から海外での事例も含めて懸念されていたことだろうと思います。

地図上にポケモンが現れたのをタップして捕獲画面に移る仕様になっているので、ゲームを進めるためには画面を確認する必要は出てきます。

ただ、設定画面で振動が起こる機能をONにしておけばポケモンが画面上に現れたときにバイブでわかるので実際には手に持って歩いていれば気づくことができます。

現れるときの効果音も鳴るので、人ごみでなければ音量を上げておいたり、危険の無い範囲内でイヤホンを使用するのもアリかもしれません。

 

ためしに広い場所でアプリが起動した状態で5歳児にスマホを持たせてみましたが、つい画面をじっくり見ながら歩き回ってしまうようなのでやはり公道で幼児に持たせて探させるのは厳禁です。小学生の子供にも持たせてみましたが集中すればそう変わらない結果になるのでやはり危険であることには変わりないと思います。

 

幼児でも安全に楽しむ方法

地図上で見つけたポケモンをタップして捕獲画面に移ってしまえば、あとは多少移動しても画面は維持できます。

ポケモンをゲットするのを楽しむためには、捕獲画面して移動→安全な場所で子供に捕獲してもらう、がよいのではないかと思います。

 

他にもポケストップでポンポン出てくるモンスターボールや卵もタップしてゲットするのを楽しんでいたので、近隣で安全に立ち止まることのできるポケストップの場所を確認しておくとよさそうです。ポケストップ自体も少し離れたところでもタップ可能ですがこちらは画面を切り替えてから離れるとアイテムは取れなくなるようでした。

 

子育てアイテムとして活かす方法

貪欲ゆえ、このアプリを子育てに良い方向で活かしたい、と企んでいるのでその視点からメリットを考えてみます。

 

1.小さな労力で「できた」が手に入る

ポケモンをゲットするのはモンスターボールを投げること。

コツが要りますが慣れればそう難しくありません。5歳児でも簡単に捕まえて、できた!やった!と喜んでいました。

小さなステップでゲットした達成感を味わうことができて楽しかったようです。

種類によってはゲットに時間がかかったりするものもいますが、操作そのものはポケモンに向かってとにかくボールを投げ続けることなので幼児でも割りと簡単にできてました。時間がかかる分、頑張った!という気持ちも味わえたようです。

 

2.兄弟で一緒に楽しめる

うちのように4人もいると何かゲームをダウンロードしても登録できる数の制限があったりであーだのこーだの揉めることも多くなり、ゲームの導入時に色々と工夫が必要になることもよくあります。

ポケモンGOは今のところ私のスマホで使える状態にしているのですが、ポケモンをゲットしたり育てたり、というのを「みんなで」やってる感を出せるんじゃないかな、と思ってます。

ポケモン自体は歩き回っていればゴロゴロ見つかる(地域性はあるかもしれませんが)ので、みつけたポケモンをゲットするのも交代でやればいいし、今のところモンスターボールが枯渇するような事態にはなりそうにない(ポケストップでどんどん手に入るから)のでバンバンゲットするのを交代で楽しむ、という遊び方が導入できます。

 

自分でゲットしたポケモンにあとからそれぞれが好きな名前をつけてそれぞれ育てる、ということもできそうです。

 

3.歩く目標ができる

ポケストップでゲットした卵を孵化させるためには一定距離を歩かねばなりません。距離は卵の画面で確認できるので、どのくらい歩いたのか・あとどのくらい歩けば孵化するのか、が分かりやすく、運動目的で導入したときの目標を決めやすいと思います。

歩いた分ちゃんと卵が孵化するというご褒美が用意されているので、子供も大人もモチベーションを保つのに使えそうです。うちは次男が以前やっていたスポーツ系の習い事を辞めてから運動不足気味なので、これをネタにウォーキングに連れ出そうと画策しています。


4.お兄ちゃんの知識が役に立つかも

ポケモンをどんどん集める段階では特に知識は必要としていなかったので私と末っ子でも楽しめていたのですが、レベルが上がってジム戦に挑めるようになってある壁に直面しました。

それが、ポケモン同士の相性のこと。
タイプにより攻撃が効きやすいとか効きにくいとかがあるポケモン。ジム戦で戦う相手は事前にわかっているのでそのポケモンを倒しやすいキャラを手持ちの中から選べると有利に戦えます。

それを詳しく知ってるのが、DS時代からポケモンをやりこんでいる高学年のお兄ちゃんたち。色々相談したり、ちょっと教えてよと散歩に連れ出そうと企んでいます。下の子たちにもいつも以上に尊敬の目で見られるお兄ちゃん、まんざらではなさそうです。

家族みんなで出かけて、簡単なポケモンゲットは末っ子に、難しいジム戦はお兄ちゃんたちに、と役割分担もできそうです。

5.ちょっといつもと違う時間作りに

夕方、暇そうにしていた5年生の次男を誘って近所を少し散歩してみました。並んで歩いて、ポケモンの話をしたり道端のいろんなものについて話したり。

きっかけがないと二人で散歩、なんて機会もなかなか作りづらいのだけど、ポケモン探しに行こう!って声かけたら次男もすっ飛んできてしばらく一緒にうろうろしました。

「家族でランタンを灯して夜の散歩をしてきたよ」というフォロワーさんも。

歩いているとおしゃべりはゲームのことから色々派生していきます。次男とも久しぶりに二人でゆっくり並んで歩いて、色々話して。

そんな、ちょっといつもと違う家族の時間作りに一役買ってくれるかもしれません。

 

おわりに

ざっくりやってみた感想をまとめてみましたが、今後継続してやっていく中でさらに色々な発見が出てくるかもしれません。そのときはまた後日談を追加したいと思います。

 

位置情報を扱うアプリなので基本的には子供に持たせて任せられるゲームではないと私は考えていますが、子供も大人も楽しめそうなものなので今後も上手に育児ツールとして使っていきたいと思っています。

子供という卑劣な生き物

今日は、ちょっとだけ。

 

慌ただしく仕事の打合せや学校行事を渡り歩いているなかの短い空き時間に、ニンパイさんのこんなツイートを目にしました。

 

 ※補足

ニンパイさんがでどころのブログを教えてくれたのでリンク貼っときます。

blogs.yahoo.co.jp

 

ググってみましたがうまくヒットしないのでこのツイートが「ピーナッツ」の作者チャールズ・M・シュルツ氏自身の発した物なのか、出展は何なのか、は全く不明です。が今回の本題はそこではないのであえて掘り下げず引用だけしとこうと思います。

 

「卑劣」な子供たち

子供にむけて「卑劣」という言葉を使っているこれ、一瞬の引っかかりがある人も居るかもしれないしいないかもしれない。でも私はなんか、しっくり来るような気もしたんですね。4人の子供たちと、その子たちを取り巻くたくさんの子供たちと日常的に接している生活の中で、清廉潔白なお子さんなどまずお目にかからない。ほとんどの子供たちは腹黒く、自己中心的で、ワガママで、自分を最優先して欲しい様子が見て取れる。それは、少なくとも私が日常接する乳幼児から小学校6年生まで年齢に関わらずそうだなぁと。

 

卑劣;することが正々堂々としておらず、いやしくきたならしいこと。

 

Google先生は仰っておられる。

 

卑劣というと悪意を持った嫌らしい行動、をまず思い浮かべるかもしれないけれど言葉そのものにはどうも悪意の有無は含まれてない様子。ウェルズ氏の言葉の中にある「無邪気な卑劣さ」とはまさに、私が日頃接している子供たちの、無自覚で愛おしい嫌らしさなのかもしれない。

 

生まれつきの「卑劣さ」

子供たちは往々にして、ときにこちらが恐れ入るほどに図々しく、いやらしく、自分の主張を押し通そうとする。年齢が上がるごとにその手練手管は磨かれていき、表面的にはわかりにくくなっていく。

 

じゃあその卑劣さの根っこにはなにがあるんだろう。

 

子供たちはアピールします。

「私を見て」

「僕をほめて」

「私を最優先にして」

「僕だけ特別扱いして」

 

その欲求は、この世に生まれ出てすぐから体を動かしているのかもしれない。乳児のお世話をしているとまだ意志の存在すらあやしいその小さな生き物が持つ欲求のままに振り回されていることに気づくことがあったのを思い出します。彼らはまだ言葉を発することすらままならないころから、周りの人間に自分を最優先してもらいたいという欲求を発信しながら生きているのかもしれません。

 

「卑劣さ」の根っこにあるもの

なぜ彼らはその「卑劣さ」を持って生まれてくるのか。それは、その方が生き残りやすいからかもしれません。兄弟のなかで、家族のなかで、たくさんの子供たちのなかで、自分により多くの栄養を、より多くの愛情を受けた方が生存の確率が上がっていく。小さな赤ん坊はそれを本能的に知っているのかもしれません。

 

この本能的な動きは、小さい子がいる家にさらに赤ちゃんが生まれると目の前で見ることができるかもしれません。我が家の次男が生まれたのは長男が1歳8ヶ月のとき。寝かせた赤ん坊を可愛いと眺めていたかと思えばその頬をぎゅっとつまんでみたりする長男に手を焼いていました。

赤ちゃん返りやこうした兄弟間の闘争の根っこにあるのは本能的に相手より自分を可愛がってもらおう、相手を蹴落とそう、という心理が働くから、と当時何かで読んだのを覚えています。自分と同じ養育者に育てられている弟を、理性では可愛いと思っているけれど本能的には競争相手としてとらえてときに攻撃的な感情が表にでているのだ、と。

 

 

「卑劣さ」と自尊感情

彼らが持って生まれた卑劣さ、それは、果たして忌むべき対象として成長とともに減少させていかねばならないものでしょうか。弟を攻撃するのは良くない行ないですから制止せざるをえない。でも、その湧いた感情はどうだろう、湧かせてはならない感情だったか、私はそうは思いません。

 

私を大事にしてほしい、という感情そのものは、成長していくうえでとても大事なものだと思うのです。そして、幼少期にその感情を周囲の大人に大事に守って来てもらうこと、それが、基本的自尊感情を育てることにも繋がっていくんじゃないか、と。

 

周りから大事にされて初めて、自分でも自分を大事にすることができるのではないか、と思うのです。

 

「卑劣」であることと「卑劣な行ないをする」こと

切り分けねばならないのは、たぶんここだと思うのです。

私も含め、子供たちも、そして大人たちも、みんなどこか卑劣であり、愛する人に自分を最優先して欲しいと思っていて、そして、自分を大事にしたいと思っている。

その卑劣であることは、恥ずべきことでもない、誰しもがそうであること。

 

でも、だから卑劣な行ないをして良いわけではけしてない。

 

卑劣さを持つ自分をその感情もまるごと含めて愛され大事にされていくなかで、成長とともにその卑劣さを行いに表すことは自分のためにもまわりのためにもならないということを私たちは学んでいくのかもしれません。

 

おわりに

子供たちのなかでは卑劣な行ないを見かけるケースもよくあります。そんな場面を見ると大人としてつい「あの子は意地が悪い」「あの子は卑劣な子だ」と評価してしそうになってしまうことも。

 

でも、子供たちは元来どの子も卑劣なのだ、というスタート地点に立った時、彼らは根っこから悪い子なわけではけしてないのだろうと思うのです。誰しもが持つ卑劣さをコントロールすることが難しかったり、方法を知らなかったり、誤った方法を学んでしまっていたりするだけかもしれない。

 

私たち大人は、その卑劣さを卑劣な行ないで表さない術を知っているにすぎないのかもしれないなぁと考えたりしています。

あさイチの発達障害・ABAセラピー特集に思うこと

あさイチのABA特集へのモヤモヤ

あさイチ発達障害をとりあげる、期待をしながら見たその特集は、結果として色々なモヤモヤをわきおこさせたままで終わってしまいました。



悪いところばかりではけしてなかった

内容は全体として悪い流ればかりではけしてなかったのです。

ご自身がADHDだと公表されているゲストの栗原類さんがお母さまの育児について、育児は長く続けなければならないものだからメンタルを良い状態に保つ為に自分自身の時間を大事にする必要がある、と類さんをおばあさまに定期的に預けていたことについてお話されていたのはとても共感が持てました。

発達障害児を育てているとどうしても全ての時間を子供に捧げていないと子供にも配慮をお願いしている周りの人たちにも申し訳ない気持ちに陥りがちです。でもそうやって全力を子供に向けて投じてしまっていたらお互いに息が詰まるし、良い状態で子供の前に居られない。あさイチのなかでもモチベーションを保つのが難しい、と画面の中のお母さんが仰っていました。

 

両親が家庭の中を気持ちよい状態に保てるように、そのために自分なりのリセットやリフレッシュの仕方を見つけていかなければ、というのは私も日常的に意識していることです。それを発達障害という言葉が日本ではまだ知られることすらなかった頃から意識していらっしゃった栗原さんのお母さんがあっての、あの類さんの姿なのだなと改めて感じました。

 

また、小児科医の平岩さんが家庭でも導入しやすい褒めかたのコツなどを丁寧に紹介していたり、「焦らないこと」「長く続けられるように楽しく」等補足を入れているところなど好感の持てるシーンは多くありました。というか、VTRが流れるたびにそうやって平岩先生や栗原さんが内容から否定的な印象を持たれないようにと頑張って補っているように見える場面もあったりで、せっかくの特集、せっかくの良いゲストの方々だったのにと残念でなりません。

 

そっと紹介されていたABAセラピストの存在

全体を通して色々なモヤモヤポイントがあり、それは前述のまとめ記事のなかでみなさんが挙げてくださっているので割愛しますが、私が一番ひっかかったのが、後半で紹介されていたおそらくはABAセラピストさんと思われる男性の扱いでした。

VTRの中では、支援学級を勧められていたけれど通常学級にいくことを決めたというお子さんのご家庭が紹介され、その子の学校の様子を参観して来たという支援者の男性が家のダイニングで母親と面談をしているシーンが流れました。

継続してお子さんの記録を取られている様子で、クラスの中でお子さんがどんな様子か、周囲の子たちはどんな反応か、などを話しておられました。

 

その男性はABAの専門家だ、という紹介だけで、どんな資格をもちどこから派遣されてきているのかなどまったくわからないままでVTRは進んで行きました。

 

マンツーマンで学校の様子を見てくれて支援体制を相談できる相手が居る、ということを恥ずかしながらABAセラピーについて無知な私は知りませんでした。Google先生のお導きにより色々と情報を流し見ていて見つけたのが某NPO団体の行う「ABAセラピストの派遣」という事業でした。

 

ABAセラピストの派遣料

驚いたのはその金額です。

 

実際に利用したことがある、やっている人を知っている、勧められたことがある、という声はTLに散見されましたが往々にして皆さん「月10万以上の出費」と書かれていました。「もっと効果を出すためには回数を増やした方が良い」と勧められたという方も。

 

この金額、恐らくはぼったくりではありません。保険の対象でも自治体の支援の範疇でもない状況で、子供1人つき何人もの専門家という大人が丁寧に関わり長期的にABAセラピーを行っていくための適正価格なのだろうと思われます。が、サラリーマン家庭が継続的に出せる金額ではとても無い。

 

取材の中でNHKがそのセラピスト派遣の内情を知らなかったわけはないと思います。(知らなかったらそれはそれでジャーナリストとしてどうだろうかという話で)分かっていたはずなのにあえて金額も出さず、発達障害児とその親が頑張っていくためのひとつの方法として公共放送で全国に流した、そこに一番の憤りを感じました。

 

私が勧められたらどうするだろう

この話をTwitterでしているときにフォロワーさんからある本を勧められました。

リカと3つのルール: 自閉症の少女がことばを話すまで

リカと3つのルール: 自閉症の少女がことばを話すまで

 

 言葉が話せなかった娘のためにABAセラピーに資金を投じた、実話を元にした小説だそうです。この中では父親はクレジットカードが停止するまで支払い続けた、と書かれている、と。

読みたいと思う気持ちもありつつ、読めるだろうかという不安も付いてきました。

実際に私の身近にABAセラピーが受けられる環境があり、誰かに勧められたら。

その環境を与えてあげたいという気持ちと、それを出し続けられないだろう我が家の経済状態と、でもそれを選んでやらなかったという後悔と、どちらを選んでも正解はないような気がして、その怖さに支配されるんじゃないかという恐怖に襲われたのです。

 

祖母の丸山ワクチン、末っ子のアレルギー…

私が産まれる前に、祖母はガンで余命宣告を受けたと両親から聞きました。祖母は私が高校生の頃に亡くなったので、余命宣告から20年近く長らえたことになります。

母が自分の介護の苦労を私に話して聞かせるなかに「丸山ワクチン」の話がありました。余命宣告をされた祖母に残された方法として提示されたのが当時世に出たばかりの丸山ワクチンだったと。母曰く「目玉が飛び出るような」金額だったけれど命には替えられないと導入を決断、そこから「家が建つくらいの」額の医療費を支払った、と。

苦労話なので誇張がかなりある可能性もあるので話半分に聞いた方がよいのかもしれず当時の状況は記録も残っていないので正確なことはまったくわかりませんが、とりあえず両親が好景気にも後押しをされながら相当な金額を医療費の為に捻出して来たのだろうなと。

 

祖母の命と引き換えに提示された高価なワクチン治療…振り返れば今5歳の末っ子が生後まもなく重度のアレルギー体質だと診断を受けたあとに私に勧められた色々な商品や民間療法も安いものではありませんでした。

 

「これを飲めば改善する」「ここに通えば治る」マルチアレルギーで肌がボロボロの赤ん坊を抱えた私にとって「お金さえあればそれが手に入るなら…」と実際にいくつかの商品に手を出してしまったのも事実です。実際にはどれに効果があったのかよくわからないまま医療の手も借りて末っ子は今は少しの除去食と時々の喘息発作程度で他の子と変わらず元気に過ごしています。

 

丸山ワクチンを含めた治療が功を奏したのかはわかりませんが、祖母は余命宣告から20年近く生きることができました。それで、よかったね、で終われば良い話なのかもしれません。少なくとも今の我が家にとっては、それでよかったね、なのです。

 

でもその影には、多くの経済的事情から治療を断念して罪悪感や後悔の気持ちを持つことになってしまった家庭もあったのではないか、とも思うのです。

 

あさイチの特集がやってしまったこと

上記まとめのなかに「ABAセラピーはビリーズブートキャンプみたいなものだ」というコメントがあり、なるほどと膝を打ちました。まとめのなかのツイートでも何人もの方がVTRの中のABAを通した家庭内療育の姿に、子供も親も無理していないか、と心配する声があり、テレビで観たビリー教官の叱咤する姿が目に浮かんでなんだか納得してしまいました。

 

そんな、子供にとって落ち着く場のなさそうな家庭内療育のやり方、そして私が感じたような高額なセラピーをそこに触れず「発達障害児家庭のみなさんが取り組んでいるやり方ですよ」と紹介したこと。

 

ビリーズブートキャンプのような療育に耐えられるだけの親と子それぞれの素養、メンタルの状態、資金などの家庭の状況…色々な条件が揃わなければスタートを切ることすらできない手法を、その内情の丁寧な説明無く「今日から誰でもやってみられる」的に紹介したこと、これがあの番組がやってしまったことだと私は思うのです。

 

私のTLでも、あの番組を見て義理の親や自分の親から「ちゃんと褒めてる?」って聞かれたりするんじゃないか、「あんな風にやればあの子も普通のクラスに入れるんじゃないの?」って言われるんじゃないか、と心配する声は番組終了後からずっと飛び交っています。

 

おわりに

「少しでも改善の可能性があるならできることを何でもやってあげたい」と思っている親はたくさんいます。私もその1人です。私のフォロワーさんのなかにもたくさんいます。でも、現実にはお金や色々な事情から効果は期待できても導入できないものも、探し求めても得られない支援も、たくさんあります。

そして、栗原さんのお母さまが直面していたように、四六時中子供の側で子供のために活動し続けることが最善でもないのも悲しいかな事実です。

 

Twitterでもリアルでも、私の周りにいる多くの支援者の方々は「親が良い状態を保つこと」の重要性をなにより考えてくださっています。親を甘やかせば良いのではありません。定型発達児よりはるかに多くの困難を抱え、日常生活を送るだけでストレスを積み重ねている発達障害児と日々向き合っていくためには親には子供たち以上のストレス耐性が求められます。親自身が特性を持っていることも多いなかで、育児を少しでも良い状態で長期的に続けていくためには親へのケアはときに子供への直接的なケアより優先されるべきものではないかとすら思うことがあります。結果的にはそこに着目することで家庭内が子供にとってより良い環境となり、問題行動の減少や子供の抱えるストレスを緩和することにも繋がるのではないかと。

 

NHKが全国放送で流してしまったあのVTRの内容は、残念ながら親そのものには1ミリも寄り添っていないものでした。平岩先生や栗原さんのコメントがそれを一生懸命補ってくれているようにも感じられ、番宣を見て「録画して家族に見せたい」「周知に繋がれば」と放送を心待ちにしていた発達障害児の親御さんたちの気持ちを思うと悲しくなります。これで終わらずに継続してより良い特集を重ねて発達障害の正確な情報の周知に繋げて欲しい、と願わずにはおれません。

「親が追いかけている幼児を保護しない大衆」を掘り下げてみました 〜先日のアンケートの結果から

幼児を追いかける親、避ける群集…

今回の記事をまとめようと考えた発端は、Twitterで見かけた眠れる森の8さんのこのツイートでした。

 

先日テレビで流れていた幼児用ハーネスに関する是非を問う番組、それを受けてネット上でハーネスについての話題が色々と出ていたときに眠れる森の8さんがハーネスを使おうと決めるに至ったご自身の経験を書かれていたものです。

 

眠れる森の8さんはこのツイートを通してハーネスの必要性を書いておられ、のちに助けてくれなかった方を非難する意図があるわけではないというツイートを補足的に書いておられました。私も最初のツイートを拝見してそれは感じたのです、でも「わざわざ避ける???」とビックリしたんですね。スーパーの中で幼児が走って出口へ向かっている(出れば危険な状況)で母親とおぼしき女性が叫びながら追いかけている、そんな状況で「幼児を助けない」「保護に手を貸さない」という選択肢が自分の中に浮かばなかったのです。

 

そこで、アンケート

ひとりで考えても悶々としそうなので、Twitterのアンケート機能を利用してアンケートをとってみました。

 

【どなたでも対象アンケートです】 人ごみで走って逃げる幼児とそれを呼びながら追いかける親に遭遇したらどうしますか?

①何も言われなくても子供を保護する手伝いをする

②何か言われたら手伝おうと思って見守る

③関わるのは避けたいから何もしない

④閲覧用(機能上投票しないと投票の経過が確認できないので設けました) 

この設問そのものも本当はもっと分けられたらよかったし③の理由を断定してしまったところも答えづらかったかもしれないと反省しています。

 

アンケートには計4051票の投票をいただき、うち④閲覧用を除く有効票は約3400票頂きました。ご協力頂いたみなさまありがとうございます。

 

そしてアンケートには設問への回答だけでなくたくさんのメンションなどによるご意見も寄せて頂きました。いただいたたくさんのご意見から自分に見えていなかった部分がいろいろと見えて来た、今日はそれをまとめます。

 

助けてもらったから、手伝いたい

全体の総数から閲覧用を除いて①の「何も言われなくても子供を保護する手伝いをする」と答えてくださった方は40.96%でした。

恐らくはその4割のなかの方と思われる方の声として「過去に自分も見知らぬ人の助けてもらって感謝しているからできるだけ手伝いたい」と書いて下さった方が複数いらっしゃいました。多動児を育てている、と仰る方、男児2人のお母さん、お子さんが2歳のころに走って車道に出るところを助けていただいたという方……

 

私自身も、おそらくはこの方々と同じ気持ちでした。自分が年子の男の子2人とその下に2人、とっさに飛び出す子供に「危ない!」と感じたことは1度や2度ではありませんでした。公園で遊具に目もくれずすごい早さで土手を越え川に向かって走るまだ2歳くらいの息子を一緒に走って追いかけてくれた方に何度も頭を下げたこともありました。

 

6割の「見守る」「何もしない」という回答

①を選んで下さったのは4割、つまり、全体の6割の方は「何も言われない状況で手は出さない」と判断なさっているということが結果からわかります。細かく数字を挙げると、②の「何か言われたら手伝おうと思って見守る」と答えてくれた方は①と同じ40.96%、③の「関わるのをさけたいから何もしない」と答えてくれた方は18.0%、合わせて58.96%でした。

 

地域的な差も考えると、東京都心などネット上でよく「子連れに冷たい」と評される地域だと①の割合はもっと減るのかもしれません。つまり、大衆のなかの6割を超える方がすぐに手を出そうとは考えていないということかもしれません。半分以上の方が手は出さない、そこにはどんな理由があるのかが、寄せられたたくさんの声の中から見えてきます。

 

・親子である確証がない

この指摘を多く頂きました。子供を追いかけているのが実の親かどうかの確証がない、だからどう手を出すべきかわからない、と。なるほどその通りだと思います。またここから派生して、どんな事情でその大人が子供を追いかけているのかがわからないから判断がつかない、というご意見もありました。親の虐待から子供が逃げているのかもしれない、という声も。

 

・どんな親かわからない

「保護すると答えたいところだけど『何か言われたら…』と思うと躊躇する」という声も複数いただきました。なにか手助けをしたらキレられてしまった、というのもネット上でたまに散見されます。モンスター親だったら…もし保護する段階で子供にケガをさせるようなことがあって何か言われたら…実際に保護したらその親らしい人から睨まれてしまった、という方も。

知人ではないその親とおぼしき大人がまともな会話が通じる相手かどうかもわからない、わけのわからない面倒に巻き込まれるかもしれない、その不安から手を出すのを躊躇するという方もいらっしゃいました。

 

私は地方住まいなのですが、それでも時々驚くような意見の相違を見せる保護者に出会うことはたまにあります。学校でもいわゆるモンスタークレーマーとはこういう感じなのか…と感じる方がいたり。そういう、自分の想定をはるかに超える人に関わってしまう怖さを考えると、たしかに手を出すのに躊躇する気持ちも分かるような気がします。

 

・どう接していいかわからない

これもたくさん頂いた声です。

独身や子供がいないという方から「小さな子と接する機会がないのでどうやったら安全に保護できるかとっさに迷いそう」「ケガをさせたらと思うと手はだせない」「保護の緊急性が判断できない」などのご意見がありました。

実子がいなかったり、弟妹や周りに小さい子がいる環境で生活をしていなければ幼児がどんな動きをするのか、親がどうして欲しいのか、というのをとっさに考えて行動に移すのは確かに難しいと思います。私も自分が独身のころだったらすぐに体を動かせていたか、自信はありません。

 

また、突進してくる幼児を安全に確保できる確証がない、という声もありました。これも確かに、ですよね。見ず知らずのどんな幼児かも分からない子が全力で突進して来たら私も思わず避けてしまいそうです。

 

・接触を嫌がる子かもしれない

ひとつ上のご意見に似ていますが、こちらはより子供に関する知識や経験が深い方から多く寄せられたご意見です。

発達障害など特性の強い子どもたちの中には、見知らぬ人から急に触られるとパニックを加速させるタイプのお子さんもいます。他人の接触を嫌がるタイプの子だと保護のためと思って出した手が逆に良くない影響を与える可能性もあるから何も言われない状況では手は出せないかもしれない、と。

 

このご意見、目からウロコでした。接触を嫌うタイプのお子さんがいることは知識として知ってましたがこの問題を考えるときに脳内でリンクできていませんでした。

 

知人の支援が必要なお子さんが学校内でパニックを起こしたときに知識の無い体の大きな学校の先生から突然床に押し付けられ拘束されてしまい、その後のケアにとても配慮が必要になってしまったという話を聞いたこともありました。状況によってはその子の今後に大きな影響を与えてしまったり、返って良くない状況を生んだりしてしまう可能性もあるのですよね、自分の思慮の浅さを痛感した回答でした。

 

「明らかに危険なら助ける」

様々な「すぐに手を出さずに見守る」「何もしない」という行動の理由のなかで多く添えられていたのが「明らかに命の危険があるなら話は別だ」という声でした。車道や駐車場に向かっているとか、今止めなければ命の危険が、と明らかに予測できるときには手を出すと思う、と答えて下さった方も多くおられました。

 

危険が予見できる状況あれば、助けてもらえる可能性はグンと上がるのかもしれません。

 

「助けてくれない」人たちは冷たい?

明らかな危険があるなら…と仰っている方がいるとはいえ、すぐには手を出さないという方が6割、大衆の6割が手を出さずに見ている、「冷たい」「ひどい」と感じられることもあるかもしれません。私が子供を追いかけている当事者だったら、なんで手を出してくれないの!なんで助けてくれないの!とその無関心に見える様子にショックを受けてしまうかもしれない。最初に紹介した眠れる森の8さんのツイートでも、そんな状況が垣間見えます。

でもその人たちはけして全員が全員、無関心なわけではけしてない、たくさんの「あえて動いていない」人たちもそれぞれに色々な状況を想定し、意識してくれている、思慮の深さがそこにあります。考えを巡らせ過ぎて手を出すにいたらないのかもとすら思います。

 

「その子、つかまえてくださ〜〜〜い!」

そう言ってもらえたらすぐ手を出せる、と答えて下さった方がいらっしゃいました。ほかにも、こうしてくれと言われたらできるだけ手伝える、という声も。②の「何か言われたら手伝おうと…」と答えて下さっている方は4割、つまり、追いかけている側が「助けをこうために何か言う」というワンステップを踏めば手伝ってくれる人の数は全体の8割になるかもしれない。(かなり単純な計算でアレですが…)

 

とっさのことで追いかける親もパニクってしまう状況かもしれない。でも、何も言わず追いかけたり、ただ名前を呼ぶだけや「まって!」と子供に向けてだけ呼びかけるんじゃなくて、「その子を止めて下さい!」「道路に出る前に捕まえて下さい!」と周りの人に呼びかけるという行動を意識することで周囲の人もより手を出しやすくなるのかもしれません。

 

おわりに

私が住んでいるど田舎やかつて住んでいた大阪の街中だと恐らくは丁寧に依頼なんてしなくても周りの境界線ガンガン踏み込んでくる人たちが「どうしたどうした」と手も口も出してくれるのかもしれません。そんなところで生活しているとつい「なんで走ってる子とめないの?普通止めるでしょ??」と思ってしまう。それが高じて「助けないなんて都会の人は東京の人は冷たいなぁ…」とすら思ってしまうことすらある。

 

でも実際には手を出さない人たちにもそれぞれの思いや考えや嫌な経験があったりする。不特定多数の大衆のなかの誰がどんな事情を抱えて、どんな風に思慮を巡らせて、そこで「見守る」を選択しているかは傍目からは分かり得ません。

 

ハーネスやベビーカーなどいろいろな道具をうまく使うことで自力で子供の命を守る、もちろんそれも大事なこと。その道具の使用がもっと暖かく受け入れられるようになって欲しいなと思うのはもちろんのことなのだけれど、周りの人たちにうまく助けてもらいながら子供を育てていくのも大事なことだとも思っています。

助けて欲しいと思ったときにどうしたらその実現可能性を上げられるのか、というのも私たち子供を持つ親として意識した方がよいのかも、と。

 

すぐ手を出すとは答えられないけど命の危険はないか見守りたいし何か言われたら助けたい、と思っている方は潜在的にたくさんいることもこのアンケート結果からは見えてきます。「助けて欲しい気持ちを声に出す」ことでその人たちとリンクできるかもしれない、アンケート結果やそれに寄せられた声の中から、そんな現実が少し垣間見えたような気がしています。

 

 

おまけ。

「眠れる森の8さんのツイートを見て『止めた方がいいんだ』と思った」という方もいらっしゃいました。実際に子供を育てている方でなくてもそうやっていろんなお父さんお母さんたちが発信する情報に触れることで行動を決めるための知見が増えていくってすごいなと思います。

「迷子紐(幼児用ハーネス)より手をつなごうよ」に対する違和感

こどものこと そのときどき

「迷子紐、許せる?許せない?」

末っ子5歳を連れて行った病院、調剤薬局についたのはお昼を少し過ぎた頃で、待ち合いのテレビでワイドショーっぽい番組が流れていました。

 

色々なトピックについて「許せる・許せない」を討論するコーナーらしく、著名な教育評論家の方やママタレントなど数人が2つに分かれてそれぞれの見解を言い合い最終的になにかしらの方法でどっちが優勢かを決めるようになっているようでした。

 

いくつめかの話題が「迷子紐、許せる?許せない?」

幼児用ハーネスについては私もこれまでにこのブログ上やTwitterで言及して来たことだったので興味深く耳を傾けました。

 

 迷子紐ってなに?って方へ。こんな感じのリュックにつけるタイプのものが主流かなと思います。私も長男が産まれた10年ちょっと前に購入したこのタイプのものを使っていました。

 

結論から言うと、番組の作りはひどいものでした。

流れる映像やイラストはどれも「犬の散歩」状態で子供を歩かせハーネスがピーンと張らせて親がそれを握っているもの。場所も公園内など比較的安全な場所のおだやかなイメージを喚起させるものばかり。無くても何とかなるんじゃない?という感想を引き出したいのかな?と思えるような。

 

その映像のあとに、毒舌が売りの俳優が「言葉の通じる相手にすることじゃない」と一蹴し、ママタレントさんが「手をつながないと」と育児論を展開し、オネエタレントさんが「親が目を離さなければいいんじゃないか」と添える。

 

歩行中の子供の死亡事故の件数に触れたり、「許せる」側に回った教育評論家さんなど数人が色々と擁護の声を上げておられました。雑踏の中でもあり聞き漏らしてしまった部分もありますが、全体的にハーネスに対して否定的な印象を与える作りになってしまっていて、見ていてとても悲しくなってしまいました。一緒に居た末っ子が「ぼくはあのおさんぽひもはつけたことないよね?」と言うので「うん、君には必要になったことがないから使ってないけど、お兄ちゃんたちが小さい頃はあったほうが安全だったから使ったこともあったよ」と話しました。5歳児が映像だけみて「おさんぽひも」という言葉を発するほど、その映像やイラストは「優雅な犬の散歩」を強くイメージさせるものだったと思います。

 

もしあの番組で、交通量の多い道路で危機一髪命が助かる場面やスーパーや繁華街で一瞬の隙に走り出してしまう子供たちの様子が分かるシーンが流れていたらそれを見ていた人たちの印象は大きく違っていただろうに。そう思うとテレビによる印象操作の力は大きいなと感じます。

 

ハーネスの是非については過去に色々と書いてきたの言い尽くした感があるのですが、今日はこの番組の中で触れられていた「手をつなごうよ」という提言に感じた違和感について。

 

「紐でつなぐより手をつなごうよ」

2児の母である、著名なママタレントさんが仰っていたことです。幼児用ハーネスの話題が出ると必ずついてくるフレーズでもあります。

「手をつなげばいいじゃない」

うん、そうだよね、それで済むならそれでいいよね、という話かもしれませんが、私はこれに対して違和感があるんですね。手をつなごうで済まないから使ってる、それはなかなかに理解されないというモヤモヤもあるのだけれど、本当にそれが正解なの?って言う疑問もどこかにある。そのモヤモヤとした違和感を紐解いてみたいと思います。

 

1、多動の可能性

これについてはなないおさんが過去に丁寧に紹介してくださっていますのでこれ以上の言及は不要かもしれません。

うちの子はハーネスが無いと命の危険があるほどの多動がある子はいませんでしたし基本的に車移動の生活なのでそこまでの緊急性はありませんでしたが、それでもスーパーのレジや選挙時の投票に私1人で行かねばならないときなど、どうしても手を離さざるを得ない場面があるときには念のためと思って使っていましたし、あって助かったと思うケースも実際にありました。

 

2、手をつながるのを嫌がる子

子供の中には、身体への接触を極端に嫌う特性を持つ子もいます。そのなかには、手をつなぐことを嫌がるタイプの子も当然ですがいます。小さい頃から手をつなごうとすると泣いて嫌がったりするお子さんもいます。生まれつきの特性として本人が拒んでいることを強いるわけです。躾のレベルでどうにかなることではありません。視力の弱い子に「裸眼で見えるようになれ」と強いているのと同じです。

言葉上で簡単に「手をつなげばいい」と言っても、実際にこのタイプのお子さんと手をつないで移動するのは保護者にとって相当な困難だと予想できます。

 

3、肘内障の可能性

特性に関わらず「手をつなぐ」ことによる危険性として想定されるのが肘内障(ちゅうないしょう)です。

幼稚園程度の年齢の子どもによく起こりますが、手を強く引っ張られたときに、腕がだらっとして、まるで「ひじが抜けた」状態になることをいいます。これは脱臼ではなく、ひじの関節の細い輪状の靭帯がずれた状態です。
骨と骨とを輪のようにつないでいる靭帯が未発達なために起こるもので、靭帯が十分に発達する7才以降にはほとんど見られません。
この状態になると、子どもは痛がって泣き、腕をダラリと下げ、ひじを曲げることができません。あるいは、手のひらを後ろに向けた状態でじっとしています。(参考:肘内障 - gooベビー

うちの子も過去に数回、手をつないでいるときに転んで腕をひっぱる形になってしまったりしてこの状態になり、整形外科に駆け込んだことがあります。お医者さんに数秒施術してもらえばすぐに治りますが、繰り返すと癖になりズレやすくなるとも言われています。(ちなみにこのときに「治し方教えてあげるよ」と医師から言われましたが怖くて無理…とお断りしました…)ほんの一瞬腕を引っぱる形になってしまうだけで起こる可能性があります。そして怖いことにすぐに気づかない場合もある。うちの子が初めて肘内障になったとき、登園前に腕を引っぱる形になってしまっていたのだけどその場では気づかず、登園後しばらくして先生から「息子くんの様子がおかしい」と連絡を受け受診しました。ずっと泣き続けたり痛がったりするわけではないこともあるので要注意です。

 

大人しく手をつないで歩けるタイプの子でも、転んでしまったりしたときに親が手をひっぱり形になれば肘内障になる可能性は大いにあります。(うちでも多動傾向のない子がなったことがあります)多動傾向のある子ならそのリスクはさらに大きくなる。「手をつなげばいい」と言う説を唱えるときに、このリスクが同時に語られないことには違和感をいつも覚えます。

 

4、「手をつなぐ」ことは「正しい」の?

最後に私が抱えるモヤモヤの一番そこにあるこの気持ちを言葉にします。

ハーネス否定派からの声でよく「親が子と手をつなぐ」ことが最適解のように語られるのだけれど、大人が子の手を引くことってそんなに正しいことなんだろうか、と疑問に思うこともあるのです。

 

子供が大人を信頼して手を差し出し、大人がそれに寄り添い同じペースで歩むという微笑ましい絵面が浮かびやすいかもしれません。そんな親子の姿を想定し、そこに行きつくことを良しとして「手をつなぐ子に躾ける」ことを奨励しているのかなと感じたりもします。

 

でも4人の子を育ててみて思うのは、そうやってすんなり手をつないでくれる子も、そうじゃない子もいること、そしてそんなふうに穏やかに共に歩ける状況ばかりで生きているわけでもないことも事実なのです。

 

あたふたした子供との毎日の中で、幼児に歩調を合わせてゆっくり歩けないこともある。そんなときに私は大人が子供の手をひっぱる形になるのがとても嫌いです。肘内障の可能性があるのはもちろんですが、子を引きずっているように見えるのがなんだか嫌なのです。その姿への嫌悪感が自分にあるので、私は無意識になるべくそうならないよう努めていたのだろうと思います。あるときママ友さんから「スズちゃんちの息子くんは小さい子を連れて歩くときに手を引っぱらないで背中をそっと押してあげてるね、子守りに慣れてるんだね」と言われて気づきました。

 

犬の散歩状態でハーネスを使っている親子を見たときに感じる嫌悪感も、私のなかのこんな潜在的な嫌悪感と似たようなものなのかもしれません。それを無自覚なまま自分を正当化して周囲を批判する種にしないように、私も気をつけねばなりません。

 

おわりに

過去に書いたハーネス三部作でも同じ結論に至りましたが、結局は「使い方」なんじゃないかと思うのです。

ハーネスを使うときに張ったリードに周囲の人がひっかかったりして迷惑をかけて反感を買ってしまうことがあるように、手をつなぐ行為でも子を引きずる形になれば肘内障の可能性も高まるしリード以上に子を拘束する道具のように使ってしまう可能性もある。

 

「手をつなぐ」行為は親子のあるべき姿として最適なのか、私はそうは思いません。特性や個々の性格、生活環境、安全性、色々な要素のあるなかで「子供の命を守ること」と「自分の命を守れる子に育てること」を同時に考えながら育てていく。その過程でどれがその親子にとっての最適解なのかはわからないと思うのです。

 

手をつなぐこともハーネスも、また違う形での安全の守り方も、その使い方や状況によっては子供にとっての害になることも、周囲に不快感を覚えさせることになる可能性もある。周囲の抱く感情については、自分がどこまで配慮すれば良いかという問題はついてきます。もちろん度を超して批判をしてくる方についてはある程度のスルーは必要かと思いますが、社会の中で生きていく以上「どんな使い方をしてもいいだろう」とは言えないと私は思います。

 

過去に記事を書いたときに、人ごみのなかでピンと張ったハーネスに引っかかって危険だったという声もありました。あくまでも道具の一つとして、適切な使い方をするというのはユーザーの側が気をつけねばならないことだと思います。しかしながらベビーカー論争でも同じようなやりとりがあったと思いますが、一部の非常識なユーザーのために本当に必要として使用している人たちまで批判に晒されることもおかしなことだと思います。

 

親子の数だけ、選ぶ道具と使い方の答えがあるのだろうと思う。躾の中で手をつなげる子はそれが適していたというだけ。そして手をつなぐことを習慣づけて覚えたとしてもそれだけが自分の身を守る手段ではありません。うちでも5歳になった末っ子は「手をつなぐ」以外の安全な道路の歩き方を少しずつ習得しつつあります。小学生の上の子たちとは安全の目的で手をつなぐことはまずありません。「手をつなぐ」ことが最終的に目指すべき目標地点ではけしてない、と思うのです。

 

その場その場で、子供の数だけ正解がある、と思うのです。解を導きだし、配慮の上でそれを使っているとしたら、そこに外部からの批判が入ることそのものが境界線の逸脱ではないか、答えはたくさんあっていいはずなのに、と思うのです。

 

参考までに。
2年前に書いた、ハーネス3部作です。ハーネスの使い方いろいろ図や反論などにも触れてます。

suminotiger.hatenadiary.jp

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2016.05.24 一部加筆・修正しました。

見えない困難を抱えた子どもたちへの、4つの試み

なないおさんの記事を読んで思い出したことを今日は。


私は小学生のころ、授業がつまらないと思う子供でした。理由は覚えていないけど親が1学年上の学研だかの雑誌を買ってくれていたのでそれを読んで1年分習うことを先に知っていました。新しいことに出会っても教科書を授業の始めの数分で読めば問題は簡単に解けました。そこから先45分間が終えるまで、知っている話を延々と聴くのは本当につまらなくて退屈だったし、答えが分かっていることをわざわざ考えさせようとする先生の見え透いた言動に苛立ちを感じることすらありました。

 

そんな私の不満は授業中に態度や言葉としてあらわれていたのだろうと思います。授業態度が悪い、集中力がない、とよく注意を受けていました。窓の外を眺めて話を聴いてないなんてしょっちゅうだし、教科書やノートは落書きだらけでした。高校になってからはずっと寝ていたので「●組の眠り姫」と職員室で呼ばれていたそうです。通知表にもテストの成績は良いのに…という指摘をされることも多かった記憶があります。

 

態度を注意されて私が感じていたのは不快感だけでした。だってつまらないんだもん、と思ってふてくされてました。

 

でも今になって思うのです。あのときに周りの大人の中にひとりでも、私が感じていた「つまらなさに感じる不快」に寄り添ってくれる人がいたらどうだったんだろう、と。

 

私は、自分の習熟度に合わせた高度な教育が受けたかった訳ではありません。もちろんその環境が与えられていればまた違った人生があったのかもしれませんが、あの頃私に必要だったのは自分でも言葉にしきれないそのモヤモヤした不快感、不満、しんどさを形にしてくれる大人の存在だったような気がするのです。

 

「わかってるからっていい気になるな」と怒鳴られたこともあったし「出来るんだからみんなにつき合ってやってくれよ」とため息をつかれたこともありました。私は私で、つまらない授業を受け続けることに「一生懸命頑張って」いました。不適切な言動といっても授業を妨害するような立ち歩きや奇声なんてやったことない。イスに座って授業を受けているふりを子どもなりに一生懸命していました。でもそのがんばりを認めてくれた大人は1人もいませんでした。

 

 

このエントリのなかで、私は「ズルい」と感じる子は見えない所で頑張ってるんじゃないか、と書きました。あの当時私が教室でずっと座って周りの迷惑にならないよう授業を受けるというのは、頑張ってやっと出来ることでした。私はつまらない授業を受け続けることに困っていました。その自分のキャパを超える頑張りからくるストレスが引き起こしていたのが、教師から叱責されるような問題行動だったんだろうと思います。

 

幸い当時の学校環境ゆえその問題行動でうちの親が呼び出されたり、親からそれを叱られたりすることはなかった記憶があります。でも過去を思い返して思うのです、今うちの子が同じことやったら間違いなく私が学校に呼び出され、注意され、子どもたちの問題行動再発を防ぐための対策をすることになるだろうなと。

 

そんなときに私に「しんどいよね」と寄り添ってくれる大人がいたら。退屈さを理解してくれる大人がいたら。それ故の問題行動を「短く丁寧に」指摘してくれる大人がいたら。そしてそんな私のために「つまらないときはこうしてね」と代替案を出してくれたり、がんばりを褒めてくれる大人がいたら。

 

  • 気持ちに寄り添うこと
  • 問題行動は短い言葉で的確に指摘し、制止すること
  • 問題行動の代替案をわかりやすく提示すること
  • 頑張りを褒めること

 

当時の私がやって欲しかったこの4つは、私が最近インクルーシブ教育や特別支援について知りたいという方と話すときにまず理解を求めることです。

 

「ズルい」と声を上げる子どもたち、問題行動を起こす子どもたちに、そうならないような環境を適切に整えてあげたい。でもそれは色々な制約がかかります。経済的な地盤、指導者支援者保護者の精神的安定と技術、それらの要素が周囲に整わないと不可能なことも多い。全てを叶えるのはまだまだ先のことでまだ今は雲の上の理想でしかないかもしれないインクルーシブ教育の徹底ですが、まずこの4つを試して行くことだけでも初めていけたら、と考えています。

お母さん、母親、保護者、私。

少し寒い室内から気温の高い屋外に出たときの、ふわっと熱気を感じるあの瞬間が好きだ。冷えた身体の末端まで一気に血が通うような、自分の身体中の血管がそこにあることを主張しているような、私の輪郭がはっきりするような感じ。私がそこにいることを、私の身体が生を持続させているというのを感じる瞬間。

 

 

「私は誰だろう」

 

今朝いろいろと考えながら、そこで立ち止まった自分が居た。

 

小学生の保護者として、園児の保護者として、4人それぞれのお母さんとして、その役割から担ったタスクでスケジュール帳は4月からずっとぎゅうぎゅうで、そこにイレギュラーに発生するトラブル対応や外からの頼まれごとが入り、子供たちそれぞれの困りごとを防ぐための配慮を考え、準備し、それを周りに頼むために奔走し、ほかのお母さんたちと些細なことから重要なことまでスマホ片手に情報をやりとりする時間が入ってくる。

 

引き受けているタスクと飛んでくる連絡への対応と、今後起こりうる色々なことをスムーズに進めるための対策を考えることとそれを実行すること、本業の仕事の隙間にそれと家のこと子どものこと、それをこなしていくだけで1日が終わっていく。

洗濯物を畳みながら、お風呂に入りながら、食器を洗いながら、子供たちの言葉を聞くのはそんな「ながら」な時間。一緒に笑うこともあるけれど、そこから新たな対策をとらねばならなくなる情報が入ってくることも、悔しさを一緒に飲み込むしかないこともある。

 

ふりまされながら、こんなに忙しい毎日の中で「親」としての色々に翻弄されている。

 

発達障害児の親の苦難について触れたどなたかのツイートを目にした今朝。

 

私がここしばらく毎日流されながらあちこちへと対応し続けていること、それは「親」としては当たり前のことなんだろうか、とふと立ち止まる。

 

どこまでをやるのが親なんだろう、どこまでを親が求められているんだろう、どれが「親の責任」で、私はどこまでやれば「ここまででいい」って自分で思えるんだろう、どこまでいけば「もういいよ」誰かに言ってもらえるんだろう。

 

私は背負ってるいろんなことを、親としてやるべきことだろうと思いながらやってるんだろうと思う。でも私が抱えているそれを一生抱えることのないままその人なりの親としての人生を全う出来る人もたぶんいるんだろうと思う。そして晩ご飯に何品も並べたり栄養価を考えて一日の献立を用意したりするような、毎日丁寧に家中を掃除するような、洗濯物を毎日畳んで整然とした室内を保つような、そんな私が忙しさの中でまともにできていない「親としての仕事」をこなしている方もきっとたくさんいるんだろうと思う。

 

私はいろんなことを親として背負っているのだろうと思っているし、できていないことは「親としてダメだ」と思ってしまうのだけれど、でもそれは本当に親の仕事なんだろうか。全員がやってるわけじゃないのに?やってなくてもそれなりになんとかなることもあるのに?私が現段階でできてないのに?

 

私が今やってるのは「親としてのタスク」なんだろうか、いやそれもしかしたら私がやりたくてやってることや、私がやらざるをえずにやっていることなんじゃないだろうか。

 

 

たくさんの「親」に共通したタスクがどこからどこまでなのか、私にはわからない。その漠然とした、誰かが決めているわけでもどこかに明記されているわけでもないふわっとしたことが、親に求められているように錯覚されているのかもしれない、「親の責任だ」ということばでまとめられているように感じて、それに私は引きずられているのかもしれない。

 

私が実際にやっているのは親共通のタスクではなくて、それぞれの子どもの保護者として、それぞれの子どものお母ちゃんとして、夫の妻として、この小学校の一保護者として、この園の一保護者として、それぞれの立場でたまたま担っていることに過ぎないのかもしれない。

 

 

昨日担任と話し合ったのは「親だから」ではなくて「次男の」保護者だから。

長男の靴を昼休みを割いて買いに行くのは「親だから」ではなくて「長男に頼まれた」から。

娘の発表会の衣装のお直しをしてるのは「親だから」ではなくて「合わない服で困る娘は見たくない」から。

園の行事でお世話をするのは「親だから」ではなくて「三男がそうすると喜ぶのを見たい」から。

 

ひとつひとつのタスクを、私は親の責任だから親だから親だからと自分に課していたような気がする。でもその一つ一つは、1人の人間としての私が引き受けたり、やりたいと思っていたことなのかもしれない。

 

やりたかったのは、やらずにはおれなかったのは、私だ。

 

 

私は誰だろう。

その答えはやっぱりわからない。

慌ただしい毎日の中で、私は時折自分がどんな食べ物が好きだったのかすら忘れるほどに、自分が今何歳なのかを忘れてしまうほどに、背負ったタスクをどうこなしていくかを考えて走ってる。

 

「私」が何なのか、社会の中でその一部として動き続けている自分にとってはあまり大事なことでもないのかもしれない。社会からしたら「私」そのものが何かなんて多分そう大切じゃない。私が何をするのか、何をしているのか、大事なのは多分そっち。それは他人に限らず我が子とってもそうなんだろうと思う。「私」が「親」としてどうなのか、はきっとたいした問題じゃない。何をしているか、何をしたかを私は見られている。

 

 

いろんな立場にあたふたしながら自分の輪郭がぼやけていく感じがする。それを立ち戻って「私とはなにか」を考える時間すら、今の私にはもったいなくも感じる。

 

でも冷えた手足にふっと血が通う瞬間や、トイレでひとり息をついたときや、懐かしい香りに気づいたときや、夜中薄暗い部屋のなかで1人でふと目が覚めたときに、あぁ私がここにいると思うことがある。

 

冷凍庫の奥にしまったアイスを口に運びながら、苺のアイスが好きだった自分を取り戻す。

夫とあれこれ話しながら、お母さんじゃない自分を思い出す。

運転中や仕事中にラジオから流れるちょっと懐かしい音楽を聴きながら、あぁこれ好きだったんだって思い返す。

 

そうやってときどき「私」を思い出しながら、今日もぼんやりした輪郭の私はあたふたと日々を過ごす。

 

仕事をし、役員として学校に足を運び、誰かに子供たちの何かを頼むため頭を下げ、お世話になったことを感謝し、うれしいことや悲しいことを私に伝えてくれる子どもたちの声を聴いては一喜一憂し、晩ご飯はなににしようか悩み、洗濯物をたたみ、週末はどうすごそうか計画を立てる。

 

当たり前の毎日を家族が過ごすために、当たり前の学校生活を子どもたちが送れるように、何者かわからない私が今日もあたふたと何かをしようとしてる。明日もたぶん、同じように過ごすんだろうと思う。どこかで終わりがくるのかはわからない、想像もつかない。でも終わりの日がくるまで、私は私なりにあたふたしながら生きていくんだろうと思う。

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