スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

どうしても食べられなかったチーズの記憶と、食べられない「何かしらの理由」

TLが偏食の話題で賑やかです。

NHKの「おはよう日本」で発達障害の偏食と過敏のことが取り上げられたからみたいですね。

 

わたしと偏食

Twitterで何度か書いたことがありますが、わたしは生魚がほぼ食べられません。

これを告白すると「本当に美味しいのを食べたことがないからじゃない?」と言われることもあるんですが、過去に景気の良い時に羽振りが良かった父が肴にしていたお刺身や勤めていた会社の社長に連れられていった高級料亭で食した時もやはり不味いと感じたので、本当に自分には合わない食べ物なんだろうと思っています。

 

他にも食感がどうにもダメで食べられないものがいくつか。

 

プロセスチーズの匂いと食感は大嫌いで、小学校の頃は給食の時間にどう頑張っても食べられず、いつまでも片付けさせてもらえず泣きながら口に運んだ思い出があります。

 

 

あの頃「クラス全員が食べ終わるまでグラウンドに出てはいけません」というルールを作った担任のせいで早く場所取りをしたい男子にものすごく文句を言われたことは未だに覚えています。先生、まだ私、あのルールを作った先生を許せてないです。

 

食べられるチーズと食べられないチーズ

プロセスチーズは食べられませんが、ピザ用チーズというのに出会って「チーズ食べられる」と気づきました。

その後、お菓子作りで出会ったクリームチーズに始まり、パルメザン、モッツァレラやゴルゴンゾーラ、あれこれチーズを買っては食べてきましたが、どれも食べられないものにはまだ出会ってません。

あんなに嫌いだったチーズ、本当は嫌いじゃなかった。

むしろお金を払って買い求めるほど、好きな食べ物の一つになりました。

でも未だに、プロセスチーズだけは食べられません。

それが本当に苦手だから食べられないのか、あの頃のトラウマがそうさせるのかはわかりません。

 

雪印 6P チーズ

雪印 6P チーズ

 

子供の頃見たくもなかったこの三角チーズのパッケージ…

でも上3人はかなり好きみたいで欲しがるのでよく買ってます。

 

プロセスチーズは食べられなくても

プロセスチーズってそもそもなんだ?と思って調べてみました。

日本で昔からなじみが深いのが「プロセスチーズ」。
原料は1種類または数種類の「ナチュラルチーズ」で、細かく刻んでから加熱溶解し、乳化剤などを加えて再び成型したのが「プロセスチーズ」です。『スライスチーズ』や『6Pチーズ』などさまざまな形に加工されます。
加熱殺菌しているため保存性が高く、嗜好性や用途に合わせてお好きな種類を選べます。

ナチュラルチーズを加工したもののよう、ということはナチュラルチーズや同じようなとろけるチーズを食べている私はプロセスチーズが食べられないという理由で困ることはほぼ無いんですよね。

 

乳製品は大丈夫だからアレルギーとかではなさそうだけど、とにかくなんでかわからないけどプロセスチーズだけはどうにもダメ。発達障害ゆえの偏食と関係があるかもしれませんが、真相は闇の中です。

 

でもまぁ、チーズに限らず、これだけ色々な食品食材が手に入る状況であれば、何か特定のものが「何かしらの理由で」食べられないということはそれほど大きく騒ぐようなことではないんじゃないかなぁ、というのが私のスタンスです。

 

「何かしらの理由」

特定の食材が「なんでかわかんないけど」いや、っていうケース、発達障害という診断がなくても起こりうるんじゃないかな、と思っています。

 

我が家にはアレルギー児の末っ子がいます。

卵と乳で皮膚症状や喘息発作を起こすことがあるので入学を控えて給食での配慮をお願いしているところです。

 

ただ、彼のこの卵と乳の除去、本当にアレルギーだけが原因なのかははっきりしていません。

 

アレルギーというと血液検査、とよく言われますが、あの数値と症状の有無や出方はイコールではありません。

数値がすごく高くても全く症状が出ないこともあるし、数値が規定以下でも発作を起こすこともありうる、それがアレルギーの難しいところです。

 

末っ子は血液検査を繰り返して卵と乳の数値がだんだん下がってきたので、少しずつ食べてみる試験を進めているところです。その中で、マヨネーズをいれたマカロニサラダは喜んで食べましたが卵焼きはどうしても食べたがりません。

少し食べてすごく嫌な顔をする。

 

ヨーグルトは喜んで食べましたが、プロセスチージはやはり少しかじってあとは拒否。

 

結局、乳も卵もなかなか食べ進まず様子を見ているところです。

 

主治医に「これは単なる好き嫌いなんでしょうか」と相談したところ、

「うーん、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。皮膚症状や分かりやすい発作としてではなくもしかしたら口の中や喉が少しチクチクするとかその程度の反応が出ているのかもしれないし、感覚過敏で嫌なのかもしれない、何かはわからないけど、とりあえず本人が嫌なら無理強いしないようにするしかないねえ」とのこと。

 

発達障害に起因する偏食や感覚過敏、アレルギー…私の身の回りだけでもこれだけの「何かしらの理由」で特定の食べ物を嫌がる可能性が見えます。

知らないだけでもっと他にもきっと色々あると思う。

味覚の障害や加齢による影響もあるかもしれない。

 

「食べられない」ことが悪いわけじゃない

末っ子はアレルギーがあることにも起因して、食べられないものがいくつもあります。

園生活でもお友達と同じものが食べられないこともよくありました。

幸い、それで本人が辛い思いをしないよう先生方が気をつけてくださっていたので、お友達ともそれで何かあったりはしていないようですし、本人も「僕は食べられないからしょうがないし〜」とケロッとしています。

 

我が家には末っ子以外にも、それぞれの子供達にそれぞれの好き嫌いがあります。

その好き嫌いの理由が何なのか、私にもわかりません。

食わず嫌いだったこともあるし、何度か勧めて食べてみてもやっぱり嫌っていうこともありました。

年齢が上がったら食べられるようになったものもあるし、長く嫌っているものも色々。

 

でもそのうち食べられるかもね〜という程度であまり気に留めずにここまできています。

学校でも昔のような強制はされていないようなので子供達が私と同じような辛い思い出を作らずに済んでいて助かっています。

 

栄養は他のもので補えばいいし、1日で帳尻が合わなくても1週間くらいかけていろんな栄養素が取れてればいいかな〜と思ってゆるゆると好き嫌いだか偏食だか感覚過敏だかアレルギーだかわからないなにかと今日も付き合って暮らしています。

 

おまけ

そういえば過去にもこんなことについて書いたことがありました。

 

 

紙オムツ自販機の実現とコンビニ紙おむつ問題、そこにあるのは性差か、それとも。

こんな記事がTLに流れてきました。

 

男性が言えば通るのか…という声

いろんなコメントが寄せられる中で、女性が言っても通らないことが男性だと通るのか…という声も少なからず見られました。

 

少し前に流れた同じYahooニュース

ツイッターで起こったこの声についての記事では「買う人がいないから」「ストックを切らすのが悪い」という辛辣なコメントも多く見られました。

 

男性が提言すれば実現するのに…という声はこの、2つの声への対応の差から生まれたものなのかな、と思います。

 

2つの声の違い

この2つの提言、男性発信と女性発信、という違いに括られて語られているようなのですが、実際はちょっと違ううような気がしています。

 

紙おむつ自販機の記事では

「こんなモノがあったらいいな」という子育て中の父親の声を受け、地元のNPO法人「こまちぷらす」(森祐美子代表)や企業が連携、約1年かけて開発した。

(中略)

こまちぷらすは、ヤマト運輸神奈川主管支店と協働で「ウエルカムベビープロジェクト」を展開中。地域で子どもの誕生を祝う文化を醸成しようと、戸塚区の新生児の家庭に「背守り」と呼ばれる刺しゅうなどを贈っている。

自販機設置のきっかけは同プロジェクトのワークショップ。育児に必要なモノをテーマに意見交換する中で、参加者の一人、同市在住の団体職員池田浩久さん(40)が提案した。

(中略)

森代表は、父親の声を受けて誕生したことや、実現に向け地域の人たちが協力したことは、これからの子育てを象徴していると評価。

と書かれています。

 

実績のあるNPO団体が企業と提携したプロジェクトのワークショップの場ででた意見を元に実現に向けて複数の人や団体が動いた結果、実現したもののようです。

 

かたやコンビニにオムツを、という声はツイッターで起こったもの。

共感の輪は広がっていったのだけれど、実際にはニーズの吸い上げが難しく、商品としては存在しているものの置いている店舗は限られてしまうという企業側の声が記事の中でも紹介されていました。

 

この2つの声からの流れの違いは発信が男性なのか女性なのか、ではなく、声が起こった場の状況と主体的に関わっているメンバーの立場、戦略的に実現につながるノウハウの有無など、性差とは違う要素も大きく関わっていたためと考える方が自然です。

 

PTA絡みでで出たとある声

話は少し変わりますが、先日参加したとある会合の中で長年PTAと関わる男性から「なぜお母さんたちは会議の場で意見を出してくれないんだろう」と相談を持ちかけられました。

私も実感のあることなのですが、会議、役員決め、何かを決める場、というPTAの中では割とよくある場面の中で、会議の最中に意見を言う女性はそう多くありません。

思ったことをとりあえず言う種類の私のような女性は大変に浮くのですが、その男性が言うにはそうやって色々と意見が飛び交うような会議を行いたいのだけれどなかなか難しい、意見はあっても後から伝え聞いたりして結局改善に繋がらないことも多くてもったいなく思っている、とおっしゃっていました。

 

提言を実現させるためのノウハウ、手段と、性差

こんな話をしていると「女は話し合いができない」「男はうまくやれる」という流れになりがち。

でも実際はそうじゃないと思うんですね。

そんな記事をかなり前に書いてたのを思い出しました。 

女という性がそもそも話し合いができない、何かを実現させるのが下手、というわけではないんですね。

長い間育児や介護を女性の仕事だとしてきた(その結果男性が関わる機会は乏しかった)結果、女性の方がうまくやれるように見えている、錯覚しているに過ぎない。

 

それと同じように、恐らくは女性の多くが「会議の場で自分の意見を主張したり、実現するために尽力する」という機会が乏しかった、その影響は大きいのではないかと思います。

 

抑圧されてきた過去と、今と、これから

女性が抑圧されてきた過去をなかったことにすることは当然できませんし、私の住む九州の片田舎では今も露骨な女性差別を目の当たりにすることもあります。

ネット上でも驚くような性差別が存在するのもまた事実です。

 

でもそれにとらわれるあまりにうまくやれるはずのことがうまく回らないのもまた勿体無いなぁとも思うのです。

 

紙おむつ自販機が実現した背景には、たくさんの方が企業も含め周りとうまくやりながらこぎつけていった経緯があると思います。

その背景には男尊女卑だった歴史が無関係だと言うことはできない、関係はゼロではないでしょう。

 

もともと男社会だった企業のやり方もあるかもしれないし、男性の声の方が通りやすい風潮はまだまだあるかもしれない。

 

そこと上手に向き合い、時に利用しながら、自分たちの声を実現につなげていくやり方はきっともっともっとあるんじゃないかな、と思うのです。

抑圧されてきた過去と少しずつ変わっていく今から、戦略を立てて生き抜いていく。

みんなでそうやって前向きに協力していけば、コンビニの陳列に影響を与えることだってできるのかも、と思ったりしています。

 

おまけ

余談ですが、会議の場でなぜ女性の発言が出ないのか、ということについては発言機会の有無やその歴史だけで考えられることではないと考えているんです。

というのも夫経由で聞いた話ではPTAの中でもお父さんだけの会議の場で似たような沈黙の時間が起こることはままあると。

 

組織のあり方や責任の所在、仕組みの問題も大きいのでは、と考えていますがここでは話がずれていくのでそれはまた別の機会に。

読書離れを子供の問題にしてはいけないと思う

大学生の疑問の声

今朝のTLに、読書についてのツイートが流れてきていました。

大学生が新聞に投稿した文章の中には、「1日の読書量が0分という学生が五割という記事に懸念の声が上がっている」と書かれ、「役立つかもしれないが読まなくても生きていけるというのが本音」「楽器やスポーツと同じような趣味の範疇」と続き、「読書をしなければならない確固たる理由があるなら教えて欲しい」と締めくくられていました。

 

TLに並んでいた、数々の反論

私のTLにはその大学生の投稿に対して色々なかたが読書の有用性について触れているツイートが並んでいました。

うん、その一つ一つには私も納得のいくものが多い。

でも、違和感はあるのです。

私もその大学生と似たようなことを考えたことがあったから。

 

「本を読みなさい」という大人たち

小学生の頃から、本をたくさん読む子どもは褒められていました。

図書室の貸し出しカードがたくさんたまると賞をもらえたりもしていましたし、規定の本を読んだかのチェックシートが教室にはられることもありました。

私は読書が苦にならずむしろ活字の虫のように読んでいた子だったので、その風潮に馴染んでどんどん本を借りては読んでいた記憶があります。(自己肯定感の低い子だったので、本を読めば褒められるというのが一つの社会的自尊心を満たす手段になっていた可能性もあります)

 

息子たちの学校では今も当時と同じように、たくさん借りた子が表彰をされたりする仕組みが残っています。

図書室の前の廊下には、たくさん本を読んだ子の名前が掲げられていたり、長期休みには何冊読みましょう!という宿題が出たりします。

 

それらを目にするたび、ふわっと違和感を覚えるのです。

そんな風に、強いて欲しくないな、と。

 

私にとっての「読書」

読書というものについて考えた時、一つのツールに過ぎない、というのが私の中の答えでした。

テレビでも映画でもネット上の記事でも漫画でも人との会話でも、私たちは色々なものから日常的に情報を得ています。私にとっては本はそれらと同じような、一つの情報源というイメージです。

もちろん、テレビと映画館で見る映画から得られるものがそれぞれ違うように、同じテーマであっても小説を読むのと漫画で読むのとは少しずつ違うものが得られるとは思います。

 

その様々なものが得られるツールの一つが、私にとっての本です。

 

心の安寧を得る時間を共にするもの、知識や教養を得るためのもの、誰かと情報を共有するためのもの…人それぞれ、また本それぞれに色々な目的があるだろうとは思います。

認知特性により合う合わない、向き不向き、色々人によって違うわけで、いろんなメディアからいろんな情報を、それぞれが好みに合わせて選べばいい、その一つが本なのかな、と。

 

本を読むことのメリット

新聞も含め、活字を目で追うことだけでしか得られないメリット、というのは確実にあります。読書を勧める大人たちの中にはそれを具体的に想定している方もたくさんおられるでしょう。

 

パッと思い浮かぶだけでも、語彙力が高まること、自分のペースで文字を追っていくので他のメディアより能動的なメディアであること、進学につれて必要になる読解力や文章を綴る能力が高まるだろうこと…

いろんなメリットが、読書にはあるのは事実です。

たくさんのメリットがある、たくさんの発見がある、電源も必要なく比較的安価に手に取ることができ、人と共有することもでき、世界が広がっていくツール。

私もそれを知っているから、こうやってブログを通して絵本のことを発信したり、いろんな学校を回って読み聞かせボランティアを続けています。

 

卒業生への最後の読み聞かせの時間を担当させてもらえたらよく読むのがこの絵本です。本は想像力の海を満たす大切なツールの一つだよ、と伝えています。

 

本に、読書に、マイナスのイメージを持って欲しくないから

我が家では子供たちに「本を読みなさい」と言ったことはありません。

狭い狭い家の中に、玄関から廊下、居間、子供部屋、スペースを見つけたら本棚を置いては本を詰め込んでいます。何も言いません、ただそこに置いています。

 

全く興味を持たれていない棚も、掃除を怠るとホコリをかぶってしまって慌てる棚もあります。それでも、何も言いません。

いつか背表紙の文字に目を留めて、いつか琴線に触れる日が来たら手にとってもらえたら母さんとしては本望なのです。

 

うちの子たちに読書を強いていないのは、本を嫌いになって欲しくないから。読書という行為に負の感情を持って欲しくないから。

うちの子も1日の読書量が0分という日もおそらくあります。でも突然図書室からたくさん借りて来て読みふけっていることも、私が読み聞かせボランティア活動のために定期的に行く図書館について来てあれこれ借りて帰って楽しんでいることもあります。

 

読書という行為そのものを押し付けられ、義務的に本を読んでもつまらないんじゃないかなぁ、と思うんですね。だから我が子には絶対にしたくない。

うちの子たちも好きな絵本は何度でも繰り返し読んでいるし、学校の子供たちも面白い本は順番を待ってでも借りたがります。

読み聞かせで読んだ本が後日学校で借りられているとちょっと嬉しい(心の中でガッツポーズ)。

 

 

子供の問題じゃなくて、大人の問題

投稿をした大学生のように、本を読めという圧力から読書そのものに負のイメージを感じている人も多いんじゃないかなぁ、と思ったりしています。

 

昔より、私たちが小さいころより、今のほうがテレビにしろゲームにしろ、子供たちが触れるメディアは確実に増えていて、本というメディアと触れ合う時間が相対的に減ることは仕方がないことと思います。

 

でも、時間が減るだけではなく読書という行為そのものに負のイメージを持っていたり、嫌っていたりする子供やそこから成長した大人が存在するのもまた現実なんだろうなと思うと、それは子供の問題ではなくて、たとえ良いものだとしてもそれを強いてきた大人の問題なんじゃないだろうか、とも思えてくるのです。

 

本の良さを勧めるがあまりそれが強制として働き、義務としての読書を子供たちに敷いて来た代償が、今の本離れ、本を読む時間が0分の学生が5割、という現実なのではないか、それは、あまりにももったいない。

 

子供の読書離れを嘆く前に、私たちは大人として子供たちを尊重しながら本に触れる場を作っただろうか、と考えたい。子供たちが喜ぶ本を、手に取りたい本を、手の届くところに用意できただろうか、子供たちがそれを自由に楽しむ生活を提供できているだろうか、と再考したい。

 

読書という行為を強いるのではなく、自分が面白いと思った、自分がワクワクした、自分が何かを感じた、そんな本たちを「よかったらどうぞ」ってそっとそこに置いておく、そんな大人でありたいなぁと思うのです。

 

 

おまけ。

ブコメにもあった自宅での読み聞かせについてですが、うちでは今は私からそれを促すことはありません。子供たちが「読んで」と持って来れば可能な限り応じています。

子供がゲームしてる横で私が絵本を読んでいて、寄ってきた子供に「それ読んで」と言われることもよくありますね。

 

本を好きになってほしい、というより「本を嫌いにならないでほしい」という気持ちの方がしっくりくるような気がしています。

「折り合いをつける」という視点

最近、「折り合いをつける」という言葉が気に入っていて、よく使っています。

これまでの人生でも色々やってきたことだとはと思うんですが、この言葉を通して意識することで色々としっくりきた感じがしているのです。

 

公の場での「折り合い」

年度末を前に、私や夫の周りでも役員ぎめだの引き継ぎのための話し合いだのが頻発していてパンク寸前な我が家です。

先日参加したとある会合の中である議題についての意見が交わされる場がありました。

 

理想と現実

Aさんが主張していたのは、正論でした。

こうあるべき、こうすべき、というど正論。

人員に余裕があり、能力のある人が集まっていて資金も潤沢にあり、担当者への適切な報酬が支払われる前提であれば是非そうしたい、と思うような、理想的なありかたでした。

 

でも現実には、私たちが参加している会はギリギリの資金で、保護者の有志がボランティアでやっています。

 

試験や色々な条件をクリアして入会した人たちの集まりではなく、保護者は経済的にも能力的にも雲泥の差があるだろう状態、役員になるのも優れた人だけの特権ではありません。みんなで持ち回りですし、当然報酬らしいものは皆無です。

 

Aさんが主張していたことが実現すれば組織はもっと健全になるだろう、ということはわかります。が、それを実行するための土壌がそこにはありません、もし無理に導入すれば役員になる人の負担が増大して運営に支障をきたすことも想定されるし、長期的に見ればその負担が大きいことが災いして入会希望者が減ることも、そのために存続が難しくなることも十分あり得ます。

 

現状の組織の中と、先を見越した結論から言うと、Aさんの主張をそのまま受け入れることは難しいと言うのが、私たちの会の現実です。

Aさんの主張の方向性は汲み取りながら、じゃあこうしたらどうだろう、という妥協点を見つけるための話が進みました。(若干腑に落ちない様子ではありましたが)。

 

「折り合おう」とする姿勢

似たような場面で折り合いがつけられず意見が拮抗して口論に至ってしまうことも、たまに見かけます。

違いは、意見が食い違う双方に「折り合う点を見つけよう」と言う視点があるか否かだと考えています。

 

自分の意見を持ち主張する、と言うところまでは同じです。

違うのはそこから、自分の意見が正しいのだから周りがその主張に合わせるべきだ、となるか、自分の意見はこうだけど周りの意見や全体の現状や将来の状況などに照らして全体として今後どうしていくべきか、となるか、その視点の有無、視野の広さ、見通しが立てられるか否かの違いなのかな、と。

 

正しいとはなんだろう。

ここで一つ考えたいことがあります。これは最近子供たちとよく話すことでもあります。

「正しい」と自分が思っているそれは、いつでもどんな場でも正しいのだろうか、共通なんだろうか、いかなる場でも主張できることなんだろうか、と言うこと。

前述のAさんの意見は、Aさんにとっては最適解だったのだろうと思いますし、法的な問題もなく、決して間違った話ではありませんでした。

本来あるべき形、望ましいあり方、理想的な状況、ではあったかもしれません。

が、この会でそれを突き通すことで起こりうる弊害については想定されていなかった。

 

Aさんにとって正しいと考えていたことは、ある場では最適解かもしれなかったけれど、この場ではそうではなかった。

 

自分の思う正しさというのは、あくまでも自分の脳の中での答えでしかない。

集団全体にとっての正解が、自分の思う正しさとイコールになるとは限らないし、その正解を見極めるためには集団の性質や周りとの関係性や時勢や色々な要素から掘り下げていかないといけないのではないか、と、そんなことを子供たちと最近よく話しています。(最近だと次男と話したメダカについての話はまさにそんな会話だったんじゃないかと思います。) 

 

おわりに

ここまで書いてきて、この「折り合いをつける」というのがこれまで私がブログや色々なメディアで記事を書かせていただく中で言葉にしてきた、夫婦の関係にもつながっていくのだなということを感じています。

 

理想的な夫婦像というのはあるかもしれません。

でも現実には、妻は自分であり夫は目の前にいるその人、そして子供たちや舅姑などの家族、家の形状や土地柄、いろんな要素が絡み合っている中で生活している。

 

その中でその集団にとっての最適なあり方を見つけるために必要なことは、主たる構成員がお互いに「折り合いをつけていこう」という意志があることなのかもしれない。

それを持たずに「自分が正しいのだからこうあるべき」という姿勢でいたらいつまでもその折り合う点は見つけられないのかもしれない、と思ったりしています。

お母さんも「一人でできないもん」でいいんじゃないだろうか。

少し前に「りっすん」さんでこんな記事を書かせていただいてまして。

その中で

30代~40代向けの雑誌やネット上の記事には、働き方や家族との過ごし方、掃除や収納の仕方、お料理……いろんなことについての「私はこうしています!」という、たくさんのライフハックが詰まっています。

その中には、ワーキングマザーのタイムスケジュールとして「朝3時に起きて……」とか、もうスーパーウーマンしかできませんよね?っていうスタート地点にすら立てない記事もちらほら。

とこんなことを書いていましたら昨日だったか本当にそのまんま午前3時起きでワンオペでバリバリ育児してますっていうワーキングマザーさんを取り上げた記事が流れてきておりました。

読むと心が折れそうになるかもなのですが一応リンク貼っときます。

仕事と家庭の両立は「親にしかできないこと」を絞り込み、愛情を集中投下 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

 

「親にしかできないこと」ってなんだろう

小さく紹介したスーパーワーママの記事でも触れられていた「親にしかできないこと」をセレクトしていくこと、これは私も色々と考えてきたことで。

過去にTwitterで何度か呟いたことがあるんですが、子供が小学生になると圧倒的に「親にしかできないことが増えるな」と思っていたんですね。

乳幼児期には身の回りのお世話とか食事の用意とかまぁお金や血縁や友人なんかの人脈を活用すれば外注できることは結構あるなぁと。まぁ自分を振り返ればその辺も「お母さんだから頑張らないと」って抱え込んでは暴発していたわけですが。

 

学校に入るとどんなにコミュ障であってある程度は教員や他の保護者と接触はしなきゃいけない。それはなかなか他の人には変わってもらえなくて、子供のトラブルや問題行動があったり、話し合いの場があったりすれば頻繁に足を運ぶことになる。

家では家で、丁寧に様子を見てれば気づいた、っていうような不安定さに直面することも出てくる。宿題を毎日やってるか、忘れ物は頻発してないか、食事の量は、体調は…

って色々様子を見ては必要に応じてケアしていくことも出てくる。

その丁寧な根回しは他の人には簡単に頼めない、同居してるけど不在の時間が多い夫にすらなかなか肩代わりしてもらえない…

 

うちは特に発達障害のある次男がいることもあって、そちらに忙殺されて丁寧に4人の子供たちと接することができていないんじゃないか、母親としてすべきことができていないんじゃないか、という不安や焦りがいつも自分につきまとっているんですね。

 

上記の記事の中では「親にしかできないこと」としてこう触れられています。

「母親でないとできないこと」としては、子供と一緒にお風呂に入ってあげるなどのスキンシップ、寝る前の絵本の読み聞かせ、ストレッチなどの儀式があります。私の場合、子供と一緒に過ごす時間は普通のお母さんの半分程度しかないので、その時間の質をいかに上げるかを考えます。

私の母も働いていたのですが、思い返すと母は、授業参観や展覧会などの学校行事は、どんなに忙しくとも必ず来てくれていました。私自身、いまだにそのことを覚えていますから、学校行事には必ず参加しています。

 

家庭ごとの「親にしかできないこと」

引用したことを「うちはやってない」「うちは夫がやってる」等々、家庭ごとにいろんなやり方があると思う。スキンシップが必要な時期もあるかもしれないし、子供の特性によってはそれが必要ない子もいたりする。

 

朝の3時に起きて家事育児仕事をかけ持つスーパーワーママには私はなれないけれど、その「うちの子には何が必要か」「自分にしか与えられないものは何か」を絞っていく作業もひとつのライフハックだよなぁ、と記事を読みながら思いました。

 

もう一個、踏み込んで「本当にそれ、親にしかできない?」

今回久しぶりにブログを書こうと思ったのは、もういっこ踏み込みたかったから。

自分が絞っていったそれぞれのことって「本当に親にしかできない?」って再考する価値があるかもしれないと思ったから。

 

NHKの朝の連ドラを毎日観ているのだけれど、「べっぴんさん」の中で主人公のすみれは母親像としてはちょっと心細い感じで描かれていて。仕事に没頭するあまり娘のさくらとうまくいかなくてすれ違って、結局さくらはお母さんでは満たされなかった母親の愛情の部分を伯母であるすみれの姉に求める。

 

こう書くと、すみれの母親としての至らなさがさくらを苦しませたように見えるかもしれないし、ドラマの中ではそう描かれてた。

 

でも。

ふと見ていて思ったんですね。

子供が求める理想的な母親像を与えられなかったら、それで親として詰むんだろうか、って。

 

「一人じゃできないもん」でもいいんじゃないか。

ドラマの中のすみれは、子供がお母さんと一緒にいたい時間に家にいてあげなかった。でも長期的に見ればその間の業績がなければさくらが自ら希望する学校への進学や海外への留学を叶えるだけの経済力を維持することも多分できなかった。

 

伯母である姉の力も借りながら、さくらはそれなりに大人になっていっていると見ることもできるんじゃないかと思ったんですね。

 

もちろん幼少期の愛着が足りない問題で大人になっていろんな影響が出てる人も現実にいるし、家庭の問題から子供が学校で問題行動を起こすこともあるわけで、「親が子供に接しなくていい」っていう話ではないと思うんですね。

 

そうじゃなくて、母親として一人で愛情をかけるところもお世話も家計を維持することも全部できなくても仕方ないじゃない、そんときは誰かの力を借りてトータルでなんとかなるように持っていってもいいじゃない、そうなった時に凹まず胸を張ったっていいじゃない、って思ったんです。

 

おわりに

前に、ちょっと学校でしんどくなってる息子のお友達がとある場でパニックを起こしているのに遭遇したことがあって、お母さんが色々と声をかけるけどなかなか動けなかったことがあって。

私がたまたまその子のことを小さい頃から知っているから、お母さんちょっと交代しよう、って声をかけて、ゆっくりお話をしてお母さんと話せるところまで落ち着かせたんです。このエピソードだけだと、お母さんがどうにもできなかったことを私が何とかしてあげたように見えるかもしれないけど本質はそこじゃないと思うんですね。

 

その子にとってお母さんにしかできないこともきっとたくさんあるんです。

でも、お母さんがしんどいとき、手に余ったとき、お母さんが苦手な分野で、お母さんが手を離して違う人が肩代わりしてもいいんじゃないかなって。

 

同じように私の子供たちのことで私が困った時にも、きっと色んな場面で子供たちを助けてくれているはず。

そこにはこれまでに私が気づいていないものも含まれているんだろうなって。

 

私がお母さんとして子供たちの全てを把握して全てを網羅して全てを守るなんて無理だから、誰かの力を借りたい。というか現状、本当にたくさんの人の手を借りてる。

その人たちの力もみんな足してやっとお母さんであれるんだろうなと思うのです。

極端なことを言うと、その人たちみんなうちの子のお父さんお母さんなのかもしれないとすら思うのです。

 

きっとこの先子供たちが私には言えないこと、私には頼めないことを、今よりもっともっと周りに頼っていくんだろうと思う。それを前向きに、ありがたいなぁと思える自分であるためには、と考えたりしています。 

次男との、タイマーの新しい可能性を模索する試み

久しぶりの更新です、長男と末っ子のダブル卒入学を控えた年度末にさしかかり、スケジュールが勝手にどんどん埋まってしまってかなり参っている今日この頃です。

 

さて、今日は以前にも書いた、キッチンタイマーのこと。

 

ちょうど1年前くらいですね。

 

タイムアウト(時間切れ!)を知らせるためのタイマー

これまで我が家で主に使われてきたのは、ゲームや動画を見るための共用のタブレットWiiUの使用時間を制限する機能としてのタイマー。

 

一人の持ち時間は原則30分。

表示を確認しながらゲームを進め、タイマーが鳴ったら終了、というルールです。

ドリテック(dretec) 大画面タイマー 【シャボン6 】 ホワイト T-542 WT

ドリテック(dretec) 大画面タイマー 【シャボン6 】 ホワイト T-542 WT

 

使っているのはこのタイプ。 

次を待っている人もタイマーの画面を見ればあとどのくらいかわかる。

自分の番が回ってくるまでの時間の情報が視覚的に得られ、そこまでの見通しが立てやすくなるのもメリットのひとつです。

 

我が家のゲーム時間ルール

我が家では基本的には「一日のゲーム時間やテレビ視聴時間にトータルの制限はしない」が原則となっています。

しかしそのためには大事な条件があります。

それが、「自分が毎日やるべきことをしっかりこなしていたら」というもの。

 

朝起きて顔を洗う、から始まり、忘れ物をしないよう荷物を揃えること、身だしなみを整えること、夕食の配膳手伝いや風呂掃除などの家事手伝い、宿題、寝る時間を守る、等々。

 

年齢に応じてそれぞれに「自分がすべきこと」を確認しながら、それさえできていれば結果的に何時間ゲームすることになっても特に何も注意はしていません。(といっても特に平日は結局大した時間にはなりませんが)

 

しかしこのルール、長男や娘にはスムーズに導入できているのですが次男にはなかなかに大きな問題が生じてしまうのです。

 

次男の「適当にやっちゃう」問題

我が家で一番ゲームにのめりこみやすいのがADHDの特性のある次男坊。

ゲームのやめどきもなかなかスッパリいけないことも多いながらも、次に使いたい他の兄弟にヤイヤイ言われたりしながらまぁなんとかキリをつける練習を少しずつしていっているところです。

 

問題は始める前にありました。

衝動性の強い次男は「ゲームがしたい」「あの録画した番組が見たい」という自分のやりたいことが見えているともう落ち着かない。

頭では「目の前の作業(宿題や学校の用意や歯みがき等)」が終わればできる、それをやってからじゃないと、とわかっていても、その先の楽しいことに脳が占領されてしまう。そして彼の脳は彼に指示します。

「適当にやっちゃえよ」

 

終わってないままランドセルに突っ込んだ宿題、揃ってない荷物、磨いたふりをして30秒くらいで戻ってくる歯みがきっぽい行動。

そして

次男「終わったからゲーム(テレビ)だ!」

私「ちょっと待て!」

 

どうしたらいいんだろう

楽しいことに脳が占領されてしまうなら、そっちを先にやればいいんだろうか。

でもやり始めたらそっちが楽しくなって、終わった後でやろう、は絶対忘れてしまう。(私もそうだから)

 

やらなくていいんだろうか。

次男にそれを聴くと

「宿題をやってないと先生に叱られたくない」

「忘れ物はしたくない」

「虫歯にはなりたくない」

「できるようになりたい」

 

うん、やっぱり「やるべきことをやるべき時にやる」ことは彼にとっても必要。

 

じゃあ、どうしよう。

 

お母さん、ひらめいた。

私「ねえ、(次男)くんよ」

 「タイマーを、使ってみたらどうだろうか」

次男「?????」

 

母さんからの提案は、こうです。

 

歯みがきなら3分、宿題は60分(5年生の標準自宅学習時間らしい)、学校の荷物を揃えるのは5分、と「僕がやる時間」を決めて、その時間が終わるまでは作業に専念する。もし早く終わってしまっても、次の行動に移さず見直しや追加の自主学習などに充てる。

 

使うのはデジタルではなくアナログタイプのタイマーを提案してみました。

終わりの時間が近づいてくるのが視覚的に見やすいかなと。

こんな感じの。しばらく試してみてやっぱりデジタルの方が良さそうだったら変更するかもしれません。

 

おわりに

「やらねばならないことをやる」という、ある種の人たちにはとても簡単にできるそれが、私や次男のような衝動性の強い種類の人にはとても難しかったりします。

やらないといけないということがわかっていても、その先のやりたいことに支配されて見えなくなってしまって、気づいたら忘れてしまっている。

 

でも、次男が私に言ったように、やる気はあったんです。

やりとげないと誰かが困ったり、自分が困ったりすることもわかってるんです。

本当は忘れずにやり遂げたいんです。

 

自分ひとりの力ではそれができない。

だから、タイマーという自分の脳とは別に動くものを使って自分に外から制限をかけるという訓練を今回は思いつきました。

 

さてこれが吉と出るか凶と出るか、うまく続けられずにだんだん廃れてしまうか、私にもまだわかりません。

 

とりあえず、やってみるしかないのです。

「生き物を飼うのは可哀想」と言われて悩む次男と話したこと

怒りながら帰ってきた次男

昨日、帰宅した小5次男が怒っていました。

私の顔を見るなり

「(1学年下の子)くんが!メダカを飼うなっていうんだ!」

とまくしたてる次男をなだめながら話を聞くと…

 

学校にあるメダカの水槽にいたずらをしていた低学年の子に生き物係の次男が注意したら、その子たちが聞いてくれず次男が腹を立てた。

その姿を見てそばにいた子が

「そもそも自然にいる生き物を閉じ込めて飼っているのがおかしい、可哀想だ。メダカが大事なら自然に帰してあげたほうが幸せなのに」

と言ったようです。

 

次男はそれに憤ったけれどうまく反論もできず、苛立ったまま帰ってきたようでした。

 

川に帰ったら幸せなのか

まず最初に考えたのが、これ。

学校で今次男たちが面倒を見ているのは、先生方が観察のために用意してくれたメダカです。(おそらくは人工飼育化で孵化したもの)

その水槽のメダカを今、近所の川に流したら待っているのはどんな環境だろう。

 

うんうんと考える次男。

メダカを食べる生き物は何がいるだろう、と二人で考えます。

 

肉食性のメダカより大きな魚、ヤゴなどの虫、鳥、カメ…

たくさんいるだろうねえ、水質も一定ではないよねえ…

次男は「食べられるかもしれない、餌も見つからないと思う、幸せじゃないと思う」と。

「でも広いよ、仲間もたくさんいるかもしれないよ」と問いかけると「うううううーーん」と頭を抱えていました。

 

水槽の中は幸せではないのか

次はこれ。

「餌も必ずもらえるし水も替えてあげてる」

「でも閉じ込めてる」

また頭を抱える次男。

 

この2つの想定で見えてきたのは「幸せって何だろう」っていう次の問いでした。

 

君は今、幸せ?

親として子に直球で問うのは若干抵抗のある疑問ではありましたが、通らずに進めないと思ったので次男に聞きました。

「うん」と頷く次男に尋ねます。

「うちは6人家族で一人ずつの部屋もない狭い家で、君らはそこでぎゅうぎゅうくらしてる。それをよその人からは『あんな狭い家で可哀想に、もっと広い家ならもっと幸せに暮らせるかもしれない』と言われるかもしれないけどどうだろう」

考え込む次男にもう一つ質問してみます。

 

「去年の君と今の君と、どっちが幸せ?」

「今だよ!」と即答したので理由を尋ねると、彼なりに色々と友人との関係が改善したことや変化したことを挙げてくれました。

 

「お兄ちゃんが今幸せかわかる?」「わかんない」

「君とお兄ちゃんと今どっちが幸せかは?」「どうやって比べていいかわかんない」

「違うおうちだったら幸せかは?」「引っ越してみないとわかんない」

 

「幸せ」は「わかんない」だから

君の、今と前しかわかんないし比べられないねえ。わかんないねえ。

「メダカのことも、わかんないねえ」と次男。

 

そうなんだよね、結局メダカがどうだったら幸せかなんてわかんないんだねえ。というのが私と次男の行き着いた結論でした。

 

「人が飼うのは可哀想なのか」

もう一つの疑問が残ります。

それは「閉じ込めて飼っているのはおかしい」のかということ。

「あのメダカは何で学校にいると思う?」

「勉強のため、観察したり育て方を学んだりするため」

 

メダカは、子供たちの学びのために学校で飼われている。

同じように、家族として可愛がるためだったり、観察や研究や保護、いろんな理由で人間に飼育されている生き物たちがいるよね、と話すと「売るために飼って増やしている人や毛皮をとるために捕まえたりする人もいるよね」と次男。

そのために絶滅してしまった生き物もいるし、ちゃんと育ててもらえずに病気になったりするケースもある、そんなひどいことにならないような法律や取り決めもいろんな国が取り組んでいるよねえと話します。

 

人間の勝手な都合で死なせたらいけないねえと漏らす私に「でも蚊は殺す」と次男。

うん、人間の生きる目的のために害虫や害獣を駆除せざるを得ないことはある。

 

結局、私たちにはその、自分たちの都合や目線でいろんな環境に影響を与えながら生きざるを得ないんだろう、とは思う。それを理解し罪の部分も意識しながら自分たちの利益や目的のために飼育を含む様々な形を取りながら生き物と共存している。でもそれを11歳の次男に説明するのはまだ難しいなぁと話しながら思いました。

 

じゃあ、放す?

どんな状態がメダカにとっての幸せなのかはわからない。

命あるものを人間の都合で飼うことの是非は簡単にはわからない。

じゃあ、どうしたらいいんだろう。

 

大前提として、その生態系にいなかったり人工飼育下で孵化させた生き物を勝手に放流したりすることはやってはいけない行為です。

生態系を崩してしまいます。

だから、どんな理由を思いついたところで学校で飼育されているメダカを川に放すことはできません。

 

じゃあ、どうしよう。

 

次男が出した答え

 

これが、次男の結論でした。

メダカにとって何が最も幸せかは自分ではわからない。自然に返すという選択肢は取れない。でも今の環境の中で一番幸せだろうなと思う状態にしてあげることはできる。それが自分がやることなんだ、と思ったようです。

 

生き物を飼う意義について

ここからは余談ですが、学校で生き物を飼うことの意義、というのを次男と話している中で、昔書いたこんなエントリを思い出しました。

この中では、飼っている虫を死なせてしまう子供たちのことを虫に詳しい先生に相談した時のことを書いています。

一部の個の犠牲を払ったとしても種全体への関心や知識を持ち続けてもらうことで絶滅を免れることができるかもしれない、そちらの方が種全体にとっては利益になるのではないか、というお話です。

 

何匹かの個体を学校で飼育することで、子供たちはメダカという種が存在することやその姿、どんな餌を食べるのか、どんな風に繁殖するのかを学ぶことができます。その学びの中には、本来は川など淡水の場所に生息していることやなぜ数が減少しているのかについての知識を得ることも含まれていると思います。

 

もし学校でメダカを飼っていなかったら、メダカについて知る機会がなかったら、メダカという生き物が存在していたことすら知らないまま大人になる人もいたかもしれません。

 

川にメダカという生き物がいることを誰も知らなかったら、生態系が崩れてしまってもメダカを守ることはできません。人間が認知しないまま人間の起こした環境の変化のために絶滅してしまった生き物もたくさんいるのかもしれない。

飼育には、知るという大きなメリットがある、それは大事なことだよね、と次男にも話しました。

 

「でも飼っているメダカが死んでしまうと悲しいんだ」

うん、そうだよね。個としてのメダカができるだけ幸せでいられるように自分のできることを考えている次男の優しさを誇らしく思った、そんな冬の日でした。

 

追記 2017.01.26

「飼うのが可哀想だというのを否定できてない」というブコメをいただいたので、それについて考えてみました。

 

思えば私は最初から「飼うのが可哀想だ」ということを否定しようという発想はありませんでした。それはあくまでも言った子の感情だからです。

話していくなかで次男が飼う行為そのものを否定されたようで困惑していることが見えてきたので、それについて彼なりの答えを見つけるための会話でした。

 

次男に「可哀想だ」というその子の主張を論破してほしいとは思いません。その子がそう思っているならそれはその子の今の答えです。それは大事にする人であってほしい。

その言葉に引っ掛かりを感じた次男は、自分のなかでその答えを探す必要があったのではないかと思うのです。

 

私のブログには「こうすればいい」という答えがない、というコメントを何度かいただいたことがありますが、この次男の件を考えていてそのコメントと繋がりを感じました。

 

次男は次男のなかで「自分はどうするか」 「自分のなかでどう折り合いをつけるか」という答えを見つける必要があった、私はそのお手伝いをしたに過ぎないのだろうと思います。

かわいいメダカの本―飼い方と素敵な水草レイアウト、ビオトープの作り方

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