スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「生き物を飼うのは可哀想」と言われて悩む次男と話したこと


怒りながら帰ってきた次男

昨日、帰宅した小5次男が怒っていました。

私の顔を見るなり

「(1学年下の子)くんが!メダカを飼うなっていうんだ!」

とまくしたてる次男をなだめながら話を聞くと…

 

学校にあるメダカの水槽にいたずらをしていた低学年の子に生き物係の次男が注意したら、その子たちが聞いてくれず次男が腹を立てた。

その姿を見てそばにいた子が

「そもそも自然にいる生き物を閉じ込めて飼っているのがおかしい、可哀想だ。メダカが大事なら自然に帰してあげたほうが幸せなのに」

と言ったようです。

 

次男はそれに憤ったけれどうまく反論もできず、苛立ったまま帰ってきたようでした。

 

川に帰ったら幸せなのか

まず最初に考えたのが、これ。

学校で今次男たちが面倒を見ているのは、先生方が観察のために用意してくれたメダカです。(おそらくは人工飼育化で孵化したもの)

その水槽のメダカを今、近所の川に流したら待っているのはどんな環境だろう。

 

うんうんと考える次男。

メダカを食べる生き物は何がいるだろう、と二人で考えます。

 

肉食性のメダカより大きな魚、ヤゴなどの虫、鳥、カメ…

たくさんいるだろうねえ、水質も一定ではないよねえ…

次男は「食べられるかもしれない、餌も見つからないと思う、幸せじゃないと思う」と。

「でも広いよ、仲間もたくさんいるかもしれないよ」と問いかけると「うううううーーん」と頭を抱えていました。

 

水槽の中は幸せではないのか

次はこれ。

「餌も必ずもらえるし水も替えてあげてる」

「でも閉じ込めてる」

また頭を抱える次男。

 

この2つの想定で見えてきたのは「幸せって何だろう」っていう次の問いでした。

 

君は今、幸せ?

親として子に直球で問うのは若干抵抗のある疑問ではありましたが、通らずに進めないと思ったので次男に聞きました。

「うん」と頷く次男に尋ねます。

「うちは6人家族で一人ずつの部屋もない狭い家で、君らはそこでぎゅうぎゅうくらしてる。それをよその人からは『あんな狭い家で可哀想に、もっと広い家ならもっと幸せに暮らせるかもしれない』と言われるかもしれないけどどうだろう」

考え込む次男にもう一つ質問してみます。

 

「去年の君と今の君と、どっちが幸せ?」

「今だよ!」と即答したので理由を尋ねると、彼なりに色々と友人との関係が改善したことや変化したことを挙げてくれました。

 

「お兄ちゃんが今幸せかわかる?」「わかんない」

「君とお兄ちゃんと今どっちが幸せかは?」「どうやって比べていいかわかんない」

「違うおうちだったら幸せかは?」「引っ越してみないとわかんない」

 

「幸せ」は「わかんない」だから

君の、今と前しかわかんないし比べられないねえ。わかんないねえ。

「メダカのことも、わかんないねえ」と次男。

 

そうなんだよね、結局メダカがどうだったら幸せかなんてわかんないんだねえ。というのが私と次男の行き着いた結論でした。

 

「人が飼うのは可哀想なのか」

もう一つの疑問が残ります。

それは「閉じ込めて飼っているのはおかしい」のかということ。

「あのメダカは何で学校にいると思う?」

「勉強のため、観察したり育て方を学んだりするため」

 

メダカは、子供たちの学びのために学校で飼われている。

同じように、家族として可愛がるためだったり、観察や研究や保護、いろんな理由で人間に飼育されている生き物たちがいるよね、と話すと「売るために飼って増やしている人や毛皮をとるために捕まえたりする人もいるよね」と次男。

そのために絶滅してしまった生き物もいるし、ちゃんと育ててもらえずに病気になったりするケースもある、そんなひどいことにならないような法律や取り決めもいろんな国が取り組んでいるよねえと話します。

 

人間の勝手な都合で死なせたらいけないねえと漏らす私に「でも蚊は殺す」と次男。

うん、人間の生きる目的のために害虫や害獣を駆除せざるを得ないことはある。

 

結局、私たちにはその、自分たちの都合や目線でいろんな環境に影響を与えながら生きざるを得ないんだろう、とは思う。それを理解し罪の部分も意識しながら自分たちの利益や目的のために飼育を含む様々な形を取りながら生き物と共存している。でもそれを11歳の次男に説明するのはまだ難しいなぁと話しながら思いました。

 

じゃあ、放す?

どんな状態がメダカにとっての幸せなのかはわからない。

命あるものを人間の都合で飼うことの是非は簡単にはわからない。

じゃあ、どうしたらいいんだろう。

 

大前提として、その生態系にいなかったり人工飼育下で孵化させた生き物を勝手に放流したりすることはやってはいけない行為です。

生態系を崩してしまいます。

だから、どんな理由を思いついたところで学校で飼育されているメダカを川に放すことはできません。

 

じゃあ、どうしよう。

 

次男が出した答え

 

これが、次男の結論でした。

メダカにとって何が最も幸せかは自分ではわからない。自然に返すという選択肢は取れない。でも今の環境の中で一番幸せだろうなと思う状態にしてあげることはできる。それが自分がやることなんだ、と思ったようです。

 

生き物を飼う意義について

ここからは余談ですが、学校で生き物を飼うことの意義、というのを次男と話している中で、昔書いたこんなエントリを思い出しました。

この中では、飼っている虫を死なせてしまう子供たちのことを虫に詳しい先生に相談した時のことを書いています。

一部の個の犠牲を払ったとしても種全体への関心や知識を持ち続けてもらうことで絶滅を免れることができるかもしれない、そちらの方が種全体にとっては利益になるのではないか、というお話です。

 

何匹かの個体を学校で飼育することで、子供たちはメダカという種が存在することやその姿、どんな餌を食べるのか、どんな風に繁殖するのかを学ぶことができます。その学びの中には、本来は川など淡水の場所に生息していることやなぜ数が減少しているのかについての知識を得ることも含まれていると思います。

 

もし学校でメダカを飼っていなかったら、メダカについて知る機会がなかったら、メダカという生き物が存在していたことすら知らないまま大人になる人もいたかもしれません。

 

川にメダカという生き物がいることを誰も知らなかったら、生態系が崩れてしまってもメダカを守ることはできません。人間が認知しないまま人間の起こした環境の変化のために絶滅してしまった生き物もたくさんいるのかもしれない。

飼育には、知るという大きなメリットがある、それは大事なことだよね、と次男にも話しました。

 

「でも飼っているメダカが死んでしまうと悲しいんだ」

うん、そうだよね。個としてのメダカができるだけ幸せでいられるように自分のできることを考えている次男の優しさを誇らしく思った、そんな冬の日でした。

 

追記 2017.01.26

「飼うのが可哀想だというのを否定できてない」というブコメをいただいたので、それについて考えてみました。

 

思えば私は最初から「飼うのが可哀想だ」ということを否定しようという発想はありませんでした。それはあくまでも言った子の感情だからです。

話していくなかで次男が飼う行為そのものを否定されたようで困惑していることが見えてきたので、それについて彼なりの答えを見つけるための会話でした。

 

次男に「可哀想だ」というその子の主張を論破してほしいとは思いません。その子がそう思っているならそれはその子の今の答えです。それは大事にする人であってほしい。

その言葉に引っ掛かりを感じた次男は、自分のなかでその答えを探す必要があったのではないかと思うのです。

 

私のブログには「こうすればいい」という答えがない、というコメントを何度かいただいたことがありますが、この次男の件を考えていてそのコメントと繋がりを感じました。

 

次男は次男のなかで「自分はどうするか」 「自分のなかでどう折り合いをつけるか」という答えを見つける必要があった、私はそのお手伝いをしたに過ぎないのだろうと思います。

かわいいメダカの本―飼い方と素敵な水草レイアウト、ビオトープの作り方

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