読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

夜中のツイートのまとめ<ゲームの件>


添い寝してる末っ子が夜中にウダウダ動いていてつい目が覚めて、そこから寝られなくなった夜中。なんとなく覗いたTwitterのTLに、とあるゲームについてのツイートがRTされて流れて来てました。以下、要旨です。

 

小学生の息子さん、DSは持ってなくて、持ってる子たちが一緒に遊ぶときに仲間に入れてもらえず、という感じのこと。ものを無くしたりしやすいから持ち出し禁止でいいなら買うと持ちかけたらそれならいいと言う息子さん。親御さんは持ってない子がいるなら違う遊びをすればいいのに、と思っていらっしゃる様子で、コミュニケーションをとりあわずゲーム機に向かってみんなただゲームするような遊び方しないで外でみんなで遊べば良いのにな〜という感じで。

小学生の息子くんはそれでもほしがっていない様子で、でももし君が野球をやろうよっていってるとこにグローブ持ってない子がいたらどうする?と聞くとサッカーとかやろうって言う、という息子くん。親御さんは息子くんの方が正しいと思うけどな、と疑問に感じていらっしゃいました。

 

このツイートを眺めて、夜中にぶつぶつと感じた事を書いたのですが、私がRTしてたらツイート主さんを批判してるようにも受け取られちゃうのかな…とちょっと気になったのでRTは解除して、でもそしたらその後のツイートがよくわからないかな、でもたくさんRTされてたりふぁぼられたりしているようなので消すのもあれかな、ということでとりあえずここにまとめてみようかなと思った次第です。

 

ゲームさせるさせない、という話では多分無いんだけど、小学生同士のこういうやりとりでよく、仲間はずれにしてる、という印象を持つ大人の人に出会うことがあります。私自身、息子たちを取り巻く友人たちに対してそう感じたこともあるし、逆に自分の子がやってることが意地悪や仲間はずれと見えて気になったことも。

 

でも「ゲーム持ってないから仲間に入れない」っていう、この現象は多分、根っこの深いいじめというものではないんだろうな、と思うのです。

 

起こりがちな勘違い

まず実際に携帯ゲーム機に触れてないと起こりがちな勘違いとして、コミュニケーションもとらない個別の遊び、という見方があります。確かにゲーム、特に外で集まってやってるDS(今は3DSが主流ですが)などの携帯ゲーム機、傍目から見たらそれぞれがゲーム機を握って単独で遊んでいる集団に見えるかもしれません。でも彼ら、コミュニケーションをそこで取ってたりします。

同じゲームソフトを持ってる子が集まって通信しながら協同でクリアするゲームをしていたり、誰かが自分のゲームでクリアできない課題的なものがあるときにアイテムや仲間を貸したり交換したりしてクリアできるように助けてあげていたり、そのゲームを介してのコミュニケーションがそこにあります。

 

近くで聴いてたらわかるかもしれないんですが、ぶつぶつ言いながらお互いに指示を出し合ったり、失敗して責めたり責められたり謝ったりという言葉のやりとりをしてたりもします。

 

彼らは彼らなりに、そこでコミュニケーションをとってるんですね。

 

それは「仲間はずれ」?いじめ?

 ゲーム持ってないと仲間に入れない、という現象。これは大人の目から見たら仲間はずれに見えることもあると思います。もちろん、あえてその子を外してやろうという悪質ないじめがないとは言いきれません。

 

でも多くの場合、彼らはとても自分に正直に行動した結果でもあるのかなと思うのです。

ゲームを例に取ると、彼らは恐らくは遊ぶ約束をした時点で今日何のソフトでどんなことをやろうか、と話していたりします。ゲームによっては同時に出来る人数が決まっているものもあるのでその人数を確認して誘い合ったりしていることも。

私が拝見したツイート主さんの要旨のなかにはグローブ持ってないならサッカーやろうよ、っていう例が出ていましたが、現実により近い例えをするなら「野球をやろうと人数を集めてそれぞれが道具を揃えてグラウンドに集まったとこに『ぼく道具持ってない』って人がひとりいました」という状況かなと。大人で例えるならみんなでゴルフのコース回りましょうって相談してるとこに「僕はクラブ持ってないけど」って人がいました、って感じなのかなと。それは意地悪でも仲間はずれでもなく「じゃあ参加できないよね、しょうがないよね」って。

 

そこに「じゃあグローブ持ってない子がいるから、みんな野球は止めにして今日はサッカーをやろうよ」ってなるべきなのか、否か。

 

大人の価値観でいくと、そうなったら平和的、と思っちゃうのかもしれないんですよね。

でも子どもたちって、そんなに平和主義的には出来てない、もっと利己的な生き物なんじゃないかなと思うのです。

 

単純で利己的なこどもたち

うちの子が一見いじめられているように見えたりしたことがあった時期、大人のメガネを通してみたらすごく意地悪に見えた周りの子たちを集団ではなく「一人ひとり、それぞれがとても利己的で自分が一番っていうことだけ考えて動いている生き物」だと思って眺めてみたんですね。そしたらその子たちが何故意地悪に見える言動をしてたのか、がちょっと理解できたりもして。

 

それぞれに、自分が可愛い、自分が一番、なんですよね。んでそれがあわさった結果、大人の目から見たら意地悪してるように見えたりしちゃう。

 

その利己的な生き物が、小学生だからという理由で学校という箱の中で「みんな仲良く」「マイノリティには優しく」と上っ面の平和主義を一生懸命やらされてるわけで、中身わかってやってる行動じゃ多分無いから、そんなの放課後にやれなくても仕方ないんじゃないかな、と思う。

 

おとなフィルターの存在と子ども界

集団いじめみたいな、根っこの深いものじゃない単なる利己的な子の集合体と思われるもの、それが「和をもって尊し」的な大人のフィルターを通して見たら「仲間はずれ」になっちゃう。それは大人の目としてそれでも別に良いんだけど、そこに「あなたが仲間ハズレにされてる、あなたを仲間ハズレにしてる」っていう大人の見解が子どもの世界に入り込んじゃうと、それはそれで子ども界に歪みを生んじゃう可能性もあるなと思うと、子ども界への介入ってとっても難しいな、と思います。子どもって自分が思っている何十倍もこっちの考えてること吸い取っていくから。

 

放課後の遊びの場、って子どもたちにとっては制約の少ない、自由な場なんじゃないかと思う。そこで大人流の和を求めるのはたぶん難しくて、大人の価値観で学校流の平和主義を持ち込んだりマイノリティに優しくしろと制約をかけたら多分それはそれで逆に歪みを生みかねないかなと。

ゲーム持ってないなら持ってないなりに、周囲の配慮を求めるんじゃ無くて自分なりに自分の居場所を見つけながら遊び方を模索するしかないのかな、と思う。

 

利己的な子どもたちと和・輪

大人になっても,多分みんなそれぞれに利己的で、でもそれなりに集団が成り立っていくのは「利己的であることが悪い」からそうしないようにしよう、では無くて「その場の目的を達成するためには譲る必要もある」と学んでいくからかな、と思っています。

わがまま言っちゃダメ、で自分を抑圧してたらおとなでもしんどくなっちゃう。でも大事なのはなんで自分の良いようにだけしちゃダメなのか、それは学校なら授業や活動の遂行、会社なら事業の成功、ってその集団が目指してる目的があるからだと思う。逆に言うとそれを見据えてその場の振る舞いを考えたら「みんな仲良く」なんて言わなくてもいいんだよね、ほんとは。

 

今とても利己的で我がままに見える子どもたちも、それぞれの主張がぶつかっていやな思いをしたり、自分が損をしてしまったり、集団の目的が達成できなかったり、伝えたいことが伝わらず悲しい思いをしたり、そういう経験の中でどこをどう譲れば良いかを学んでいくのかなと思う。

 

うちの子たちはサッカーチームに入ってから、場を乱すことで試合が出来なくなるとか力を合わせないと勝てないとか、そういう経験から集団のなかでどう動けば良いかを学んでいるようです。漠然とした「みんな仲良く」ではなく明確な目的が提示されるので子どもにも分かり易いみたい。それでもまだまだ発展途上ですが。

 

おまけ。ゲームはそんなにもたない。

うちの子の周りの典型的アホ男子連中の行動として、ゲームを親が心配するほどやり続けてない、という傾向はあります。

休日に我が家がゲームの集い会場になることがたまにありますが、午後から集まったダンスィ連中がゲームに集中しているのは長くても2時間程度。途中で飽きた子がばらばら離脱したりまた中に入ったりを繰り返してもそのくらい、抜けた子がカードゲームを出して遊び始め、そっちに気を取られた子が増え、とか。んで飽きた子が増えたとこで「サッカーやろうぜ!」「野球やろうぜ!」「公園いこうぜ!」って嵐が去るようにいなくなります。(んでまたお腹がすくと集団で帰ってくる…)

うちの子の場合、自宅で一人だと逆に制約が無いと感じるのかなかなか止め時が見つけられずやり続けてるように見えることがあるんだけど、集団のときは周りの子の動きに合わせないと置いていかれちゃうのが不安なのか、一緒にやれることに限りがあるのか、さっさと止めてることも結構あります。

みんなで遊んでるときに大人が心配するほど自分一人でやるゲームだけに集中してやり続ける子、って実はそんなに多く無いんじゃないかな〜とこっそり思ってます。

スポンサードリンク