スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「察して欲しい」という、原始的な欲求 雑誌VERYの広告から


数日前からTLにちらほら上がって来ていた雑誌の新聞広告、気になっていたのですがさっき初めて全文読みました。んで、思ったこと。

 

togetter.com まとまってましたので一応貼っておきます。

 

私は「察する」能力がどうやら結構に低い(前にここでも書いたことが有るけど)ようなので、このトイレットペーパーのくだりを読んでまず思ったんです。

「トイレットペーパー、買ってくればいいの?」

「だったらポチればいいじゃないすぐよ?」

でもそうじゃない。

 

じゃあ、短絡的にトイレットペーパー買って帰ればいいのね?って思って適当な銘柄買って帰ったらまたそれが多分火種になる。いつもの銘柄を把握もしてないの?って思うよね、そうなるよね。

 

察するのが苦手な私がまず思うのは「トイレットペーパーの管理という私が今になっている負担を減らしたいから協力して欲しい」という要望は言葉では伝えないんだろうか、という疑問。「トイレットペーパー切れかけてるから買って来て」と頼むとか「残量が何個になったら買って帰って来る」という協定を結ぶとか、そもそも二人ともその任から離れるべく宅配の定期便を頼んでおこうとか、具体的な改善策は多分あると思う。

その、要望を具体的に伝えることや協力を求めること、相手のそれに対する反応を受けて最善策を協議すること、恐らくはそれを建設的にやれば「トイレットペーパーを買ってくる大変さ」の解決は可能なんだろうなと思う訳です、どんな家庭でも。

 

でも。

ここでいうところの妻が求めているのは

「トイレットペーパーを買って帰って欲しい」

とか

「ありがとうよりトイレットペーパーが欲しい」

ではなくて

「トイレットペーパーの残量にあなたが気を遣わずに生活できているのはいつも自分が確認して補充しているからであって、生活全般にわたるそのような水面下での配慮に気づいて欲しいし、その負担をさりげなく分担したり肩代わりしたりして私への愛情を示して欲しいという私の要望を、私の口からみなまで言わせずに気づいて、そして態度であらわして欲しい」

という、とてもとても長い本音。

 

その、とても長い長い「私の本音」を「察して」と言う広告なんだろうなぁと、眺めながらなんだか悶々としてしまいました。

 

 

眠い目をこすりながら、暑い!とかまだ帰りたくない!とか違う形でごねる幼児と暮らしていると、自分の体が本当に欲していることと表に欲求として出てくるものがかい離してしまうのは人間にはよくあることなのかもしれないなぁと思ったりします。

ここでも何度も書いて来たことだけれど、子どもたちはお腹の中の本当の気持ちに上手く気づくことができずに違う形で自分の外に出してしまうということは本当によくあります。学校で何か嫌なことがあって登校を渋る子がお腹を痛がるとかが分かり易いケースかなぁと思うのだけど、何か不満が有るときに違う理由で親に当たり散らすとか、育児経験者にはあるあるなんじゃないかと思う。

 

不満を外に出しながら自分は本当は眠いのだ寝かせて欲しいのだということに誰かが気づいて、それを促してくれる、温かく見守って寄り添ってくれる、それは、とても嬉しい、安心や信頼に繋がることなのかもしれない、と子どもたちと接していて思うことがあります。試そうという意志が明確にあるわけではないんだろうけど、察してくれて行動に移してくれること、そうすることでその人は自分の味方であり理解者であると思うのかもしれないなぁと。

 

私も、自分が困っていたりイライラしたりしているときに言葉にする前に夫が気づいてさっと動いてフォローしてくれたら、とても嬉しいし大事にされているんだなぁって思ってしまうような気がする。夫という、一番身近な一番自分を愛してほしい存在である人がそうしてくれたら嬉しい、愛情を感じる。

その、嬉しいと思う気持ちそのものは、否定したくないなぁって思う。

 

でもそれと同時に、この「みなまで言わせず察して欲しい」という欲求は赤子が親に対してするような、原始的で幼稚な欲求であるということもまた意識しておく必要が有るんじゃないかなぁと思う。

 

夫という目の前に居るその人は、最も身近な人だけれど、でも元々は他人だった人。そして、自分は成人した大人であるということ。それは逆に、夫にとっての妻もそうなのだけれど。

 

察してくれたら嬉しい、でもそれを、相手の負担になるほど求めてしまっては関係は破綻してしまう。自分とは違う他人である人に自分の気持ちを本当に理解して欲しかったら、お腹のなかの本当に求めている欲求は何かとじっくり考えること、そして伝える努力、そこをすっ飛ばして「察して」くれないと怒る、というのはとても幼稚な気がする。

 

 

夫という種類の人が配偶者であるに依存しがちな構造の家庭が多いということ、それによる妻の負担や社会的な抑圧を否定するつもりはないのです。そしてこの雑誌の広告も、あくまでも一雑誌の、読者を惹き付けるための煽った表現であることもまた考えとかないといけないとも思う。

 

それらを踏まえた上でこの広告を改めて眺めながら、成人した大人同士の人間関係の中で「察して欲しい」と求めても、それをメディアが推し進めても、結局は良好な関係には繋がらないんじゃないですか?と考えたりしています。

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