スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

夫をチンパンジーと見なすライフハックと自他境界

「夫をチンパンジーと思ったら」

朝TLに流れて来た2つのツイート。

1つは妻側から「夫が空のバターの容器をそのまま冷蔵庫に戻していたから怒った、相手をチンパンジーとみなしたら仕方が無いと怒りが和らいだ」

もう1つは夫側から「空のバターの容器を何気なく冷蔵庫に戻していたら妻が人に思えない様相で怒った」というもの。

 

本当にご夫婦が同じ案件について語ったのかどうかは本旨ではないので追いかけて確認はしていませんが、この2つ(特に奥さんの側)のツイートから行きついた面白いことについて今日はまとめてみます。

 

「ネコだと思えばいいんだよ」

小さい頃から落ち着きもなく子守りにも躾にも手を焼いて来たうちの次男坊。生来の愛嬌でカバーしたりそれなりの支援を受けたりでなんとか楽しく学校に通っていますが、彼のアホな言動や突拍子もない行動に対応するのは本当に大変、すぐに沸点に到達して大きな声が出てしまう私に、ある時夫が言ったことがありました。「次男のこと、ネコだと思えばいいんだよ。ほら、ネコだと思って対応してごらん、イラッとしにくくなるから」

 

わざわざ狭いところを通って私にぶつかっていく次男…「ネコだからしょうがないか…」

何度言ってもこたつから出て来ない次男…「ネコだしね…」

ケンカしてお兄ちゃんの顔を引っ掻いて…「ネコだし…いやそれはだめだろうよ!」

 

さすがに手をあげるとかそう言う部分についてはきっちりと叱らねばなりませんが、それ以外の日常の些細なイライラは確かに「ネコだし…」と思うと心が波立ちにくかった気がします。

 

もちろん人間の子どもである次男ですから、その尊厳は保たねばなりません。なにからなにまでネコと同様と見なすわけにも、本人に「お前をネコと見なす」と言うわけにもいきません。あくまでも私の心の中でいらだちを抑えるための一つの呪文のような感じで「ネコだ…あの子はネコだ…」と思っていた時期がありました。

 

なぜ、動物と見なすと落ち着くのか

「夫をチンパンジーと見なす」と書かれていた方の日常のツイートは存じませんので掘り下げることはできませんが、当該のツイートを拝見して自分が次男について「ネコだ…」と気持ちを落ち着かせたようにある種の諦めに近い気持ちで相手との距離をおくための方法なのだろうなとは感じました。

 

なんで相手を動物と見なすと落ち着くんだろう…動物に限らないような気はするんですね。言葉がうまく通じない相手を「エイリアン」だと称したツイートを見たこともあるし、自分でそう思って相手との距離を置いたこともある。「外国人」「異星人」「異次元から来た人」「チンパンジー」「ネコ」「カブトムシ」…自分とうまく意志の疎通ができない、指示がうまく通らない、コントロール不能な存在に対してそんな風に、自分以外の属性を当てはめて「だから仕方ないよね」と諦める。これ、一見自分のレベルに理解が達していない相手に対する不満や不快感を自分の中が流して「あげる」、というやや上から目線ぽい臭いのする行動に見えます。が、本当にそうかな、というのが今日思ったこと。

 

これ、実は「自他の境界線が緩い自分に無自覚で、それゆえに起こっている苛立ちを抑えるために相手を自分とは違う属性だと見なすことで境界線を意識できた」という状態なんじゃないか。

 

そもそも「自他の境界線が緩い」自分がそこにいるんじゃないか、と。

 

自他の境界線とは

「自他境界」「自他境界線」「自他の境界線」などの言葉で検索すると発達障害の特性のひとつとして語られるブログやサイトが色々と出てきます。

はてなブログでも著名ななないおさんのブログでも取り上げられています。

こうやって読むと「自他境界が緩い=発達障害」と受け取られてしまいそうですが私はそうは考えていません。傾向が強ければ社会的に困難を起こしやすかったり支援を必要としたりするけれど、そう強くはないけれど傾向として持つ人というのは少なからずいる、その辺は発達障害がオンオフの障害ではなくゆるやかな連続体のなかで環境や特性の強さにより支援を必要とするケースもあるし必要としないケースもある、と考えています。

この辺のことは過去にも書いたことがありました。

 

自他の境界線というのは簡単に言えば「自分と自分以外の人間には境界線がある」と認識をするということ。

「私以外は私ではない(あの歌みたいですが)」「私とあなたは違う人」というように私と自分以外の人間が「違うものである」と理解しているということ。

 

掘り下げていくと「自分の脳みそは他の人の脳みそとは違う」「自分が考えていることを相手が同じように考えるとは限らない」「自分にできることが自分以外の人間にも同じようにできるとは限らない」と認識して生活をするということ。

 

小さい子と接していると自分が知っていることは当然周りの大人も知っていると勘違いしていたりすることはままあります。成長に伴い自分と他人との違いを認識できるようになっていってそういった勘違いが少なくなっていく。発達障害の子のなかにはその成長がなかなか年齢相応に伴わなかったりして周りの子と認識に差が出て生活や学級の中でトラブルに繋がったりしてしまいます。なないおさんのブログで詳しく描かれているような状況です。

 

自他境界トラブルとして見る夫婦喧嘩

発達障害の診断が降りる降りないに関わらず、自他境界の緩さが影響したトラブルというのは社内やママ友関係の中でも割とよく発生してるように思います。

そしてその最たるものが夫婦喧嘩なのかな、と。

 

なぜ家庭内で起こるのか、それは、日頃無意識ながらも保ち続けている自他の境界線が緩むタイミングが安住の空間である家庭内だから。

 

恐らく多くの社会人として生活している人たちは公の場で出会う相手に対して自他の境界線を意識しなければ対人関係のトラブルが起こる、ということを経験則的に学んでいます。だから、外では意識できる。

 

でもその緊張の糸が切れる家庭内に、もっとも身近な他人である配偶者が存在している。そう、他人なんですね。目の前の夫や妻は他人です。自分以外の人間です。自分ではないんです、言葉にしたら当たり前のそのことが、緊張の糸が切れていて、頑張るスイッチをオフにしていて、疲れを顔にも言葉にも出していい家庭という自分のプライベートな空間になると途端に認識するのが難しくなる。

 

その結果が、自他の境界線を逸脱した苛立ちと、それに起因する夫婦喧嘩なのではないかと思うのです。

 

だから「チンパンジー」

プライベートな空間で自他の境界を意識することが難くないという方も少なからずいらっしゃると思います。私の友人の中にも「夫婦喧嘩なんてしたことない」「夫に苛立ちを感じたこともない」という私からしたら神様みたいな人も複数います。

私とその人の違いがなにかを掘り下げていくのはトラウマにも抵触する危険な行為なので避けるとして、何かが違うから仕方ないんだろうな、という諦めは必要です。

 

苛立ってしまうものは仕方が無い、自他の境界線を意識することが苦手なのはもうしょうがない。それが私の限界なのです。それが、夫の言動に、妻の言動に苛立ってしまう人の限界なのかもしれません。

 

でも子供のためにも、自分の精神的安定のためにも、夫婦喧嘩は減らすに越したことありません。能力的に限界な自分がトラブルを減らすという目的のために何が必要か、それが、相手を異なる種だと見なす種類のライフハックなのかもしれません。

 

おわりに

「イラッとしないように夫をチンパンジーとみなす」

「カチンと来て怒鳴らずに済ませたいから息子をカブトムシやネコとみなす」

 

それだけを見てライフハックとするのも一つのライフハック。でも何かモヤッとしたものを感じたり、琴線に触れるようなことがあったら掘り下げてみた私の経過も一つの参考にして頂けたらなぁと思います。

 

苛立ちが異種と見なせば落ち着くなら、それは相手が悪いからじゃなくて自分の中で相手をきちんと境界線を引いて距離を置けてないからかもしれない。

私と相手は違う人。

「空の容器をそのまま冷蔵庫に戻したら私が困る」こともまた、相手の脳みそに無ければ伝えなければわからない。それくらい察するのが簡単にできる人もいれば、できない人も、家庭のなかではスイッチ切ってるけど言われて意識すればできるって人も、いろいろなんです、多分。

振り向いて泣いてしまう親と、前だけを見ている子どもたち。

卒園シーズンの今日この頃です。

 

卒園式で歌われる歌のなかで私が好きなのが「ドキドキドン!一年生」

 


ドキドキドン!一年生

 

一年生になるドキドキ、不安だけど楽しいこどもたちの心のなかを歌ったこの歌が私は大好きです。卒園式の、誇らしく楽しそうな子どもたちの笑顔、これからやってくるランドセルを背負った未来の自分を思っているのかな、その楽しくてキラキラした笑顔が、この歌を歌うともっと明るくなる。

 

保護者や役員として例年参加している卒園式でこの歌を聴くのを楽しみにしていたのだけれど、ここ数年はあまり聴かなくなりました。

 

代わりに、お友達との思い出や園でのことを歌った歌を卒園の歌として歌っている子どもたち。大人が思い起こし涙するような、園でがんばってきた僕たち私たち、お友達を忘れないよ、お別れだよ、という園生活をふりかえるようなその内容に、なんだかちょっとだけモヤモヤとしたものを感じてしまいます。

 

感動ポルノ…

そんな言葉も一瞬脳裏をよぎるような、大人が作り演出する子どもたちのお別れの場、という印象の卒園式にじわりじわりと違和感を覚えるのです。

 

うちの子どもや周りの子たちを見ていて思って来たことだけれど、卒園式でのお別れということを彼らはあまり強く意識はしていなかったように思います。お別れ、寂しい、悲しい、これまでの色々、という過去や今のことよりも、彼らはランドセルを背負って登校する未来の自分たちのワクワクを感じてる。園が最後という寂しさよりも、ここを巣立って小学生になるんだという未来を楽しみにしている、そこに大人が、お別れの寂しさや巣立つという感動を無理矢理ねじ込んで享受している、というと大げさなのだけれど。

 

これまでの園生活での大変さや離れる寂しさや環境が変わる不安を感じるのは先を見通せる大人だからなんだろうな。だからお世話になった先生とのお別れを心細く思い、これから始まる小学校生活への不安を感じ、凛々しく卒園の証書を受け取る姿に成長を感じ、慌ただしさのなかで過ぎていった手を焼いた日々を思い返し、親は涙するのかもしれない。

 

まだ幼い彼らは卒園式のあとも元気に手を振って「またね〜〜」と笑う。寂しさやお別れの意味を先を見通して感じられるようになるにはあと数年、という子もたくさんいるのが6歳くらいの子どもたちの集団。いつもと同じように楽しそうにお別れ会の時間を一緒に過ごし、本当の本当に最後のお別れだと言われてもやっぱり「ばいば〜〜〜い」って笑って手を触り合ったりする年長児の子どもたち。

 

そんな彼らを見ていると、このお別れを惜しむ雰囲気に彼らを無理に巻き込まなくてもいいんじゃないだろうかと思ったりもするのです。お別れを惜しみ盛大なイベントにしたいのは大人だけなんじゃないのかなぁって。

 

長男が来年度卒業を迎えようとしていて、卒業式やその後の謝恩会というのが自分のなかで近いものとなっているのだけれど、袴で参加するのが流行っているとか謝恩会を盛大にやるために保護者の準備が…とか聴いているとあぁここでも子どもたちの行事を通して感動したい大人たちのあれこれに子どもが巻き込まれてしまう事態が起こるんだろうかとちょっと不安になる。

もちろん園児とは違って、12歳の子どもたちにはお別れの意味も分かっているだろうし大人に近い程度の見通しを立てることもできているだろうと思う。泣く子も多いんだろうな。

 

でもやっぱり、大人の目線からではなくて、大人が満足するためではなくて、彼らの目線、彼らの気持ちに寄り添った式典であってほしいし、そんな会を催していきたい、と思う。

 

来年度は長男が卒業、三男が卒園。はやいなぁ。

一地方民として思う、声を上げずに自分たちでなんとかする風習とその弊害

「行政がやってくれて当然、は都会の人の我が儘だ!」

増田の「保育園落ちた、日本死ね」の余波がまだ続いているTL、今朝は「行政がやってくれて当然、というのは都会の我が儘だ」という趣旨のツイートが流れてきました。

 

それを見ての一連の感想がこちら

 

長々とツイートしたのですが、結局、カチンとくる方にはそれはそれなりの理由がきっとあるんだろうなぁと思うし、疲弊した困っている両者が泥を投げ合っている現状がどうやったら打開されていくんだろう、と思ったりもしています。

 

行政の手が届かない地方の抱える問題

私が住んでいるあたりも大概な片田舎だけれどまだ開けている方。

車を少し走せたところには行政の手が届きづらい限界集落といわれる地域がいくつかあります。そんなところでは自治組織が作られていたり、農道の補修を自力でやっていたり、行政の手が届かないところを自分たちでなんとかする、というのが日常的に行われています。

私の住む地域でも街路灯は自治会が設置して住民が出し合ったお金から電気料金を支払っています。これは小さな一例ですが、こんなふうに、都心部だと行政が整備して当たり前に感じられることを地域住民でなんとかしてしまっているというケースは田舎にいけばいくほどゴロゴロと転がっていると思います。

 

行政に求めていることもないわけではないのだろうと思いますが、予算がそもそもないとか、求めても得られないことが多いとか、声を上げて目立つことの弊害が大きい(それを理由に村八分にされるとかあとあと叩かれるとか子の代になって「お前の親が」って面倒に巻き込まれることもあり得る)とか、色んなそこそこの事情があるんじゃないかと思う。とかく田舎に居ると「声を上げるくらいなら黙って自分たちでなんとかする」という風潮が残っているところがあるのかなと。

 

声を上げても、という感覚の麻痺

先日、図書室の司書の先生と話しているときに「図書購入の予算が少なくて」というお話が出ました。児童数から算出して割り振られているので、児童数が減少傾向にあるうちの小学校の図書購入費はかなり少なくなっているようです。

それを聴いて、まず私の脳裏に浮かんだのは「寄付」と「PTAとかからなんとかして捻出できないか」という発想でした。PTAというのが浮かんだのはちょうどその直前に、PTAから読み聞かせボランティアへの活動費が支払われている学校がある、と小耳に挟んだから。うちの学校でもその辺の組織改編を提案してそれが通れば、年に少しでも活動費として読み聞かせボランティアにお金が降りて来る。それで読み聞かせで使って好評だった本を購入したりできるんじゃないか、と思ったのです。

 

そのときには名案だ、と思いました。

 

でも今はちょっと、迷っています。

一つの手段としてはアリだと思う。でも、本来なら改善を求めるのはまず「少ない図書購入費」の方じゃないかと思ったのです。

 

児童数が少ないからと言っても、それを理由に本が買えないという現状はおかしい、そこを行政に働きかけるのがまず筋なんじゃないか、なぜそこが思いつかなかったんだろう、と。

 

そこが、田舎で暮らす自分の感覚の麻痺なのではないか、と。

 

黙ってなんとかし続けてきてしまった弊害

田舎に住む自分たちは声を上げて全体を変えていくリスが大きい。だからそのリスクより、黙って自分たちでなんとかして問題点をちょっとずつ緩和しながら根本的な解決を待たずに過ごして来たんじゃないか。

周囲に声をかけてまわれば地の縁や血縁でなんとかなっていくという田舎特有のメリットを知らず知らず活用しながら、本来カバーすべき行政に頼ることを視野に入れずにきてしまったのかもしれない。その癖が、今回の図書購入費の解決方法を考える時にも出て来てしまったのかもしれない。

 

親たちの世代が黙ってなんとかし続けて来た、その考え方の癖が自分にも受け継がれているような気がしてちょっと背筋が凍ったりもしました。

 

黙ってなんとかし続けて来てしまったがゆえに、いまもそれが脈々と残ってしまってる。自分たちが勝手になんとかしてしまう、行政もそれをよしとしてしまう、または気づかない、これでいいんだろうか。

 

おわりに

行政だって、求められること全てに応えられるわけではないと思います。予算もあるだろうし、法外な要求に応える義務も無いと思う。でも、住民として認められている権利が行使できない状況になっていたり、受ける権利のある支援が受けられない状況になっていたりすることは声を上げて訴えていってもよいと思う、それは、我が儘なんて言葉でくくっていいことじゃない大事なこと。言わないと分からない、言わずに黙ってなんとかしてきてしまったらどんどん言えなくなっちゃう。

 

30代の私よりはるか上の世代ではおかみに訴え出ることは相当のリスクだっただろう、それは容易に想像がつきます。でもその癖みたいなものが脈々と今も残り続けているのはやっぱり、なんとかしていかないかんことのような気がしています。

当事者も困ってるけど、叩きたい人も「困っている」

今日は、この増田記事を読んで思う事を。

 

当事者は「困っている」

昨日のエントリ、

で書きました。程度の差はあれ、周囲にどんな風に写るのであれ、当事者は「困っている」のだということ。そしてそれを肯定しないと先には進めないということ。

 

 

「なんでもいいから叩きたいんじゃないの?」

このことについて考えているときに頂いたリプライの中で「批判の声って『ただなんでもいいから叩きたいだけじゃないの?』という声をいただきました。うん、私もそう感じることもあるなぁと思います。保育園とか女性の就労とかの問題だから、ということでもなくとりあえず叩ける案件だと思って突っ込みどころを探して見つけて叩いてるだけなんじゃないか。

 

それへの分かりやすい対処法は、スルー一択なのかもしれません。

朝の連ドラ「あさが来た」で炭坑事業だの銀行だの女子大学の創設だのをガンガン計画してはそれを妬んだり脚を引っ張ったりする勢力が出てくる。その邪魔者を「暇なんやろなぁ」と一蹴していくスルースキルを毎朝見ながら清々しいなぁと思う反面、全面的にバックアップしてくれる夫がいて家があって成り立つものでもあるんよなぁとも思ったりする。

 

余力があればスルーできるそれが、後ろ盾もなく精神的に未熟な段階や余裕の無い状態だったらそうはいかない、そうやって、声を上げる人とそれを妬んで叩く人とのやりとりは現実にもずっと昔から繰り返されて来たし、今でもネット上に場を移して何度も何度もいろんな案件を種に繰り返されて来ているんだろうなと。

 

なぜ「叩きたい」のか。

ただ叩きたいだけなんじゃない、というのは真理かもしれません。とりあっても仕方が無い、取るに足らない意見、だからスルーで。私もそう思います。

 

でも、です。

問題の解決に向けてのとるに足らないかもしれないその反発、攻撃、足を引っ張る行為がそう簡単にスルーできないこともあるかもしれません。活動に支障を来すほどの攻撃をされて困るかもしれないし、スルーする余力が自分に無く影響を受けてしまうかもしれない。

スルーできないなら、自分のためにも相手のそれを掘り下げる必要があるかもしれません。

 

誰かの言動が目について気になって仕方ない、発言の内容が気に障って仕方ない、見ていてイライラするけど目が離せない、一挙一動が気になる、ひとつひとつに反発したくなる。

 

ただ叩きたくなってしまうときに背景にあるこんな心理に至るのも、きっと理由があると思うのです。それをかいま見せてくれたのが、最初に紹介した増田記事ではないかと。

 

叩きたい人の抱えているもの

あの増田を書かれた方は、恐らくは自分の現状を正確に理解し、自己分析できているのだろうと思います。だからこそあぁやって、妬ましい自分の感情を文章にできた。

でも、そこまでの自己分析が自力でできる方も、実はそう多くないのかもしれません。

私も自分の考えをコツコツと叩き割りながら分析し考えていく癖がありますしそれがこのブログのネタでもあるわけですが、ブコメなどで「そこまでの自己分析はできない」「ここまで細かく考えて把握できない」という声を複数頂いたことがあります。私自身も自分が精神的に疲弊しきっているときに周囲の「自分より恵まれているように見える人」をただただ妬んで毒をお腹の中に溜め込んでいた時期があったので余力が無ければそこに行きつけない怖さも知っています。

 

「自分より恵まれているくせに」「ズルい」

自分の抱えている現状からしんどさが来ていること、そこからその感情がわいて来ていることに気づかずに、目の前の対象が自分を苛立たせているのだと錯覚してしまい怒りの矛先がそちらに向いてしまっているのではないか…

 

これについては以前、子どもたちの話として書いたことがありました。

 

色々な場で子どもたちと接していると、やはり「ズルい!」と言う子たちにはその考えに至るまでのそれなりのしんどさのベースがあるように思います。そこに寄り添ってあげるとすんなり周囲の子たちへの配慮を受け入れてくれることも多い。

 

「ズルい」を受け止めるのは誰か。

子どもたちに対しては、その「ズルい」を受け止めるのは周りの大人の仕事です。

でも大人に関していえばその「ズルい」と思う感情を受け止め寄り添ってあげるのはそれを言われる側の人間が背負うことではないですよね。自分の中で整理をしないといけないことで、周りを無秩序に頼って良いことではない。それは赤ちゃんが親に無条件に甘えようとするのと同じかもしれません。

 

叩かれる側としてはやっぱりスルーしかないんだろうな、と思いますが、その背景に思いを馳せるか馳せないかで自分の中での受け止め方や流し方も違ってくるんじゃないかとは思います。

 

自分の為に、自分で片付けるスキル

そして自分がそこに陥っているのかもと感じたら、その溜まっていく黒い感情をどう整理していくか。排泄物を丁寧にトイレに流して清潔に暮らすように、おなかのなかの黒い感情も周りにまき散らしてしまわないよう自分なりの丁寧な片付け方を知る必要があるのかもしれません。私の場合はそれが夫に話すことであったり、信頼できる友人に愚痴ることであったり、Twitterを使って自己分析していくことであったり、この場を使って整理していくことであったりするのかなと思います。

 

黒い感情を整理せずまき散らしてしまうことは自分にとってのリスクも大きいです。それを見て離れてしまう人もいるだろうし、本当に主張したいことがあっても整理できないままに吐き出していたら「ただ叩きたいだけだろう」とスルーされてしまうかもしれない。それは勿体ない。

 

自力でその整理が難しければ、どんな専門家に繋がる必要があるかを検討するのも良いのではないかと思う。それも簡単なことではないと思うけど、脱出するためには必要なことなんじゃないかと思います。

 

おわりに

余談ですが、声を上げている人が正義、とは私は思いません。

主張には穴もあるかもしれないし、改善の余地は多分にあるかもしれない。「困っている」からと言って無条件にどんな主張も受け入れられてしかるべき、異論は許さない、というのもまた歪んでいると思う。

 

声を上げている人の視点は「困っている人」の視点。問題を解決していくためにはその一点からではなく、そこに関わるたくさんの当事者、国政側、自治体の担当、保育園、保育士、保護者、保育に欠けることになる乳幼児、保育園の周辺の住民、乳幼児を抱えた保護者を雇用する側、同僚…

「困っている」と声を上げている保護者だけではないたくさんの当事者がこの問題には関わっている、そのたくさんの声や事情を汲取り合わせていかないと本当の意味での解決には向かっていかないのかもしれない、とも思っています。

 

批判の声のなかには、自分の心理的な背景から「ただ叩きたい」だけの人もいる。でもその声に混じって、冷静に主張の問題点を指摘する声もあると思う。そこをごちゃごちゃにして批判に批判を返した打ち合いをしても何も解決しないし、疲弊していくだけじゃないかと思うのです。

 

批判や叩きに見えるその意見にカチンと来たとき、主張する側もその飛んで来たボールを全力で打ち返すのではなくて、冷静に見据えて、避けてスルーした方がよいものなのか、キャッチしてから考えをまとめて投げ返す必要があるものなのかは判断する方が建設的なやりとりができるのではないか、と思ったりしています。

 

 

 

 

 

 

 

「困っている」のです、当事者は。

「日本死ね」ブログの余波はまだ私のTLでも続いていて、色んな方の声がたくさん流れててきています。数日前からは声を上げた方が揃って使っている抱っこ紐「エルゴ」に焦点を当てたツイートに対する意見が増えてきました。

 

私が最初の息子のときに抱っこ紐を用意しようかと思っていたときにはまだエルゴはあまりメジャーではなかった記憶があります。三男を産んだ5年前には雑誌にもよく載っていたような。買うかどうか迷ったけど、上3人の抱っこに使ったものがまだ現役で使えたのでそのまま継続しました。ネットや雑誌で評判をたびたび見聞きして途中からだけど買っちゃおうかなってかなり悩んだほど、抱っこをせがむタイプの子を持つ親にとっては抱っこ紐の性能は命綱みたいなものだしなぁとやりとりを眺めながら、買い物に出たときに抱っこ紐を自宅に置き忘れたのに気づいて「このままじゃお店の中回れない!」って慌てて取りに帰ったことを思い出したりしていました。

 

いちゃもんをつけたい人、現実から目を反らしたい人というのは確実に存在していて、なにかにつけて文句を言いたいものかもしれません。

今回の保育園問題についてもいろんな外野からの意見が噴出しているのを見ては、その人たちが抱えているものがつい気になってしまうのは私の性(さが)なのかもしれないなぁ。

 

その人たちが何を抱え何がトリガーとなって反論やたたき行為に手を染めているのかは分かりません。何かしらの理念があって仰っていることもあるでしょうし、無知のままただ反発したいという方もいらっしゃるでしょう。

 

でも「エルゴ使ってるなんてほんとに困ってるわけじゃないんだろう」という意見に思うのです。「困ってるか」を決めるのは、あなたではないのよ、ということ。

 

声を上げている当事者は「困っている」のです。

周囲から、外野から、どう見えているのかは論点ではないのです。現状で、自分の問題として「困っている」それは事実。それが事実である、あの人たちは「困っている」し、声を上げている氷山の一角である彼ら彼女ら、その水面下には数倍数十倍数百倍の、「困っているけど声を上げられない」人が存在しているのだと私は思います。

 

 

チャビ母さんのこのツイートを見て、私が思ったこと。それはどんな障害であっても、どんな困難であっても、その人が「困っている」という現実が大事なのではないか、ということ。

 

 

ハンディのある子たちの支援を考えるときに周囲が陥りがちなこととして、その子が「どんな障害を持っているか」に注目してしまうことがあります。それは当然意識はする必要はあることなのだけど、実は一番大事なことじゃない。

 

子どもたちへの支援を考えるときに一番大事なこと、それは「どんな障害か」ではなく「どう困っているか」。彼らがどんな風に困っているか、どんな困難を感じているか、本人が、保護者が、支援者が、本人の持つハンディに起因したどんな困難を感じているのか、そこに支援の糸口がある、そこを見据えていない支援は無駄なのかもしれないとすら思います。

 

本人にとって必要な「どう困っているのか」という視点から支援を行うこと、それを実行に移すためには「困っている」のだという現実から目を反らさないことが必要不可欠になります。

 

あなたの特性だとこの程度じゃ困ってないでしょう、というのは外野の勝手な意見です。どんな特性であっても、どんな検査結果がでていても、その人がその人の置かれた環境の中で困難を感じていたらそれはやっぱり「困っている」のです。困っているから、何かしらの改善や支援や対策が必要なんだろうなと思うわけです。それが個人のレベルでできることなのか、公の団体の力が必要なのかは個々により違うでしょう。

 

「日本死ね」の問題も同じだと思うのです。

当事者は「困っている」からこそ声を上げている。理由や程度の差はあれ、現状として困っているんです。


どんな風に困っているのか、改善のためには各々にどんな対策が必要とされるのか、そこには誰がどんな支援を行う必要があるのか、予算はどの程度必要なのか…それら全ては「困っている」現実を肯定しなくては始まりません。

 

エルゴが買えても、都心に住んで夫婦でキャリアを積みたいというのが誰かにとって贅沢に見えることであっても、どんな要素がそこにあったとしても、その人たちは「困っている」のです。少なくともその人たちが「困っている」ことは現実で、そこを受け止めないと話はそこから先には進まない。

 

前回のエントリで書いた問題行動を起こした子どもたちの更生も、やった行ないの善し悪しの前に「その行動を起こすほどの困難を抱えていた」という現実をまず受け入れなければその先はありません。

 

ハンディを持つ人への支援は「困っている」という当事者の現実に寄り添う視点に立たなければそこから先の状況の改善はありません。

 

保育園の問題も、当事者が「困っている」という現実がまずあるのだということ。それは周りが何をどんな風に感じても、周りの目にどんな風に写っても、変わらない現実です。その現実を肯定した先に初めて「じゃあどうしていこうか」という話がスタートするんじゃないかと思うのです。

おなかをすかせたヒヨドリと、いじめ加害者になった子どもたちのこと。

夫の実家の庭のハナミズキの木に、毎年義母がこの時期になるとミカンを半分に切って刺している。その木にやってくる小鳥たちを、義実家のリビングからガラス越しに眺めるのをうちの子どもたちや甥っ子たちが楽しみにしている。

 

ミカンを楽しみに毎年やってくるメジロ。緑の小鳥を子どもたちが喜んで、ガラスから少し離れたところで息を殺してじっと見つめる。それを義母がうれしそうに眺める、そんな春の風物詩、柔らかな春の陽射しのなかでのうっとりとした一こま…の静寂を破るのがバンバンとガラス戸を叩く音と「あっちいけ〜!」という甥の声。彼が一生懸命追い払っているのは、メジロより一回りもふた回りも大きな体の黒っぽい鳥。

 

義母が刺しているミカンを目指してやってくるヒヨドリ。小さな可愛いメジロたちを声で威嚇し、バサバサと飛んで来て追い払ってしまう大きな姿は小さな甥っ子たちにとっては悪者そのものなのかもしれない。子どもたちが叩くガラスの音にビックリして去っていくヒヨドリ、しばらくするとまた、静寂のなかでこっそりメジロがやってきてミカンにくちばしを伸ばそうと…したところにまたやってくるヒヨドリ、逃げるメジロに甥が叩くガラスの音。それが、夫の実家で毎年繰り広げられる春の光景。

 

小さなメジロにとって、そしてそのメジロを愛でたい人間たちにとって、メジロのために用意されたえさ場を荒らしメジロを追い立てるヒヨドリは悪役。あの、ギロっとした大きな目や浅黒い羽根の色、あまり品のよろしくない鳴き声、来訪を好ましく思わなくても仕方が無いのだろうなと思う。

 

 

今朝、小学生たちを送り出した帰りにまだ鳥たちがやってきていなかった寂しそうなハナミズキと義母の用意したミカンを眺めながら、少し前にTwitterのTLで賑わっていた子ども食堂の話題を思い出した。そのときにお友達Cookさん(野鳥愛好仲間でもある)と話した「子ども食堂は止まり木なのかもしれない」という話。

 

色んな子がやって来てはお腹を充たしていく場になるであろう子ども食堂。その存在を「貧困で飢えている子」に限定してしまうと本当にそうである子はなかなかそこに足を運べないだろう、それよりは誰でもやってこれる止まり木のような場所として開いて、飢えてない子、家庭で食事を食べられる子も含めていろんな立場のいろんな人たちが出入りできる場にしていたら、その中に本当に飢えている子も紛れ込むことができるかもしれない、子ども食堂ってそういう、誰に対しても開けた場であることが求められるのかもしれない、という、そんな話の中で私が出した例えが、庭のハナミズキの止まり木でした。

 

メジロという、本当に来て欲しい鳥のためにミカンを用意してはいるけれど、メジロだけどうぞ、という入り口を用意していてもメジロはそれを通って入って来てはくれない。誰に対しても開けている止まり木だからこそ、スズメも、シジュウカラもやってくる。そのなかに時々、メジロがふらっとやってきてくれる。開けているからこそ、沢山の鳥に混じってお目当てのメジロがやってきてくれるんだなぁと。

 

そしてその開けている止まり木には、望まない客ヒヨドリもやってくる。邪魔者として追い払いたくなるかもしれないしそうされてしまうかもしれない。でも、開けている以上ヒヨドリはやってきてしまうんだよね、それはそれで仕方ない。

 

邪魔者かもしれないヒヨドリは、どこに行っても嫌われるかもしれない。疎まれて行き場を無くして止まり木にミカンを求めて来ているのかもしれない。

 

でも。

ヒヨドリだってただお腹をすかせてご飯を食べに来ているだけなのだよね。

嫌われたくてそこに来ているわけじゃない。

メジロをいじめたくてわざわざやってきているわけじゃない。

ヒヨドリヒヨドリで、お腹がすいて、食べ物が欲しくて、それを探し求めてる。

 

 

 

 

数日前の息子の担任からの連絡で発覚した、とある事件。

これまで子どもたちが感情のコントロールができずに手を出してしまったりして謝って回ることばかりだった私たち夫婦が、初めて、被害者の保護者として話し合いの場に望むことになってしまった。

被害を受けてしまった子の心のケアという親としての課題を抱えながら、そんな行為に至ってしまった子どもたちの心の中のことが気になる。彼らは、甥っ子たちにとってのヒヨドリのように「悪い」印象を周りに与えてしまうのかもしれない。

 

でも私は思うのです、加害者として扱われてしまうその子たちもまた、お腹をすかせていたんだろうなということ。餌の探し方が、食べ方が、たまたまよくなかったから今回は加害児童として扱われてしまうその子たち。彼らが本当はお腹をすかせているということに、誰か気づいてくれるだろうか。

 

息子には、私と夫がいる。親以外にも理解してくれる周囲の大人が複数いて、彼をサポートしてくれる体制は恐らくはそう難しくなく整えられる。息子はその大人たちに守られ、これから傷ついた心を癒していく作業に入る。私はそれに専念する。息子は、たぶん大丈夫。じゃあ、その子たちは。

 

話し合いの場に臨む前に、それが気になって仕方が無い。彼らの空腹に気づいてくれる大人が周囲にいますようにと遠くに聴こえるヒヨドリの声を聴きながら空に願う、そんな、まだ少し肌寒い春の朝。

マインクラフトで学んでた意外なこと

ここしばらくこのブログのネタとしてもよく登場しているマインクラフト。

はまりまくっている息子たちの気持ちをすこしでも体験すべく実際にやってもみましたが、やっぱりなかなかうまく家は建てられず先日はうっかり間違えて家を溶岩だらけにして取り返しがつかなくなってしまいしどろもどろしてしまいました…

 

実際にやってみたときの感想はこちら。

 

息子らは相変わらずYoutubeのHIKAKINあたりのゲーム動画をあれこれ漁りながらなんやかんや毎日いろんなものを作ったり探険しにいったりしています。

 

最近はPE版に馬がいないことに気づいてしまい「馬!馬が欲しい!」とブーブー言っています。※馬はPC版やWiiU版、PS4版にはあるようなので実現するめにはどれかを手に入れねば…む〜。

 

さて今日は、そんな息子たちのタブレットから流れて来た音声にあれってなったお話。

 

「どこになにが入ってるか、わかりづらいですよね」

次男が見てたYoutubeのゲーム実況、そのなかで、自宅(マインクラフトでは自分で家を建てられます)に置いておくいろいろなアイテムについて話す声が聴こえてきました。

探険に出かけて採ったり拾ったりして来たものや収穫したもの、自分で作成した道具、自分で持ちきれない道具は自宅にコンテナを置いて収納できる仕組みになっています。

 

動画の中では、自宅の構造から道具を収納しやすいコンテナの置き方、中身の整理の仕方、どれも同じ見かけのコンテナに「何が入ってるか」がすぐ分かるように額縁を使って中身がわかるようにしよう!という演習まで。

 

これは…!

 

収納スキルじゃないですか

しまうものを決め、自宅のなかの動線を考え効率のよい収納の場所やボリュームを決め、収納の中になにをどうしまうかを考え、ラベリングする。

これはもう、お手本通りの収納のスキルアップ講座ではないですか。

 

動画を見て早速自分の家のなかをあれこれと改装する次男。その様子はまるで、お片づけの楽しさに目覚めて家の中をあれやこれやいじっては「構造化だ!」とか「うまくいった!」と悦に入っている私のよう…

(その様子はこちらで詳しく…)

意外なところで意外なことを

子どもたちと一緒に暮らしてて、なんとなくだけどつい、自分が教えてないこと、誰かに教わりにいかせている(園とか習い事とか塾とか)こと以外、子どもたちが身につけることを想定していなかったんじゃないか、と感じることがたまにあります。

 

とくに人なつこい次男はよくあちこちで色んな人に可愛がってもらっているので、私があまり好きでないから家では食べないラッキョウを見て「これ、皮を剥くお手伝いを前にしたの」とか、○○ちゃんちでウサギのお世話を習って来たよ、とか、意外なところで意外なことを学んで帰って来てビックリ、ということも。

 

親の手のなか、枠のなかを離れて、用意したお習い事だけにおさまらずに、彼らは勝手に世界を開拓して勝手に色んなことを色んな人に教わっているんだなぁ。

 

マインクラフト含め、ゲームってただ時間を浪費しているようにしか見えないこともあります、実際そういう傾向は否めないんだけど、でもこんなところで収納スキル講座を受けてました、みたいな、へえ意外なところでねえ…っていう発見、結構面白い。

 

マインクラフトの中では収納だけじゃなくて、鉱物の名前に詳しくなったって声も聴いたことが。

マイクラにはまってるお子さんをお持ちのお父さんお母さん、お宅のお子さんがゲームのなかから「何」を引っぱりだそうとしてるのか、よくよく観察してみたら意外な面白い発見があるかもですよ〜。

 

 

 馬!馬!と叫んでる息子たちの願いを叶えるには…

どっちかかなぁと思うんだけど、どっちも高い…う〜ん。

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