「日本死ね」ブログの余波はまだ私のTLでも続いていて、色んな方の声がたくさん流れててきています。数日前からは声を上げた方が揃って使っている抱っこ紐「エルゴ」に焦点を当てたツイートに対する意見が増えてきました。
私が最初の息子のときに抱っこ紐を用意しようかと思っていたときにはまだエルゴはあまりメジャーではなかった記憶があります。三男を産んだ5年前には雑誌にもよく載っていたような。買うかどうか迷ったけど、上3人の抱っこに使ったものがまだ現役で使えたのでそのまま継続しました。ネットや雑誌で評判をたびたび見聞きして途中からだけど買っちゃおうかなってかなり悩んだほど、抱っこをせがむタイプの子を持つ親にとっては抱っこ紐の性能は命綱みたいなものだしなぁとやりとりを眺めながら、買い物に出たときに抱っこ紐を自宅に置き忘れたのに気づいて「このままじゃお店の中回れない!」って慌てて取りに帰ったことを思い出したりしていました。
いちゃもんをつけたい人、現実から目を反らしたい人というのは確実に存在していて、なにかにつけて文句を言いたいものかもしれません。
今回の保育園問題についてもいろんな外野からの意見が噴出しているのを見ては、その人たちが抱えているものがつい気になってしまうのは私の性(さが)なのかもしれないなぁ。
その人たちが何を抱え何がトリガーとなって反論やたたき行為に手を染めているのかは分かりません。何かしらの理念があって仰っていることもあるでしょうし、無知のままただ反発したいという方もいらっしゃるでしょう。
でも「エルゴ使ってるなんてほんとに困ってるわけじゃないんだろう」という意見に思うのです。「困ってるか」を決めるのは、あなたではないのよ、ということ。
声を上げている当事者は「困っている」のです。
周囲から、外野から、どう見えているのかは論点ではないのです。現状で、自分の問題として「困っている」それは事実。それが事実である、あの人たちは「困っている」し、声を上げている氷山の一角である彼ら彼女ら、その水面下には数倍数十倍数百倍の、「困っているけど声を上げられない」人が存在しているのだと私は思います。
障害のある人とない人の間にあるのも「格差」なんだよね。たまに障害を「個性」って言う人がいるけど、障害ってね、「格差」がなくなって初めて「個性」になるんだと思うんだよね。障害があって大変な思いをしてるのを「個性」って言葉で片づけられても、障害のある人は納得できないんだよね…。
— チャビ母 (@chubby_haha) 2016年3月9日
チャビ母さんのこのツイートを見て、私が思ったこと。それはどんな障害であっても、どんな困難であっても、その人が「困っている」という現実が大事なのではないか、ということ。
どんな障害でも、程度にどんな差があっても私は「個性」だとは思うのね。でもそれはあくまでも「人それぞれに違いがある」という意味であって、そこに困難があるかないか、困難があればそれをどうすればいいか、とは次元が全然違う話だと思ってる。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月14日
ハンディのある子たちの支援を考えるときに周囲が陥りがちなこととして、その子が「どんな障害を持っているか」に注目してしまうことがあります。それは当然意識はする必要はあることなのだけど、実は一番大事なことじゃない。
子どもたちへの支援を考えるときに一番大事なこと、それは「どんな障害か」ではなく「どう困っているか」。彼らがどんな風に困っているか、どんな困難を感じているか、本人が、保護者が、支援者が、本人の持つハンディに起因したどんな困難を感じているのか、そこに支援の糸口がある、そこを見据えていない支援は無駄なのかもしれないとすら思います。
まったく同じ程度の障害を抱えている人がいたとしても、それぞれが置かれた環境により困難の有無や程度は違っているだろうし、支援を必要としているかどうかも、どんな支援が必要とされるかもまったく違っていないとおかしいのかなと思う。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月14日
本人にとって必要な「どう困っているのか」という視点から支援を行うこと、それを実行に移すためには「困っている」のだという現実から目を反らさないことが必要不可欠になります。
あなたの特性だとこの程度じゃ困ってないでしょう、というのは外野の勝手な意見です。どんな特性であっても、どんな検査結果がでていても、その人がその人の置かれた環境の中で困難を感じていたらそれはやっぱり「困っている」のです。困っているから、何かしらの改善や支援や対策が必要なんだろうなと思うわけです。それが個人のレベルでできることなのか、公の団体の力が必要なのかは個々により違うでしょう。
「日本死ね」の問題も同じだと思うのです。
当事者は「困っている」からこそ声を上げている。理由や程度の差はあれ、現状として困っているんです。
どんな風に困っているのか、改善のためには各々にどんな対策が必要とされるのか、そこには誰がどんな支援を行う必要があるのか、予算はどの程度必要なのか…それら全ては「困っている」現実を肯定しなくては始まりません。
エルゴが買えても、都心に住んで夫婦でキャリアを積みたいというのが誰かにとって贅沢に見えることであっても、どんな要素がそこにあったとしても、その人たちは「困っている」のです。少なくともその人たちが「困っている」ことは現実で、そこを受け止めないと話はそこから先には進まない。
前回のエントリで書いた問題行動を起こした子どもたちの更生も、やった行ないの善し悪しの前に「その行動を起こすほどの困難を抱えていた」という現実をまず受け入れなければその先はありません。
ハンディを持つ人への支援は「困っている」という当事者の現実に寄り添う視点に立たなければそこから先の状況の改善はありません。
保育園の問題も、当事者が「困っている」という現実がまずあるのだということ。それは周りが何をどんな風に感じても、周りの目にどんな風に写っても、変わらない現実です。その現実を肯定した先に初めて「じゃあどうしていこうか」という話がスタートするんじゃないかと思うのです。