スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「迷子紐(幼児用ハーネス)より手をつなごうよ」に対する違和感

「迷子紐、許せる?許せない?」

末っ子5歳を連れて行った病院、調剤薬局についたのはお昼を少し過ぎた頃で、待ち合いのテレビでワイドショーっぽい番組が流れていました。

 

色々なトピックについて「許せる・許せない」を討論するコーナーらしく、著名な教育評論家の方やママタレントなど数人が2つに分かれてそれぞれの見解を言い合い最終的になにかしらの方法でどっちが優勢かを決めるようになっているようでした。

 

いくつめかの話題が「迷子紐、許せる?許せない?」

幼児用ハーネスについては私もこれまでにこのブログ上やTwitterで言及して来たことだったので興味深く耳を傾けました。

 

 迷子紐ってなに?って方へ。こんな感じのリュックにつけるタイプのものが主流かなと思います。私も長男が産まれた10年ちょっと前に購入したこのタイプのものを使っていました。

 

結論から言うと、番組の作りはひどいものでした。

流れる映像やイラストはどれも「犬の散歩」状態で子供を歩かせハーネスがピーンと張らせて親がそれを握っているもの。場所も公園内など比較的安全な場所のおだやかなイメージを喚起させるものばかり。無くても何とかなるんじゃない?という感想を引き出したいのかな?と思えるような。

 

その映像のあとに、毒舌が売りの俳優が「言葉の通じる相手にすることじゃない」と一蹴し、ママタレントさんが「手をつながないと」と育児論を展開し、オネエタレントさんが「親が目を離さなければいいんじゃないか」と添える。

 

歩行中の子供の死亡事故の件数に触れたり、「許せる」側に回った教育評論家さんなど数人が色々と擁護の声を上げておられました。雑踏の中でもあり聞き漏らしてしまった部分もありますが、全体的にハーネスに対して否定的な印象を与える作りになってしまっていて、見ていてとても悲しくなってしまいました。一緒に居た末っ子が「ぼくはあのおさんぽひもはつけたことないよね?」と言うので「うん、君には必要になったことがないから使ってないけど、お兄ちゃんたちが小さい頃はあったほうが安全だったから使ったこともあったよ」と話しました。5歳児が映像だけみて「おさんぽひも」という言葉を発するほど、その映像やイラストは「優雅な犬の散歩」を強くイメージさせるものだったと思います。

 

もしあの番組で、交通量の多い道路で危機一髪命が助かる場面やスーパーや繁華街で一瞬の隙に走り出してしまう子供たちの様子が分かるシーンが流れていたらそれを見ていた人たちの印象は大きく違っていただろうに。そう思うとテレビによる印象操作の力は大きいなと感じます。

 

ハーネスの是非については過去に色々と書いてきたの言い尽くした感があるのですが、今日はこの番組の中で触れられていた「手をつなごうよ」という提言に感じた違和感について。

 

「紐でつなぐより手をつなごうよ」

2児の母である、著名なママタレントさんが仰っていたことです。幼児用ハーネスの話題が出ると必ずついてくるフレーズでもあります。

「手をつなげばいいじゃない」

うん、そうだよね、それで済むならそれでいいよね、という話かもしれませんが、私はこれに対して違和感があるんですね。手をつなごうで済まないから使ってる、それはなかなかに理解されないというモヤモヤもあるのだけれど、本当にそれが正解なの?って言う疑問もどこかにある。そのモヤモヤとした違和感を紐解いてみたいと思います。

 

1、多動の可能性

これについてはなないおさんが過去に丁寧に紹介してくださっていますのでこれ以上の言及は不要かもしれません。

nanaio.hatenablog.com

うちの子はハーネスが無いと命の危険があるほどの多動がある子はいませんでしたし基本的に車移動の生活なのでそこまでの緊急性はありませんでしたが、それでもスーパーのレジや選挙時の投票に私1人で行かねばならないときなど、どうしても手を離さざるを得ない場面があるときには念のためと思って使っていましたし、あって助かったと思うケースも実際にありました。

 

2、手をつながるのを嫌がる子

子供の中には、身体への接触を極端に嫌う特性を持つ子もいます。そのなかには、手をつなぐことを嫌がるタイプの子も当然ですがいます。小さい頃から手をつなごうとすると泣いて嫌がったりするお子さんもいます。生まれつきの特性として本人が拒んでいることを強いるわけです。躾のレベルでどうにかなることではありません。視力の弱い子に「裸眼で見えるようになれ」と強いているのと同じです。

言葉上で簡単に「手をつなげばいい」と言っても、実際にこのタイプのお子さんと手をつないで移動するのは保護者にとって相当な困難だと予想できます。

 

3、肘内障の可能性

特性に関わらず「手をつなぐ」ことによる危険性として想定されるのが肘内障(ちゅうないしょう)です。

幼稚園程度の年齢の子どもによく起こりますが、手を強く引っ張られたときに、腕がだらっとして、まるで「ひじが抜けた」状態になることをいいます。これは脱臼ではなく、ひじの関節の細い輪状の靭帯がずれた状態です。
骨と骨とを輪のようにつないでいる靭帯が未発達なために起こるもので、靭帯が十分に発達する7才以降にはほとんど見られません。
この状態になると、子どもは痛がって泣き、腕をダラリと下げ、ひじを曲げることができません。あるいは、手のひらを後ろに向けた状態でじっとしています。(参考:肘内障 - gooベビー

うちの子も過去に数回、手をつないでいるときに転んで腕をひっぱる形になってしまったりしてこの状態になり、整形外科に駆け込んだことがあります。お医者さんに数秒施術してもらえばすぐに治りますが、繰り返すと癖になりズレやすくなるとも言われています。(ちなみにこのときに「治し方教えてあげるよ」と医師から言われましたが怖くて無理…とお断りしました…)ほんの一瞬腕を引っぱる形になってしまうだけで起こる可能性があります。そして怖いことにすぐに気づかない場合もある。うちの子が初めて肘内障になったとき、登園前に腕を引っぱる形になってしまっていたのだけどその場では気づかず、登園後しばらくして先生から「息子くんの様子がおかしい」と連絡を受け受診しました。ずっと泣き続けたり痛がったりするわけではないこともあるので要注意です。

 

大人しく手をつないで歩けるタイプの子でも、転んでしまったりしたときに親が手をひっぱり形になれば肘内障になる可能性は大いにあります。(うちでも多動傾向のない子がなったことがあります)多動傾向のある子ならそのリスクはさらに大きくなる。「手をつなげばいい」と言う説を唱えるときに、このリスクが同時に語られないことには違和感をいつも覚えます。

 

4、「手をつなぐ」ことは「正しい」の?

最後に私が抱えるモヤモヤの一番そこにあるこの気持ちを言葉にします。

ハーネス否定派からの声でよく「親が子と手をつなぐ」ことが最適解のように語られるのだけれど、大人が子の手を引くことってそんなに正しいことなんだろうか、と疑問に思うこともあるのです。

 

子供が大人を信頼して手を差し出し、大人がそれに寄り添い同じペースで歩むという微笑ましい絵面が浮かびやすいかもしれません。そんな親子の姿を想定し、そこに行きつくことを良しとして「手をつなぐ子に躾ける」ことを奨励しているのかなと感じたりもします。

 

でも4人の子を育ててみて思うのは、そうやってすんなり手をつないでくれる子も、そうじゃない子もいること、そしてそんなふうに穏やかに共に歩ける状況ばかりで生きているわけでもないことも事実なのです。

 

あたふたした子供との毎日の中で、幼児に歩調を合わせてゆっくり歩けないこともある。そんなときに私は大人が子供の手をひっぱる形になるのがとても嫌いです。肘内障の可能性があるのはもちろんですが、子を引きずっているように見えるのがなんだか嫌なのです。その姿への嫌悪感が自分にあるので、私は無意識になるべくそうならないよう努めていたのだろうと思います。あるときママ友さんから「スズちゃんちの息子くんは小さい子を連れて歩くときに手を引っぱらないで背中をそっと押してあげてるね、子守りに慣れてるんだね」と言われて気づきました。

 

犬の散歩状態でハーネスを使っている親子を見たときに感じる嫌悪感も、私のなかのこん潜在的な嫌悪感と似たようなものなのかもしれません。それを無自覚なまま自分を正当化して周囲を批判する種にしないように、私も気をつけねばなりません。

 

おわりに

過去に書いたハーネス三部作でも同じ結論に至りましたが、結局は「使い方」なんじゃないかと思うのです。

ハーネスを使うときに張ったリードに周囲の人がひっかかったりして迷惑をかけて反感を買ってしまうことがあるように、手をつなぐ行為でも子を引きずる形になれば肘内障の可能性も高まるしリード以上に子を拘束する道具のように使ってしまう可能性もある。

 

「手をつなぐ」行為は親子のあるべき姿として最適なのか、私はそうは思いません。特性や個々の性格、生活環境、安全性、色々な要素のあるなかで「子供の命を守ること」と「自分の命を守れる子に育てること」を同時に考えながら育てていく。その過程でどれがその親子にとっての最適解なのかはわからないと思うのです。

 

手をつなぐこともハーネスも、また違う形での安全の守り方も、その使い方や状況によっては子供にとっての害になることも、周囲に不快感を覚えさせることになる可能性もある。周囲の抱く感情については、自分がどこまで配慮すれば良いかという問題はついてきます。もちろん度を超して批判をしてくる方についてはある程度のスルーは必要かと思いますが、社会の中で生きていく以上「どんな使い方をしてもいいだろう」とは言えないと私は思います。

 

過去に記事を書いたときに、人ごみのなかでピンと張ったハーネスに引っかかって危険だったという声もありました。あくまでも道具の一つとして、適切な使い方をするというのはユーザーの側が気をつけねばならないことだと思います。しかしながらベビーカー論争でも同じようなやりとりがあったと思いますが、一部の非常識なユーザーのために本当に必要として使用している人たちまで批判に晒されることもおかしなことだと思います。

 

親子の数だけ、選ぶ道具と使い方の答えがあるのだろうと思う。躾の中で手をつなげる子はそれが適していたというだけ。そして手をつなぐことを習慣づけて覚えたとしてもそれだけが自分の身を守る手段ではありません。うちでも5歳になった末っ子は「手をつなぐ」以外の安全な道路の歩き方を少しずつ習得しつつあります。小学生の上の子たちとは安全の目的で手をつなぐことはまずありません。「手をつなぐ」ことが最終的に目指すべき目標地点ではけしてない、と思うのです。

 

その場その場で、子供の数だけ正解がある、と思うのです。解を導きだし、配慮の上でそれを使っているとしたら、そこに外部からの批判が入ることそのものが境界線の逸脱ではないか、答えはたくさんあっていいはずなのに、と思うのです。

 

参考までに。
2年前に書いた、ハーネス3部作です。ハーネスの使い方いろいろ図や反論などにも触れてます。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

 

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2016.05.24 一部加筆・修正しました。

見えない困難を抱えた子どもたちへの、4つの試み

なないおさんの記事を読んで思い出したことを今日は。


私は小学生のころ、授業がつまらないと思う子供でした。理由は覚えていないけど親が1学年上の学研だかの雑誌を買ってくれていたのでそれを読んで1年分習うことを先に知っていました。新しいことに出会っても教科書を授業の始めの数分で読めば問題は簡単に解けました。そこから先45分間が終えるまで、知っている話を延々と聴くのは本当につまらなくて退屈だったし、答えが分かっていることをわざわざ考えさせようとする先生の見え透いた言動に苛立ちを感じることすらありました。

 

そんな私の不満は授業中に態度や言葉としてあらわれていたのだろうと思います。授業態度が悪い、集中力がない、とよく注意を受けていました。窓の外を眺めて話を聴いてないなんてしょっちゅうだし、教科書やノートは落書きだらけでした。高校になってからはずっと寝ていたので「●組の眠り姫」と職員室で呼ばれていたそうです。通知表にもテストの成績は良いのに…という指摘をされることも多かった記憶があります。

 

態度を注意されて私が感じていたのは不快感だけでした。だってつまらないんだもん、と思ってふてくされてました。

 

でも今になって思うのです。あのときに周りの大人の中にひとりでも、私が感じていた「つまらなさに感じる不快」に寄り添ってくれる人がいたらどうだったんだろう、と。

 

私は、自分の習熟度に合わせた高度な教育が受けたかった訳ではありません。もちろんその環境が与えられていればまた違った人生があったのかもしれませんが、あの頃私に必要だったのは自分でも言葉にしきれないそのモヤモヤした不快感、不満、しんどさを形にしてくれる大人の存在だったような気がするのです。

 

「わかってるからっていい気になるな」と怒鳴られたこともあったし「出来るんだからみんなにつき合ってやってくれよ」とため息をつかれたこともありました。私は私で、つまらない授業を受け続けることに「一生懸命頑張って」いました。不適切な言動といっても授業を妨害するような立ち歩きや奇声なんてやったことない。イスに座って授業を受けているふりを子どもなりに一生懸命していました。でもそのがんばりを認めてくれた大人は1人もいませんでした。

 

 

このエントリのなかで、私は「ズルい」と感じる子は見えない所で頑張ってるんじゃないか、と書きました。あの当時私が教室でずっと座って周りの迷惑にならないよう授業を受けるというのは、頑張ってやっと出来ることでした。私はつまらない授業を受け続けることに困っていました。その自分のキャパを超える頑張りからくるストレスが引き起こしていたのが、教師から叱責されるような問題行動だったんだろうと思います。

 

幸い当時の学校環境ゆえその問題行動でうちの親が呼び出されたり、親からそれを叱られたりすることはなかった記憶があります。でも過去を思い返して思うのです、今うちの子が同じことやったら間違いなく私が学校に呼び出され、注意され、子どもたちの問題行動再発を防ぐための対策をすることになるだろうなと。

 

そんなときに私に「しんどいよね」と寄り添ってくれる大人がいたら。退屈さを理解してくれる大人がいたら。それ故の問題行動を「短く丁寧に」指摘してくれる大人がいたら。そしてそんな私のために「つまらないときはこうしてね」と代替案を出してくれたり、がんばりを褒めてくれる大人がいたら。

 

  • 気持ちに寄り添うこと
  • 問題行動は短い言葉で的確に指摘し、制止すること
  • 問題行動の代替案をわかりやすく提示すること
  • 頑張りを褒めること

 

当時の私がやって欲しかったこの4つは、私が最近インクルーシブ教育や特別支援について知りたいという方と話すときにまず理解を求めることです。

 

「ズルい」と声を上げる子どもたち、問題行動を起こす子どもたちに、そうならないような環境を適切に整えてあげたい。でもそれは色々な制約がかかります。経済的な地盤、指導者支援者保護者の精神的安定と技術、それらの要素が周囲に整わないと不可能なことも多い。全てを叶えるのはまだまだ先のことでまだ今は雲の上の理想でしかないかもしれないインクルーシブ教育の徹底ですが、まずこの4つを試して行くことだけでも初めていけたら、と考えています。

お母さん、母親、保護者、私。

少し寒い室内から気温の高い屋外に出たときの、ふわっと熱気を感じるあの瞬間が好きだ。冷えた身体の末端まで一気に血が通うような、自分の身体中の血管がそこにあることを主張しているような、私の輪郭がはっきりするような感じ。私がそこにいることを、私の身体が生を持続させているというのを感じる瞬間。

 

 

「私は誰だろう」

 

今朝いろいろと考えながら、そこで立ち止まった自分が居た。

 

小学生の保護者として、園児の保護者として、4人それぞれのお母さんとして、その役割から担ったタスクでスケジュール帳は4月からずっとぎゅうぎゅうで、そこにイレギュラーに発生するトラブル対応や外からの頼まれごとが入り、子供たちそれぞれの困りごとを防ぐための配慮を考え、準備し、それを周りに頼むために奔走し、ほかのお母さんたちと些細なことから重要なことまでスマホ片手に情報をやりとりする時間が入ってくる。

 

引き受けているタスクと飛んでくる連絡への対応と、今後起こりうる色々なことをスムーズに進めるための対策を考えることとそれを実行すること、本業の仕事の隙間にそれと家のこと子どものこと、それをこなしていくだけで1日が終わっていく。

洗濯物を畳みながら、お風呂に入りながら、食器を洗いながら、子供たちの言葉を聞くのはそんな「ながら」な時間。一緒に笑うこともあるけれど、そこから新たな対策をとらねばならなくなる情報が入ってくることも、悔しさを一緒に飲み込むしかないこともある。

 

ふりまされながら、こんなに忙しい毎日の中で「親」としての色々に翻弄されている。

 

発達障害児の親の苦難について触れたどなたかのツイートを目にした今朝。

 

私がここしばらく毎日流されながらあちこちへと対応し続けていること、それは「親」としては当たり前のことなんだろうか、とふと立ち止まる。

 

どこまでをやるのが親なんだろう、どこまでを親が求められているんだろう、どれが「親の責任」で、私はどこまでやれば「ここまででいい」って自分で思えるんだろう、どこまでいけば「もういいよ」誰かに言ってもらえるんだろう。

 

私は背負ってるいろんなことを、親としてやるべきことだろうと思いながらやってるんだろうと思う。でも私が抱えているそれを一生抱えることのないままその人なりの親としての人生を全う出来る人もたぶんいるんだろうと思う。そして晩ご飯に何品も並べたり栄養価を考えて一日の献立を用意したりするような、毎日丁寧に家中を掃除するような、洗濯物を毎日畳んで整然とした室内を保つような、そんな私が忙しさの中でまともにできていない「親としての仕事」をこなしている方もきっとたくさんいるんだろうと思う。

 

私はいろんなことを親として背負っているのだろうと思っているし、できていないことは「親としてダメだ」と思ってしまうのだけれど、でもそれは本当に親の仕事なんだろうか。全員がやってるわけじゃないのに?やってなくてもそれなりになんとかなることもあるのに?私が現段階でできてないのに?

 

私が今やってるのは「親としてのタスク」なんだろうか、いやそれもしかしたら私がやりたくてやってることや、私がやらざるをえずにやっていることなんじゃないだろうか。

 

 

たくさんの「親」に共通したタスクがどこからどこまでなのか、私にはわからない。その漠然とした、誰かが決めているわけでもどこかに明記されているわけでもないふわっとしたことが、親に求められているように錯覚されているのかもしれない、「親の責任だ」ということばでまとめられているように感じて、それに私は引きずられているのかもしれない。

 

私が実際にやっているのは親共通のタスクではなくて、それぞれの子どもの保護者として、それぞれの子どものお母ちゃんとして、夫の妻として、この小学校の一保護者として、この園の一保護者として、それぞれの立場でたまたま担っていることに過ぎないのかもしれない。

 

 

昨日担任と話し合ったのは「親だから」ではなくて「次男の」保護者だから。

長男の靴を昼休みを割いて買いに行くのは「親だから」ではなくて「長男に頼まれた」から。

娘の発表会の衣装のお直しをしてるのは「親だから」ではなくて「合わない服で困る娘は見たくない」から。

園の行事でお世話をするのは「親だから」ではなくて「三男がそうすると喜ぶのを見たい」から。

 

ひとつひとつのタスクを、私は親の責任だから親だから親だからと自分に課していたような気がする。でもその一つ一つは、1人の人間としての私が引き受けたり、やりたいと思っていたことなのかもしれない。

 

やりたかったのは、やらずにはおれなかったのは、私だ。

 

 

私は誰だろう。

その答えはやっぱりわからない。

慌ただしい毎日の中で、私は時折自分がどんな食べ物が好きだったのかすら忘れるほどに、自分が今何歳なのかを忘れてしまうほどに、背負ったタスクをどうこなしていくかを考えて走ってる。

 

「私」が何なのか、社会の中でその一部として動き続けている自分にとってはあまり大事なことでもないのかもしれない。社会からしたら「私」そのものが何かなんて多分そう大切じゃない。私が何をするのか、何をしているのか、大事なのは多分そっち。それは他人に限らず我が子とってもそうなんだろうと思う。「私」が「親」としてどうなのか、はきっとたいした問題じゃない。何をしているか、何をしたかを私は見られている。

 

 

いろんな立場にあたふたしながら自分の輪郭がぼやけていく感じがする。それを立ち戻って「私とはなにか」を考える時間すら、今の私にはもったいなくも感じる。

 

でも冷えた手足にふっと血が通う瞬間や、トイレでひとり息をついたときや、懐かしい香りに気づいたときや、夜中薄暗い部屋のなかで1人でふと目が覚めたときに、あぁ私がここにいると思うことがある。

 

冷凍庫の奥にしまったアイスを口に運びながら、苺のアイスが好きだった自分を取り戻す。

夫とあれこれ話しながら、お母さんじゃない自分を思い出す。

運転中や仕事中にラジオから流れるちょっと懐かしい音楽を聴きながら、あぁこれ好きだったんだって思い返す。

 

そうやってときどき「私」を思い出しながら、今日もぼんやりした輪郭の私はあたふたと日々を過ごす。

 

仕事をし、役員として学校に足を運び、誰かに子供たちの何かを頼むため頭を下げ、お世話になったことを感謝し、うれしいことや悲しいことを私に伝えてくれる子どもたちの声を聴いては一喜一憂し、晩ご飯はなににしようか悩み、洗濯物をたたみ、週末はどうすごそうか計画を立てる。

 

当たり前の毎日を家族が過ごすために、当たり前の学校生活を子どもたちが送れるように、何者かわからない私が今日もあたふたと何かをしようとしてる。明日もたぶん、同じように過ごすんだろうと思う。どこかで終わりがくるのかはわからない、想像もつかない。でも終わりの日がくるまで、私は私なりにあたふたしながら生きていくんだろうと思う。

暴発する善意と、その善意への敬意

昨日のエントリ

 にいただいた色々なご意見や同時期にあがっていたいくつかの千羽鶴に関するブログやツイートから思うことを今日は。

 

ズイショさんのご提案

千羽鶴に関するネット上のやり取りについてズイショさんがこんなエントリを書かれていました。

いや「役に立たねぇよ」「馬鹿かよ」「迷惑だよ」って言うのは簡単ですけど、そんな単純な話でもないんじゃねえのとは思うんですよ。(中略)どこかでなにか悲しいことがあった時に「あ、千羽鶴折ろう」って小林製薬くらいの勢いで「あ、千羽鶴折ろう」って脊髄で思っちゃう人が一定数いるのは仕方ないよ。だからありがたく受け取れって話ではもちろんなくって、文化を変えていくにはそれなりの敬意がいるんじゃねえのって話。敬意っていうのは被災地のために何かしたいっていう人の善意への敬意ね。それは役に立とうが立つまいが善意のはずですよ。だから千羽鶴ありがたく受け取れって話じゃないですよ。

(中略)

「何かしたい」って思い、それ自体は素晴らしいことだと思う。そういう人たちが明らかに間違った形で善意を発揮してしまった時に僕らがするべきことってのは「お前のその気持ちは善意じゃない」って叩くことじゃなくて~、「もっとこういう善意の発揮の仕方したらいいじゃん」って言ってあげることなんじゃないの~? ちょっとなんか俺今すげえ恥ずかしいこと言ってるかもって思っちゃって照れで一瞬喋り方がグータンヌーボのYOUになりましたけども。もちろん現場の人たちはそこまで面倒見てられないよ。現場からしたら「迷惑だ」「勘弁してくれ」としか言えないよ。じゃあ外野が言うほかないじゃない。カリカリしないってのも「できることをやろう」の一つだと思う。難しいけど。

YOUのくだりも大事なのではしょらず引用させていただきましたが、このズイショさんの言葉で思い出したことがありました。

 

「何かしたかった」母のこと

東日本大震災が起こったとき、うちの母親は見事にその脊椎反射的に何かしたくてあたふたする種類の人間でした。

時間さえあればテレビをつけてニュースやワイドショーの被災映像を見続け、被災地に想いを馳せていました。かわいそうだと何度も口にし、当時の母の様子は、今回の熊本大分の震災のときにネット上で困ったさんとして描かれていたのとよく似ていたなぁと思います。揺れた地域に住む親戚に何度も何度も電話をかけて安否を確認し、着るものがないだろうと自分のものを含む古着をどんどんと段ボールに詰め始め、そのたびに「電話回線が混んで必要な電話がかけられなくなるからやめて」「いきなり古着を送っても向こうが困るだけだから」と横から声をかけて行動を抑制し続ける日々でした。

 

あの頃は母だけではなく同じように何かしたくておさまりがつかない感じで浮き足立っている人が周囲に複数いたような気がします。

 

母を止め続ける日々

母がやろうとすることはことごとくネット上で「現地が困ってる」と言われていることばかり。ひとつストップをかけてもまたすぐに違う支援活動らしいことを見つけてきます。詐欺なんじゃないかというものもあったりで最初はやんわり止めていた私もだんだんカチンと来て大きな声でいい加減にしてくれと言ってしまうこともありました。

 

私が声を荒げれば母もそれに応えるように怒ります。

「私が現地の人の為になにかしたいと思っているのになんでいちいち止めるの!」

 

このやりとりはまさにズイショさんのエントリのなかで触れられていた「部外者同士の敬意」がお互いにバッサリ欠けてた状態だったんだろうなと思うのです。迷惑とネット上で書かれている行為に挑もうとする母に対する敬意が、私には足りませんでした。

 

母を止めたもの

当時はそんなこと考えもしなかったので、とにかく何かしようとする母をどうにかしなきゃ何をしでかすかわからない、と思ってあれこれ思案の日々でした。そんなときにネット上で見つけたのが、東北のNPO団体の方が子供たちのためのレッスンバッグを作って欲しいという声を上げていた記事でした。自分のものを流されてしまった子供たちのためにキルト地のレッスンバッグを作って送って欲しいというもの。内容を読んでこれならと思ったので母にその記事をプリントして概要を説明しました。

 

母は喜んで、それから毎晩夜なべをして段ボール一箱分のレッスンバッグを作り、うれしそうに箱に詰めて現地へ送る手配をしていました。

 

何度も何度も、ときに声を荒げて止めて来た母の行為でしたが、彼女はその一件で満足したのかそこから何かやりたそうなそわそわは少しおさまっていったように見えました。彼女を止めたのは抑制ではなく、「これならどうかな」という提案だった。それはズイショさんのエントリのタイトルそのもの。迷惑になりかねない行為を止めてもらう為に必要なのは実情を細かく話して聴かせることでもなく、強い言葉で止めるのでもなく、内情なんか置いといて行動を替えてもらうために相手を立てて代替案を示すことだったんだなぁと。

 

どこかで見覚えが。

この、細かいことに目を向けずに相手の行動を切り替えてもらうための行為、相手を怒らせずに違う方を向いてもらうための働きかけ、ってよくよく考えたら私が日常的に夫や子供たちにやろうと意識していることであり、これまでにもこのブログで何度も書いて来たことだったなぁと。

 

多分、ネット上でやりとりしている実在の皆さんも他人相手に日常的にやってると思うんですよ。友人から「これ似合う?」って聞かれて全然似合ってないときに「似合ってない」とは言わずに「こっちの方が似合うんじゃない?」って提案したり。

 

相手が友人や自分の目上の人のような敬意を日頃から意識して一定の距離感を保っている相手には自然にやりやすいこの配慮が、実生活の中でも夫や子供たちのような距離が近過ぎる相手には意識しないと難しかったりする。

 

ネット上でも同じように、リアルでは外面を持って振る舞えていることが距離感を掴めずに叩き合いに見える行為になってしまっているのかもしれないなぁと。ネット上で強い口調の方も目の前の知り合いが千羽鶴折ろうとしてたらきっと「要らねえよ!」って言わないんだろうなと。

 

おわりに

母が自分の感情に任せてやってしまった行為の中には、実際に被災地に迷惑をかけてしまったものも多分あるんだろうと思います。でもその気持ちをうまく誘導することで迷惑をかけずにメリットを産む行為に繋げることはできた。あのとき成功体験を積んだ母は今回の震災では今のところ慌てておかしな行動はとっていないようではあります。

 

ズイショさんが書かれていたように、彼らが抱えている感情は確かに善意なんですね。ただそれが暴発してしまって矛先を見誤っているだけかもしれない。その善意を叩き潰してしまうことは支援の可能性を摘んでしまうことにもなるのだよなぁと思ったりしています。

 

昨日のエントリで私が書いたような、あえて能動的な活動を行わないこと、「何もしない」で公の支援を見守り影で支えることも、ズイショさんが「くまモンの絵を」と仰るのと根っこは同じ。昨日のエントリはその人たちに向けて書いたわけではないのだけど、何もしてないと焦ることはないと今も思っています。もしかしたら母も、先の経験を経てその、見守り日常を送ることの価値に気づいているのかもしれません。

「何もしない」というひとつの支援の形

千羽鶴はいらない」

ここ数日、TLには千羽鶴の話がたびたび上がってきます。発端は多分前回の震災の教訓を元にして作られたタグ、#被災地いらなかった物リスト ぽいです。

このタグに怒ってる方のツイートがまとめられてたびたび言及されてるみたいなのですが、このタグって元々が東日本大震災のあとに被災地で必要だったもの、ありがたかったものを集めるための別のタグがあったような記憶があります。それに付随する形でこの、要らなかったもの、集まって困ったものを集めるためのタグが流行ったような。

 

まとめの中では熊本の方が発信したかのように受け取って怒っている方が多く見られましたがたぶん今回現地からそれを発信した方がたくさんいたわけではないですよね…。

 

思い出した、図書館のこと

今回の千羽鶴に関して色んなやり取りを見ていて思いだしたのが、このエントリでした。

 

この2つのエントリは昨年の夏休みの頃、鎌倉市図書館の方がツイートした

もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。

という不登校の子供たちへの言葉に対するネット上の反応について書いたものです。

 

2つめの、見逃せないと思った方へのエントリに書いたことが、今回の千羽鶴について感じたこととリンクしています。

 

「お願いです、何もしないでください。」

自殺率の高い9月1日に図書館に居る子に大人として「何かしたい」と感じて行動を起こそうとする方に、私は記事のなかで具体的な解決法をいくつか提示しました。不登校の子をフォローする団体への寄付や団体に属してのボランティア活動、不登校について学ぶこと、どれも、目の前に居る子に素人が直接手を出すよりもはるかに有効な、不登校の子たちへの支援活動です。

でもそれでは事足りない、そんなことじゃなく自分が具体的に何かしたい、と感じる方へのメッセージとして、半年前に私はこう書きました。

そんな遠回りな事じゃなくてと感じる方がいらっしゃったら、お願いです、何もしないでください。私があげた4つの例は、遠回りかもしれませんがどれもあなたが最初に望んだ「不登校と思われる子を救う」ためのより確実性の高い方法です。そこに価値を感じられないなら、もしかしたらあなたは「救いたい」のではなくて「見逃せず落ち着かない自分の気持ちをどうにかしたい」だけなのかもしれません。

その気持ちと向き合う必要があるのは、目の前にいる子どもたちではなく、あなた自身です。それは、不登校の問題でも子どもの問題でもなく、あなたの抱える問題です。どうか子どもたちにそれを覆い被せて自己満足の犠牲としないでいただければ幸いです。

素人が迂闊に不登校の子に接触する危険性は上記エントリのなかで述べました。その可能性、リスクを見通すことなく、とりあえず自分が何かしたいのだという感情で行動を起こすことの危険性を持つ方はお願いだから何もしないでほしい、と。

 

「何かしたい」という感情が引き起こすもの

今回の震災で目の前のテレビに映る困窮しているように見える人たちに「何かしてあげたい」と思う、そのこと自体を否定したいわけではありません。実際私も、我が家はほとんど被害にあわなかったので今回の震災に対しても募金や絵本の提供などいくつかの支援活動に参加しました。そのときに強く意識したのは、これが現地の人にとってどんな風に必要なのか、邪魔にはならないのか、迷惑をかけることには繋がらないのか、ということ。復旧のための公的な活動の妨げになる可能性のある活動には声をかけられても応じずやんわりお断りしました。

 

「何かしたい」気持ちだけで行動を起こして自家用車で現地に乗り込んで渋滞に繋がったりするケースは今回の震災でもあちこちで見られているようです。

 

ここで前段と共通しているのが、自分の行動により起こりうるリスクを想定することなく「何かしたい」感情で行動を起こしている点です。

 

千羽鶴に関するたくさんの言及の中には「お金のない子供たちの気持ちを形にしたものだ」という声もありました。たしかに子供たちは物を買って送ることもお金を集めることも難しいかもしれません。でも、ここで大人たちにできることは何もできない子供たちに「何か生み出せるものを送れ」ではなくて、「今の自分たちに何ができるかを考える」よう働きかけることじゃないか、ということ。

 

迷惑になるかもしれないけどとにかく何かしよう、何でもいいからしよう、ではなくて、今の自分たちにできることはなんだろう、対象となる方々には何が必要だろう、思いついた行動を起こしたときにどういう影響があるだろう、それを考えるための良い機会なのではないか、と思っています。

 

「何もしない」という形の支援

考えるたくさんの「自分にできる支援」のなかの一つに「今は何もしない」「直接的なことはしない」という選択肢もあると思うのです。

お金がなければ送らなければ良い、送るに適した物を持たないなら送らなくても良い、現地に出向いてボランティアをする余力がなければしなくても良い、と思います。

そうやって「邪魔をしない」ことも一つの大事な支援の形だと思うのです。

邪魔をせず静観していれば、自衛隊や消防による復旧や公的な機関による支援活動が迅速に行われていくでしょう。

 

邪魔をせず自分たちの日常を送ること、生活をし仕事をして税金を納めることでそのお金がまた公的な支援活動を支えることになる、それも大事な支援の形だと思うのです。

直接的なことは何もしなくても、日常を回していくことは巡り巡って現地の人たちのためにもきっとなっていく、直接的な活動だけが支援ではないんじゃないかな、と。

 

おわりに

今回の震災では、私も被災者と隣り合わせのところにいます。実害は今のところ無いので日常生活が戻って来ていますが、今後もどんな風に揺れが続いて行くかわからず、周囲では中止になるイベントや変更になった活動も出てきています。考え方も大きく変わるきっかけになりました。

 

行こうと思えば行ける距離で起こった災害、手の届くところに被災地がある現状で、自分には何ができるのか、自分の身の丈はどの程度なのか、を改めて考えるきっかけにもなっているような気がします。

 

小さな子たちを抱え、経済的にも裕福ではない私に今回できることはほとんどありませんでした。そんな自分を受け入れるのは少し辛かった。でもそれが私の現実です。

あぁこれは自尊心との兼ね合いの問題なのかもしれない、と思ったりしています。可哀相な人たちに手を差し伸べれば「何かしてあげた」充足感が得られます。自分が役に立った、と思って少し満たされます。行動を起こせば自尊心が少しだけ底上げされるのかもしれません。

 

でもそれは、自慰行為のようだとも思います。自分を満たすための行為、そこに相手は存在していません。自分や家族がその、自慰行為の対象にされたらとても悲しいと思う、だから私は今回の震災で「直接的なことは何もしない」という選択をしたのだろうと思います。

 

そして今後は、子供たちと、今の自分たちにできることはなにか、を一緒に考えていく時間になっていくのかな、と考えています。

地震雑感 「大丈夫だよ」って言う難しさ

今回の熊本・大分を襲った震災で被災されたみなさまに御見舞い申し上げます。

 

私も揺れる地域に住んでいるので、直後からTwitter上でたくさんの方にご心配いただき、余震が恐くて眠れない夜の不安を和らげてくれました。本当にありがとうございます。

3日ほどは夜も怖くて車中や公民館や頑丈な作りの夫の実家を渡り歩きましたが、幸い我が家やその周辺では被害らしいものはなく週を明けてからは子供たちも登校登園し、日常が再開されています。

 

いつも通りの毎日、時間軸も色々な用事もほぼ通常通り行われています。仕事も多少影響を受けながらもまぁ流れて行っていて、テレビやラジオやネットからの情報で入ってくる熊本や由布の大きな被害に想いを馳せながら、被災者とそうでない人たちの狭間にいるような自分のあり方を時折考えたりしています。

 

今朝はゆっくりの出社だったので久しぶりにNHKあさイチを見ながら溜まった洗濯物を片付けていました。その中で触れられていた、子供への対応のこと。

 

「大丈夫だよ」って言ってあげて安心させてあげて

 

テレビの中でそう語られていました。

 

「大丈夫だよ」

それは、ここ数日私が言いたいけれどなかなか言えない言葉でもありました。

 

最初の2日続いた大きな夜中の揺れ。飛び起きて私のベッドに集まった4人の子供たちを抱えながら「一緒にいるから大丈夫だよ」と何度も言いました。「大丈夫だよ」と言えたのは、その2日だけだったかもしれません。

 

揺れの間隔は開いていく中で、最初はずっと怯えていた子供たちも穏やかに過ごす時間が増えてきたように思います。大きい子たちは緊急地震速報の電子音を口笛で吹いてビックリする私を笑ったり、おちびたちが「じしんだ!」「じしんだ!ひなんだ!」と言いながらテーブルに隠れる遊びを繰り返していたり、地震という現実を受け止めながらもそれを受け流そうとしている様子が見て取れました。軽い揺れだと「今のは震度3くらいかな」と言って慌てずに周囲を確認する長男の姿も見られました。

 

それでも緊急地震速報の音が聴こえると怖がる子供たち。外に遊びに行っても大丈夫なのかな…と不安がる様子が見られたりもしました。

そんな子供たちに私は「大丈夫だよ」と言えなくなりました。本当に大丈夫なのか、私も全く分からないからです。

 

最初の2日間は、子供たちは私の手や目が届く所にずっといました。日中もずっと家や車の中で一緒に。だから「一緒にいるよ、大丈夫だよ」って言えた。でも登校が再開され、私の目や手が届かないところに行く時間が増えていく子供たちには「大丈夫だよ」って言えない。もし私の手を離れたところで怖い思いをしてしまったら、私が言った「大丈夫だよ」が嘘になってしまう。大丈夫だって言ったのに私は子供たちを守れない、だから、言えない。

 

「大丈夫だよ」という言葉の代わりに、子供たちには「大丈夫でいられる方法」を話しました。登下校の途中で大きな揺れがあったときの対処法、緊急の連絡先情報を記憶すること、メモに書いて持ち歩くこと、どんな大人を頼れば良いかということ、子供だけで行き来する範囲内の危険が想定される箇所…ゆっくり丁寧に話しながら、お父さんお母さんがいないところで地震が来ても、こうやって身を守る方法を知っていたら必ずまた会えるからね、誰かが必ず迎えに行くから待っててね、と。そして、怖いよね、と。私も怖い、君らはきっともっと怖いよね。不安だよね。早くおさまって欲しいよね、と。

 

私は今日もやっぱり、大丈夫だよとは言えずに子供たちを送り出しました。

元気に登校していく子供たち。でも上空は今もヘリが昼夜問わず飛び交っているし、スマホには時折感じない程度の揺れがあったことが表示されてる。またいつドンとくるかわからない、その不安は常につきまとっています。長い横揺れや下からドンと突き上げるような縦の揺れ、大人の私でも怖かったその記憶が、今後子供たちにどう影響を与えていくのかも不安です。

当たり前のような日常が戻って来ているようだけれど、子供たちと公園で遊んでいても、園と学校と、離れた場所に送り出している今も、運転中も、「今ここで揺れたらどうしたらいいだろう」って頭の中で絶えずシミュレーションを繰り返していて。

 

これ、阪神大震災東日本大震災を経験したり、南海トラフ地震を想定する地域の方はずっとこんなふうに考えながらくらしていたのかな。そんなことに初めて気づかされた感じです。4月14日を境にガラッと視点が変わってしまったようにも思います。

 

子供たちに不安を感じて欲しくないから、怯えたりしないように、自分が怖がるところを見せないように、夫との諍いに繋げないように、とここ数日とても良いお父さんお母さんを演じている自分もいます。Twitterでもたくさんの方が、無理しないでね、大事にしてね、って私や子供たちを心配してくれていてとても有難いです。

備蓄や心の準備、避難のシミュレーション、それを積み上げて「大丈夫だ」と思う為の備えもする、でも運によるところも大きいだろうから諦めもする。私は大人だから、そうやって整理しながら自分の心を守ろうとしているのかもしれません。

 

子供たちは毎日何度も何度も私に「もう地震こない?」と聞きます。「来ないよ」と本当は言いたい。「もう揺れないから安心していいよ」って言ってあげたいけど、そんな嘘はつけない。だから「来ないといいね」「来ないかわかんなくて怖いよね」としか返せない。小さな娘や末っ子をぎゅうっと抱きしめて「でも今地震が来たら一緒だから大丈夫だよ」と次は言ってみようかな。

 

「大丈夫だよ」って何度も言ってあげたい。もう地震なんか怖がらなくても良いと言ってあげたい。でももしそれが嘘になってしまったときがやっぱり怖いから、私は今日も大丈夫だよって言えないまま、大丈夫だと思うために何ができるかを考えることと、怖いと思う気持ちに寄り添うことしかできずにいます。それが今の私の、精一杯のできることなのだとどこかで思いたくて、こうやって書いているのかもしれません。

 

とりとめのない文章になりましたが、今日は終わり。

発達障害、自閉症、多動…「かもしれない」と不安なときにまずできること

自閉症啓発企画へのいろいろな反応

なないお(id:nanaio)さん発の企画だった「世界自閉症デーコラボ2016」に私も1つ記事を書かせて頂きました。Twitterでのツイートをまとめたものや寄せられたブログ記事のまとめなど、なないおさんのブログ(うちの子流~発達障害と生きるに掲載されています。この企画に対するいろいろな声が、ブコメ欄やTwitter上で見られました。そのなかで私が気になったのが、啓発して広めようとする動きに対するものでした。

 

今回のコラボ企画やブルーライトアップのイベントなどによる「周知のための活動」で実際に発達障害自閉症、多動、などの言葉が周知されつつあることは私も肌で感じています。そういう広める活動の「弊害」という形で「うちの子発達障害かも…」と不安に感じてしまう保護者が出てくるのでは、という声が寄せられていました。

 

なないおさんに寄せられたその声のなかには、かもしれないと不安になった保護者が身近な知識を持っていそうな方にその不安を漏らして「〜〜ちゃんは大丈夫だよ」と言われて安心して…というエピソードが添えられているものもありましたが私はそこに不安というか、疑問を感じたんですね。それでいいのかな…と。

 

「大丈夫だよ」をかき集めていた頃

「もしかしたら…」と思っているとき、私もあちこちに「そうかもしれない」という不安を漏らした時期がありました。そのときに発達障害の専門家ではないけどそれなりの対子供経験のある職種の方や健診の保健師さんなどのちょっと頼れそうな方から「違うと思いますよ」「大丈夫だと思いますよ」と言われてホッとしたことがありました。

 

なぜホッとしたんでしょう。

 

それは、私が「この子は発達障害ではない」という安心材料がほしかったからです。大丈夫だと言って欲しかった。違うと否定して欲しかった。それをかき集めて私がただ安心したかった。

今になってみれば、それを求めて、そう言ってくれそうな人にそう言ってくれそうな形で不安を漏らしていたのかもしれない、とすら思います。

「かもしれない」恐怖…偏見や差別や将来に対する不安や悲観に押しつぶされそうで怖い。その怖さを払拭するために、違うと否定するための材料がほしかったんだと思います。

 

誰のせい?

子供の問題行動で悩んだり、保育園や子供たちの輪の中で他の子と違う行動をとる親が周囲からよく言われることがあります。それは「育て方が悪いんじゃないの?」とか「愛情不足なんじゃないの?」という言葉。発達障害の子供たちを育てる親御さんの中にはそんな周囲の言葉に傷ついた経験がある方も多くいらっしゃると思います。私もその1人です。実の親兄弟や親戚、学校関係者から言われたこともありました。

 

自分の何がいけなかったんだろう、と思い悩むなかでこんな言葉を浴びせられるのは本当に辛い。もし言われて辛い思いをしている方がいらっしゃるのなら「そんなことないよ」って言いたい。悩んでる時点で多分、愛情不足でも育て方が悪かったわけでもなかったと思うんですね。

ただ「育て方のせいじゃないか」という言葉、これ真っ向から全力で否定したいところですが冷静に考えるなら切り分ける必要があるんじゃないか、と私は思っています。なぜなら、要因と対策がごっちゃになっているから。

 

発達障害の要因

発達障害は生まれつきの脳の機能障害です。ですから「親の育て方が悪い」から引き起こされるわけではありません。どんな育て方をしていても発達障害の特性を持っていることは変わりません。「親の育て方」のせいで発達障害になるわけではないのです。

 

ただ希なケースとして、後天的に受けた虐待によって脳の一部に萎縮がおこり、その結果発達障害によく似通った言動を見せることがあるようです。これは被虐待児のケースなので混ぜて考えることはできないとは思いますが後天的な要因による問題行動のひとつの事例です。

 

もうひとつおさえておかねばならないこと、発達障害はオンオフの障害ではありません。グラデーションのように人によりその特性の様相は違っています。定型発達(発達障害ではない)人と発達障害で困難を抱えた人、という2種類しかこの世にいないわけではありません。その間には、発達障害の特性を持ちながらも気づくことすらなく自分なりに工夫をしたり失敗をそれなりに乗り越えたりしながら生活をしているたくさんの人たちがいます。(恐らくは私もそのひとりです)

 

発達障害とは「どんな脳みそを持っているか」という傾向のひとつでしかないのかもしれません。その傾向が環境など様々な要因の影響を受けて本人が困ったり、周囲が対応に苦慮したりすることになったときに障害として支援を必要とするのかなと私は考えています。

 

対策としての「育て方」「接し方」

どんな育て方をしても生まれ持った脳の特徴は変わりませんが「親の接し方で子供が変わっていく」のもまた事実なんですね。私が「接し方のせいじゃないのか」という心ない声を全力で否定できない理由はそこにあります。これは発達に問題のあるなしに関わらずどんな子に対しても言えること(当たり前ですよね)なのだけれど、特に発達に困難のある子には親や周囲の大人の接し方による影響を大きく受けやすいのではないかと私は思います。

「接し方のせいでそうなった」は否定したいし、その助言に隠された刃で手のかかる子の育児や心ない周囲の対応ですり減ったメンタルの保護者たちを刺さないで欲しいとも思います。でも「接し方を変えてみることで効果があるかもしれない」という対策という側面での「育て方」「接し方」。それを子供に合った良い方向に向けていくことは状況の改善のためにも子供の心を折れないように丈夫に育てていくためにもとても大事なことなんです。

 

怖くてもいいから、まずできることを

発達障害かもしれない、という不安から色々な情報をかき集めているときにここにいきついた方もいらっしゃるかもしれない。心の中の不安や怖さをどうする?乗り越えていくのかどうなのか。でもいつでも乗り越えられるわけじゃない。逃げたい時期には逃げればいいし、背を向けてもいいと思う。立ち向かえる強さを持ってないときにはそうしないと自分を守れないし、不安が募り過ぎているだけでもしかしたら発達障害ではない可能性だってある。

 

でも、そんな道が見えず困っているときでもできることがある。

今日のエントリの本題にやっと辿り着きました。

 

できるところからやってみよう

私がいままで見たなかで、幼児の段階から一番取り組みやすいのはこれかなと思います。

発達障害の子どもを伸ばす魔法の言葉かけ (健康ライブラリー)

発達障害の子どもを伸ばす魔法の言葉かけ (健康ライブラリー)

 

最初に手に取ったときには息子がかなり大きくなってからだったので「もっと早く出会いたかった!」と思った一冊。読み込んでから似たような子を持つ知人に譲りました。

 

この本を読んでまず思ったのは「これは発達障害の子以外でも使えるぞ!」ということ。発達障害の子に対する声かけや対応の仕方をまとめた本はたくさんありますが、その多くは実は定型発達の子にもかなり有効だったりします。

 

発達障害」だからこういう対応を必要とする、というわけではないんですね。本当はどんな子にもそういう丁寧な対応が有効なんです。発達障害ではない子たちは大人がちょっと手を抜いても間違った対応をしても子供の方がそれなりに受け流したりして過ごしてくれているだけなのかもしれませんが、発達の仕方に凸凹があったりする発達障害の子供たちはそんなに上手に大人の行動に対処することが難しい。

 

以前、トピシュさんが取り上げて話題になった本がありました。

この中で紹介されている学研のヒューマンケアブックスの中には「自閉症の子どものためのABA基本プログラム」シリーズがあります。

このシリーズも「自閉症の子どものため」と銘打たれていますがトピシュさんも書かれているように自閉症の子に限らずお子さんの育て方で悩んだときに役に立つ接し方がまとめられています。

 

声かけの仕方で以前ネット上で話題になったのは楽々かあさんこと大場美鈴さんの声かけ変換表かなと思います。

このサイトの「支援ツールのシェア」の中に「声かけ変換表」があります。

 

同じように子供への声のかけ方について私が過去に何度もこのブログで取り上げた本があります。

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

 

小学校より上くらいの子供への接し方を細かくレクチャーしてるこの本。この本は発達障害に特化した本ではありません。我が家の4人の子供たちは定型から支援の必要な子まで色々ですがどの子にも応用ができる内容になっています。

 

おわりに

お子さんが発達障害かもしれない、違うかもしれない。そのグレーな時期を親としてどう過ごすのかは生い立ちや性格、置かれた環境によっても様々なんだろうなと思います。でも親がどんな気持ちだろうと、前に進めず立ち止まっていようと、子供は子供の置かれた環境のなかで毎日を過ごしているんですね。親の心が揺れてても、立ち止まってても、子供たちはその間も成長を続けてるし、親が「障害かもしれない」と悩むような現状のなかで困難に直面しながら生き続けてる。だから、発達障害だからこうしないといけない、という前の段階でとりあえず、どんな子にも有効で簡単にできる手段をまず試してみることから始めてみたらどうかな、と思うのです。

 

その先でお子さんが成長とともに落ち着いていくかもしれないし、やっぱり発達障害だったということになっていくかもしれない。どうなるかなんて専門家にもそう簡単にはわからないことだから、とりあえずおうちの中からできること、周囲の大人に少しの配慮をお願いすればやってもらえそうなことから始めてみてはどうかな、と思っています。

 

そしてその先で、発達障害としての支援を考えるところへ保護者としての気持ちが向いてきたときにはなないおさんのブログがきっと役に立つことと思います。

どこに相談したらいいか、どんな手順を踏んでいくのかが丁寧に書かれています。地域差もあることなのでなんでも当てはまるわけではないですが、見通しを立てるための役に立つんじゃないかなと思います。

 

もし発達障害じゃなかったとしても、ここに書いて来たような声のかけ方や接し方を子供に合わせて使うことはきっと役に立つ。前に進むのが辛くても、その場で立ちつくさないで足踏みするだけでもちょっとずつ変化があると思うんですよ。


おまけ。

「かもしれない」ときに悩まなくてもいいような、違うと否定しなくてもいいような、そんな社会になっていくこと、それが叶えばきっと「育て方が悪い」とか「親のせいで」とか言われて傷つく人も減っていくんだろうなと思います。

そこを目指して自分ができることはなんだろう、というのが私のテーマでもあります。

でもまだまだ社会がそこまで整ってないから迷ったり戸惑ったり立ち止まったりしてしまうこともあると思う。今回はそんな不安な気持ちに寄り添えたら、と思って書きました。

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