スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「子供のいない人にはわからない」がタブーだと思う理由

昨日の記事のブックマークコメントでも言及をいただいたので、補足的な記事を書こうと思います。


昨日のエントリの中で

「子供のいない人にはわからない」という言葉について昨日のエントリの中では

公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。

でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。 

 こう触れていました。

双方それぞれに相手には見えないだろう事情や背景がある中で共存していくためには自分の都合で相手を判断せずに思いを馳せたり歩み寄ったりする姿勢が必要だというのが昨日のエントリの主な内容でした。

 

ツイートでの補足

昨日の公開後、この言葉を掲載したことについて思うところもあったので補足的なツイートをしていました。

 

このツイートを起点とする連続ツイートをリライトしてまとめようと思います。

 

当たり前のことをわざわざ口に出すということ

子供のいない人、産んだことのない人に、それを経験した人の感じたことや苦労がわからないこと、それは当たり前なんです。

 

骨折をしたことのない人にはその痛みをリアルに感じたことがないのと同じように、やったこともないことをわかるわけはないの。

 

でもそれは「子供がいて初めてわかることもある」ことを否定するわけでもないんですね。そっちもそっちで、至極当たり前のことなんです。

 

どっちも当たり前すぎるほど当たり前のこと。

それを「あえて口に出す」「わざわざこの局面で言う」ことの意味とその効力について、子供を持っている私たちは無自覚ではいかんと思うのです。

 

「子供がいたら」わかるのか

もう一つ掘り下げます。

 

先ほどの例で骨折を挙げましたが、一口に骨折と言っても足の骨をボッキリ折った人と剥離骨折した人では症状の感じ方は違うでしょう。

利き手の指を折った人と利き手でない方だった人とは抱える困難も違う。

 

ひとえに「子供のいる人」と言っても1人と4人では経験する世界は全然違いますよね。もっと言うと人数が同じだからと言って同じ経験が共有できるわけでもない。

 

私がうちの4人の子供たちを産んで育てて感じた苦労やしんどさや、逆に楽しさや嬉しかったことは「私以外の誰にもわからない」が正解なんです。

 

わからないし、わかれない

自分が経験していることを自分以外の人が共有しているわけではないように、自分以外の人の経験していることも私にはわかり得ません。

 

私たちは結局、誰のことも「わかることはできない」んです。

 

その、わかることができない者同士が同じ社会の中で生きているんです。無人島にでもいかない限り、誰かと適度な距離を保ちながら共存していくしかないと思うのです。

 

共存していくために

昨日のエントリを例に挙げれば、その人の出す答えとしてどうしてもそこで授乳した方が良い状況になることはあり得ると思うんですね。

それは、その状況になった人にしかわからないことです。

代替案は色々と後出しはできるかもしれませんが、それはその場のその人ではないから言えることなのかもしれません。

 

そして同時に、目の前で授乳行為を行われることがどうしても不快に感じる人もまた存在するのも事実です。それだって、その感情が湧いたことのある人にしかわからないことです。

理由は様々だろうとは思いますが、その自然に湧いてしまう感情を誰かに否定されたり感じることに制限を受けたりするいわれはありません。

 

その一見相対する両者も、共存できると思っています。

 

自分にはわからないけど何かしらの事情があるのだろう、と思うこと、距離を置くことも一つの方法です。

辛いのだと言う人がいたら「その人にとってはそうなんだろう」と感情は否定せず受け入れる。

 

 

「子供のいない人にはわからない」をタブー視する理由

自分の経験だけを元に「そんなはずはない」「そう感じる方がおかしい」「そうする方がおかしい」と切り捨ててしまったり、経験をしていないからわからないんだと言い放ってしまうこと、そうやって相手を否定する姿勢を見せるのは威嚇と同じだと私は思っています。

不快や不安の感情を自分の範疇で留めずに「だからお前が変われ」と求めてしまったら、それは相手を一つの人格として尊重していないということの証明。

 

自分が微動だにせずに相手に動け変われと要求している状態、そのポーズを見せられたらその相手に歩み寄れるでしょうか。自分を尊重しないその人の背景に思いを馳せたいと思えるでしょうか。

 

それぞれが尊重しあってコミュニケーションがはかれない。

これが「子供のいない人にはわからない」と言う言葉を子持ちの方が発することを危険視する理由です。

この破滅の力を持つ言葉を、無自覚に発してしまうのは怖いと思うのです。

 

おわりに

昨日のエントリで紹介したような自らベビーカーを押して経験してみようとしてくれる方もいますし、子供がいない人でも私たちが日々子育てをしていく上でたくさんの支援をしてくれているはずです。

 

そして、社会の中には子連れの人の行動に不快感を抱きながらも適度に距離を保ってくれている人たちもたくさんいる。

 

これは子連れとか子持ちとかに関わらない、広く言えることなんですね。

社会の中にはたくさんの「自分では理解できない言動をする人」が存在します。その人たちともそれなりに距離を取り、時に協力したり思いやりあったり手を取り合ったりしながら生活していると思うんです。

 

子持ちの苦労を子供のいない人にわかってもらう必要はないんです。そんな無理なことを求めるより、わからなくても構わないから同じ社会の中で生きていくために、お互いが心地よい距離を保つためのコミュニケーションが必要だと思うのです。

公共の場での授乳に関する投稿から考える、授乳室の現状とそれぞれの事情

TLが騒がしいと思ったら朝日新聞の「声」欄に投稿されていた23歳大学院生の文章が炎上している様子でした。

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これが炎上する理由は簡単なんですよね。

「境界線の逸脱」以上です。

 

不快感の表明、そう感じる人を知ってほしい、で止まらずに、自分の不快感を理由に自分と他人との間にある境界線を超えて、他人の行動を強制しようとしているから反発を食らう。

 

 

でもこれでじゃあ子持ちの気持ちがお前にわかるのかとか対立してもしょうがないので、ちょっと掘り下げてみようと思います。

 

授乳室とは

あの投稿読んでまず思ったのは、この方は多分授乳室に入ったことはなさそうだなぁということ。

 

実際の授乳室はこんな感じです。

 

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母乳を与えるスペースはこんな風に椅子が置かれていて、カーテンで仕切られているところが多いです。

画像のようにドアに施錠ができるタイプのところも稀にありますが、私が実際に訪れた多くは個人が施錠して使用できる空間ではなく複数の人が同時に利用できるよう誰でも立入れる構造になっていたり、個人を仕切るのはカーテンのみ、というところも多いです。

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これもフリーで拾ってきた画像ですが、母乳を与えるスペースの手前にミルクを作るためのお湯やオムツ換え用の台、ミルクを与えるソファなど、男性にも立ち入りやすいくうかんが設けられているところが多いです。

余談ですがこの壁紙、絵本作家の谷口智則さんのイラストですね、いいなぁ…

 

TOTOエンジニアリング株式会社-納入実績 リモデル現場事例

こちらの現場事例の画像がわかりやすかったのでリンクを貼っておきます。

施設の規模にもよると思いますが、母乳を与えるための個室が2つ程度しかないところも多いですし、入り口はカーテン使用で施錠できない仕組みのところがほとんどです。(←ここ大事)

 

実際に利用した場合の想定

我が家のケースだと次男に授乳をしていた頃は長男は2歳くらい、簡単な指示はわかるけど会話が成り立つほどではなく、自力で歩けるしダッシュすればかなりの速度が出る時期でした。

一緒に来てくれる身内がいればそちらに任せて赤ちゃんとふたりで授乳室に入るのが理想だと思いますし、おそらくそういうケースを想定した作りになっていると思われます。

しかし実際には、私が一人で複数の子を連れて行くなど上の子を連れて入らざるを得ないケースもありました。その時に、どうなるか。

 

赤ちゃんと個室に入ります。

カーテンを閉め、ベビーカーの赤ちゃんを抱えます。

座り、服をめくり、母乳を与えます。

 

その間、当然ですが上の子の手は離れます。

今ならスマホで動画を見せとくくらいの工夫はできたかもしれないし、当時もおもちゃを持って入るとか言い聞かせて座らせるとか迷子紐使うとか、それなりの努力はしていたと思います。

が、仕切りはたった1枚のカーテンのみ、脱走されたら乳を出してる自分には簡単に追いかけられない。

 

そして授乳が短時間で済めばいいんだけど赤ちゃんが寝に入るときだったりすると20分近くかかるのもザラです。

そうなってくるとその長時間を狭いカーテンの向こうで過ごすことになる。

 

個室が空いていればスムーズに入れるけど先客がいればそうもいかない。

 

授乳室そのものが抱える問題

ここまで書いてみたら見えてくるかもしれませんが、授乳室そのものには施設としての不備はかなりあると当時から思っていました。

改善があまりなされないのは人生の中で利用する期間が短いこともあるのかもしれません。利用する頻度も出かけた時くらい、どうにも外で母乳を与えねばならない期間も育児期間の中で長くても2年程度とごくわずかなので、改善を求めて動くほどのモチベーションが生まれにくいのかもしれません。

 

でもそれはあくまでも授乳室を実際に利用している人やその中の一部の人にだけ見える話です。

 

「授乳室」があるということ

「声」欄に投稿していた方のようにお子さんがいない人にとっては、「授乳室」というスペースがあるということの意味は私たちのそれとは違っていると考えた方が自然かもしれません。

 

例えば「喫煙室」という部屋があります。

喫煙する人のためのスペースですが、その存在には公共の場所での喫煙が禁止されているという前提があります。禁止する代わりにここでどうぞ、という場所ですが、もしかしたらこの喫煙室と同じようなイメージで授乳室を捉えている方もいてもおかしくないのではないでしょうか。

「専用のスペースが用意されている」→「授乳はそこですべきこと」

という思考の流れになるのかもしれません。

 

授乳がそもそもどこでもしていいことなのか否か、については個人の感覚差が大きい。

 

高校生以上のお子さんをお持ちの方はまだ商業施設などに十分な授乳室がなく車内で授乳したなどの話はよく聞きますし、私も長男が生まれた12年前にはよく授乳する場所を求めて結局駐車場まで行くこともしばしばありました。

 

人前での授乳を避けてなかなか商業施設に行きづらいママ層を取り込むための施設側のサービスが授乳室の普及につながったのかなぁと思ったりしています。

 

「授乳はどこでもしていいという主張」と「それを不快に思う感情」

これ、掘り下げても掘り下げても答えが出ないことなんですよね。

施設側が「授乳は公共の場ではしてはいけません」と明言することも恐らくはできないし、不快に思う感情ゆえに他人の行動を個人が制限することもできないから。

 

対立しても良い結果は産まない。

ネット上でも「子供のいない人にはわからない」という声が上がっていたり、不快に思う方がおかしいんだろうとか、いろんな不穏な意見が飛び交ってる。そんなの飛び交う中で、でも実際はリアルの世界の中でみんな共存していくしかないわけで。

 

じゃあどうすればいいんだろうっていうと、折り合うしかないんです。

 

公共の場で授乳するのに驚いたり、それを不快に思うのはだれに制限されることもない自然なその人の感情だと私は思います。

嫌なものは嫌だ、それは仕方ない。

でもその感情を理由に「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。

 

公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。

でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。

 

「お前が変われ」は自分と相手の間にある境界線を超えた行為、いろんな人間関係のトラブルの根っこにこれが存在することは多いなぁと思います。

 

どちらも仕方がないことだから、それでも共存せざるを得ないならお互いが少しずつ譲るしかない。

 

どうしても不快に感じるなら(授乳するような年齢の母子連れがこないような)違う職場を選ぶ自由も恐らくは投稿者さんにはあります。

授乳室の中を知ったり、母子連れの現状を察したりすることで少し気持ちを寄せることができるかもしれません。

投稿欄やネットなど発言の場で「不快に思う人もいることは知っていてほしい」と声をあげることの意義もあると思います。

 

どうしても授乳せざるを得ないなら、店員さんに一言声をかけたりするような、気を使う態度を見せるだけでも相手の心象は変わってくるかもしれません。

相手がそれを不快に思う人かもしれない、という想定を持って動くことでコミュニケーションはもっとうまくいくかもしれない。

 

おわりに

ちょうど良いタイミングでこんな記事が出ているのを見かけました。

【初詣ベビーカー論争】ベビーカーについて良く知らないから、押しながら都内を歩いてみた | SPOT

 

この記事では10キロのお米袋を赤ちゃんに見立ててベビーカー体験をしています。

本当に子育てをしたことのある人ならお米では本当の苦労はわからないと思うと思います。本物はこんなもんじゃない、動くし泣くしオムツ替えのタイミングもこちらの都合どおりにはいかない。

でも、そのリアルとの距離はあまり問題ではないと思うのです。

 

経験してみよう、どんなものか覗いてみよう、自分からこちら側に近寄ってみようという意識を持ってくれていること、その姿勢がとてもいいなと思いました。

 

不快に感じる人にもその人のなりの背景がきっとあると思うし、それをそうでない人が理解するのは簡単なことではありません。でも、何かあるのかもしれないとこちらから少し歩み寄ることはできる。

 

自分の頭の中の結論で「相手が悪い、おかしい」で止まらずに、向こう側にはそれなりの背景や都合があるのかもしれないと近寄ること、それをお互いが意識することで適度な距離を保ちながらいろんな人が共存していけるのかもしれません。

「この世界の片隅に」を子供たちと観てきました。(ネタバレありません)

前回、自分一人で観てきた映画「この世界の片隅に」を、満を辞して子供たちと観てきた記録です。

 

前回の感想文はこちら。

 

誰を連れて行こう

まず、悩んだのはここです。

映画を観た時に、どこまで子供たちが理解できるのか、どう受け止めるのか、がとても気になりました。

これまで子供たちが触れてきた子供向けの娯楽映画とは全く違っている作品、単純に「面白かった」で終わる内容ではないだけに、とても悩ましい問題でした。

 

小6と小5の息子たちは第二次世界大戦や原爆についての知識も多少ある。

小3の娘は学校で触れた程度、まだ園児の末っ子はちょっと難しそう。

 

観せようかやめようか、観せるなら誰に観せようか。

 

一人で悩んでも答えが出なかったので、家族会議。

その結果、上3人を連れていくことに決めました。

  • アニメだけれど子供向けの面白い作品ではないということ
  • 戦争についてのものだということ
  • 私がどうしても映画にしてほしくて協力した作品を君たちにも観て欲しいから連れていきたいということ

を事前に告げて。

 

それぞれの視点とそれぞれの感想

3人とも、終始じっと画面に食い入っていました。

長く映画館にいるのが初めてだった娘も「2時間あっという間だった」との感想。

 

長男は爆撃の様子や爆弾の種類に興味を持ったようでした。

次男は広島市や呉の地形に興味を持っていたようなので、後日ネットで解説されていた古い地図や埋め立ての様子について一緒に見ながら映画の中を一緒に思い返しました。

娘はすずちゃんや晴美さんの洋服や生活ぶりなど身の回りのことをよく見ていたようです。

 

子供に観せるかを躊躇した理由

「あー面白かったね!」って終わる映画では決してなかったのです。

それが、子供たちに今観せるべきかどうかを躊躇した一番の理由でした。

 

これまでうちの子供たちにとっての映画は、子供向けの楽しい内容のものがほとんど。

なので彼らのイメージの中で「映画=わかりやすく面白いもの」というのが形作られているのではないかな、と思っていたこと。

 

そして、戦争というものへの知識の乏しさが躊躇のもう一つの理由。

 

私が「この世界の片隅に」の漫画を初めて読んだ時の衝撃の最たるものは「これまでに知っていた戦争ものとはぜんぜん違う」ということ。

戦争の中でも当たり前に笑ったり泣いたりしていた人たちがいたのだという、当たり前すぎて見えていなかったことを突きつけられた、そんな衝撃でした。

 

それについてはこちらで。

 

私がこれまで知っている知識、人から聞いたこと、見て(観て)きたこと、読んできたこと、それがあっての、その衝撃だったし、理解できた細部もある。

じゃあそれがない子供たちはどう受け止めるんだろう、どう理解するんだろうという不安がありました。

 

話し合った結果で、最初の理由については「娯楽映画とはちょっと違う」という説明でカバー、次の理由についてはまだうまく消化できないまま「でも観にいきたい」という3人の意志を汲んでの決定でした。

 

観てから、これから

同じ映画を観てそれぞれの感想を抱いたように、これから先も子供たちそれぞれが色々な知識や経験からまたあのすずさんのいた世界を振り返ることがあるのだろうなと思います。

 

我が家には他にも戦争についての漫画や書籍はあるけれど今は子供たちのいるスペースには置いていないので、共有の本棚にそれを置いてみようかなと計画中です。

 

子供たちと地図を見ながら一緒に広島の地形を確認して楽しい時間を過ごしたように、これからも子供たちがそれぞれに感じたり考えたりすることに少しお付き合いできたらいいなぁと思っています。

 

おまけ

子供たちに触発されて実家の母もお友達を誘って観に行くそうです。

じわりじわりと周囲にも広がっていて、一人ニヤニヤしています。

2016年を振り返りました。

こんにちは、イシゲスズコです。

慌ただしい毎日の中で今年はまとめ記事的なものが書けるかなぁと怪しかったんですが、ギリギリでなんとか少し時間がとれたのでPCに向かっています(年賀状が足りなかったので追加で作成するという大義名分を得たのが本当の理由です)

 

昨年は28日に書いてますね、余裕かましてますね。

 

もっとも読まれた記事3選

まずは、アクセスが多かった記事を振り返ります。

アクセス数3位

去年の冬に書いた記事ですね。

 

アクセス数2位

2014年の1月に書かれたこの記事、ちなみに今年も検索語の上位には安定して「夫 ストレス」「夫 育児しない ストレス」などの言葉が並んでおりました。戦友のみなさま、お元気ですか。

 

アクセス数1位

初出は2013年、3年も前の記事が今年も1位を譲ることなく年を越す事になりました。

 

3つの記事はどれも今年書いたものではありません。

不甲斐ないなぁと思うと同時に、過去の記事にも未だ需要があるのだと嬉しくもあります。

ちなみに、2016年に書かれた記事の中でもっともよく読まれたのはこちらでした。

ちょっと意外でしたが、タイムリーな話題だったという事なのかな。

後日談としてはその後も組体操に関してたいした話題が出ることもなくで、別にどっちでもいいようなことだったのかなぁと思ったりしています。

 

印象に残っている記事、考えたこと

アクセスはそう多くなかったけど自分の中で印象に残っている記事がいくつかあります。

 

新しい視点、新しい道具(ツール) 

まずは今年の初めに書いたこの記事、夫や子供達との暮らしを楽に楽しくしていこうというモットーの元にあれこれと試行錯誤するようになってきた、そのきっかけになっているような視点との出会いでした。

 

テプラは結局買えずに年を越す事になりましたが、今日も3台のタイマーが元気に稼働しています。

 

新しい視点、というと直近のものだとこちら。

この記事に書いた会議の後、日常の中でちょっと気付いたことを「この管制塔役をお願いしていい?」「いいよ」のやりとりで夫に任せられるようになり、気持ちがちょっと楽になっています。

夫が担当の部分をやっていない時も「あの人の役目なのにやってない!」とならずに電話やLINEで「どうする?やろうか?」「じゃあお願い」(帰宅後に)「ありがとう」というやりとりができたり。なんだかいい感じです。

 

「何もしない」という支援

昨年の「9月1日に図書館にいる子どもたち」のことを書いた記事とリンクする内容ですが、支援というと「何かしたい」「しなくては」となる人たちがいます。

それについて考えを掘り下げた記事です。

 

いくつもの私と、本当のわたし 

 今年、アクセスは少なかったけど自分の中では一番好きな記事でした。

私は誰だろうなんだろう、ふわふわしながら今日もあたふたしている自分がいます。

 

小さな記事だったのだけれど、見てくれている人がいたのだなぁと嬉しくなったのが先日のお知らせ。

 

はてなブログ大賞の末席に並ばせていただけました。

波はありながらも、書いてきてよかったなぁと、そう思えた瞬間でした。

 

外部に書かせていただいた記事たち

今年は、外部にたくさん記事を書かせていただいた1年でもありました。

それどこ


「それどこ」では昨年にひきつづき2度目の寄稿を。

大好きなマック・バーネットさんの絵本について書かせていただきました。

編集さんとのやり取りや画像の工夫を一緒に考えたり、とても楽しい時間でした。

 

赤すぐ 妊娠・出産・育児 みんなの体験記

赤すぐさんでの連載も始まりました。

 

いつものブログの考えを掘り下げていく文章とはまた違った、体験記としての自分の記事の作り直し方に色々と学ばせてもらっています。

イラストを毎回考えるのも楽しみの一つです。

 

LITALICO 発達ナビ

リタリコさんへの寄稿も今年から。

発達ナビの編集長さんの提案は毎回、頭を抱えるような難題ばかり。時に悩みすぎてお腹を壊しながらも、難産の記事はいつも自分を成長させてくれてきたような気がします。

後半は色々と騒がしかったこの界隈ですが、私は私のできることを粛々と、と思っています。

 

Conobie(コノビー)

こちらにも書かせていただいてました。

私自身も今も、第3の道を考え模索しながら、毎日を送っています。

 

おわりに

このブログを書き始めたのは2013年9月。

3年の間に登録していただいた読者数は1650人、いまいちピンときていませんでしたが検索して見たらはてなブログ全体で36位なんだそうです。たくさんの方に読んで頂けてありがたいなぁと思っています。

 

今年一番大きかったのはやはり外部への記事が増えたことだったと思います。

思いつきで好き勝手に書くブログとは違って、それぞれのメディアごとに読者層を意識し、編集さんと何日もかけて記事を練り上げていくという経験でまたいろんなことを知り、面白さも広がってきたような気がします。

 

来年がどんな1年になるかわかりませんが、私自身が園児の母を卒業し、中学生の母という新しい役割が見えています。他にもたくさんの新しい出会いや新しい自分の世界が広がるだろう2017年に、またどんなものが書けるのか、ワクワクしながら今年の筆を置こうと思います。

 

1年間、読んでいただきありがとうございました。良いお年をお迎えくださいませ。

 

おまけ

今年最後に買ったのはこの絵本になりました。

なつみはなんにでもなれる

なつみはなんにでもなれる

 

レビューも書きたかったのだけど、それはまた来年。

映画「この世界の片隅に」を観てきました。(ネタバレありません)

いつものPCからでなく、スマホはてなブログアプリ経由で書いてみているので読みづらいところがあるかもしれません。ご了承くださいませ。

 

11月に公開されて以来念願だった「この世界の片隅に」を、やっと観てきました。

たまたまぽこっと時間が空いたので、先伸ばしできるタスクを全部放り投げて映画館へ。

 

道中、まるで遠距離恋愛中の彼に会いに行くような高鳴りを感じながら、どこかで「いやそんな観る前からハードルあげすぎても」と思う自分がいました。

 

映画館に着いて、チケットとパンフレットを買いました。それを抱えてトイレに入ったところで、心拍数が上がるのを感じましたがやはり「観る前からそんなに盛り上がっても」と耳元で小さな私がささやいているようでした。

 

まだ前の作品の上映中だったので入り口付近のソファに座り、パンフレットを後ろからめくりました。

たくさん並んだクラウドファンディング参加者の名前の中から自分を見つけるのはそう難しくはありませんでした。

 

ここにあった、と、指でなぞって涙が込み上げてきましたが「こんなところで一人盛り上がっちゃって」とそんな自分をくすりと笑うもう一人の私が隣に座っているようでした。

 

入場し、着席し、館内が暗くなり。

スクリーンには、小さなすずさんが立っていました。

「やっと会えた」

ホッと、しました。

 

それから終わるまでの時間、何度も何度も読んだ原作の世界が、そこに描かれていました。色と音と動きをごく自然に加えられて。

ただただその、加えられたもののすごさに圧倒された2時間でした。

 

町の人たちの声、車の音、鳥のさえずり……そして、飛行機のエンジン音や砲弾や爆撃の音。

 

あれは、BGMや背景画ではなかったと思うのです。

すずさんが聴いていた音がそこに再現されたいた、見ていた世界がそこに再現されていた、そう、感じました。

 

もっとも印象に残ったのは呉の軍港が爆撃を受けるシーンの音でした。

 

私は本当の爆撃の音は知りません。

これまで知っていたのは、映画やドキュメンタリーで流されてきたもの。

でもそのどれとも違う、とてもクリアで、とても怖い音でした。

 

これが、当時の人が聴いた音なんだと、なんの根拠もないけれどそう思った。それくらい、その他のシーンも含めてとてもリアルに感じられる作りでした。

 

軍港や艦が映るたびに、Twitterで片渕監督にお返事をいただいて驚き恐縮したやり取りのことを思いだしてこっそり恥ずかしくなったりもしました。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

 

エンドロールが流れ、監督のお名前のあとにクラウドファンディング参加者の名前が。

 

スクリーンのなかに自分の名前を見つけたとき、涙が止まらなくなりました。

ここに来られて本当に良かったと、そう思いました。ハンカチでなくハンドタオルを持ってきていて本当に良かった、とも。

 

 

上映後のふわふわとした気持ちを落ち着けるのには少し時間がかかりました。

運転席に座ってぼうっとしていたら夫からのメッセージが届く着信音がして自分のリアルを思いだし、帰路に着きました。

帰りの道中で思ったのは、これは記録映画なのかもしれないということ。

戦争のリアルを、戦争のころにそこにあった暮らしを知らせるための教材のような位置付けになれる映画なのだと思いました。

 

目を閉じると、印象深かったいくつかのシーンが浮かびます。

すずさんの声も、耳に残っています。

 

彼女のリアルがあの映画のなかにあったように、私リアルが目の前にある。それぞれの人生を同時進行ですずさんといっしょに生きているような、そんな不思議な気持ちです。

 

映画のなかで丁寧に追われていたエピソードとばっさりカットされていたエピソードとを意識しながらもう一度原作を読み返したくなったので、お正月休みの楽しみにしようかと思っています。

 

出会えて良かった原作、知って参加できて良かったクラウドファンディングと、ずっと観たかった映画。

 

こうの先生と片渕監督と、そして関わったたくさんのスタッフさんや、協力してくれた当時を知るみなさん、こんな作品を世に送り出してくれて本当にありがとう。

 

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

 

 

「コントロールタワー」理論で平和的に夫と家事を分担しようと試みました。

 

以前よりTwitterやこのブログを通して、夫との関係を平和的に維持すべく色々な試みをやってきました。

 

今日はたまたまTLに流れてきたとあるツイートから発想を得た、「コントロールタワー」理論を使った夫婦会議の模様をお届けします。

 

「コントロールタワー」理論

出会ったのはこのツイート。

スズキさんありがとうございます!

 

スズキさんが書かれたこの、コントロールタワーと下請け役という分担で各業務を考える、という視点、とても面白いと思いました。

 

思えば賃金労働でも船頭が多くてはうまく回らない。

指揮系統をはっきりさせておく方がスムーズなことは多い。

 

実現可能性が高そうだしなんだか面白そう、というわけでこの概念を利用して、夫と話し合ってみることにしました。

 

レジュメの作成

なんだか楽しくなってきたので、夫との夫婦会議用にレジュメを作成してみました。

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実際の項目の部分は抜いてみました。

(うまく表示されてなかったらご指摘くださいませね)

我が家では夫にコントロールタワー役をやってほしいという項目に

・夕飯後の食器洗い

・お風呂の掃除関係

・トイレットペーパーの在庫管理

などを入れて提示、下請け役の部分には

・所定の場所に私が置いたゴミを出す

などを提示しました。

 

話し合いの前に

当然ですが、家の中の業務は洗い出せばここに書ききれないほどあります。

でもいきなり全部を、というのはハードルが高いし、失敗のリスクも大きい。

今回はお試しをして双方が馴染むための最初のステップということでわかりやすいものだけに絞りました。

リストアップしていく過程のなかで気付いたのは、私が「管理する」ということそのものがとても苦手だったんだなぁということ。

注意欠陥傾向のある私にとっては、トイレットペーパーがあと何個あるのかを把握して記憶して買い物の時にそれを忘れずに買ってくる(買ってこないと家族が困る)という一連の業務の負担が結構大きい。

そんな小さな管理業務が家の中の備品一つひとつ、子供のもの、自分のもの…と積み重なって大きな負担になり消耗しているんだなぁと改めて気づきました。

 

いざ、夫婦会議

レジュメを嬉々として披露する私と、ふむふむと読む夫。

 

平和的な夫婦会議が滞りながらも進みました。

やいのやいの言いながら、自分が何がしんどいと思っているのかを説明し、夫にどんな役割を担ってほしいのかをなんとか説明。夫もふむふむと聞いてくれました。

 

たとえば…

トイレットペーパーの在庫管理について夫はこれまで

「最後の一個が今セットされてる、ってわかったらそれを買い物の時に買うだけでしょう?(そんなに大変?)」という認識だったことが判明。

確かにそうなんだけど、その最後の一個かどうかを把握しておくこと、その次の買い物の時に買わないとと意識することが自分には苦手でつい忘れてしまうのだと説明したら、じゃあそれは自分がやろうと。

 

在庫がどのくらいあるかの管理は夫がやって、買い物役の私に必要なタイミングで必要な個数をLINEで送る(口頭で言うと忘れるから)というシステムを共有することとなりました。

 

他にもいくつかの業務について、お互いに管制塔と下請け役としての分担について話し、早速実行可能なものを試して見ることにしました。

 

これまでも私の負担をなんとか減らそうと思ってくれている夫と色々と話してきたのですが、「当事者意識を持つ」とか「私が大変そうな時に察して手伝って」とかとは違って夫にはかなりわかりやすかったようです。

具体的な業務内容を共有して私の負担を減らしていこう、という合意は得られ無事散会となりました。

 

早速やってみた結果

トイレットペーパーについては「早速2パック買って」と散会後すぐに着信がありました。在庫について考えたり意識したりすることから解放されて、たったそれだけなのにすごく楽になった自分がいました。

 

夕飯後の洗い物に関しては、すぐやってほしい私とそのうちやろうと思って先延ばしにする夫との認識の違いが浮き彫りになる結果に。

数日様子を見たり話したりしてみましたが、洗い物が残っていることがどうにもモヤモヤする私の精神状態を考えたらこれは自分がやった方が楽だ、と気づき、夫にもその旨を伝えました。

洗い物は私がやるから、それに代わる何か別の役割を担ってもらえたらと提案し、次の会議で話し合う予定です。

 

また、これまでのような「洗い物は妻(だから自分はやらなくていい役割)」ではなくて「洗い物の主を担うのは妻(で下請けは自分だから要請があれば実働する)」という役割についての意識改革も見込めそうだと感じました。

 

おわりに

レジュメを丁寧に作ったり、プレゼンがしたいの!と言ってみたり、夫婦会議を重ねようとしたり、かなり面白がっているなぁと自分でも思います。夫もそれはわかっている様子。

洗い物のように、実際にやってみたけどなんかしっくりこないってこともある。そんな時はまた次を考えればいい。この「トライ&エラー」の繰り返しは発達に困難のある子どもたちとの暮らしとよく似ています。

 

今回、レジュメの中にあえて我が家の事例を書き込まなかったのは、多分そこに書き込みたい内容は家庭の数だけ答えがあるから。

そしてその答えも、一度考えただけでわかるものでは決してないから。

 

妻と夫、それぞれの得手不得手、仕事の状況、子供の数や性格や健康状態…いろんな要素によって、それぞれが担った方が良い役割は違ってくるし、時間の経過とともに変わっても行くと思う。

 

私のように、頭の中で考えていい!って思ってやってはみたけどしっくりこないってこともあると思う。

 

やってみてダメだったら、すぐ次を考えればいい。

よそんちでうまくいく仕組みが、うちでうまくいかないのは「努力が足りないから」とか「能力が足りないから」とかじゃないし、もっと頑張ればできるとかでもないと思う。

頑張らなくてもうまく回るしくみが、きっとある。

だからそれを探すためにまた次の夫婦会議の迎えたい、と思うのです。

長男と大人の階段

久しぶりにブログを書いています。

暇になったわけではありません、山積みのタスクを前に現実逃避をしています。

 

我が家とお肉

昨日の晩ご飯のおかずのメインは手羽先の塩焼きでした。

買ってきたのは大ぶりのを15本、1人2本で、残りは夫と長男が多めに食べて…となんとなくの目算で。

 

我が家には

大きい長男(40歳目前だけどまだ食べ盛り)

戸籍上の長男(スポーツ少年、育ち盛り食べ盛り)

細身の次男(運動しないけど脳に栄養を必要とする種類の生き物なので糖分と肉を好む)

末っ子三男(その小さな体のどこに!と言われる勢いで食べる)

の4人の男性陣に食べる量は少ないけど肉好き娘と私の6人。

エンゲル係数が恐ろしいほど高いのが最近のもっぱらの悩みです。

 

他のおかずを色々と用意して食卓に戻ったところで…

想像はしていましたが私の手に取れる手羽先はもう残っていませんでした…うう

 

最近会う人会う人から「痩せた?」って聞かれるけど、ダイエットしているわけではありません、肉を…カロリーの高いものを…奴らに食われているからです…

 

少食なお母さん

もともと少食、精神的に不安定になったりゆっくり座って食べる時間がなかったりすると食べることそのものの意欲がなくなってしまう性質でもありで、子供達の前でたくさん食べるということはあまりなかったような気がします。

 

なので子供達はどうも私のことを少食だと思っている様子。

 

でも、美味しいものを食べることは大好きです。

 

長男のお手伝いと母ちゃんの秘密

キッチンでの調理中に次男や三男が何かやらかしたとか、お客さんがきたとか、突発的に離れないといけない事態になることは割とよくあります。

その日も揚げ物をしている途中で何かあったので、暇そうな長男を呼んで交代してもらっていた時のことでした。

 

用事を済ませて戻ってきて、交代した長男にお礼を言いながら揚げたてのトンカツの切れ端を「どうぞ」

 

二人で「美味しいね〜〜〜」って食べながら、長男がハッと気づいた様子で言いました。

「母ちゃん、いつもこうやって揚げたて食べてるん?」

「だってテーブルに出したらすぐになくなるやん」

 

二人で、ニヤリ。

 

長男とパイン缶と大人の階段

その数日後、長男はパインの缶詰を抱えてキッチンに立っていました。

「みんなで分けて」とおばあちゃんからもらった様子。

缶切りとしばらく奮闘した末にやっと開けられたらしく、器を4つ出して律儀に1つずつ分けていきながら、はた、と手を止める長男。

 

長男「どうしよう、1つ余る…」

 

長男「切って分けるかなぁ…お母ちゃん食べる?うーん」

 

私「長男よ、トンカツのことを思い出すがいい…」

 

長男「あぁあ!もしかしてここで食べちゃっていいの?」

私「特権ですよ、用意した人の」

 

また二人で、ニヤリ。

 

 

切り分けるべきか悩む長男の様子におにいちゃんだなぁなんかいいなぁと思うと同時に、時にそうやってうまい汁吸う方法も知ってていいんやで、と思ったりするのです。

 

それ以来長男は私がキッチンに立っているとふら〜〜っとやってきては端の椅子に座って様子を伺っていたり「何か手伝おうか?」と声をかけてくれたり。

食べ物の吸引力、おそるべし。

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