スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「手取り14万」のツイートを通して考えた、視点の違いによる噛み合わなさについて

急な寒さに子供たちと慌てて長袖を引っ張り出した朝です。おはようございます。

 

今朝は、昨日のツイートに寄せられたたくさんの反応から考えたことを書いておこうかな、と。

 

本題に入る前に、前置きをします。

私がこれから触れる幾つかの事象について、私はその内容について議論したいわけではありませんので、それに関してなにか反応をいただいても対応しません。

あくまでも、それら事象の周りで起こっていることについて、気づいたことを書こうとしています。

 

まず、昨日のツイートとその反応について

 

これ、別にホリエモンさんの話だけに言及したというわけではなくて、以前から手取りが低いのは努力不足だ、自己責任だ、という話がよく上がっているのを踏まえてのツイートでした。

まぁタイミング的に、堀江さんのツイートに反応したと受け取られても仕方ないだろうとは思いますし、そういうリプライはたくさん飛んできてました。

 

この後、私はこんな風に補足のツイートをしてました。

 

この話題に関して私が話題にしていたのは、個人の転職や給与アップの話ではなくて、フルタイムで勤務する必要のある(副業前提ではない)職業で成人が自立できるだけの給与が稼げない、という社会の問題でした。

 

私自身、これらの職についているわけではありません。

が、なぜか私がそうであるという前提で転職を勧めるリプライや、そういう職を選んだのが悪いという自己責任論、負け犬がほざくな等の暴言など、まぁいろんなものが飛んできました。

 

地方の問題もあるのだという意見も多くありましたが、それには同意します。

私の住んでいる地域でも、無理をしてでも遠くの隣県まで通ったほうが給与が高いと転職して遠距離通勤している人もいます。

地元のハローワークはどれも軒並み手取りにすると15万前後になるような求人ばかりたくさん出て、経営者は口を揃えて募集しても人が来ない、人手不足だと言っています。

 

内容についてもっと思うところはたくさんありますが、今回の本旨ではないので言及はこの程度にしましょう。

 

主張と反応について整理する

私は「社会の問題」を語りました。

いくつかのツイートの中で触れた、保育士や学芸員や図書館司書、教員などはたくさんの人が生活していく中でゼロになっては困る職種であるにも関わらず、賃金が低い傾向が続いていると感じます。

いただいたツイートの中では専門の資格を持っていても無能だから低賃金の仕事しかできないのだというものもありましたが、専門性が必要な職種の賃金が低い状態が続くリスクについては看過できません。

 

実際、学校図書館に司書が集まらず司書不在の公立学校も出ています。

これは、子どもの学力にダイレクトに影響が出る可能性が高く、私はとても危惧しています。

本旨ではないのでこれ以上は掘り下げませんが、同じような専門性の低下による長期的な影響が出る可能性もあります。

 

このような長期的な社会への影響を不安視した結果の、専門職が食えない状況への警鐘を鳴らしたいわけです。

 

しかし、私のツイートへの反応の多くは、「社会」ではなく「個人」の問題としての視点のものだったように思うのです。

 

「個」の話であれば至極真っ当

 

転職すればいい、もっと早い段階から稼げる職を見据えて進学就職すればいい。

 

個人の話としては、大変もっともなのです。

 

夫が同じように給与について苦しんでいたら、私は「食うに困るわけだし、転職したら?」と言うと思います。

息子が進路について悩んでいたら、内容だけでなくどういう職がどのくらいの給与かを検討するのを勧めるでしょうし、保育士になろうとしていたら「給料安いよ?大変だよ?」とクギを刺すでしょう。

 

個人の今の辛さをなんとかする、個人単位で生き延びるために選択をする、という視点に立てば、現状打開のために動くべきだ、転職すべきだ、稼げる職に就くべきだ、と言うのは至極真っ当な意見だと思うのです。

 

どちらも「真っ当」、だから噛み合わない

私は、「社会」の視点に立てば、長期的なリスクを考えると今の、特に専門職の賃金が低い状況はとても看過できません。それは、真っ当な意見だと自分では考えています。

 

そして、「個」の視点に立てば、なるべく稼ぎの良い職を選んでいくべきだという意見も至極真っ当だと思います。

 

どちらも、真っ当な意見だと思うのです。

どちらも、間違ってない。

でも、視点が違う。だから噛み合わないのだろうと思うのです。

 

似たような「視点の違い」

ネット上(とくにツイッター上)で、同じような噛み合わなさがたくさんあるなぁ、と思うのです。

 

例えば、夫の育児参加のことが話題になっているとき。

残業が多くて帰りが遅い夫の現状についての話題に関して

 

①今の家庭の中でどう動けばうまく対応して乗り切っていけるか

②残業が当たり前になってしまっている社会の問題をどう改善していくか

 

①は各家庭の話、「個」の視点ですが、②は社会問題の話ですね。

ミクロ視点とマクロ視点という言い方もできると思います。

この両方の視点がごちゃごちゃになった状態で議論が拮抗しているのを見ることが良くあります。

 

私自身もここを整理できずに発言していた過去があるなぁと自覚があります。

ツイッターでいろんな方とやりとりし、教えてもらう中でだんだん切り分けられるようになってきたと思います。

 

家庭の中の話だけではありません。

ハンディのある子の支援を必要とする、という話をするときにも

①今の我が子の状況と学校環境の中でどこで折り合いをつけて妥当な線を探るか、という個人の視点での話と、

②理想的な特別支援とはどんなものか、特別支援が十分に受けられる環境が整備されるにはどうしていくべきか、という大きな視点の話と。

 

ここを上手に切り分けでいないと、理想に取り憑かれて足元を見失ってしまったり、逆に個人のメリットを基準に全体に無理に当てはめようとして歪みが生まれたりしてしまうのではないか、と思うのです。

 

おわりに

最初に紹介したツイートへの反応は今も止まらないので、いつまで続くのかな〜と思いながらぼんやり眺めています。

同意の声や、代弁してくれてありがとうという声、反論の中にも参考になる意見もそれなりにあり、なるべく目を通しています。

ただ、中にはあからさまな暴言を寄せる方もいます。

ナイフの絵文字が付いている方もいらっしゃいました。殺意があるという意味でしょうか。

さすがに、暴言やそういう絵文字による脅しのようなものは匿名のツイートであっても一瞬怖さは覚えますね。

 

言葉遣いや引用RTの使い方などの相手への印象についても考えるきっかけになったツイートになっているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起きない息子に当てたライトの意外な効果

昨日に引き続き、今日も次男対策についてのお話です。

 

早起きだった次男

次男、生まれつき寝起きが悪かったわけではありません。

小さい頃は「むしろもっと寝ていてくれ」と願っていたほど、夜明けとともに起きるような早起きな子でした。

次男含め他の子も朝起こす必要がなく起き出す子達だったので、

「子供を起こしたことがない」

と言って周りに羨ましがられるほどでした。

 

起きられなくなった理由と私の都合

そんな次男の寝起きが悪くなってきたのは、中学に上がるかどうかくらいの頃から。

原因はわかっています。

夜更かしと、学校がめんどくさいこと。

早く寝るように促すことはできますが、学校でのことに関しては年齢が上がるごとに介入が難しくなっています。

宿題を溜めていたりするのも一つの理由にはなっているようですが、宿題のことには介入するなと以前から主治医に言われているので詳細は把握できません。

起立性調整障害の可能性も視野に入れてはいますが、彼の場合はどうもそうではないだろうというのが主治医の見解です。

 

起きない彼に何度も呼びかけて起こそうとするのですが、なかなか起きない。

最初は優しい声をかけますが、私もだんだん腹も立ってきますしなんせ小さな声ではびくともしない。

じゃあと大きな声を出すと、次男は叱られたと思って下手したらパニック状態になってしまう。

 

起きないと学校に遅刻しかねないし、そうなったらなったで「遅刻する!」とパニクるのは目に見えてる。

行かないなら行かないで学校とやりとりしなくてはならない。

後に控える山積みの面倒、そして何より、起きるまで彼の横で声をかけ続けねばならない(つまり他の家事も仕事に行くための準備も他の子の世話も何もできない)というこの状況…

 

どうすればいいの!と次男の部屋に向かって思わず大きな声を出すほど、私はイライラしてました。

 

現段階で私にできること

その日は私の大きな声でパニクった次男をなんとかなだめて準備させて、とりあえず遅刻だろうなって時間に送り出しました。

 

なんとかしなきゃいけないけどガミガミ言ってもどうにもならないので、現段階で自分に何ができるのかを整理します。

  1. 夜更かしと朝起きられない関連について自覚を促すべく話すこと
  2. 宿題のことなど起きられない心理的な原因があるなら早めに対策を取るよう促すこと(担任や特別支援コーディネーター、学習支援の先生との相談は可能)
  3. 起きてこない場合どういう対応をして欲しいか本人と相談すること

とりあえずこの辺りが浮かびました。

 

3に関して帰宅した本人に希望を聞くと

「声だけだと起きられないから、バシバシ叩くとかして欲しい」

と言われ、そういうのはやだなぁ…と答えたまま、どうするのが良いかが見出せずにいました。

 

対策の見つからないまま、翌日

あれだけ夜更かしをするなと話をしたのにやっぱり前夜の次男はダラダラと動画を見たりしている物音がしていました。

このままだと同じことを繰り返すよな〜と思いながらベッドに向かった時、ふと隣の学習机の上にあったデスクライトが目に入りました。

 

「徐々に光を当てていくと目が覚めやすくなる」

以前何かで読んだのを思い出しました。

(フォロワーさんが教えてくれましたが、サーカディアンリズムというんですね。)

 

効果あるんじゃね?と、ベッドで眠る次男の顔に向けて煌々と光るライトを当ててみました。

全然「徐々」ではなくものすごくダイレクトだったのですが、そのくらいやっても構わねえだろうという気持ちの表れですね…

 

起きてきた、次男

ライトをつけて20分ほど、ふらふらと次男が起きてきました。

怒ったり苛立ったりするでもなく機嫌よく。

 

「効いた!」

と腹の中でニヤニヤしながらコーヒー飲みました。

光当てるの、効果あるじゃん、やったー!ヒュー!

 

そしてなんと翌日も、彼はスーッと起きてきたのです。

 

そして3日目

2日間効果があったんだからと思った私がバカでした。

昨日おとといと同じ時間にライトをつけたのに、3日目の今朝、次男は起きてきませんでした。

 

もうここで起きないと遅刻確定ですよ、っていう時間になったところで、次男を軽く叩いて、一言「時間だよ、今起きればまだ間に合うよ」と声をかけました。

 

次男が動いたのを確認して、部屋を出たらゴソゴソと準備をしている物音が聞こえました。

 

彼の動く音を聞きながら、洗濯を干します。

ここ3日、私は彼を起こすためにガミガミ大きな声を出さずに済みました。

 

ちょっと待て、一番効果があったの、これなんじゃないか。

 

次男と私が得たもの

私はガミガミ言わずに済んだ。

次男は叱られなかった。

叱られず、パニクらず、なんとか起きて学校に遅刻せず行けた。

 

その成功体験を3日続けて彼はできた。

私が「ガミガミ叱る」以外の対応ができた。

 

いつもなら彼のそばに張り付いて起きるまでヤイヤイ言っていたのが、ライトをつけるという行為を一つしたことで「よし、離れよう」と距離を置くことができたような気がするのです。

 

やれることをやっている、だからほっておこう、という気持ちが自分の中に湧いたような気がします。

対策を一つ取ることで息子に対して過剰な干渉をせずに済んだのではないか、と思うのです。

 

おわりに

もちろん、ライトをつけても結局起きてこなければ声をかけねばならないし、声をかけてもすんなり起きなければだんだん声を荒らげねばならないのかもしれません。

週明けまた、そんな騒動になるかもしれない。

 

でも、少なくとも次男に対して

「この3日は私が大きな声を出すことなくすんなり起きられたね」

という、成功体験を一緒に喜ぶことはできる。

 

ライトを当てることが思わぬ効果を産んでくれたなぁと思いつつ、週明けが心配な金曜日です。

 

 

 

次男の【寝間着・部屋着・外出着】識別問題とその対策

気温が少しずつ低くなってきて、目をそらしてきた衣替えを本格的に考えなければならなくなってきました。

 

秋冬物を出すのを考えてる中で、ふと部屋着と寝巻きについてのツイートが目に入りました。

私が見たのは、おそらくはまだ子供が小さく働いてないママさんが、朝起きてから部屋着のままでいたら夫から「なんで着替えないの?」と不思議がられた話。

そのかたの部屋着というのはTシャツと短パンで、部屋の中ならそれでいいだろうという感覚だったとかそういう話でした。

 

この、部屋着や寝間着、外に着ていく服、という感覚で次男のとあるエピソードを思い出したので、書いておこうと思います。

 

我が家の衣服事情

4人の子持ちである我が家には、あちこちから「お下がりいらない?」という声がかかります。

大変ありがたいことなので、大喜びでいただいています。

が、その中には「外出するにはちょっと…」な傷み具合のものやデザイン的に微妙なものももちろん含まれています。

貧乏性の私はそれを思い切って捨てることができず。

部屋着や寝間着として着せればいいや、と思い、寝間着・パジャマの類をわざわざ買い足すことなく適当にやってきてました。

 

その結果、我が家では長らく、子供たちそれぞれの衣類は

①外出着相当の服

②寝間着にもなる部屋着

というざっくりしたわけ方で収納されており、雑な私の仕事ゆえ、それらが混ざっていることもよくありました。

それぞれが適当に部屋着的な服を着て寝て、翌朝外出着に着替えて出かける、という感じでした。

 

狂い始めた歯車とそれに気づかなかった私

思えば、次男が小学校に入って、私服登校が始まった頃から歯車は狂い始めていたと思います。

長男と娘は引き出しからそれなりの衣類を出して自分たちで着替え、それぞれそれなりの身なりを整えていたにも関わらず、おかしな組み合わせで出かけようとする次男。

 

まだ小さい三男のお世話に追われながらだったので私も根っこからどうこうするとか思いつくこともなく

「上にあるやつから手に取っちゃうんだな、次男にはまだ用意してやらないといけないんだ!」

と思って、前の晩に次の日学校に着ていく服を用意して机の上におく、という習慣が始まりました。

 

その習慣は、次男が小学校を卒業するまで続きます。

今思い返せばその間も、風呂上がりにスキニーデニムを履いていたりとそれなりの予兆はあったのですが、慌ただしく過ごす中でそんなエピソードも埋れてしまっていました。

 

毛玉だらけのトレーナーを着た次男と、WATER!の瞬間

次男が中学生になり、制服登校が始まりました。

私にとっては毎日の私服を用意しなくてよくなり、助かるな〜と思っていました。

 

家でも外でもTシャツと短パンでどうにかなっていた季節が過ぎ、少し肌寒くなってきた頃のことです。

友達と遊びに行く、と言った次男に目をやると、部屋着として引き出しに入れていた毛玉だらけの色あせたトレーナーを着ています。

「次男くんちょっと待って!!!」

と呼び止め、それは部屋着だよ、お外に着て行くのは恥ずかしいよ、と伝えると驚く次男。

 

「そんなこと言われても、どの服がどうなのか、わからないよ!」

 

次男のその訴えは、私にとってWATER!そのものでした。

 

どの服がどうなのか、という、とても難しい課題

私の感覚で「これは寝間着、これはちょっとそこまでなら、これはよそいき」みたいに適当に仕分けていた衣類。

そのざっくりとした曖昧なニュアンスは、次男にはとても難しいものだったんですね。

私はずっとそれに気づけなかった。

 

長男や娘は私の反応や周りのお友達が着ているものを見ながら学んでいたんだろうと思います。

今思えばちゃんと教えてやるということをせずに大変申し訳なかった…猛省です。

 

次男にとっては引き出しに入っている服はどれも同じように「着る物」でしかなく、それぞれの服の特徴やTPOに合わせるという概念も持ち合わせるのが難しかった。

 

次男と一緒に手持ちの服を並べて話してみましたが、やはり服のTPOを判断するのがとても難しいんだ、というのがわかりました。

 

今のところの、我が家の対策

この騒動の後、すぐに次男の引き出しを整理しました。

うっかり外に着て行くと恥ずかしい傷んだ服は、勿体無いけど全て処分。

代わりに、見た目で明らかにパジャマとわかる、前ボタンのスタンダードなパジャマを買い足しました。

 

 こういうやつね。

 

この、スタンダードなパジャマ、次男のサイズを探すのが難しかった!

イオンやベルメゾンユニクロなどあちこちを探しました。

 が、売られているのはどれもいわゆるルームウェアというタイプの、こういうの。

 

トレーナーやTシャツとパンツがセットになったそれは、私が見れば明らかに部屋着だとわかるようなものですが次男には判別できない。

あちこちを探し歩いて、やっと彼が着られるサイズの前ボタンで上下同じ柄物の、彼にもパジャマだとわかりやすいものがいくつか買えました。

 

彼の衣類は制服を除けば2種類だけ。

①パジャマ

②外出着

(たくさんあると混乱するので、各シーズン上下3セットくらいに絞っていて、どれを組み合わせてもおかしくないようなものを選んでいます)

 

①と②、それぞれをきっちり別の場所にしまうよう、対策をとっています。

近くに置くと混ざってしまうので…

 

学校から帰って外出せず部屋にいることもありますが、その時も部屋着という曖昧なものは用意せず、外出着を着るようにして、パジャマを着るのはお風呂に入ってから。

 

ここまで対策を取って以来、次男がおかしな格好をすることは無くなりました。

 

おわりに

制服を着る高校時代まではこの対策でどうにかなるだろうな〜とおもいますが、その先はどうなるのか、不安は残ります。

ただ、彼がどういうことを認識するのが苦手なのか、というのは少しずつ把握できるようになってきているのでその時はまたそれなりに、相談しながら一緒に考えていけばいいのかなぁと思ったりしています。

 

今度は、最近試してみて効果が出ている次男の朝対策について、経過を書いてみようかなと思っております。

主語を「私」に変えることと、その副次的な効果

お祭りのおこづかい

めっきり秋らしくなってきて、私の住んでいる地域でも秋のお祭りがちらほら。

お祭りの出店を楽しみにしている子どもたちはそれぞれにおこづかいを貯めていました。

それに加えて私や夫、祖父母からもお祭りだからとそれぞれに追加をもらっていたのですが、お金の使い方があまり上手ではない次男と三男は予想より使い過ぎてしまったらしく、案の定足りなくなって私やおじいちゃんたちに交渉を始めました。

 

「お祭りに行くのにおこづかいちょうだい」

という息子たちに、私は

「今月お母ちゃんの用意してた予算はもう余分がないから、お母ちゃんはあげられない」

と断りました。

息子たちは残念そうな顔をしつつも、仕方がないと諦めていました。

 

私を攻略できなかった息子たちは、おじいちゃんを狙います。

同じように打診した息子たちにおじいちゃんは

「次男くんは修学旅行も控えてるし、三男くんは運動会もあるし、あまり出歩いたりお金を使ったりしないほうがいいんじゃないか」

と提案。私の予想通り、次男と三男は納得がいかずそれぞれにブスブス文句を言っています。

 

私とおじいちゃんのNOの違い

同じようにお金がもらえなかったのに、なぜ私の話には納得し、おじいちゃんの話には納得できなかったのか。

 

答えは、主語。

「行動の主は誰なのか」という部分です。

 

私は「私は払えない」と自分を主語にしてNOをハッキリと伝えました。

おじいちゃんは「君はこうしたほうがいい」と、主語を息子たちにして遠回しな表現で諦めさせようと促しました。

 

この、遠回しな表現を使われたことで、息子たちはおじいちゃんのNOをハッキリ認識することができなかった、それが納得できない状況つながっていたのだろうと思います。

 

遠巻きなNOが腑に落ちないのは次男だけ?

発達障害のある次男は特に、大人がやんわりとたしなめるような表現を理解できない傾向にあります。

 

では発達障害ではない子ならすんなり理解できるのか、というと、実はそうでもないような気がしています。

 

次男以外の子たちも、おじいちゃんのような言い回しをされると「納得はいかないけどそれ以上言えないからとにかく諦める」という、腑に落ちない状態になっているのをよく見かけます。

「おじいちゃんはおこづかいくれないんだな」というのは理解できるし、それ以上食い下がると面倒なことになるのもわかるから、言わない。

 

発達障害の次男は空気を読んでとりあえず引き下がるということができないので、納得いかないといつまでも引きずってしまって、結果「聞き分けのない子」のように見えてしまう。

 

わかりづらいけれど、納得のいってない他の子達

でも他の子たちも、言えないから言わないだけでストレスをためる結果になってしまっているんですね。

 

主語を「私」に変えることの副次的な効果

「私は」行かない

「私は」やらない

「私は」こうして欲しいと思っている

 

主語を自分に変えることで、子供たちに自分のメッセージが伝えやすくなる。

子供たちに対する接し方のハックのようなものと思っていたのですが、意識し続ける中で意外なことが見えてきました。

 

子供に声かけをするとき、主語を相手や漠然とした曖昧な状態から「私」に限定する。

これ、やってみてハッとしたんです。

ただ言い回しを変えるだけではダメ、考え方そのものを変えなければ、主語を「私」にして発言することができないんです。

 

「私」を主にすると、同時に発言に対する自分の責任がぐんと増します。

ぼんやりした表現で適当なことが言えなくなってくるんですね。

 

おじいちゃんの発言を例にすると、

「おじいちゃんはあげない」

「そんなにお金は使わない方がいいと思う」

打診に対してとる自分の行動(今回は【おこづかいはあげない】)は変わらないのです。

 

でも、前者は自分の確固たる意志がそこにあるのに対して、後者だと自分の発言の中に相手に対する責任を負うような話が入ってないんですね。

悪者にならないようにぼんやりぼやかして逃げてるようにも見えます。

この、弱腰の逃げが、子どもに対しても説得力なく見えるんじゃないかなぁとも考えたりしています。

 

主語を「私」にしようと意識した結果…

指摘や注意の主語を「私」にしようと意識するようになってから、子どもに対するお小言の頻度がかなり減りました。

言おうとしたときに「そこまで言うようなことじゃなくない?」と踏みとどまることが増えたからです。

 

なんとなく世間一般の線引きの中でそれはダメじゃないかな〜とぼんやり思っていたけど、改めて自分の尺度で考えたらそこまで制限することじゃないんじゃないか、と思うようなことがとてもたくさんあったんですね。

 

お祭りのおこづかいのような話でも、お金の余裕がたとえある時でも

「〜くんはもうトータル○円使ってる。

 小3でそれ以上使うのはやりすぎだとお母ちゃんは思う。

 だからあげない。」

と、私を主語にした返答を話すと子どもなりに色々と考えた反応が返ってきます。

 

どんな屁理屈をこねてきても「私はこう思う」という筋はハッキリ主張している前提が共有できているので話がこじれることはあまりありません。

 

おわりに

もしうちに次男のような子がいなかったら、私はおじいちゃんのような曖昧な声かけをしがちだったかもしれないな、と思ったりします。

発達障害のある子との暮らしは本当に大変。

大変だから2兆くれとツイートしたくなるくらい大変なんだけど、でもこういう、ほかの子に対しても有益な接し方のヒントをくれたりすることが割と良くあって。

彼のおかげで培ってこられている私のスキルもだんだん増えているし、それは他の子たちにもいい影響を与えてくれてる。

大変なこと、しんどいことばっかじゃないよな〜と、たまには思ったりするのです。

質問箱へのお返事 〜ADHDのお子さんへのオススメの本について〜

少し前になりますが、質問箱へこんなご質問をいただきました。

 

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(すいません、テキストの状態で抜き出すやり方がわかりませんでした)

 

ご質問いただいてから時間が空いてしまってごめんなさい。

バタバタしていたこともあるのですが、もう一つ事情がありまして。

 

この質問をいただいたのは連載させてもらっているゼクシィみんなの体験記の8月分の原稿を送った直後で、内容がちょっと被っているのでどうしたものかな〜と思っておりました。

 

その連載記事が今日アップされたので、折も良いかなと今日お返事をしたためることにした次第です。

 

その記事がこちら

zexybaby.zexy.net

この記事の中で私は、「本好きな子に育てる」ではなく「本が嫌いでない子になってもらえたら」という我が子への願いについて書いています。

 

お返事の大半はこの記事の中に入っているのではないかな、と思うので、よければご一読くださいませ。

 

さて、ここからはご質問の内容により特化したお返事を書こうと思います。

一般的なお話ではなく、質問者さんのお子さんのこと。

 

質問の中でお子さんについて「ADHD傾向のある小1」との情報をいただいています。

国語の音読もちょっと大変そうな様子なので、文字を読むという部分について若干しんどさのあるお子さんなんじゃないかな、と思いました。

音読はできているようなのでディスレクシア(読み書き字障害)と診断がおりるほどではないのかもしれませんね。

ただ、文字の読みづらさや、ADHD由来の落ち着かなさ、他のことに興味がそれやすく文字に集中できない…何が原因かはわかりませんが、年齢相応より少し文字を読むのが苦手なご様子。

でも私は専門家ではないので「なぜか」の部分にはクローズアップせず「とりあえず今、読むのが苦手なんだろうな」という前提でお話をさせてもらえたらと思います。

 

1年生の段階で読むことに苦手があれば、本を読もうという気持ちになりづらいのは自然なことなんじゃないかな、と思います。

お子さんにとっては、文字や文章はまだ十分な情報を得る手段になり得てない、と考えても良いのではないかな、と。

 

うちの次男もいろんな凸凹のある子です。

中2の今でも、小3の弟よりも遅れている部分もあるなぁと見てて感じるほど。

でも、そんな彼の発達が遅れている部分も、彼自身の1年前や3年、5年前と比べたら彼なりのペースで成長をし続けています。他の子に比べたらとてもゆっくりではありますが。

 

質問者さんのお子さんの文字や文章を読む能力も、きっととてもゆっくりゆっくり、伸びていくんじゃないかと思います。

同じ年齢のお子さんと比べるとちょっと悲しくなってしまうかもしれませんが、それでもきっと、彼なりのペースでゆっくり発達し続けていくはずです。

 

じゃあどう伸ばすか、となるとこれはもう言語療法とか専門家の領域に入っていくと思うので、私からはあくまでも親としてできることをご提案しますね。

 

大事なのは、ゆっくりな彼の発達を焦らず見守ることだろうと思います。

(と言っても焦りますよね、わかりますわかります)

 

①絵を見て楽しむ→

②読んでもらってお話を楽しむ→

③自分で読む

 

すごくざっくりですが、本を楽しむのも段階があると思うんですね。

お子さんが今どの辺にいるかな、っていうのを確認してみてください。

 

質問文の中からは本をお絵描きの見本にしているようなお話がありますよね。

 

では、お話の内容についてはどうでしょうか。

興味のある分野のことならお母さんが読むのを聞けますか?

もしそれができる段階にあるなら、積極的にその時間を持つのはどうかな、と思います。

 

一緒に図書館に行って、興味のある本を見つけて、それをお母さんが読む。

年齢相応ではなく、より小さい子を対象にしたところから選んで良いと思います。

いわゆる絵本として並んでいるもの、その中でも1ページあたりの文字が少なく、単語の間にスペースがあって読みやすいものが良いかなと思います。

 

それを、お母さんが読んだり、一緒に読んだりする。

 

まずはお母さんが読むことからでいいと思います。

親が楽しそうに読んでたら、もしかしたら一緒に読みたくなるかもしれません。

その雰囲気が感じられたら、1文ずつ交代で読んでみるのもいいと思います。

 

読みづらそうなときは今読んでいるところを文を指でなぞってあげたり、定規のようなものを文の下に当ててみたり、本人が読みやすくなるような手助けをしてあげるのも良いと思います。(この辺りに興味がおありの時は、ディスレクシアに対する支援について調べると参考になるアイデアがいろいろ出てくると思います)

 

無理に本人に読ませなくても、年齢を気にせず何歳でも読み聞かせをやっていいんじゃないかな、とも思います。

 

本の中に物語や情報があることを知ることで、お子さんにとって本が「絵の描かれたもの」から「読み物」へと少しずつ変わっていくのではないかな。

 

読み聞かせることも無理強いはせず、お子さんが読んで欲しいと思うときだけにしてもいいと思います。

 

鉄道や虫に興味があるということは、好きなものがちゃんとありますよね。

その好きなものについての情報が本に詰まっていると知ること、そこに書かれている文字でそれがわかる、自分で読んでみようと思う、そこに自発的に至るまで、ゆっくりゆっくり見守ってあげるのはどうかな、と思います。

 

ものすごく時間がかかると思います。

気が遠くなる話かもしれません。

 

でも、そうやってゆっくり見守ってあげればきっと、本は彼の人生を彩る一つの大事なパートナーになっていくんじゃないかと思います。

 

発達のゆっくりな子を育てるのは本当に気力のいることです。

ものすごく長いスパンで見守らないといけない。

焦る気持ち、はやる気持ちをぐっと抑えることの連続です。

 

周りの子たちの成長していくのを見ながら、泣きたくなる日もあるかもしれません。

通常級にいて、頑張ればある程度できることもあるグレーの子を育ててると、よりそれを強く感じるかもしれません。

 

でも、やっぱりいろんなしんどさがある子だから。

頑張ればできるってことは、頑張らないとできないってことでもあるから。

 

だから、彼のペースに沿いながらゆっくりゆっくり見守ってあげられたらきっとお母さんと楽しい本の時間を培っていけるんじゃないかと思います。

 

余談ですが、学校の図書の時間に本を選ぶのが難しいという件については担任の先生に相談するのも良いと思います。

担任や図書館司書の先生と一緒に選んでもらったり、選ぶのがしんどいときは借りるのをパスさせてもらってもいいんじゃないかな。

学校の図書を借りない分、図書館や本屋さんなどに足を運んで本人にも手に取れるような本と触れ合う機会を作っておくのも良いと思います。

 

あと、学校で借りた本を必ずしも読まないといけない、という概念を捨てる、というのもひとつの手です。

借りる練習をしてきた、くらいのやんわりした感じで読まずに返したっていいと思うんですね。持ち帰るのが重いなら、読めないので置いて帰ってもいいか、と交渉するのもありだと思います。それか、すごく薄い本を借りちゃうようなちょっとずるい逃げ道を見つけちゃってもいいかもしれない。

 

もう今年の夏休みは終わってしまったけど、長期休みに貸出のために図書室が開放されていることはありませんか?

もしあれば、その日に一緒に図書室に行って、この辺の本を借りたらどうかな、って借りやすそうな短くて薄い絵本をいくつか探しておくのもありかな、と思います。

 

こんなかんじでいかがでしょうか??

また追加のご質問があったらいつでもどうぞ〜〜。

 

 

余談ですが。

発達さんと暮らしていく中で、私が時々ハッとすることがあります。

つい、いろんなことを【年齢相応】に考えてしまいやすいこと。

 

発達がゆっくりな部分があることは頭ではわかっているのだけれど、見た目はそれなりに育っていたり、計算や受け答えなど年齢相応かときに同年齢の子よりも秀でている部分もあるがゆえに、ついいろんなことが年齢相応にできるような気持ちになっていたりするのです。

 

でも、そうやってグイグイ引っ張ろうとして先走って、ふと次男がついてこれていないことに気づくことがあるんですね。

 

あ、そうか、この子はここがすごく苦手だったんだ、無理なことだったんだ、まだゆっくりだったんだ。

 

ひとつひとつの分野ごとに、この子の発達は今どのくらいかな、どんな方法ならわかるかな取り組めるかなって考えながら対応しなきゃいけない。

それは時に辛い修行のようでもあり、時に楽しい宝探しのようでもあります。

 

今回は本を読むということに特化してお話をしましたが、発達に凸凹がある子たちが何かに取り組みづらそうにしていたり、苦手があったりする時には【年齢】ではなく【そのトピックに関する発達段階】を探って対処していくというのは共通する対処の手段かなと思います。

 

どうあがいても発達しきれていないスキルは身につけられないと思うんですね。

これは次男を見ていても、自分自身の体感からもそう思います。

知的な遅れがなければ頭では「こうしたほうがいい」は理解できたりします。

でも、頭でわかっていてもどうにも体がついてこないことがあるんですね。

それは、頑張りが足りないとか訓練がたりないとかだけの話ではなくて、やっぱり「成長が追いついてない」というのもすごく大きな影響があると思っています。

 

ある程度の努力を経てもできないものは時間しか解決できない、だからやんわり見守るしかない。無理強いしてもメンタル削れて本人が苦しむだけ。

それが、次男と14年暮らしてきて私がいま辿り着いた、達観の境地みたいな感覚です。

 

今日はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

認知特性をもとに息子にあった勉強法を探った話

前回、次男の家庭内のトラブルを防ぐための手立てとして認知特性の傾向を参考にした話を書きました。

この、認知特性テストのことを別の形で利用した話を今日は書こうと思います。

 

我が家には今、高校受験を控えた長男がいます。

もともとあまり勉強そのものを好まず、また部活に打ち込んできた彼。

部活を引退したいま、やっと本腰を入れて受験について考え始めている、かなりのスロースタートな状態です。

 

さて、今までテスト勉強らしいこともしてこなかった彼にとって最初の課題が

「どうやって勉強したらいいのか」

だったのには、さすがに親の私もビックリしました。

確かに宿題以外の勉強をしている様子もなかったので仕方ありません。

 

というわけで、どうやって勉強したらいいかのヒントを得るために認知特性テストを利用することにしました。

 

前回は次男の視覚優位な部分を会話に活かす形で利用しましたが、今回は記憶の仕方に利用します。

 

参考にしたのはこのムックです。

 

最新科学で解き明かす最強の記憶術 (洋泉社MOOK)

最新科学で解き明かす最強の記憶術 (洋泉社MOOK)

 

 古いものなのですが、今はこちらの方が新しいのかもしれません。

 目次の中に認知特性テストとそれをもとにした勉強法について触れられているようです。

最強の勉強法 (洋泉社MOOK)

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認知特性テストをしたところ、視覚の3Dタイプが高いらしい結果が出た長男。

彼が記憶しやすいような、概念を映像で取り込んだり、映像をイメージしやすいような絵入りの参考書を活用するような勉強法を勧めました。

 

ちなみに次男はカメラアイタイプも合わせて高いため、これに加えて絵や地図などパッと目で見て理解しやすいような教材を活用すると覚えやすいようです。

ポスター学習も視覚優位の彼らには向いている学習法だと思います。

うちも、年齢ごとにトイレにいろいろと貼っています。

 

彼らにとって反復練習はあまり意味が無いのではということもテストの結果から推測できます。

二人とも漢字の書き取りは昔から大嫌いでした、次男は特に!

「こんなことやっても意味がない!」

とよく言っていたなぁと思い出します。

一度で覚えているのだから何回も書く意味がわからない、とよく言っていました。

 

それもそのはずです。

この、文字を反復して書くことで覚えやすくなるのは彼ら視覚優位のタイプではなく、言語優位のタイプ、その中でも文字にして覚えるのが得意な「言語抽象タイプ(辞書タイプ)」の人なのだそうです。

 

私はこの特性がかなり強めです。漢字の書き取りは全然苦にならなかった記憶がありますし、学生時代もテストのために文字をびっしり配して整理したノートを作って覚えていました。

 

ちなみに余談ですが、学校の先生を生業にしている方はこの、辞書タイプの方が比較的多いのではないか、と聞いたことがあります。

学校の先生が漢字の書き取りによる反復練習には効果がある、というのはそのためだと。自分にとっては効果の高い方法だから学校の宿題として取り入れられやすいのではないか、と聞き、なるほどと目からウロコがボロボロ落ちました。

 

聴覚の優位性が高い方はラジオを聴くなど耳から情報を入れる学習法が良いとされています。

詳しいことはムックの中に詳しく書かれていますので、気になる方は是非参考になさってみてください。

 

記憶の仕方は本当に人それぞれ違うんだな、と改めて思います。

こんなにいろんな違いがあるのに、一律同じ勉強法を押し付けられる形になる学校という場所は彼らにとってもいろんないづらさがあるところなのかもしれません。

 

夢のような妄想ではあるのですが、こんな認知特性についてのテストが小学校や中学の入学段階で行われ、先生がそれぞれの子たちの特性に合わせた指導を取り入れてくれたり、特性に合わせた学習法を勧めてくれたりしたら、と思ったりしています。

いつかそんな未来がくるでしょうか。

 

指示の出し方ひとつをとって見ても、視覚優位の子たちにとっては目からわかりやすい情報が入ってくれば取り入れやすく、言語優位の子たちにとっては文字で完結に書かれていたら理解しやすく、聴覚優位の子たちにとっては音声の指示が取り入れやすい。

 

方法として全然違うのに、学校や家庭の中で、先生や親のやりやすい形、自分がわかりやすい形に固定してしまってないか。

 

余談ですが、これらムックの内容全てに私が賛同しているわけでも、全面的に肯定しているわけでもありません。

あくまでも傾向を探るためのツールとして取り入れやすいと考えているに過ぎません。

脳科学の分野はトンデモにつながりやすい微妙なものもたくさん出ています。どれが正解でどれは怪しいのか、私も全て把握しているわけではありません。

 

ただ、この認知特性テストに関しては、自分のざっくりとして傾向が探れること、またそこから対人関係や勉強法に活かす指標にしやすいと思い、生活の中に取り入れています。

 

親子でも全然特性が違うこともあります。

自分がやりやすかったからといって我が子がそうとは限らない、テストの結果は私に如実にそれを突きつけてくれました。

 

自分にあった勉強法で長男が無事志望校に合格できるよう、これからいよいよ本格的な受験シーズンを家族で迎えます。

次男と家族の騒音問題を紐解くための認知特性の話。

相変わらず適当な更新頻度です。

昨夜、次男の聴こえ方と家族との関わりについて本人と話したことを覚書として書いておこうと思います。

 

きっかけは、次男の発するゲームや動画の音量でした。

狭い我が家では、リビングやキッチン周りのような共有スペースでゲームしたりテレビや動画を見たりするときに周囲の人間が「うるさい」「もうちょっと静かにして」と音量を下げるように声をかけることは日常茶飯事ではあります。

 

その中でも、次男が家族からそれを指摘される頻度はずば抜けて多く、テコ入れをしたい課題だとずっと思っていました。

 

彼に対して防止策として

①音を出すものは自室で利用する

②共有スペースではヘッドホンを着用する

などいくつかの提案をしてきましたが、なかなかうまくいきません。

ヘッドホンやイヤホンの質の問題もあるのかもしれませんが使用感が良いものは天井知らずであることや、買うたびに無くした壊したが発生する彼の特性を考えてもあまり高いものには手が出せません。

大きな音を出したければ自室へと促しても、それが家族により自分の行動を制限していると受け取られパニックに繋がることも多々。

 

そして昨夜も、リビングで私と三男が録画したドラマを見ている横で大きな音で動画を見始めた次男。

 

三男が怒り、私が音のことを指摘したら次男は怒り出しました。

クールダウンを待ってテーブルに座って話そう、と持ちかけました。

 

ここしばらく、彼と話すときは白い紙と紙を用意するようにしています。

認知特性のテストとその後の観察で彼が視覚の認知が飛び抜けて高く、また聴覚認知が弱いことがわかってきたからです。

 

白い紙に、テレビを見ていた私と三男、その横で音を立てた次男の絵を描きました。

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こんな感じで、適当ですが位置やそこにある物が見えるように描いています。

この絵を見ながら、次男の出している音のこと、私と三男が見ているテレビのこと、状況を整理して話しながら、この場面で次男がどこまで知覚していたかを探ります。

 

話を掘り下げていって、彼に、こうして見せました。

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最初に描いた絵の「彼以外の部分」を手で覆って見せると、ハッとした顔をする次男。

そうです、彼にとって見えていたのはこの部分だけ。

目の前で起こっているのに、私と三男がテレビを見ていること、その音を聴いていること、自分が出した音がそれと干渉するということは、彼の中にはない状態で世界を見てたんだろうなということがわかります。

 

でも、私や三男は次男の見えている世界がそんなに狭いと思って生活していません。

私は知識として彼の特性を理解はしていますが、残念ながら日常生活全てにおいて彼のその特性を十分考慮しながら生活できるほどの余裕も持ち合わせていませんし、三男を含むきょうだいはなおさらです。

 

次男が大きな音を出していたら咄嗟に、自分と同じ感覚の持ち主だという前提でものを見てしまいます。

つまり、

 

私と三男がここでテレビを見ているのが目の前で分かっているはずなのに大きな音を出した

→こちらに配慮がない=喧嘩を売っている?もしくは邪魔をしようとしているのか?

 

三男は咄嗟にそう判断して、次男に対して怒りに近い苦情を言葉にしました。

 

でも次男にとっては私が手で隠さなかった範囲しか見えていません。

なぜ自分が怒られるのかも、音のことで指摘を受けるのかも、咄嗟にはわからなかったんだろうと思います。その理解できない状態で、パニックが怒りに変わった。

 

時系列で彼と私たちに起こったことを絵に描きながら、次男に説明していきます。

うんうんなるほどと聞きながら、怒って申し訳なかったと謝る次男。

 

君が悪いわけじゃないよと話しながら、絵に手を乗せたり、外したりして見せます。

君が見ていたのはここ、でも周りの家族にはここまで見えてた、だからそう言った。

でも君はその時にはここしか見えていないから、なぜ家族からそう言われるかわからなかったんだよね、とゆっくり話しました。

 

この辺で、彼にとって必要なのは衝動的に出る怒りをコントロールすることだろうという課題が見えてきますが、それは今回は掘り下げずにおきました。

 

話が入る状態になったように見えたので、ここでもうひとつ話してみることにしました。

それが、聴覚認知の話。

 

認知特性テストでも、その前に医療機関で受けたウイスクの結果でも、彼の聴覚認知はとても弱いという結果が出ています。

聴力が弱いのではなく、耳で聴こうとする能力に神経を割いていないという方が良いのかなと思います。

 

声をかけても返事をなかなかせず叱られるということも良くありました。

今は学校では

  • 一斉指示を聞き漏らす可能性が高い
  • 呼ぶときは遠くから名前を叫んでも耳に入らないことがあるから、近くで声をかけたり、肩を叩いてこちらに意識が向いたのを確認してから話し始めてほしい

などお願いしています。

今回は、この聴覚認知の弱さから自分の出す音に対する意識も低いのでは?と感じてある実験をしてみました。

 

ちょうど、私と次男が座って話しているテーブルから離れたところで三男が動画を見ていたので

「その音を最大まであげてみて」

とお願いしました。

次男と私は向かい合って、会話を続けます。

タブレットから流れてくる大音量の動画の音は、私にとっては会話が継続できないほど耳障りなものでした。

次男に

「どう?」

と聞くと

「全然気にならない」

と答えます。

 

三男に、タブレットを置いてこちらに来るように頼みます。

次男と同じ位置に来た三男に

「あの音を聞きながら会話するとしたらどう?」

と聞くと

「無理、すごい気になる」

と。

 

どちらが良いとか悪いとかではなく、騒音と感じる音のレベルが、恐らくは次男のそれと、私と三男のそれに大きな開きがあることがわかりました。

その場にはいなかった夫や長男、娘のそれはまた、それぞれに違うのだろうという話も次男としました。

 

大事なのは、どちらが偉いとか偉くないとか、どちらに合わせるべきかどうか、とかではないのだろうと思います。

 

今回わかったのは、うるさいと感じる音のレベルが家族それぞれに違いがあること、また次男のそれは他の家族より恐らくはかなり低い、大きな音がしていても彼はあまり気にならないでそこにいられるのだろうということがわかります。

 

また、視野の狭さから自分が出している音に対する配慮が欠ける側面があるのだろう、ということも話せました。

 

昨日の結果として、

 

次男にとっての課題)

次男がうるさいと思っていなくても周りの家族にとってはすごくうるさい音かもしれない

→だから、指摘されたら音量を下げたり移動できたりするといいね

 

家族にとっての課題)

次男がうるさい音を出してしまっていても嫌がらせや攻撃ではなく、周りが見えていないだけかもしれない

→だから、周りも咄嗟に怒るのではなく具体的な改善策を次男に伝えられたらいいね

 

という双方の課題が一応、共有できた状態になりました。

 

私や三男にとって、自分が不快な音が次男にとっては平気なものだった(自分たちの方が過敏だったとも言える)というのを共有できたのも大きな収穫でした。

 

どこまで次男や三男の頭の中に残り、腑に落ちたのかはわかりません。

断片くらいしか理解できてないかもしれない。

 

ただ、こうやって目に見える形、明らかにわかる形でものごとの認知の仕方や音に対する感覚が家族それぞれに違うということをクリアにしていくこと。

それは、次男のためだけではなく他の家族にとっても、自分と他の人間は同じ仕組みで動いていないかもしれないこと、自分を基準にしていたら危ういかもしれないことを知る良い機会になっているのだろうと思いました。

 

余談ですが、本文中に出て来る「認知特性テスト」はこの本の中にあったものを使用しています。

認知特性を知るためにと思って購入した本ですが、思わぬ副次的な成果がありました。

それは、私と次男の認知特性のタイプが大きく異なっていることが明らかになったこと。

 

次男は視覚認知の2タイプがそれぞれに突出して高く、それ以外の項目は大きく凹んでいました。

私は逆に、言語性の2タイプが突出して高い結果が出ました。

 

この認知特性の傾向の違いが、私が次男に対して「何を考えているのかわからない」「彼の困難をわかってあげられない」と思ってきた要因のひとつだったんじゃないか、と考えています。(もちろん、他の要素も多分にあるのだろうとは思いますが)

 

ダラダラと長くなりましたが、今日はこのくらいで。

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