普段使ってるPCが突然壊れるという事態に見舞われまして、これは妖怪の仕業に違いないと思いつつなんとか頑張って立て直しまして。「妖怪の仕業」これ、最近子ども達の周りで頻繁に耳にする言葉です。
元ネタになっているのは、アニメやゲームで子ども達が親しんでいる「妖怪ウォッチ」
キャラクターのかわいらしさやアニメ・ゲームとしての面白さはもちろんなのだけど、子ども達の好きそうなちょっと下品なネタ、大人の世代も懐かしくなるちりばめられた昔のギャグ等、特にアニメはその作り込みの巧妙さに脱帽です。ポケモン一辺倒だった子ども達の周辺がガラッと妖怪ウォッチ派に切り替わっていく様子を見てすごいなぁと思っています。
この、妖怪ウォッチ、子ども達の横でアニメをちらちら見ながら、その面白さとは違うところに込められたあることに興味を持ちました。それはいろんな事が「妖怪の仕業」として描かれている事です。
例えば、複数の人が道路に飛び出してひかれそうになっているとき、お父さんとお母さんが夫婦喧嘩をしているとき、授業中みんながなぜか眠そうなとき、主人公のケイタくんが持っている妖怪が見える時計「妖怪ウォッチ」で周囲を照らすとそこに妖怪がいるんですね。
みんながなんか変なのはこの妖怪のしわざだ!と気づいてその妖怪にそんなことしないでと話をしたり、自分が友達になっている妖怪を呼んで説得やバトルをしてもらって取り憑くのをやめてもらう、というのが傾向として多い気がします。
※この傾向にあてはまらない形で終わる回も結構見るので、必ずバトル、とかではないイメージがあります。
毎回、相手になった妖怪はいろんなエピソードののちにケイタくんと友達になりその場からいなくなります。そして友達の証として妖怪を呼び出すことのできるメダルが手に入る、というのがお話の筋です。
このアニメを家族で見ることが多くなってから、子ども達がコップの水をこぼしたり、息子たちが宿題をしたくないとごねたり、私が疲れや仕事のストレスでイライラっとしていたり、夫と口論になったりしたりと家族の中で何か嫌な空気が流れた時、誰彼とも無く「妖怪のせいじゃない?」と口にすることがたまに出て来て。なんだかそれを言われるとプッとおかしくなって「そうかもね、妖怪のしわざかもね」とその場が和む、ということがおこるようになりました。
妖怪のせい、これ、よく考えたらすごいことだなと思うのです。
ひとつめは、「あなたは悪くないんだよ」というメッセージ。
子どもは、目の前で何か問題が起こっている時に自分が悪いからこうなっているのかも、と感じやすいというのは育児書などでたまに見かける表現です。夫婦喧嘩をしていると「自分が悪い子だからだ」といい子を演じようとしたりすることがある、等の例が挙げられたりすることも。その延長として、目の前で起こっている事に対してまず「私は悪くない」とその理由付けになることを優先して考える子も多いなと思います。自分を守るために。
子ども同士の喧嘩が起こった時、その当事者や周囲にいた子に状況の説明を求めてみるとその傾向がよくわかります。見たものを正確に話せる子はごく少数です。たいていの子が説明の端々に「私は悪くない」というメッセージをちりばめて話します。いかに自分が悪くないかを説明したいが為に少しずつ現実に見たもの起こったことを軌道修正したりするケースも多い。これはその子が良い悪いではなくて、人間そんなもんだと私は思っています。大人になって行くにつれてだんだん、冷静に状況を切り離して客観的に見られるようになっていくのかなぁと。
この、起こっている出来事と自分との切り離しの訓練のひとつの方法になるのかな、と思います。
ふたつめは、問題を人格から切り離していること。
「あなたそのものが悪いわけではないんだよ」「この人そのものが悪いわけではないんだよ」と起こっている事柄をその人の本質から外して考えようとしている、ということだから。
これ、子ども達が「妖怪のせいだから自分は悪くない」って方向にいっちゃうんじゃないの?って懸念がネット上でちらほら見られました。でも子ども達、多分そんな風には受け取ってないんですよね。
友達がなんかちょっとイライラしてて喧嘩になっちゃった。その時「こいつは悪いやつだから嫌い」となるんじゃなくて「イライラしているのは妖怪のしわざ」と受け止めてまた仲良く出来る、という感じ。それは逆に、自分がイライラして喧嘩になってしまった時に同じように受け入れて貰える経験ができるということでもある。
何かの問題が起こった時、問題行動を子どもが起こしている時、「お前が悪い」と人格そのものを否定されてしまうとそこから這い上がるのはものすごく大変な事です。子どもにとってそれは存在を否定されること、いなくなれと言われているのと同じ。
でも「悪いのは起こっている事柄とその原因になる妖怪(という何か)」だと周りが受け止めて接してくれたら、その人は存在を否定されることなく切り離された問題が起こらないためにはどうすればよいかという対処がとれるようになります。
これ、発達障がいや鬱などの精神疾患、子どもの問題行動などでもこれはとても大事な接し方なんじゃないかと思う。人格が否定されず、存在が肯定される環境、それはこういうケースで成長や回復のために一番必要なものだから。
言い訳して逃げる子になるんじゃないの?という点についてなのだけど、とりあえずアニメの中では起こってしまった問題から逃げることは出来ないように見えます。というのは妖怪の存在そのものは主人公のケイタくんにしか見えてないから。
他の登場人物には妖怪は見えてない。(特別なケースはあるみたいだけど)だから、起こっていることも妖怪のせいには出来ないんですね。結局、なんだかわからないうちに解決してたってこともあるし、ケイタくんがやっちゃったこととして謝ることになることもある。
起こってしまったことについて免責はされない、でもそれによる人格の否定はされない。
これ、当たり前のようで意外と難しいことなんですね。
でも日頃なんとなく、こういうことを意識して生活をしていたので、それがアニメによって可視化されているようでなんだかとても面白いなと。
そう思ってるとこでTLに関連したツイートが流れて来て、共感のツイートをしたりしてました。
その辺りのことがまとめサイトにまとめていただいてました。
『妖怪ウォッチ』が子供社会を救う? ~ 問題の可視化、許しと共存 ~ - Togetterまとめ
コメントも含めて興味深いのでぜひご一読を。
最後に、こないだ書いたセックスレスってホルモンのせいじゃないの?っていうエントリ「接触欲」から考える、産後のセックスレス - スズコ、考える。につなげます。
あのエントリ、オキシトシンというホルモンによる影響について書いたんだけど、でも書いた後で思ったんですよね。「結局、何かのせいにしようってことなんだよね」って。
セックスを拒否したい気持ちになっているのを、疲れでもホルモンでも何でも良い、何かのせいにしようよお互いに、って思ったんです。
あなたのことがいやな訳ではない、あなたが悪いわけではない、わたしが悪いわけでもない。
本質的に誰かが悪い訳ではなくて、何かの仕業でそうなっちゃってる。その何かの仕業というのが、疲れかもしれないしホルモンかもしれないし旦那さんの激務かもしれないし他の違う何かかもしれない。その辺を掘り下げて妥協や理解をしようよというエントリを過去に何度か書いてきました。
でもそこでよく戴いたコメントとして、そんなに深く分析するのは難しいんじゃないかという声。
その答えが、妖怪なのかもしれないと思ったりします。
私は自分の性格上、細かく分析することで納得する傾向が強いような気がします。でもそれは誰にでも有効な手段ではないのかもしれない。
でも妖怪のせいにするのって、簡単なんですよ。
なんだかよくわからない、わからないけど、でも「何か」のせいかもしれないから。だから相手を否定するんじゃなくてお互いがお互いの今できるところで折り合えたら良いなと、そうしたら溝は深まりすぎずにいられるんじゃないかな、と思うのです。
責任は放棄出来ない。
でも問題を掘り下げることはいつも有効とは限らない。相手の人格は否定しちゃいけない。
だから。
一大事のときは「妖怪のせい」で良いんです。