職場で叱られて泣いてしまっていた自分と自尊心のこと。
なないおさんの先日のエントリ
お子さんがもしかして発達障害かもという不安からこのブログに来て下さる方々へ - うちの子流~発達障害と生きる
を拝見して、読後の感想をTwitterであれこれ呟いておりました。
それについては後日またこちらにまとめてもいいのかなと思っているのですが、つまるところ「自尊心」「自尊感情」のことをつれつれと書いておりまして。
発達障害の有無や程度に関わらず、子どもたちの自尊心を保つよう底上げできるよう育てること、それを意識すること、その大事さについて自戒を込めてツイートしました。
そこから自尊心の事をあれこれ考えていたときに、ふと思い出した自分の過去の謎が自分の中で繋がったので書いてみたいと思います。
それは、自分が家庭や学校、職場で何かをきつく叱られたときに泣いてしまっていたこと。
情けない話だと思うのですが、かなり最近まで私は自分のしたミスについて責められた時になぜか涙が止まらず学校や職場で泣いてしまっていたのです。
泣いてはいけない、泣いても済む事ではない、と分かっているのだけど、ミスを犯してしまった自分への情けなさや、こうなるはずじゃなかったのになんであの時、という悔しさが入り交じっていたように思います。
そこへ「泣いて済むと思うな」「泣いてもしょうがないだろう」と言われ、泣き止めない自分がさらに情けなくなり涙が止まらない。
この、泣いてしまう自分が、私はとても嫌でした。
どうやったら泣かないようになれるんだろう、と中学生くらいのころからずっと思っていましたが、大人になってもその傾向は変わらず残り続けていました。
時は流れ子どもが生まれ、子どもたちへの接し方を色々と学ぶ中で「人格を責めないで行動に注目して注意したり褒めたりする」という考え方を知り、なるほどと実践に向けて努力をしています。
自尊心、悪いのは人格ではなく行動という視点…、そして、叱られたショックで泣いていた自分。
ミキサーみたいに頭の中でグルグル回っていたこれらのことが、グルグル混ざって行き着いた先。それが「叱られたことで自分が否定されていると思っていた、自尊心の低い自分」の存在でした。
目の前の先生や上司は、私の「ミス」を責めていたのだろうと思います。その言い方や言い回しが良かったのか悪かったのかは、今となっては分かりませんが。
でも私は、責められているのが自分の犯した行動の結果ではなく「そのミスを犯した自分」が責められているのだと感じていたのではないかな、と。
自分が情けなくて、自分に腹が立って悔しくて悲しくて涙が止まらなかった、そんな自分のことを責められている、自分を否定されている、そのことに耐えられず泣いていたような、そんな気がするのです。
そして、それは甘えでもあったのだなと思うのです。
相手が主張したい事を聞いて受け入れ、謝罪したり反省に繋げたりしなくてはならなかった場で、私は悔しくて悲しくて耐えられないという自分の感情がまず先立っていた。それを先立たせてしまっていた、そういう種類の甘えだなと。
何故自分がそういう甘えを抱いてしまっていたのか、自分を否定されたと思ってショックを受けていたのか、それをひもといて考えるに、やはり幼少期からの自尊心の低さ、それが持ち上がらず大人になってしまっていた、そこに尽きるような気がします。
親を今更責めても仕方ないし、それでどうなるものでもないのでそこになにかを求めるわけではないのですが、その、自分の中の自尊心がちゃんと高まった育ち方を出来ていなかったんだな,ということ、それが自分の中で過去の色々な問題と合わせて考えたときに腑に落ちた、というのが正直な感想です。
責められても素直に謝れない、人を上手に頼れない、結果的に人に何かをしてもらってもそれを受け入れて素直にお礼を言う事が出来ない、それが、自分の問題点だと薄々気づき始めたのは子どもを産んでからでした。
それまではその自分しか知らなかったから、自分なりにその問題についてその場しのぎの理由をつけて他の人やものごとのせいにして、逃げていたような気がします。
でもなんだかおかしいぞ、と思い始め、あれこれ読んだり話したり調べたり書いたりしていくうちに、少しずつ自分の中にある問題点が浮き彫りになっていったような気がします。
自尊心を高める、って言葉で簡単に言っても、現実にそれを子どもたちに対してどう施していくか、というのはけして簡単ではないなと日々感じています。
私も色々読んで「とりあえず褒める?」と思っていたのですが、先日観たNHKのエデュカチオの中で取り上げられていたことが分かり易かったのでここでまとめてみます。
自尊感情には大きく分けて二つ「社会的自尊感情」と「基本的自尊感情」とがあるそうです。
社会的自尊感情とは、「できることがある」「役に立つ」「価値がある」「人より優れている」と思える感情で、他者と比較して得られるもの。相対的、条件的、表面的で際限がなく、一過性の感情です。
基本的自尊感情とは、「生まれてきてよかった」「自分に価値がある」「このままでいい」「自分は自分」と思える感情です。他者との比較ではなく、絶対的かつ無条件的で、根源的で永続性のある感情です。
エデュカチオの中では、社会的自尊感情は「褒められることで自分の中で膨らみ、褒めてくれる人がいなくなればしぼむもの」、基本的自尊感情は「自分の中で培われたもので周りから影響されることなく維持されるもの」として紹介されていました。
家庭の中で子どもに対して育ててあげられるのは後者の「基本的自尊感情」
子どもたちが社会の中で自信を持って問題にぶつかりながら生きていくための基礎となる自尊感情をどうやって育てていくか、番組の中でその方法の一つとして「共通経験をすること」が挙げられていました。
たとえば「一緒にテレビを観る」
同じ番組を一緒に観て、同じように笑ったり、それについて話したりすること。
家族で同じ経験をして「自分が感じたこの感情に共感を得られる」という経験を積み重ねること、それを通して、自分は自分で良いんだという基本的自尊感情が培われていくのだそうです。
他にも、家族で自然に触れる、一緒にご飯を食べる、家族でドライブをする…
要は「家族と一緒の経験を積む」ということ。
え、そんなこと?と思ってしまったんですが、それが実はとても大事な事だった、ということなのかもしれません。
以前、息子が学校で不安定になったときに相談をしたスクールカウンセラーの方から言われたのが「本人が穏やかな顔をしている時間を増やしてあげること、家族一緒にその時間を持てること、その時間が一日の中で少しでも長くなるようにしてみてください」というアドバイス。
家族の中で、穏やかに楽しく過ごせる時間を少しでも長くとること、それが、子どもたちの基本的自尊感情を育てるためには大事な事だったのだなと、今回考えたことと繋がって改めて反省しました。
もちろん、私も働いているし子どもは4人いるし、子どもたちひとりひとりとその時間をどんどん増やす事は出来ません。だからダメだ、ではなくて、そこを上手くいろんな人の手を借りながら補っていけたらいいな、と思うと同時に、そのためには上手く人を頼れない自分の弱い部分としっかり向き合って、まず自分が変わっていかなくてはならないんだ、と強く思ったりしたのでした。
「ごめんなさい」「ありがとう」「困っているから助けてください」
これを素直に言えることは幸せに育った証拠と思う。もし自分はそれが苦手だと気づけたら、たぶんそこから世界が変わるよ。アホみたいだけど、練習したらきっと言えるようになるよ。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2014, 12月 13
なんか最後にツイート貼るのはやってるから私もまねっこ。
気づくだけで、階段を一歩登ってると思うんですよ。